銚子市(ちょうしし)は、千葉県北東部の市。関東最東端に位置し、日本列島で最も早く初日の出が昇る[注 1]。日本屈指の水揚量を誇る銚子漁港を擁する国内最大規模の水産都市である。江戸時代初期より続く醤油の銘醸地でもあり、ヤマサ醤油・ヒゲタ醤油を中心に醤油産業の一大集積地を形成している。1933年(昭和8年)に市制を施行した東総地域の中核都市である。
概要
太平洋に突き出した半島状の地形をなし、三方を海に囲まれており、日本列島で最も早く初日の出が昇る街である[注 1]。関東地方の最東端であり、江戸時代には「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」の句が詠まれた[1]。北側には日本最大の流域面積を持つ大河利根川が流れ、銚子から太平洋に注いでいる[2]。沖合は南からの黒潮と北からの親潮が交わる好漁場であり[3]、世界三大漁場の一つに数えられている[4]。太平洋に臨む巨大な外港を備える銚子漁港(特定第3種漁港)は、全国各地から多数の漁船が入港して活況を呈し、水産物流通基地として揺るぎない地位を確立しており[5]、日本屈指の水揚量を誇っている[6]。広大な後背地には、卸売市場、水産会社、水産加工場、水産缶詰工場、冷凍冷蔵施設、製氷貯氷施設、関連運送業者・鉄工所・造船所、水産物・加工品販売施設等が集積し、国内最大規模の冷凍・冷蔵能力を有しており[7]、全国の消費地と直結可能な地理的優位性もあって[5]、名実共に日本随一の水産都市として発展している。銚子沖で手釣りによって漁獲される「銚子つりきんめ」は、千葉ブランド水産物第1号に認定された高級魚である[8]。魚市場周辺の商店街には、鮮魚店や老舗寿司店が点在している[9]。江戸時代元和年間に創始され、関東風濃口醤油が発祥した醤油の銘醸地でもあり[10]、街の中心部には、全国トップクラスの大手醤油メーカーであるヤマサ醤油(業界2位[11])、ヒゲタ醤油(業界4位[11])の主力工場が立地操業し、製造品出荷額800億円を超える醤油産業の一大集積地を形成している[12]。各社では、蓄積されたバイオテクノロジー技術を応用し、核酸関連物質を利用した医薬品・化成品等の研究開発を進めている[13]。古くから千葉県東総地域の中核都市として発展を続けており、公共交通ネットワークの拠点である銚子駅を中心として、国・県の出先機関、金融機関の本店・支店、商業・業務施設等の高次都市機能が集積し、千葉県東部で最大規模の人口集中地区・商業集積地区を形成している[14][15]。市の財政力指数は0.61であり、県東部において最も高い財政力を有している[16]。
鎌倉・室町時代に坂東三十三箇所二十七番札所である飯沼観音の門前町として栄え、江戸時代には東廻り海運と利根川水運が確立したことにより、海運関連業を中心に水産業、醤油醸造業、商工業が盛んとなり、幕末に至るまで東北地方と江戸を結ぶ重要な港湾都市であった[17]。大正時代以降は近代的漁港としての施設と機能を備えた銚子漁港の建設が進み、水産業を基幹産業に、千葉県東部における政治・経済・文化の中心都市として発展した。銚子市が誕生したのは1933年(昭和8年)で、千葉市に次ぎ千葉県内2番目の市制施行である[18]。
銚子半島の海岸一帯は水郷筑波国定公園の中心的地域であり、太平洋の怒濤を背景に白亜の灯台が屹立する犬吠埼、英国のドーバー海峡(ホワイト・クリフ)になぞらえて「東洋のドーバー」と称される[19]断崖絶壁が続く屏風ヶ浦、日本の渚百選に選定された白砂青松の君ヶ浜、地球の丸く見える丘展望館が建つ下総最高峰の愛宕山等、風光明媚な景勝地を数多く有する観光都市である。近世都市の面影を色濃く残し、外川の町並みや伝統工芸品、漁業者の祭祀・信仰は「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」として日本遺産に登録されている[20]。犬吠埼には化石海水の源泉が湧出し[21]、海岸沿いに温泉宿が建ち並んで犬吠埼温泉郷を形成している。毎年8月には、銚子の夏の風物詩である「銚子みなとまつり」が開催され、利根川河畔に約5000発の花火が打ち上げられる花火大会[22]、約1000人の担ぎ手による銚子銀座通りの神輿渡御、伝統芸能「はね太鼓」の演舞が行われて銚子の街は祭り一色となる。年間約250万人の観光客が訪れ、東京・銚子間には特急列車「しおさい」が運行されている[23]。港町の佇まいや海岸風景は多くの映画・ドラマのロケ地となっており、「銚子フィルムコミッション」による支援活動が行われている[24]。市では、豊富な地域資源や立地条件を活用したシティプロモーションの展開により、移住・定住や長期滞在・交流型ワーケーションを促進している[25]。
1874年(明治7年)に竣工した犬吠埼灯台は日本を代表する灯台の一つで、国産煉瓦を使用した最古の西洋式灯台として歴史的文化財的価値が高く、国の重要文化財及び海上保安庁のAランク保存灯台に指定されている。世界灯台100選にも選ばれており、日本に5つの最大の1等4面フレネル式閃光レンズを使用した第1等灯台である[26]。
銚子半島の海岸の黒生から犬若にかけての海岸では、中生代ジュラ紀から白亜紀の恐竜時代の地層を見ることができる[27]。犬吠埼は1億2000万年前の地層であり、この時代の浅い海の海底の痕跡を数多くみることができる学術的に貴重な地層で「白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている[28]。
変化に富んだ独特の自然景観から、江戸時代には数々の文人墨客が東国三社参詣と合わせて銚子の磯巡りに訪れ、文学作品や絵画の題材となった[29]。明治時代からは避暑や海水浴に訪れる人も多くなり、犬吠埼や海鹿島には皇族や財界人、作家、画家の別荘が構えられた。海岸沿いには文人墨客の歌碑、詩碑が多く立っている[30]。
夏涼しく冬暖かい海洋性気候であり、避暑や避寒に適している。気候を生かした農業も盛んで、露地野菜や果物が栽培されており、春キャベツの生産量は日本一である[31]。
2020年(令和2年)7月、「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)に基づき、銚子沖が洋上風力発電事業を推進するための促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には促進区域における洋上風力発電事業者として三菱商事等の共同事業体「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された[32]。促進区域内には13メガワットの大型風車31基が建設され、2028年(令和10年)9月に運転を開始する計画である[33]。市は2021年(令和3年)2月、2050年(令和32年)までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすることを目指す「ゼロカーボンシティ」を表明し、官民協働で再生可能エネルギーの導入を促進している。市では、「銚子市ゼロカーボンビジョン」に基づき、地域新電力「銚子電力株式会社」と連携した再生可能エネルギーの地産地消システム(マイクログリッド)の構築、ICTを活用した漁場の可視化や藻場の育成による海洋環境の保全、AI(人工知能)やロボットを活用したスマート農業の推進、災害時の移動電源としても活用されるEV・PHEV・FCVの市内導入、都市緑化やブルーカーボン生態系による二酸化炭素吸収源対策等を進め、豊かな自然環境と共生したエネルギー産業の先端都市の実現を目指している[34]。
地理
千葉県北東部に位置し、県庁所在地である千葉市から約65キロメートルの距離である。東京都の都心から90 - 100キロメートル圏内である。
犬吠埼は関東地方および関東平野の最東端に位置し、市の東部と南部は太平洋に面する。市の北部には利根川が流れており、銚子市で太平洋に注ぐ。
利根川沿いの低地と北総台地(下総台地)からなり、表層は関東ローム層に覆われている。高神愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっている。水田は台地山間の谷津田と利根川沿いに広がっており、畑地帯は台地の平坦部に位置し、比較的農業に適している。
地質
銚子市は愛宕山を中心に局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界の基盤岩が露出している。また銚子地域は日本の地質体を大きく2分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置すると考えられ、この境界の東端はまだ確定していないため銚子市の地層がその解明を担うものとして学術的に注目されている。
銚子市は太平洋に突き出た半島状の独特の地形、そして犬吠埼や屏風ヶ浦などの地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易に、そして安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年) 9月に日本ジオパークに認定され、市域全体を活動のエリアとして「銚子ジオパーク」活動を推進している。
東部地域
愛宕山や犬岩、千騎ケ岩は愛宕山層群と呼ばれ、約2億年前に形成された付加体と考えられる。愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっており、硬く侵食されにくいため海に突出するような高台が形成されている。
東海岸に露出する白亜系の銚子層群は礫岩、砂岩、泥岩からなる約1億年前の地層であり、アンモナイトなどの化石を多産している。犬吠埼付近は浅い海の堆積構造や生痕化石がよく観察できるため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている[35][36]。この銚子層群の砂岩は古くから「銚子石」と呼ばれ、古くから建材などに利用されてきた。
銚子地域の中新統は火山礫凝灰岩からなる安山岩の溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ケ鼻層に二分される。いずれも日本海が形成された時代の地層である。千人塚層の安山岩は利根川河口の川口、黒生、長崎に露出しており、銚子漁港整備に伴い取り除かれた安山岩はその一部が古銅輝石安山岩公園に保存展示されている。また、かつて夫婦ケ鼻層は銚子地域の北東端の夫婦ケ鼻から海岸沿いに黒生付近まで連続して露出していたが、現在は銚子漁港後背地開発により銚子ポートタワー下にわずか6m程度が露出するのみとなっている。
西部地域
下総台地の平坦面はかつての海岸近くの海底面で、隆起と汎世界的な海水準変動の結果、基本的に4段面の後期更新統の海成段丘が分布する現在の形となった。この台地には谷がいくつも刻まれており平坦面は農業や畜産業に利用されている。
市域の南の海岸線は、犬若から緩やかに湾曲し、屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖が広がっている。この崖は下総台地の東端にあたり、常に波浪によって侵食が続いている。屏風ヶ浦では下総台地の地下断面が観察でき、地層は下位から犬吠層群、香取層、関東ローム 層の3つに区分することができる。屏風ヶ浦は江戸時代後期以降、景勝地として著名となり、国指定名勝及び天然記念物として指定された。
市域
- 広袤(こうぼう):東西16.2キロメートル、南北12.8キロメートル
気候
周囲が海に囲まれているため海洋性気候となっている。すなわち、湿度は高めであり、気温は年間平均気温が約15℃で夏涼しく冬暖かい。
夏場は、関東平野部の都市では珍しく日中でも30℃を超えることは少なく、35℃を超えることはめったにない。熱帯夜になることもあまり無く、関東屈指の避暑地と言える。一方、冬場は南九州並みに温暖で気温が氷点下になることはほとんどなく、雪が降ることは非常に珍しい。
また、年間を通して比較的風が強く、風力発電所の風車が34基稼働している。沖合では洋上風力発電の計画が発表されている[37]。
銚子市川口町(銚子地方気象台、標高20m)の気候
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月 |
1月 |
2月 |
3月 |
4月 |
5月 |
6月 |
7月 |
8月 |
9月 |
10月 |
11月 |
12月 |
年
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最高気温記録 °C (°F)
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23.6 (74.5)
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24.0 (75.2)
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23.3 (73.9)
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25.9 (78.6)
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29.5 (85.1)
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32.0 (89.6)
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34.8 (94.6)
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35.9 (96.6)
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33.7 (92.7)
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30.6 (87.1)
|
25.4 (77.7)
|
23.4 (74.1)
|
35.9 (96.6)
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平均最高気温 °C (°F)
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10.1 (50.2)
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10.3 (50.5)
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12.8 (55)
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17.0 (62.6)
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20.5 (68.9)
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23.0 (73.4)
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26.6 (79.9)
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28.6 (83.5)
|
25.9 (78.6)
|
21.5 (70.7)
|
17.3 (63.1)
|
12.7 (54.9)
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18.9 (66)
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日平均気温 °C (°F)
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6.6 (43.9)
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6.9 (44.4)
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9.7 (49.5)
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13.8 (56.8)
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17.4 (63.3)
|
20.2 (68.4)
|
23.5 (74.3)
|
25.5 (77.9)
|
23.4 (74.1)
|
19.2 (66.6)
|
14.4 (57.9)
|
9.3 (48.7)
|
15.8 (60.4)
|
平均最低気温 °C (°F)
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2.9 (37.2)
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3.3 (37.9)
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6.4 (43.5)
|
10.7 (51.3)
|
14.8 (58.6)
|
17.9 (64.2)
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21.2 (70.2)
|
23.3 (73.9)
|
21.3 (70.3)
|
16.8 (62.2)
|
11.1 (52)
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5.7 (42.3)
|
13.0 (55.4)
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最低気温記録 °C (°F)
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−6.2 (20.8)
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−7.3 (18.9)
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−4.3 (24.3)
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−0.2 (31.6)
|
4.3 (39.7)
|
10.2 (50.4)
|
13.0 (55.4)
|
15.9 (60.6)
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11.2 (52.2)
|
4.5 (40.1)
|
−1.3 (29.7)
|
−4.6 (23.7)
|
−7.3 (18.9)
|
降水量 mm (inch)
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105.5 (4.154)
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90.5 (3.563)
|
149.1 (5.87)
|
127.3 (5.012)
|
135.8 (5.346)
|
166.2 (6.543)
|
128.3 (5.051)
|
94.9 (3.736)
|
216.3 (8.516)
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272.5 (10.728)
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133.2 (5.244)
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92.9 (3.657)
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1,712.4 (67.417)
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降雪量 cm (inch)
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0 (0)
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0 (0)
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0 (0)
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0 (0)
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0 (0)
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0 (0)
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0 (0)
|
0 (0)
|
0 (0)
|
0 (0)
|
0 (0)
|
0 (0)
|
0 (0)
|
平均降水日数 (≥0.5 mm)
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8.2
|
9.1
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13.0
|
12.3
|
11.3
|
12.3
|
10.4
|
7.4
|
11.8
|
13.3
|
10.6
|
8.7
|
128.4
|
平均降雪日数
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4.5
|
6.0
|
1.7
|
0.0
|
0.0
|
0.0
|
0.0
|
0.0
|
0.0
|
0.0
|
0.0
|
0.9
|
13.1
|
% 湿度
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62
|
64
|
68
|
74
|
82
|
88
|
90
|
87
|
84
|
77
|
72
|
66
|
76
|
平均月間日照時間
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179.8
|
159.0
|
168.9
|
183.0
|
188.9
|
142.3
|
174.0
|
221.3
|
159.0
|
137.9
|
140.1
|
163.7
|
2,017.8
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出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[38][39]
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人口
2020年(令和2年)10月1日現在における銚子市国勢調査人口は58431人、世帯数は25544世帯である。銚子市では「銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」を策定し、生産基盤の整備、人材育成、創業支援、洋上風力発電施設の誘致、シティプロモーションの推進、移住・定住の促進、子育てサービスの充実、地域包含ケアシステムの構築、長期滞在・交流型ワーケーション推進等の施策を進めており、取組にあたっては銚子市総合戦略検証委員会を設置して効果検証を行っている[40]。
- 年齢区分別人口(令和2年国勢調査)
- 総数(年齢不詳を含む) 58431人
- 世帯数 25544世帯
- 年少人口(0〜14歳) 4470人(7.7%)
- 生産年齢人口(15〜64歳) 31241人(53.5%)
- 老年人口(65歳以上) 22053人(37.7%)
- 不詳 667人(1.1%)
- 15歳以上就業人口(平成27年国勢調査)
- 総数 30923人(分類不能を含む)
- 第1次産業 3307人(10.7%)
- 第2次産業 8844人(28.6%)
- 第3次産業 18072人(58.4%)
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銚子市と全国の年齢別人口分布(2005年)
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銚子市の年齢・男女別人口分布(2005年)
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■紫色 ― 銚子市 ■緑色 ― 日本全国
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■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性
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銚子市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)
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90,415人
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1975年(昭和50年)
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90,374人
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1980年(昭和55年)
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89,416人
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1985年(昭和60年)
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87,883人
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1990年(平成2年)
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85,138人
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1995年(平成7年)
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82,180人
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2000年(平成12年)
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78,697人
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2005年(平成17年)
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75,020人
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2010年(平成22年)
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70,210人
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2015年(平成27年)
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64,415人
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2020年(令和2年)
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58,431人
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総務省統計局 国勢調査より
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隣接自治体
歴史
地名の由来
元は「銚子口」と呼ばれていた。「銚子」は、小さな注ぎ口を持つ酒器で、元々は生薬を煎じるのに使われた土瓶ややかんの類[注 2]。入口が狭く、中に入るとより広い空間が拡がる利根川河口の地形がよく似ているため、この地名がついたとされる。
「銚子」という名が使われるようになったのは江戸時代(1700年頃)以降であり、それ以前は「飯沼」あるいは「三前」と呼ばれていた。「銚子」が行政区画名として町名に使われたのは、1889年(明治22年)4月1日に市制町村制が施行されてからである。
先史時代の銚子
銚子半島に人間が暮らし始めたのは、約1万5千~2万3千年前の旧石器時代といわれている。水域や下総台地に近く、それぞれの場所の豊かな恵みを得やすい環境にあり、数千年もの長い間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれていた。粟島台遺跡や余山貝塚の出土品から当時の様子が伺い知ることができ、出土する縄文土器や石器から、東北地方や西関東等をはじめとする他地域との交易も読み取れる。
中世海上氏と都市の起源
古墳時代の銚子周辺は、現在の霞ケ浦一帯に香取の海と呼ばれる内海が広がり、「古事記」などに記されている下海上国造の支配下で、海上郡に属していた。当地域を治める支配者たちは、香取の海を眼下に望む沿岸に古墳を造営した。現在、市内で把握されている最も規模が大きな古墳は、全長約35m、高さ約4mを測る前方後円墳の野尻1号墳で、この古墳を含む野尻古墳群には前方後円墳1基、円墳8基、方墳3基が確認されている。
平安時代に入り、武士が勃興するころになると、平忠常の子孫である豪族千葉氏の庶流である東氏(庶家、千葉六党)及び海上氏(庶家)が銚子地方を領有するようになり、建久年間に千葉常衡が海上与市を名のり、銚子地方の支配拠点として船木郷に中島城を築城したといわれている。室町時代になると、関東では新興勢力の後北条氏が覇を唱えるようになり、千葉氏とその一門である海上氏もこれに服属するに至った。そして安土桃山時代、後北条氏は天下統一を志す豊臣秀吉によって小田原城に滅亡し、千葉氏一門も共に滅亡した。
飯沼観音の名前で親しまれている円福寺は、728年(神亀5年)に漁夫が海中から引き揚げた十一面観音像を安置したのが始まりといわれ、海上氏の帰依も厚く、坂東三十三箇所二十七番札所に指定された。巡礼者や納経者が諸国から集まるようになると次第に門前町が形成され、室町時代末期になると旅籠や茶屋、遊女屋等が立ち並ぶようになり、現在の銚子の都市的起源となった[41]。
374年(応安7年)の「海夫注文」(香取文書)には香取の海の南に位置した飯沼・荒野・垣根・野尻・森戸・笹本の津が書上げられている。津(船舶の停泊地)には地頭の支配下に海夫が居住し、魚介を供菜物として香取神宮に納めていた。また津は商品の積み下ろし地でもあり、1560年(永禄3年)には 九十九里方面からの塩荷が船木・野尻宿に下ろされるなど、船木や高田にも津ができ香取の海を舞台とする人々が活動していた。
銚子の海岸には、源義経が兄頼朝に追われ奥州に逃れる途中、一千騎を引き連れて洞窟にこもったと伝えられている千騎ヶ岩や外川浦から船で奥州へ逃れた後、浜に残された愛犬が義経を慕って7日7晩吠え続け、最後は岩になってしまったという犬岩、馬糞池等、義経にまつわる伝説が残されている。
利根川東遷と銚子の発展
1590年(天正18年)、徳川家康の関東入国に伴い、松平伊昌が飯沼2000石を与えられ、銚子地域に知行した。江戸時代には現在の銚子市域は香取郡6村と海上郡35村から成り、その土地の多くは幕府領や旗本知行地であった。1709年(宝永6年)には高崎藩領に、1717年(享保2年)には幕府領となり、再び高崎藩領となった。その後、銚子は江戸の発展に伴い交通の要地として経済上・軍事上重要度を増していき、明治に至るまで幕府直系の親藩である高崎藩の手に委ねられた。飯沼には陣屋が置かれ、郡奉行1名と代官2名が駐在した。
徳川家康は江戸市中を水害から守り、新田開発を行うため1621年(元和7年)から利根川の東遷事業を命じた。幾度もの改修工事を経て寛永年間(1624年~1643年)に現在の流路に整えられ、江戸と銚子を結ぶ内陸水運路が開けた。1670年(寛文10年)、江戸幕府は河村瑞軒に命じて奥州の幕府直轄領から城米を江戸に輸送する東廻り航路を開発し、太平洋沿岸の主要な湊を立務場に指定、銚子もその一つとなった。これが契機となり、銚子は東廻り海運で運ばれてきた東北諸藩の産米や北海道の海産物を高瀬船に積み換え、利根川水運で江戸へ運ぶ物流基地となった。東北方面からの廻船の多くが利根川水運を利用したのは、従来の外海回り(房州回り)航路より安全で迅速であったためである。外洋利用者の寄港もあり、銚子は「東国一の港」と称され、江戸の外港として繁栄した。銚子湊は飯沼、新生、荒野、今宮、松本、本城、長塚、 松岸の8ケ村に渡り、その中心を担っていたのは飯沼から今宮の4ケ村である。特に荒野村には幕府や諸藩公認の御穀宿、各藩直系の藩蔵、民間船の世話をする船問屋、それより小規模な船宿等が整備され、幕末期には仙台、米沢、笠間等各藩の米蔵が7棟建ち並び、仙台河岸と称されていた。利根川を上下する高瀬船は飯沼49、高田38、野尻41の128隻を数え、飯沼村の廻船問屋は10軒余に及んだ。
陸上交通としては多古銚子道と銚子道があった。多古銚子道は銚子街道とも呼ばれ、延宝期までには成立し、商いの道として銚子地域と江戸を結んでいた。銚子道は木下河岸から飯沼村まで利根川に沿って走り、利根川水運の補助的な交通路として発達しつつ、沿線の村々とを結ぶ生活道路でもあったと考えられ、飯沼観音までの道程を示す石柱の道標も見られる。
地場産業の発達
徳川家康の関東入国は、西と東の経済的交流を大幅に促進した。銚子にも諸国から人々が入り込むようになるが、その主要勢力の一つが紀州漁民である。漁業の新天地を求めていた彼らは、正保年代から新漁法を携えてこの地に来、半農半漁的な地元漁業を開拓し、漁業を銚子の主要産業にまで成長させた。始めは季節的な出稼ぎであったが、次第に定住するようになり、あるいはまた漁業から商工業に転ずる者もあって、銚子の商工業の発展に寄与することとなった。1656年(明暦2年)に銚子へ渡った﨑山治郎右衛門は、1658年(万治元年)に外川浦に移住し、築港や碁盤目状の街区整備、「紀州堀」と称される大井戸掘削等、画期的な都市計画事業を実施し、僅か20年で「外川千軒大繁盛」といわれるほどの繁栄を築いた。漁法は正保・慶安期の間に任せ網から八手網に代わり、漁獲された鰯は食用にされるよりも、そのまま乾燥させた干鰯や煮て圧搾した〆粕へと加工された。干鰯は近世農業における最高の金肥であり、関西地方で栽培される綿花の肥料として需要が増大していた。川口神社から東側の浜辺一帯には干鰯場が広がっていたという。また〆粕の製造過程では灯火用の魚油がとれた。これらの流通の過程では仲買・問屋が生まれ、漁業生産に関連して造船業や漁網製造業も発達した。
紀州からは漁業だけではなく、醤油醸造の技術ももたらされた。1616年(元和2年)に銚子の豪農で干鰯生産に携わっていた3代田中玄蕃が西宮の海産物問屋である真宜九郎右衛門から醤油醸造の技術を伝授され、銚子の地で醤油醸造を開始した。現在のヒゲタ醤油である。また、1645年(正保2年)には紀州広村出身の濱口儀兵衛がヤマサ醤油の前身である広屋を創業している。温暖湿潤な気候であり、原料の大豆・麦・塩の生産地が近く、更に大消費地である江戸と利根川水運により結びついたこと等、好条件に恵まれた銚子の醤油は「地廻り醤油」と呼ばれ、味も江戸庶民の嗜好に合わせた関東風の濃口醤油へと改良したことで需要を高め、元禄期に銚子の主要産業へと成長した。醸造業者はいずれも富裕で豪商というべき者も多く、文政年間には20軒があった。幕末期の1864年(元治元年)には銚子のヤマサ、山十、ヒゲタ、ジガミサを含む関東醤油7印が江戸幕府から最上醤油として認められた[42]。
犬吠埼周辺や長崎海岸を中心に愛宕山中腹で採掘された砂岩は「銚子石」と呼ばれて古くは砥石や墓石、供養塔に用いられた。1856年(安政3年)には江戸へ3万斤送られた記録が残っている。
正保・寛文期に海運関連業と漁業が勃興した銚子は、元禄期に入ると醤油醸造の産業化という新しい要素を加えて、享保年間(1716年〜1736年)に至るまでに農村から東国屈指の港湾都市へと急速な発展を遂げた。人口についても飯沼・新生・荒野・今宮の4村だけで1万3千余を擁し、一般の農村の人口とは1桁違っていた。戦前の旧市域でみれば優に2万人を超える人々が生活していたと思われる。文化・文政期にはその他商工業も盛んになり、これらの人々の衣食住や健康・娯楽あるいは教養・文化を支える様々な業種も発達した。医療について見ると、1752年(宝暦2年)の飯沼村の医師数は13人で、医師1人当たりの人口は570人である。1956年(昭和31年)の全国統計では人口834人に対して医師1人の割合であるから、当時の銚子における都市化の進展が窺える。1841年(天保12年)銚子に遊んだ漢学者安川柳渓は今宮付近から飯沼観音に至る道筋を「市中の賑ひ、あきびとの見世棚、すき間もなくうちつづき、十まちばかりも来つらんが」と描写している。江戸末期の銚子の人口は江戸、水戸に次いで関東3位であり、下総・上総を合わせた中では第1位であった。
文人墨客の来遊
経済力を蓄えた銚子の有力商人は、利根川を通じた江戸との商いの中で江戸に支店を構え頻繁に江戸と銚子を往来し、文化人と交流した。海産物問屋・御殻宿として巨富を成した行方屋の大里庄治郎は自ら俳諧に親しんで俳号を桂丸とし、夏目成美や小林一茶を銚子の自邸に招いて句会を開いた。江戸の豪商古帳庵も銚子を訪れ「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」という有名な句を残している。このような交流の中で次第に銚子は江戸で流布していき、更に旅行案内書も出版されたことで文化・文政期には江戸からの身近な旅行先として多くの学者や文人墨客、江戸庶民が物見遊山に訪れた。木下河岸から出航する木下茶船は東国三社詣の遊覧船として人気を博し、乗客は東国三社詣の後利根川を下り、銚子の磯巡りと称して飯沼観音を始めとした寺社や海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛等変化に富んだ明媚な風光を賞で清遊した。利根川河畔の松岸、本城、田中は花街として盛況を極めた。歌川広重作「六十余州名所図会」には「下総銚子の濱 外浦」と題して名洗濱が富士見の名所として描かれている。来銚した人々と在郷の知識人や経済人との交流によって銚子への江戸文化の流入と地域文化の醸成がもたらされた。銚子では宮内嘉長開創の「守学塾」等、幕末から明治にかけて私塾が相次いで立ち、各村には寺子屋も開かれ、市内には筆子塚が見られる。
信仰と祭祀
かつての利根川河口は付近は川幅が狭いうえに水面下に岩礁が多く、波高の高い三角波により、当時の船頭歌で「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良子渡合が恐ろしや」とうたわれ日本三大難所の一つに数えられていた。1614年(慶長19年)には鹿島灘方面へ出漁中であった漁師の多くが溺死した[43]。利根川河口付近に築かれた「千人塚」は水難で命を落とした人々の慰霊の場所で、かつてはこの塚の上で焚火をして帰りが遅い漁師の目印にしたと言われる。銚子には「銚子の川口てんでんしのぎ」という言葉もあり、川口の難所では自分の船を守るだけで精一杯という厳しい状況であった。出船入船を望む高台にある川口神社は銚子港の守り神として漁業者からの信仰が篤く、毎年旧暦6月15日には大漁と航行の安全を祈願して大潮祭りが行われる。
銚子大漁節
1864年(元治元年)春、銚子では未曾有の豊漁が続き、港はイワシの銀鱗で埋め尽くされた。この豊漁を祝うため大漁祭を催すことになり、飯貝根の網元網代久三郎と飯沼の松本旭江と俳諧師石毛利兵衛の三人が、松本家の離れ座敷・夏蔭庵に集って歌詞を合作し、常磐津師匠遊蝶が作曲、清元師匠きん子が振付して「銚子大漁節」が作られ、川口神社に奉納された。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「漁師の数え歌」として英訳し、海外に紹介している。
- 銚子大漁節
- 一つとせ 一番ずつに積み立てて 川口押し込む大矢声 この大漁船
- 二つとせ 二間の沖から外川まで 続いて寄り来る大鰯 この大漁船
- 三つとせ 皆一同に招をあげ 通わせ船の賑やかさ この大漁船
- 四つとせ 夜昼焚いても焚き余る 三杯一丁の大鰯 この大漁船
- 五つとせ いつ来てみても干鰯場は あき間もすき間も更になし この大漁船
- 六つとせ 六つから六つまで粕割が 大割小割で手に追われ この大漁船
- 七つとせ 名高き利根川高瀬船 粕や油を積み送る この大漁船
- 八つとせ 八手の沖合若衆が 万祝揃えて宮参り この大漁船
- 九つとせ この浦守る川口の 明神ご利益あらわせる この大漁船
- 十とせ 十を重ねて百となり 千を飛びこす万漁年 この大漁船
文明開化と犬吠埼灯台
幕末、銚子には異国船打払令による海岸防備のため、川口、長崎、高神に砲台が設置された。1864年(元治元年)には水戸藩士による天狗党事件が起こり、1868年(慶応4年)、榎本武揚が率いる旧幕府軍の艦隊8隻が函館に向かう途中で暴風雨にあい、その内の1隻である美加保丸が黒生沖で座礁・沈没、13名が死亡する等、幕末の銚子は騒然たる様相を呈した。ヤマサ醤油7代目当主濱口梧陵は銚子で開業していた医師関寛斎と共に銚子でのコレラ防疫と治療に尽力した他、佐久間象山、勝海舟、福澤諭吉らと活発に交流した。自分の田に火を放って津波の襲来を村人に知らせた「稲むらの火」の逸話でも知られる。1869年(明治2年)に銚子は宮谷県の管轄となり、県庁は大網白里に置かれ、飯沼陣屋に支庁が置かれた。1872年(明治5年)に新治県に編入されたが、1875年(明治8年)に廃されて千葉県となった。
新政府が推進する文明開化の波は銚子にも及び、西洋文明を採り入れた新施設の建設が相次いだが、その先駆けとなったのが犬吠埼灯台であった。日本における西洋式灯台の建設は江戸幕府が西欧4ケ国と締結した改税約書第11条に始まる。明治に入り条約灯台が次々に稼働するようになると、新政府は灯台は船舶の航海安全のため、条約に取り決めた数にかかわらず外国人と協議の上で灯台を建設することとした。これにより横浜・北米航路間の貿易船に対して必要な箇所として、犬吠埼の断崖に西洋型第1等灯台を建設することが決定した。建設はイギリス人技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・監督の下に進められた。建材中最も多量に必要とした煉瓦は、 ブラントンは日本製は品質粗悪であるとしてイギリス製を使用すべきとしたが、 当時イギリス製の煉瓦は非常に高価であった。このため日本人技師の中沢孝政は日本製の使用を主張、良質の粘土を求めて利根川を遡り、新治県香取郡高岡村に良質の土を発見し、日本製煉瓦の完成に腐心した結果、 外国製に遜色のない優良な煉瓦を完成させた。灯台・付属舎・宿舎には19万3千枚の煉瓦が使用された。地震が多い日本において煉瓦構造を支えるため二重壁構造や帯鉄を挿入するなど、当時の先進的技術が取り入れられて1874年(明治7年)に初点灯し、新時代の到来を告げた。犬吠埼灯台には毎日のように200人ほどの見物人が各地から訪れたと伝えられている。同時に濃霧時や降雪で灯台の光が遠方まで届かない折に音で船舶に灯台の位置を伝える霧信号所も設置され、30秒毎に5秒の霧笛を鳴らしていた。かまぼこ型屋根の霧笛舎には創業間もない官営八幡製鉄所製の鉄が使用されている。
1886年(明治19年)には地元有志が私立銚子測候所を開設。1908年(明治41年)には逓信省が日本最初の無線交信基地である銚子無線電信局を開局し、横浜からシアトルへ向けて航行中の丹後丸が受信した。これが海岸局と船舶局との間における日本最初の無線電報とされている。敷地内には約70mの鉄製の柱が聳え、犬吠埼灯台と共に銚子の誇りとなっていた。
交通・産業の近代化
明治維新により幕藩体制は崩壊し、その上に成り立っていた東北地方と江戸を結ぶ海運は急速に衰退、東北諸藩からの廻船やそれに関係する物資船舶の往来は途絶した。一方、利根川水運は明治以降も残り、1874年(明治7年)に高瀬船に代わり蒸気船がいち早く導入され、利根川水運の一層の利便化が図られた。1881年(明治14年)には銚子汽船株式会社が設立され、蒸気船による銚子-東京間の定期航路が開かれ、銚子丸を始めとする7隻の外輪船が利根川を上下するようになった。そして1897年(明治30年)に佐倉-銚子間の総武本線が開通して東京の本所と結ばれた。1900年(明治33年)には駅東側に新生貨物駅が新設された。
鉄道網の整備は鮮魚消費市場の飛躍的な拡大をもたらし、明治末期には漁船の動力化が始まり、その後大型化や漁具・漁船等の改善も加わって漁業の近代化が進んだ。いわし漁は八手網からあぐり網での漁となり、さんま漁やかつお漁、まぐろ漁も盛んとなった。また、漁業に関連して造船業・鉄工業・製網業・撚糸業・漁船用発動機製作・水産加工業も発展し、銚子は水産業を基幹産業として再び発展の道を歩み出した。
当時国内最大規模にあった醤油醸造業では、1893年(明治26年)にヤマサ醤油10代目当主濱口梧洞が国内初の醤油研究所を開設し、手工業的な要素が強かった製造方法の近代化に取り組んだ。また市内の各醤油醸造業者も機械化・工業化に取り組み、生産の効率化が図られた。
銚子では江戸時代中頃から甘藷栽培が盛んとなっていたが、1889年(明治22年)に本銚子町の石橋重兵衛が蘇我町から講師を招き、澱粉作りを習得して以降は、甘藷を原材料とした澱粉生産が増加していった。当初は小規模で農業の副業という程度であったが、有力な農家によって製造工場が相次いで建設され、1907年(明治40年)に27軒であった澱粉製造業者は1914年(大正3年)には67軒と急増し、大正時代前期までに醤油醸造業に次ぐ一大産業へと成長した。
こうした産業の発展に伴って大手銀行支店の進出、地元銀行の設立等、金融機関の開設も多くなり、1914年(大正3年)には8行を数えるに至った。国や県の出先諸官庁も設置され、銚子は千葉県東部における政治・経済の中心都市としての機能を備えていった。1889年(明治22年)、町村制にともない、飯沼村が本銚子町と改称、荒野、新生、今宮の3村が合併し銚子町に、また、長塚、松本、本城の3村が合併し伊豆原村と改称したのち1891年(明治24年)に西銚子町となった。
避暑地としての歴史
犬吠埼周辺は景勝地として古くから著名であったが、明治初期、西洋から健康増進のために海水浴が効果的であるという考え方が導入されて酉明浦一帯が海水浴場として開かれ、灯台見物と相俟って犬吠埼は一大観光地へと発展した。1885年(明治18年)には銚子の有力者が潮湯治客を相手にした海水浴旅館として暁雞館を創業した。以来銚子の迎賓館として皇族や政治家、財界人、文人墨客が数多く宿泊した。
1912年(大正元年)夏には、暁雞館に宿泊していた高村光太郎が長沼智恵子と出会った。光太郎は智恵子を以前から知っており、この夏の犬吠埼で2人の間に強い繋がりが生まれた。詩集「智恵子抄」に付されている「智恵子の半生」にこの夏のことが書かれている。
丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若もし私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。
この出会いの後智恵子は熱烈な手紙を書き送り、光太郎も「此の人の外に心を託すべき女性は無いと思ふやうに」なって、やがて結婚した。
暁雞館の南側にはかつて海水浴旅館の「水明楼」があり、明治を風靡した文豪の一人、徳富蘆花は「枕を撼かす濤声に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに大東洋なり。」に始まる「自然と人生」の一編「大海の出日」において、水明楼から見た太平洋に昇る日の出を、華麗で緊迫した文語体で微細に描き出した。「自然と人生」は当時のベストセラーとなり、自然を見る新しい目は旧来の花鳥風月の美意識を覆した。特に「雑木林」と「大海の出日」は明治の青年に衝撃を与え、犬吠埼の日の出へと人々を誘った。
こうした状況の中、伏見宮家別邸の用地として犬吠埼の地が選定され、1904年(明治37年)に瑞鶴荘が建設されている。敷地には主屋、茶室、潮見亭、撞球場などの建物があり、これらの建物や庭園は海岸の風景を借景とした設計がなされていた。伏見宮貞愛親王は66歳で没するまで毎年避暑や避寒のため銚子を訪れ、瑞鶴荘に滞在したとされる。
総武鉄道株式会社は銚子から外川への路線延長を計画し、1901年(明治34年)に免許を取得したが、用地取得の失敗により敷設を断念し、1904年(明治37年)に工事は中止された。その後、1909年(明治42年)に濱口吉兵衛、13代田中玄蕃、小野田周斎ら地元財界人が銚子人車鉄道の計画を申請したが、1912年(明治45年)には人車よりも輸送力の大きい、銚子・犬吠埼間を結ぶ本格的な蒸気鉄道敷設の申請へと転換した。この申請は政府の免許を受け、1913年(大正2年)に銚子遊覧鉄道株式会社が設立され、同年12月に銚子—犬吠間が開業した。しかし収支は毎年度赤字が続き、政府補助金の交付を受けて辛うじて黒字経営を保っていた。1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦の影響で鉄鋼類の価格が高騰すると、遊覧鉄道はレールや車両を売却して利益を得る方針を採り、1917年(大正6年)に開業から僅か4年で廃止された。残った旧線路用地は暁雞館自動車部の宿泊客送迎用バスの専用道路として利用された。
その後、1921年(大正10年)に旧遊覧鉄道発起人により再度、銚子鉄道の敷設願いが提出され、1922年(大正11年)に免許を取得、1923年(大正12年)に外川まで延伸、開通した。銚子鉄道の路線のうち銚子・犬吠間は遊覧鉄道の旧路線をそのまま使用し、犬吠・外川間は新たに延長したものである。当初使用していたガソリン機関車は故障続きであったため1925年(大正14年)には電化開業している。
このように犬吠埼周辺の観光開発の気運が盛り上がっていた中、銚子鉄道の出資者で、仙台出身の資本家であった武田辰之助は銚子に移住後、1921年(大正10年)頃、海鹿島を保健別荘地区として開発造成して売り出した。海鹿島の名は沖の岩礁に明治時代まで見られたというアシカに由来し、大小無数の岩礁が作り出す明媚な風光が文人を魅了した。
大正浪漫を代表する叙情画家である竹久夢二は、海鹿島を訪れた際に次の詩を作っている。
- 宵待草
- 待てど暮せど来ぬ人を
- 宵待草のやるせなさ
- 今宵は月も出ぬさうな
竹久夢二は1910年(明治43年)夏に海鹿島を訪れ、宮下旅館に間借りをした。夢二はそのとき隣家の次女であった長谷川賢を見そめ、彼女を散歩に誘い出すことに成功した。海鹿島の松林の中には犬吠埼灯台へ行く白い路が延びており、夢二はここを通い路と名付け、逢瀬を重ねた。夢二は翌年再び海鹿島を訪れたが、賢はすでに鹿児島の教師のもとへ嫁入りをしていた。この詩は、夢二が失望のあまり当てもなく海鹿島海岸をさまよっていた時、海岸に咲き乱れる宵待草によせてわが身の悲恋をうたったものである。原詩は今の3行詩の形に改められて、1923年(大正12年)発行の「どんたく」に掲載された。これにヴァイオリン奏者・多忠亮がメロディーをつけて、一世を風靡した。
河童の絵で有名な日本画家の小川芋銭は、1923年(大正12年)、後援者であった篠目八郎兵衛の勧めにより、海鹿島海岸の高台にある篠目別荘で休息した。芋銭は逗留中に「樹間如水人如魚」や「水魅戯」を描き、海鹿島海岸に魅せられた。翌年、海鹿島を再度訪れた芋銭は篠目別荘を「潮光庵」と名付けて半年間逗留し、その後も毎年のように来て、多くの名作を描いた。1933年(昭和8年)、芋銭は皇太子明仁親王の誕生を賀して、次の句を詠んでいる。
女流作家平林たい子は大正末期に短い期間であったが文学仲間と銚子で流浪の日々を送ったことがあり、そのときのことを自伝小説「砂漠の花」に書いている。銚子に流れてきたときの平林たい子はプロレタリア文学を志しており、同行の仲間はアナーキスト・グループの仲間で、海鹿島の別荘を借りて滞在していた。彼女は銚子のレストラン「巽軒」で働いていたが、これと前後して、同じ女流作家の林芙美子も近くの「第二仙松軒」というカフェーで女給をしていたことがあった。林芙美子は1940年(昭和15年)に君ヶ浜の杉山平助別荘に泊まり、潮騒に眠りを妨げられるまま壁面に「激しく寝がへを打ちてかへりゆく波のうねり、犬吠の岬に来て何も忘れ果てたり」と鉛筆で書きつけたと伝えるが、建物は失われた。
この他、銚子には明治から昭和にかけて、島崎藤村、与謝野晶子、若山牧水、佐藤晴夫、高浜虚子、久米正雄、前田夕暮、田山花袋、尾崎紅葉、吉田絃二郎、窪田空穂、大町桂月、斎藤茂吉、岡倉天心、中里介山、内田百閒、ノーマン・メイラーら数多くの文人、歌人が訪れている。
また、銚子は国木田独歩を始め、「大日本国語辞典」を刊行した国語学者の松井簡治、画家で詩人の宮崎丈二、講談社専務取締役を勤めた尾張真之介らの文学者を輩出している。
財団法人公正会
1925年(大正14年)、ヤマサ醤油10代目当主濱口梧桐は学校教育における人物養成の不完全性に目を注ぎ、人物養成のために、私財30万円を投じて財団法人公正会を設立した。「公正」という名前には、私事を捨て大衆を基とし、最も公平に正しく運営するという理念が込められているとされた。翌年には住民のための図書館、勤労青少年を対象とする補修的な夜間学校及び集会場を併せ持つ公益的な施設として、公正会館を開館した。鉄筋コンクリート2階建ての瀟洒な建物で、低い石の柵に囲まれた植込みのある前庭がゆっくりと取られ、銚子における文化の殿堂として、市中の盛り場とは違った香り高い雰囲気をかもし出した。 1階は図書館・教室・事務室、2階は約500人収容のステージ付き大ホールになっており、会館では講堂と呼んだ。
図書館は閲覧室が3室あり、蔵書は開館時400冊で、文学書の他「国史大系」や「続群書類従」「広文庫」「史料綜覧」等の学術書も多くあった。その他、開架式の閲覧方法や館外貸出しも利用者に大きな利便を提供し、銚子の文化の向上に裨益するところが大であった。公正学院は働く青少年に中等学校程度の教育を施そうというもので、今日の定時制高校に相当した。公正会主催の事業は講演会、講座、展覧会、音楽会、芸能会その他多数で、講演会には各界一流の人々が中央から招かれた。当時の講師の揮毫帖を見ると、作家でいえば巖谷小波・菊池寛・舟橋聖一等のクラスが来銚している。会場は常にほとんど満員で、銚子にも知的に飢えた人々が多かったと見ることができ、その欲求にこたえた事業の意義は大きかった。こうした催しの他に、公正文化会や公正母の会、あるいは子供会・読書会というような会員制グループ活動も推進していた。このような活動を創意し展開できたのは、東京帝国大学出身の文学士であった初代館長兼学院長の小山文太郎の功績によるところが大きい。
1945年(昭和20年)3月の銚子空襲により街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は奇跡的に残り、臨時病院として使用された。1948年(昭和23年)、公正会は施設一切を市に寄付して解散し、20年余にわたる歴史に終止符を打った。寄付後の公正会館は銚子市公正市民館及び銚子市公正図書館となった。「公正」の名をとどめたのは、財団法人公正会とその創立者濱口梧桐を永く記念するためである。
近代漁港の建設
江戸時代の銚子港は主として商港として興り商港として発展したもので、漁業根拠地たることは二次的なものでしかなかった。明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、従来の藩を中心にした物資の流通に大きな変化が起こって東廻り海運は急速に衰退した。また、鉄道が発達すると河川を利用していた運輸も衰え、昭和初期までに銚子港の商港機能は全く失われることとなった。この頃我が国の漁業は漁船の動力化・大型化と漁法の改良によって沿岸漁業から沖合漁業への発展期にあり、銚子港は全面的にその根拠地として大きく機能するようになった。しかし大正期に入っても銚子港の形態はほとんど天然のままの河口港であり、僅かに沿岸の海岸のところどころに防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度であった。港口の出入りには危険が伴い、漁船の遭難が繰り返されていた。そのうえ港といっても接岸できる岸壁はなく、漁船は岸を離れた深みに停泊し、陸とは伝馬船で連絡する状態であった。その陸上にも漁港施設はあまりなかった。そこで近代的な漁港を建設して航行の危険を除くとともに、施設の整備により地元船ばかりでなく廻船を誘致し、銚子の新たな発展の基盤にしようとしたのである。折しも銚子沖が全国屈指の漁場であることが分かり、岩手県・宮城県・和歌山県にいたる各地から多くの漁船が集まるようになり、銚子港は東部太平洋岸の主要漁業基地として認識されつつあった。
このため築港事業は漁業関係者の一致した認識となり、1919年(大正8年)には具体的な実現運動に発展した。その結果政府も銚子港の重要性を認め、我が国の水産業の発展という大局的な見地から一大整備を行うこととなった。銚子醤油株式会社社長の濱口吉兵衛[44]は、代議士の立場から築港の促進を図るため衆議院議員選挙に立候補して当選し、在任中、政党を動かして議会や政府に働きかけた。当初の計画による銚子漁港の規模は外港・中港・内港を有する壮大なもので、外港は夫婦ヶ鼻東方に突き出す北防波堤と黒生北方に建設する南防波堤で囲み、これと河口側の内港は運河を掘って結ぶというものであった。工事は1923年(大正12年)度から10か年継続とし、総工事費1千万円を千葉県の他に将来銚子漁港を利用する東京・神奈川・静岡・愛知・三重・宮城・福島・茨城の各府県で分担することとなった。しかし各府県の財政事情によりこの案は廃され、国庫補助金500万円に県下の寄付金、魚市場の売上等を合わせて、千葉県単独で実施することとなった。これに至るまでには、銚子町選出の県会議員小野田周斎の努力があった。
だが予想外の問題が起こって、事態は頓挫してしまった。起債の許可と工事施行の認可が容易に下りようとしなかったのである。これらの許認可は内務省の所管であったが、利根川河口の沿岸を埋め立てたり、河中に堤防等を構築することは治水上重大な影響を及ぼすとして、農商務省の設計による築港工事を認めようとしなかった。両省の意見の食い違いは、事が科学的・技術的な問題であるだけに容易に解決を見ることができず、折から1923年(大正12年)に関東大震災が発生して国はその対策に追われ、事業開始は遅れるばかりであった。銚子はその将来に関わる重大な問題であるだけに、衆議院議員選挙に再出馬して当選した濱口吉兵衛や香取郡から再選された今井健彦を動かし、内務省や農商務省に働きかけた。その労が実り、1925年(大正14年)、部分的に第二船溜まりの工事が認可された。
起工式は1925年(大正14年)11月21日に飯沼魚市場において挙行され、全市挙げての祝賀提灯行列が開催された。ここに銚子近代化の最初の槌音が高く鳴り響いたのである。工事には当時としては新鋭のドイツ製の浚渫船や杭打ち船が配置されて、新生・飯沼町地先のさざ波が寄せる天然の岸辺は広大な埋立地に生まれ変わっていった。だが他の工事は依然として認可に至らず、県は大幅に計画を変更して外港・中港・航路の建設を取り止め、その代わりに龍ノ口と一の島間に防波堤を構築し、内港に新たに第三船溜まりを設けることとした。この計画変更と工事施行は1932年(昭和7年)にほぼ全面的に認可され、銚子の長年の宿願が果たされた。そしてこの年から、工事は第一船溜まり・外港へと延びていった。なお、この年には既に埋め立ての成った第二船溜まり後背地に東洋一を誇る新魚市場が完成した。この魚市場は戦後の1965年(昭和40年)まで、銚子漁港の中心施設として大きな役割を果たした。1934年(昭和9年)度からは埋立地を貫通する延長5500mに及ぶ臨港道路の建設が始まり、銚子漁港の大動脈となった。これらの築港工事により、かつてさざ波が打ち寄せる砂浜であった利根川河畔は、車や人が激しく行き交い、岸壁には大小無数の漁船がマストを林立させる近代的な漁港へと変貌していった。
沿革
市制施行前
銚子市政の歩み
行政区域変遷
銚子市市域の変遷表(※細かな境界の変遷は省略)
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1868年 以前
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明治22年 4月1日
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明治22年 - 昭和64年
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平成元年 - 現在
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現在
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海上郡
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新生村
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銚子町
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銚子町
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昭和8年2月11日 銚子市
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銚子市
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銚子市
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荒野村
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今宮村
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飯沼村
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本銚子町
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本銚子町
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松本村
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伊豆原村
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明治24年8月14日 西銚子町に 町制改称
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本城村
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長塚村
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小川戸村
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豊浦村
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豊浦村
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辺田村
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三崎村
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高神村
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高神村
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高神村
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昭和12年2月11日 銚子市に編入
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松岸村
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海上村
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海上村
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垣根村
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四日市場村
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余山村
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柴崎村
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高野村
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三宅村
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赤塚村
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高田村
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船木村
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船木村
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昭和29年4月1日 銚子市に編入
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芦崎村
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岡野台村
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船木台村
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三門村
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中島村
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正明寺村
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野尻村
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椎芝村
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明治24年1月26日 椎柴村に改称
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小船木村
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塚本村
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忍村
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猿田村
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小浜村
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豊岡村 の一部
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豊岡村の一部
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昭和31年7月1日 銚子市に編入
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親田村
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常世田村
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八木村の一部
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香取郡
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下桜井村
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豊里村
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豊里村
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昭和30年2月11日 銚子市に編入
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富川村
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下森戸村
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諸持村
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宮原村
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東笹本村
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行政
市長
歴代市長
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- 公選9代:大内恭平(1978年8月20日 - 1982年8月19日)
- 公選10代:大内恭平(1982年8月20日 - 1986年8月19日)
- 公選11代:佐藤幹彦(1986年8月20日 - 1990年8月19日)
- 公選12代:佐藤幹彦(1990年8月20日 - 1994年8月19日)
- 公選13代:大川政武(1994年8月20日 - 1998年8月19日)
- 公選14代:大川政武(1998年8月20日 - 2002年8月19日)
- 公選15代:野平匡邦(2002年8月20日 - 2006年8月19日)
- 公選16代:岡野俊昭(2006年8月20日 - 2009年3月29日)
- 公選17代:野平匡邦(2009年5月17日 - 2013年5月16日)[48]
- 公選18代:越川 信一(2013年5月17日 - 2017年5月16日)
- 公選19代:越川信一[46](2017年5月17日 - 2021年5月16日)
- 公選20代:越川信一[47](2021年5月17日 - 現職)
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政策
ゼロカーボンシティ推進
銚子市は2021年(令和3年)2月16日に「ゼロカーボンシティ銚子」を宣言し、銚子電力・銚子市・Looopの協働による官民連携で再生可能エネルギーの地産地消を推進し、2050年までに温室効果ガス排出実質ゼロを目指すことを表明した[49]。
これまでの取り組みとして、2021年(令和3年)に開校した銚子市立銚子西中学校への「銚子ウィンドファーム」を主とする実質再生可能エネルギー100%電力の供給が行われている。
今後の計画としては、災害時に備えた地域循環型スマートコミュニティの形成として、洋上風力発電等のポテンシャルを活用した地域単独のマイクログリッド構築の推進や2035年までの市内全公共施設の二酸化炭素排出係数ゼロ化等が挙げられている[50]。
銚子市沖は、再生エネ海域利用法に基づき国が大規模な洋上風力発電開発を認めた促進区域であり、2021年(令和3年)12月には三菱商事を中心とする「千葉銚子オフィシャルウィンド」が事業者に決定し、2028年9月に39kWに及ぶ設備が稼働を開始する見込みとなっている。
促進地域に最も近い名洗港は千葉県がメンテナンス拠点港湾としての活用を目指して、係留施設建設や埠頭用地造成等、機能強化に向けた整備を開始しており、風車景観とジオパークを融合したエコツーリズム拠点として、眺望緑地も新たに造成される見込みである[51]。
銚子市は銚子商工会議所や銚子市漁業協同組合と共同出資でメンテナンス会社である「銚子協同事業オフショアウインドサービス」を設立し、地元企業のサプライチェーンへの参入促進を行うとともに日本初の漁業共生型となる「銚子モデル」の実現に取り組むとしている[52]。
サテライトオフィス誘致
銚子市は2016年(平成28年)度から全国10自治体を対象とした総務省「お試しサテライトオフィスモデル事業」に取り組み、企業・起業家の誘致による地域経済の活性化を図るため、主に都市部のベンチャー企業・IT企業を対象に豊富な地域資源、地場産業と都心からのアクセス利便性を活用したSO環境の整備を行った。市街地だけでなく市内景勝地の施設を活用した無料コワーキングスペースを提供し、開発合宿体験事業や観光体験事業等も併せて実施した。同年には銚子市企業立地等促進事業補助金を創設している[53]。
独自性の高い地域資源とそれを運営管理する地元団体を巻き込んでお試し勤務の誘引を行ったこと、企業誘致活動及び当該活動で培った行政と都市部企業の個別ネットワーク等を最大限に活用したこと、SNSを駆使してお試し勤務の状況をリアルタイムに配信する他、地元事業者とUJIターン者のマッチングを促す特設サイトを構築する等、デジタル的なアプローチを充実させたことから順調にお試し勤務企業数を伸ばし、2社のSO進出企業を確保している[53]。
市役所
老朽化・狭隘化が著しかった旧庁舎に代わり、銚子市長期計画に基づいて1973年(昭和48年)から新庁舎建設が進められ1975年(昭和50年)に開庁した。設計整理は山下設計、施工は清水建設及び熊谷組共同体が担当した。地上8階地下1階建で、庁舎棟、議会棟、付属棟から構成され、庁舎棟下層階への市民窓口の集中と模写電送装置・コンピュータの導入により、事務処理の合理化とスピード化が図られた。また庁舎棟1階には各種相談の窓口として市民相談センターが設置され、議会棟1階には市民との対話の場として約200人を収容する市民ホール及び展示ホールが設けられた。職員厚生設備としては売店、茶室、理髪店、厚生室等がある。市議会議場を始め議会関係の室は議会棟の2・3階に配置されている[54]。
行政組織
- 秘書広報課
- 企画財政課
- 総務課
- 市民課
- 税務課
- 社会福祉課
- 子育て支援課
- 高齢者福祉課
- 健康づくり課
- 観光商工課
- 水産課
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財政
銚子市一般会計の歳入決算額において、費目別比率の大きい順にみると、市税、地方交付税、国県支出金又は市債の順である。2021年(令和3年)度では、自主財源の多くを占める市税が78.4億円であるのに対し、依存財源は地方交付税57.4億円、国庫支出金51.7億円、市債22.1億円、県支出金15.7億円となっている。銚子市一般会計歳出決算額における費目別比率は、民生費、総務費、教育費、公債費、衛生費、消防費、土木費の順となっている。歳出の性質別分類は、行政経費の性質に従った分類で、財政運営の状況や特色を判断するために用いられる。2021年(令和3年)度においては、扶助費56.4億円、人件費54.4億円、公債費30億円である。義務的経費は140.7億円であり、物件費、維持補修費、補助費等を加えた経常的経費は195.4億円となっている。物件費は業務委託料等、維持補修費は学校施設、廃棄物処理施設、市営住宅、道路、河川の補修・維持等の費用、補助費等では公営企業会計補助等がその主な内容である。投資的経費は21.3億円である。特別会計は、2021年(令和3年)度においては、国民健康保険事業、介護保険事業及び後期高齢者医療事業の3会計となっている。地方公営企業は、2021年(令和3年)度において、水道事業及び病院事業の2事業で、それぞれ事業ごとに特別会計を設置している[55]。なお、銚子市の財政力指数は0.61(令和3年度)であり、千葉県東部地域において最も高い財政力を有している[56]。
名誉市民
銚子市民憲章
1970年(昭和45年)3月市議会定例会において、市民から募集した草案98点からの入賞作品を基に作成した「銚子市民憲章」が市長から提案された。この議案は満場一致をもって可決され、同年4月1日からの施行となった。提案理由は、銚子市民であることの誇りと自覚を持ち、銚子市将来の目標をかかげ、これを実践し、健康で明るい文化都市をきづくため、というものであった。
- 銚子市民憲章
- 洋々とした大海原、雄大な流れの利根川。漁業の町として、祖先のたゆまぬ努力によって栄えてきたわが銚子市は、あらたに近代都市として、力強くはばたこうとしています。わたくしたちは、この美しい郷土を守り育て、市民として誇りをもって生活できるようにするために、わたくしたちの願いをこめて、この憲章を定めます。
- 1 仕事をたいせつにし、明るく元気に働きます。
- 1 老人やこどもをいたわり、人に親切にします。
- 1 自然を愛し、町をきれいにします。
- 1 教養を高め、心を豊かにします。
- 1 力を合わせ、交通安全につとめます。
都市宣言
- 交通安全都市宣言
- 精神衛生都市宣言
- 公害追放都市宣言
- 青色申告都市宣言
- 非核・平和都市宣言
- 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言
- 健康スポーツ文化都市宣言
銚子市紋章
銚子市紋章は市制施行を記念して、紋章図案を懸賞募集し、応募総数1127点の中から最終決定し、1934年(昭和9年)1月15日に市会の議決を経て、同日告示された。制定にあたっては、銚子市は本邦東端に位置し、旭日仰ぐは最も早く、即ち市の発展性は旭日と共に力強く、その増大を意味して紋章は之を象徴することとし、旭日を中心にその周囲を丁四(銚子)にて輪郭図案化せるものなり、とされた。
銚子市歌
銚子市歌は懸賞募集し応募総数267点の中から三軒町山崎晋道作詞を一等として採用し、1936年(昭和11年)1月27日に市会議決のうえ、同日告示第2号をもって告示された。
- 銚子市歌
- 1 阪東太郎洋々と 太平洋にそそぐところ 四季に絶えせぬ海の幸 市民の意気はさかんなり 銚子、銚子、吾等の銚子
- 2 潮花咲く磯つづき 観光の美に富めるところ 犬吠埼の灯台は 文化の光世を照らす 銚子、銚子、吾等の銚子
- 3 遠く元和の昔より 醤油の香の匂ふところ 水産業の発展は 伸びゆく力世に示す 銚子、銚子、吾等の銚子
警察・消防
- 銚子警察署(銚子全域を管轄)
- 銚子市消防本部(銚子市全域を管轄)
- 消防団(全9分団)
- 第一分団 旧高神村及び潮見町地区
- 第二分団 旧本銚子町地区
- 第三分団 旧銚子町、旧豊浦村及び大橋町地区
- 第五分団 旧西銚子町地区
- 第六分団 旧海上村地区
- 第七分団 旧船木村地区
- 第八分団 旧椎柴村地区
- 第九分団 旧豊里村地区
- 第十分団 旧豊岡村地区
国家機関
国家機関
- 法務省
- 財務省
- 厚生労働省
- 千葉労働局銚子労働基準監督署
- 千葉労働局銚子公共職業安定所
- 国土交通省
- 裁判所
県機関
- 千葉県海匝保健所(海匝健康福祉センター)
- 千葉県銚子児童相談所
- 千葉県銚子土木事務所
- 千葉県銚子水産事務所
- 千葉県銚子漁港事務所
- 千葉県水産総合研究センター流通加工研究室銚子分室
- 千葉県旭県税事務所銚子支所
- 千葉県北総教育事務所東総研修所
議会
市政
- 銚子市議会
- 定数:18名
- 2019年(令和元年)5月1日〜2023年(令和5年)4月30日
- 議長:地下誠幸(ぢげ まさゆき)市民クラブ、3期
- 副議長:石神嘉明(いしがみ よしあき)新和会、1期
会派名 |
議席数 |
議員名(◎は代表)
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市民クラブ |
5 |
◎石上允康、岩井文男、地下誠幸、鎌倉 金、大野正義
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新和会 |
4 |
◎野平仁人、石神嘉明、宮崎光子、桶谷範幸
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新風 |
2 |
◎石上友寛、池田健一
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みらい |
2 |
◎釜谷藤男、広野恭代
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公明党 |
2 |
◎桜井 隆、加瀬栄子
|
リベラル |
1 |
◎加瀬庫藏
|
日本共産党 |
1 |
◎笠原幸子
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緑の会 |
1 |
工藤忠男
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※2021年6月1日現在
県政
- 選挙区:銚子市・香取郡東庄町で一つの選挙区をなす。
- 定数:2名
- 任期:2019年(平成30年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日
- 2015年、2019年と無投票。
- 2021年7月より、信田光保県議、千葉県議会議長
氏名 |
会派名
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信田光保 |
自由民主党千葉県議会議員会
当選回数 5期
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宮川太 |
自由民主党千葉県議会議員会
当選回数 1期
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※2020年10月1日現在
国政
経済
産業
銚子市は水揚数量と水産物流通加工機能によって日本最大規模の水産業を中心として、畑作野菜生産の一大供給基地となった農業、長い歴史を有する醤油醸造その他製造業及び商業の複合した産業都市であり、日本経済の好況・不況の影響を直ちに受ける度合いが少ない安定生産型の産業都市とされている。
犬吠埼から屏風ヶ浦に至る海岸線は1959年(昭和34年)に水郷筑波国定公園として指定された景勝地で、観光都市としても知られる。
2018年(平成30年)度の産業別就業者の割合を見ると、第1次産業に10.7%、第2次産業に28.5%、第3次産業に58.4%が従事しており、1965年(昭和40年)と比較して第3次産業の割合が拡大している[57]。
商業
銚子市は東総地域最大の商業都市であり、銚子商圏を形成する単独商圏都市である[58]。銚子市に住む消費者の地元購買率は75.5パーセント、他の市町村から銚子市への吸引人口は約6万3000人である[59]。卸売業はこれらの小売業に対する卸売り、あるいは市内の業者に業務用の原材料を売る卸売りであり、市外の小売業をも対象とする卸売業は醤油その他の食料品についてごく少数である。銚子市の商業の特徴の一つは人口に比較して商店数が多いことである。このことは戦後一貫して変わっておらず、2019年(令和元年)においても、人口1000人あたりの銚子市の小売店数は千葉県内1位、飲食店数は同3位となっている[60]。商業集積地区の事業所数が小売業全体に占める割合は58.3パーセントと県内3位である[61]。「銚子みなとまつり」は、50年以上の歴史がある銚子の夏の風物詩であり、周辺地域からも多くの観客を集め、中心商店街は賑わいをみせる[62]。
2010年(平成22年)3月に開店したイオンモール銚子は、13万人、4万4000世帯を商圏とし、核店舗「イオン銚子店」、準核店舗「イオンシネマ銚子」、100の専門店で構成する東総地域最大規模の大型ショッピングセンターである[63]。市は、国道126号から県道愛宕山公園線が分岐する交差点の周辺地区を広域交流拠点として位置づけ、広域的な商圏を対象とした商業施設や良質なアミューズメント施設等の集積を促進している[64]。また、市とイオン株式会社は2010年(平成22年)に地域振興に関する包括提携協定を締結しており、その取組の一つとして、地域循環型電子マネー「WAON」を通じた地域貢献型カード「犬吠WAON」が発行されている[65]。
本社を置く企業
第三セクター
- 銚子マリーナ
- 銚子水産観光
- 銚子市医療公社
- 銚子スポーツタウン
- 銚子電力
関連企業
- 東部ガス - 関連会社に銚子瓦斯株式会社がある。
- ヒゲタ醤油 - 工場や営業などの拠点が市内にある。
-
ヤマサ醤油本社
-
銚子商工信用組合本店
-
銚子信用金庫本店
-
銚子テレビ放送本社
-
田原缶詰本社
-
銚子電気鉄道本社
金融機関
銚子市内の金融機関は地元信用金庫本店・6支店、地元信用組合本店・5支店、地方銀行支店4店、労働金庫1店の計18店がある。またちばみどり農業協同組合及び東日本信用漁業協同組合連合会も金融機関として大きな役割を果たしている。
-
千葉銀行 銚子支店
-
常陽銀行 銚子支店
-
銚子信用金庫 外川支店
風力発電
銚子市に初めて風力発電施設が建設されたのは、2001年(平成13年)である。日本風力開発の関連会社により市内には多数の風力発電が稼働しており、その大半は屏風ヶ浦を中心とした高台に位置する。
- 銚子屏風ヶ浦風力開発
- 銚子屏風ヶ浦風力発電所 1,500キロワット機(1基)
- 銚子小浜風力発電所 1,500キロワット機(1基)
- 銚子風力開発
- 銚子風力発電所 1,500キロワット機(9基)
- 八木風力発電所 1,500キロワット機(6基)
その他の風力発電所は以下の通り。
- くろしお風力発電
- 銚子高田町風力発電所 1,990キロワット機(1基)
- 椎柴風力発電所 1,990キロワット機(5基)
- エムウインズ
- 銚子しおさい風力発電所 1,500キロワット機(2基)
- 堀江商店
- 銚子新町風力発電所 1,980キロワット機(1基)
- 台町自然環境エネルギー研究所
- 銚子ウィンドファーム
- 銚子ウィンドファーム 1,500キロワット機(7基)
工業
銚子市の製造業の中で最も市の経済を支える重要な位置を占めるのは、水産加工業と醤油醸造業を双璧とする食品製造業である。食品製造業に続く業種は、窯業建材製品・生コンクリート製造業、電気機械製造業である。これらの代表的な製造業以外の伝統的な地場産業として、漁網やロープ製造、籐製品、造船、鉄工業等がある。
水産加工業
江戸期に肥料のいわし搾粕生産を中心として発展した銚子市の水産加工業は、戦後、養殖飼料用の冷凍いわしが主力となった。また、さんま・さば漁の発展に伴って、食用の一般加工品の原料が、いわしからさんま、さば、あじへと推移した。
冷凍・冷蔵施設の普及・発展によって市外・県外・国外からの移入・輸入による原料の長期保存が年間均等操業を可能とし、更に最適時期の出荷までの製品の保存が可能にさせた。そしてこのことが水産加工業者による原料売買という新しい流通形態を生じさせ、製造業経営における商業的要素が大きくなった。
また1960年代以降、コンベア、フォークリフト、自動選別機、自動軽量機、自動割裁機その他機械導入による生産設備の省力化、冷凍・冷蔵施設の大型化、経営近代化、原材料の移入・輸入が進み、生産額も増大して、今日まで銚子市の主要業にある。
また、銚子漁港整備の進展と連動して計画的に沿岸漁業の水揚げ拠点基地づくりが推進され、全国有数の水産流通加工センターを形成している。
冷凍冷蔵業・製氷業
大正期に始まった銚子市の冷凍業は、戦後、冷蔵庫が普及すると大型加工場が多かった銚子市では、冷凍・冷蔵施設の大型化が競って進められ、その規模も飛躍的に拡大した。銚子市のように一つの地域に冷蔵能力が集中しているところは他に例がなく、水産業に関する冷蔵庫の数とその能力が大きいことでは、銚子市は全国一となっている。
この中で新しい営業形態として盛んとなったのが、冷蔵業である。主としていわし・さば・さんまを加工原料・飼料用に保存し、そのままの形で冷凍加工原料魚、冷凍飼料として出荷している。
氷は船積み用・鮮魚出荷用その他、水産業における必需品であり、製氷業は冷凍冷蔵業務とは別に専門業者、漁業協同組合、水産業者の製氷工場で行われている。
缶詰製造業
銚子市における缶詰製造の歴史は1979年(明治12年)に行われたイワシ油漬缶詰の試験製造に始まったとされるが、企業としての缶詰生産は明治後期に本格化した。その後、1906年(明治39年)のクジラ大漁によるクジラ大和煮缶詰製造業の勃興と昭和初期のイワシ豊漁に伴うイワシの大和煮・トマト煮、油漬製造の増加によって急激な発展を遂げた。戦後は輸出向けのサバ缶詰の生産が進んだが、1980年代からの円高傾向により国内向けへの販路転換と他種兼業の経営多角化が目指された。
肥飼料製造業
魚を原料とする肥料生産、魚粉(ミール)や配合飼料の原料となる魚粕製造が行われている。
練製品製造業
銚子市の練製品製造業は終戦直後に食糧難を背景として急速に発展し、その後製品の質は年々向上し、生産高も増加した。種類としては半片、蒲鉾、鳴門、小魚を使った揚蒲鉾、イワシ・サバ等を原料とするつみれ等である。これらは大部分が東京を中心とする近県へと出荷されており、地元消費は一部である。
醤油醸造業
銚子の醤油醸造は江戸時代初期に始まる古い歴史を有し、銚子市における主要産業の一つである。銚子市の醤油醸造業の全国シェアはヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の大手2社を主に15%を占め、銚子市内における企業としては別格の地位にある。近年ではつゆ・たれ等の醤油加工調味料の開発・改良が進められるとともに、うま味調味料やだし類が製造されている。
銚子市内で生産される醤油は、主として濃口醤油と薄口醤油であるが、その種類は多岐に渡り、特に濃口醤油は家庭用にかぎってみてもヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の二社の商品は20種類を超えている。
なおヤマサ醤油は1992年(平成4年)、アメリカ合衆国オレゴン州に関連会社を設立し、工場を建設してアメリカ、カナダ、メキシコなどに製品出荷も行っている。
この他、醤油製造会社では、蓄積された研究開発技術により核酸関連物質を利用した医薬品原料、食品添加物、化粧品原料、医薬品合成原料、研究用試薬、体外診断用医薬品、また、動物医薬用ワクチン、抗がん活性物質、抗ウイルス性物質、臨床検査薬、動物薬等の研究開発が進められている。
鉄工業
銚子では明治以降、漁船用内燃機関である焼玉エンジンに関する鉄工業が勃興し、戦前は漁船用内燃機関の他、澱粉製造機械、醤油工場関係の機械及び農機具等が製作されていた。漁船エンジンのディーゼル化後は、市内の鉄工場の多くが大手機械メーカーに系列化に入り、その下請工場となった。1969年(昭和44年)には、財団法人銚子市開発協会と千葉県開発公社の共同事業により、新たに小浜工業団地が造成されている。
造船業
銚子市の伝統的な地場産業として造船業があり、江戸期から昭和前期にかけて、銚子市の造船業は全て船大工の個人企業であった。造船所はちょき船や伝馬船のような小舟を除いては川岸や海岸の砂浜にあり、主として市東部では漁船が、市西部では川船が造られていた。銚子市の漁船は和船型が主流であったが、1960年代以降は西洋型が増加し、材質も木船から鋼船・強化プラスチック船へと変化した。
籐製品工業
銚子で籐製品が製造されるようになったのは明治後期からで、大正から昭和にかけて主要な地場産業に成長した。当時の銚子の籐製品はほとんど全てが草履や下駄に使われる籐表で、その後銚子市は籐表の全国的特産地となった。戦後は国民の生活様式の変化によって籐表の需要は減少し、産業というよりも文化財的な工芸としての性格が強くなっている。
漁業
銚子漁港は、漁港漁場整備法上の特定第3種漁港(国指定最重要漁港)に指定された日本三大漁港の一つであり、古くから沿岸・沖合及び遠洋漁業の拠点港として利用されている。3つの卸売市場を抱えており、第2卸売市場に入港する大中まき網漁船によってサバ、サンマ、イワシなどの主要な魚種が水揚げされ、これらの魚種を中心に年間水揚量が全国第1位である[66]。総水揚げ量の約90%が大中型まき網漁業によるもので、これらの多くは地元漁船ではなく他の漁港に属する廻船であり、地元漁船は底引き網漁業等の比較的規模が小さい漁業が中心である。
タイやヒラメなどの高級魚も漁獲されており、特に銚子漁業の発祥の地である外川地区の小はえなわ型船による立縄漁業で漁獲しているキンメダイは「銚子つりきんめ」として千葉ブランド水産物第1号に認定され、ブランド力向上と資源管理が行われている。
- イワシ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国1位
- サバ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国1位
- サメ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国3位
- アジ類 - 2002年(平成14年)度陸揚量全国4位
- サンマ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国4位
- メヌケ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国5位
- マグロ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国6位
- そのほか、カツオ、ヒラメ、ホウボウ、キンメダイなど。
プライドフィッシュ
国漁業協同組合連合会が中心となり、漁業協同組合連合会・漁業協同組合が選定した魚介類として「銚子つりきんめ」「銚子の入梅いわし」がプライドフィッシュとして選定されている。
- 銚子つりきんめ「銚金」(キンメダイ)[67]
- 銚子市漁業協同組合認定
- 千葉県水産ブランド認定
- 銚子推奨認定品ちょうしブランド(干物)[68]
- 認定対象期間(旬):周年
- 大きさ等:500グラム以上
- 全国的にキンメダイ漁の北限といわれる漁場で、銚子市外川地区の小型船約40隻が立縄漁業(釣りの一種)により漁獲。鮮やかな色と傷のないきれいな魚体を保つため、釣り上げた直後から、一尾ずつ丁寧に取り扱い、常に高い品質のものを提供するよう努力・研究を重ねている。毎年7月に開催される「きんめだいまつり」は約4万人程の来場者で賑い「銚子つりきんめ」の知名度アップに大きく貢献している[69]。
- 銚子の入梅いわし[70]
- 銚子市漁業協同組合認定
- 認定対象期間(旬):6月から7月(入梅)
- イワシの主要な水揚港である銚子港は日本一の水揚港としても知られ、特に6 - 7月にかけての「入梅」(梅雨の時期)に水揚げされるマイワシは「入梅いわし」と呼ばれている。毎年この時期に鮮度抜群のいわしが食べられる「入梅いわし祭り」が行われている[71]。
漁港
- 特定第3種漁港
- 銚子漁港
- 年間水揚数量全国第1位(2009年、22万3739トン)
- 年間水揚金額全国第6位(2009年、233億7089万円)
- 第2種漁港
農業
銚子市は県内有数の農業都市であり、春キャベツの生産量は日本一。海洋性の気候と首都圏から100km圏内という地理的な利便性を生かし、キャベツやダイコン、スイカ、イチゴなど露地野菜や果物が栽培されている。銚子市の総耕地面積2540haのうち約80%近くが畑地であり、千葉県内トップクラスである農業産出額268億円のうち57%にあたる 152億円を野菜が占め、畑作中心の営農である。
一戸あたりの栽培面積が増加し農地の集約化が進んだことで経営規模は拡大傾向にあり、専業農家率は県の平均が30.6%であるのに対し、銚子市では 55.6%で、販売農家戸数1,007戸のうち560戸が専業農家である。
野菜指定産地
農林水産省による野菜生産出荷安定法および本法に基づき銚子市が指定された野菜[73]。
- キャベツ - 春キャベツと冬キャベツが指定されている。春キャベツの生産量は日本一。
- ダイコン - 春ダイコン・秋冬ダイコンが指定されている。
- トマト - 夏秋トマト・冬春トマトが指定されている。
対外関係
- 姉妹都市・提携都市
クースベイ市(Coos Bay, Oregon, アメリカ合衆国オレゴン州)
- 1983年(昭和58年)2月10日 銚子市制施行50周年記念式典の席上、クース・ベイ市代表者の出席を得て、姉妹都市協定締結の調印式を行った。1983年10月、銚子市長が港湾施設等視察のため渡米した際、クース・ベイ市への訪問が契機となり、国際親善の気運が高まったのがきっかけとなった。
レガスピー市(Legazpi City, フィリピン共和国アルバイ州)
- 1985年(昭和60年)6月27日 レガスピー市議会が銚子市との姉妹都市提携を決議し、レガスピー市長から姉妹都市協定締結の申し入れがあったため、銚子市議会に提案。同市議会の議決を得て提携が成立した。両市の人口規模、産業形態が類似していることや、世界の平和を祈念するため1958年に銚子市に建立された。「日比友愛の碑」の斜塔がレガスピー市のマヨン山を指していることなど銚子市とフィリピンとの関係も深い。
施設
図書館
交流施設
- 銚子市民センター
- 銚子市地域交流センター銚子芸術村
- 銚子市勤労コミュニティセンター
- 銚子市豊里地区コミュニティセンター
- 銚子市海上地区コミュニティセンター
- 銚子市東部地区コミュニティセンター
- 銚子市西部地区コミュニティセンター
- 銚子市高神地区コミュニティセンター
- 銚子市中央地区コミュニティセンター
- 銚子市農村広場やすらぎの家
スポーツ施設
- 銚子スポーツタウン
- 銚子市スポーツコミュニティセンター
- 銚子市体育館
- 銚子市野球場
- 銚子市庭球場
- 豊里台多目的スポーツ広場
公園
- 中央みどり公園
- 君ヶ浜しおさい公園
- 東部不動ヶ丘公園
- 河岸公園
- 本通公園
- 新生公園
- 末広町公園
- 陣屋町公園
- 後飯町公園
- 前宿町公園
- 清川町第一公園
- 清川町第二公園
|
- 桜井町公園
- 三軒町公園
- 唐子町公園
- 松本町公園
- 大谷津公園
- 豊里台緑が丘公園
- 東部児童遊園
- 松岸児童遊園
- 外川児童遊園
- 河岸ポケット広場
- 猿田コミュニティ広場
|
公共福祉施設
- 銚子市保健福祉センター「すこやかな学びの城」
- 銚子市児童発達支援センターわかば
- 銚子市老人憩の家・地域福祉センター「こも浦荘」
- 銚子市芦崎高齢者いこいセンター
博物館・美術館
郵便
- 銚子郵便局
- 本通郵便局
- 銚子南町郵便局
- 銚子本町郵便局
- 銚子植松郵便局
- 銚子愛宕郵便局
- 外川郵便局
- 銚子本城郵便局
- 銚子余山簡易郵便局
- 銚子小浜簡易郵便局
宿泊施設
観光地が豊富であり、犬吠埼温泉などの温泉地を有することから宿泊施設が市内に点在している。以下、主な旅館・ホテル一覧[74]。
- スパ&リゾート犬吠埼太陽の里
- 別邸 海と森
- ぎょうけい館
- 絶景の宿 犬吠埼ホテル
- 犬吠埼観光ホテル
- ホテルニュー大新
- 銚子プラザホテル
- ホテルサンライズ銚子
- Farm&stay YAOYA
- ホテルルートイン銚子駅西
- ホテルルートイン銚子駅前
-
ぎょうけい館
-
ホテルサンライズ銚子
-
銚子プラザホテル
医療
二次医療圏(二次保健医療圏)としては香取海匝医療圏(管轄区域:香取地域・海匝地域)である[75]。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する[75]。
教育機関
大学
高等学校
中学校
- 銚子市立第一中学校
- 銚子市立第二中学校
- 銚子市立第三中学校
- 銚子市立銚子中学校[78]
- 銚子市立銚子西中学校
小学校
- 銚子市立飯沼小学校
- 銚子市立海上小学校
- 銚子市立春日小学校
- 銚子市立椎柴小学校
- 銚子市立清水小学校
- 銚子市立高神小学校
- 銚子市立豊里小学校
- 銚子市立双葉小学校
- 銚子市立船木小学校
- 銚子市立本城小学校
- 銚子市立明神小学校
幼稚園
特別支援学校
情報・通信
マスメディア
新聞
市内に通信部・支局を置く日刊の全国紙等は3紙、市内に本社のある日刊の地元新聞は1紙がある。
放送局
交通
鉄道路線
銚子市と市外とを結ぶ旅客輸送の主力機関は鉄道である。銚子市の私設鉄道は市内電車で、市外に通ずるものは東日本旅客鉄道であり、線路は総武本線と成田線の2本である。東京・銚子間には特急電車「しおさい」が運転されている。
中心となる駅:銚子駅
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)
※銚子運輸区
- 銚子電気鉄道(銚子電鉄)
銚子市内唯一の私設鉄道である銚子電気鉄道は1923年(大正12年)に銚子鉄道株式会社として設立開業し、戦後の1948年(昭和23年)に企業再建整備法により、新旧勘定合併にため銚子電気鉄道株式会社と改称し、設立登記を行って現在に至っている。営業キロ数は銚子駅構内から外川まで全長6.4キロで、短いことでは全国屈指の私鉄である。
-
観音駅(銚子電鉄)
-
外川駅(銚子電鉄)
-
銚子電気鉄道線(2000形デハ2002)
バス路線
銚子市及び近隣市町村との間を結ぶ路線バスは、ほとんど千葉交通が運行している。
高速バス
大阪 - 銚子線は夜行、その他は昼行。※主要停留所のみ記載
路線バス
道路
銚子市内には一般国道が3路線あるが、このうち最も主要な国道は千葉市・銚子間を結ぶ国道126号であり、かつては銚子市と首都近郊を結ぶ唯一最大の道路であった。現在も貨物輸送を始めその他の交通における大動脈としての役割は極めて大きい。銚子大橋前交差点は、国道126号とこれに次ぐ銚子市の動脈である国道356号及び水戸市に至る国道で、銚子市と茨城県を結ぶ幹線道路である国道124号が集まる3国道の起点となっている。
広域幹線道路については、国道126号線飯岡バイパス、東総広域営農団地農道、東総有料道路、東関東自動車道成田線、九十九里波乗道路等が整備されている。2000年(平成12年)、利根かもめ大橋が開通し、2013年(平成25年)には銚子大橋架け替え工事が完了した。今後は山武方面との高規格幹線道路・銚子連絡道路の早期実現が期待されている。市内の主要道路では、海岸を一周する県道銚子公園線、愛宕山の観光道路市道愛宕山天王台線、三崎町から屏風ヶ浦の台地を通って天王台に至る銚子ドーバーラインが整備されている他、銚子海上線の拡幅整備、銚子公園線長崎周遊道路の開通、銚子駅前シンボルロード・本通りマイロード・銚子銀座ココロードの整備等により、観光都市としての交通体系の整備も進められてきた。
- 有料道路
- 一般国道
- 主要地方道
- 一般県道
- 自転車道
- 橋梁
空港
千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄りとなり、約40キロメートルの距離に位置する。東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)へは約95キロメートルの距離に位置する。
船舶
観光・文化
名所・旧跡
日本遺産「北総四都市江戸紀行」
- 外川の町並み - 1658年(万治元年)に整備され「外川千軒大繁盛」と謳われた漁師町の町並み
- 銚子ちぢみ伝統工芸館 - 銚子ちぢみの藍染体験
- 西廣家住宅 - 国登録有形文化財
- 磯角商店主屋 - 国登録有形文化財
- 銚子の醤油醸造
- 玄蕃井戸 - ヒゲタ醤油の醸造用水
- ヤマサ醤油しょうゆ味わい体験館 - 工場見学ツアー、煎餅焼き体験、歴史資料・道具展示など
- ヒゲタ醤油史料館 - 工場見学、フレスコ画・歴史資料・道具展示など
- 山十商店 - 発酵調味料「ひ志お」を製造
- 小倉醤油 - 杉樽を用いた伝統製法で醤油を醸造
- 銚子の磯巡り - 江戸期に東国三社詣のオプショナルツアーとして流行した、銚子海岸の奇岩奇勝が生み出す景観を巡る銚子周遊の小旅行
-
円福寺(飯沼観音)
-
妙福寺
-
磯角商店主屋
-
ヤマサ醤油工場のオットー機関車
- 犬吠埼 - 日本一早い初日の出を拝むことが出来る関東最東端の岬
- 君ヶ浜 - 日本の渚100選に選定された白砂青松の海岸
- 海鹿島 - 明治大正期に文人墨客の別荘が立ち並んだ保養別荘地
- 思咢庵 - 銚子咢堂会によって建てられた尾崎行雄の別荘
- 思咢庵美術館 - 尾崎行雄の遺品や書画骨董を収蔵(個人所有のため非公開)
- 潮光庵 - 小川芋銭別邸、アトリエとして頻繁に使用された
- 長崎鼻 - 銚子半島東海岸の最南端の岬
- 銚子大橋 - 利根川河口に架かる全長1.5kmの斜張橋
- 銚子電気鉄道 - 1923年(大正12年)創業の銚子市街と外川を結ぶノスタルジックなローカル線。ぬれ煎餅で知られる
- ヤマサ醤油煉瓦蔵 - ヤマサ醤油本社西側に1915年(大正4年)から1923年(大正12年)にかけて仕込蔵増設時に建設
- 飯沼陣屋跡 - 江戸時代に高崎藩の郡奉行と代官が派遣常駐した
- 中島城(海上城) - 戦国時代に銚子地方を支配した海上氏の居館として築かれた平城
- 粟島台遺跡 - 縄文時代の琥珀装飾品の生産拠点、漆塗り土器も出土
- 余山貝塚 - 縄文時代後期から晩期の遺跡、考古学界で古くから著名であった
- 野尻古墳群 - 前方後円墳一基、円墳八基、方墳三基からなる
- 千人塚 - 古くからの難所であった利根川河口での遭難者供養のために築かれた塚
- 美加保丸遭難の碑 - 1868年(慶応4年)に幕府の艦隊8隻が銚子沖で座礁・沈没。犠牲者を悼む地元有志によって遭難碑が建てられた
-
犬吠埼灯台
-
君ヶ浜(日本の渚百選)
-
長崎鼻一ノ島照射灯
寺社
レジャー
- 銚子マリーナ - 名洗港内に1999年(平成11年)にオープンした本格的マリーナで、海浜緑地公園や人工ビーチと併せて海洋性レクリエーション基地
- 地球の丸く見える丘展望館 - 下総最高峰の標高72.6mに位置する展望台。地球の丸く見える丘ふれあい広場も併設
- 水産ポートセンター - 銚子ポートタワー・ウオッセ21・水産研究センターからなる複合施設
- 君ヶ浜しおさい公園 - 自然との調和と環境保全を基本として整備された海浜公園
- 河岸公園 - 銚子大橋を眺めるビューポイント
- 犬吠テラステラス - カフェやショップ、地元野菜マルシェなどが入った商業施設
- ハーブガーデンポケット - ツリーハウス、グリーンショップ、ドッグランを併設した海辺のハーブ園
- 銚子海洋研究所 - 銚子沖合でのホエールウォッチングやイルカウォッチング
- 屏風ヶ浦シーカヤック
- レインボーヒルズカントリークラブ - 27コースを有する林間のゴルフ場
海水浴場
- 海鹿島海水浴場 - 周りを岩礁に囲まれたプール状の海水浴場
- 長崎海水浴場 - 沖合に岩礁を積んだ犬吠埼灯台を望む海水浴場
- 銚子マリーナ海水浴場 - 屏風ヶ浦を背にした海水浴場
温泉
銚子と文学
江戸時代の文化・文政期頃から多くの文人墨客が銚子に来遊し、銚子の海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛など変化に富んだ明媚な風光を和歌・俳句、漢詩に詠み、あるいは文に記し絵にして、多くの作品を残した。大正時代以降は避暑地として、皇族、政治家、財界人、作家、画家が別荘を構えて滞在した。竹久夢二の「宵待草」や高村光太郎の「智恵子抄」の舞台としても知られる。現在、市内には歌碑、詩碑が多く立つ[79]。以下、代表作一覧。
- 松尾芭蕉「枯枝に からすのとまりけり 秋の暮」
- 小林一茶「此臺の清風たゝちに心涼しく西方仏土もかくあらんと 本とゝす 爰をさること 遠からす」
- 国木田独歩「なつかしき わが故郷は 何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」
- 竹久夢二「まてど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ今宵は月も出ぬさうな」
- 小川芋銭「銚子灘朝暾 大海を 飛びいつる如と 初日の出」
- 尾崎咢堂「朝またき 彼方の岸は アメリカと 聞て瓜立つ おはしまのはし」(瑞鶴荘にて)
- 高浜虚子「犬吠の 今宵の朧 待つとせん」
- 佐藤春夫「ここに来て をみなにならひ 名も知らぬ草花をつむ みづからの影踏むわれは 仰がねば 燈台の高さを 知らず 波のうねうね ふる里のそれには如かず ただ思ふ 荒磯に生ひて 松のいろ 錆びて 黝きを わが心 錆びて黝きを」
- 源俊頼「磐はしる 外川の滝の むすぶ手も しばしはよどむ 淀むせもあれ」
財団法人公正會
ヤマサ醤油10代目当主濱口儀兵衛は、地域への報恩のため1925年(大正14年)に私財を投じ、銚子に財団法人公正會を設立した。1926年(大正15年)に開館した公正會館は鉄筋コンクリート2階建の建物で、公正會の活動拠点として利用され、銚子における文化の殿堂となった。建物内にはステージ付きホールや図書室があるほか、夜間中学である公正學院を開くなど当時としては先進的な社会教育事業が行われた。また、各界一流人を招いた講演会やオーケストラ演奏会も頻繁に催された。「公正」という名前には、私事を捨て大衆を基とし、最も公平に正しく運営するという理念が込められているとされた。1945年(昭和20年)3月の銚子空襲により街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は奇跡的に残った。戦後は市に寄付され、1983年(昭和58年)まで市立図書館として利用された[80] 。
スポーツ
野球
銚子市の千葉県立銚子商業高等学校は春8回、夏12回という千葉県最多の全国高等学校野球選手権大会出場記録を保持しており、全国制覇の経験もある高校野球の名門校。その豪快な打線は「黒潮打線」と呼ばれ、名将・鈴木源三郎、斉藤一之監督の指導の下、木樽正明、篠塚和典、宇野勝ら20人ものプロ野球選手を輩出した[81]。
2019年(令和元年)には木樽正明により野球チームが結成され、銚子スポーツタウンを拠点に活動している。
祭事・催事
- 常灯寺初薬師 - 年に一度の重要文化財・木造薬師如来坐像の御開帳
- 漕出式 - 海の安全と豊漁を願い大漁旗を掲げた船を漕ぎ出す伝統儀式
- 銚子半島一周駅伝 - 早春の銚子半島で行われる中学生対抗の駅伝大会
- 菅原大神祭礼 - 奉納されている子産石は抱くと子宝に恵まれるという言い伝えがある
- 妙福寺藤まつり - 境内の「臥龍の藤」が見頃を迎える初夏に開催される
- 大潮まつり - 旧暦6月15日に執り行われ、漁師を始めとした漁業関係者が神輿を担ぐ
- 浅間神社祭礼 - 露店150軒以上が並び、多くの参拝客で賑わう
- 銚子みなとまつり - 利根川河畔の約5,500発の花火が打ち上がる花火大会や、神輿が銚子市役所前から銚子銀座通りを通って飯沼観音まで練り歩くみこしパレードが行われる
- 銚子農産まつり・銚子水産まつり - 銚子の海産物や農産物の直売所が出店、さんま焼き体験などのイベントも開催される
- 銚子さんまマラソン - 海岸線のコース、炭火焼きサンマの無料配布・サンマのつかみ取りも行われる
- 黒潮よさこい祭り - 全国60チームが市内各所で演舞を行い優勝を競う、銚子市民主催の祭りで、名産品マルシェ、軽トラ市、ブランド肉祭りなどの各種イベントも同時開催される
- 銚子マルシェ - グルメや地元野菜の販売の他ワークショップなどが開催される
- 東大社銚子大神幸祭 - 1102年(康和2年)に始まり、20年に一度東大社、雷神社、豊玉姫神社の三社が外川浜へ御渡しを行う
民俗・芸能
- 銚子大漁節 - 1864年(元治元年)に豊漁を祝って作られた銚子を代表する民謡で、銚子では盆踊りや宴席などでも披露される
- 銚子はね太鼓 - 江戸時代から銚子に伝わる豪快な祭り太鼓
- 銚子弁 - 銚子の方言は紀州からの移民による関西系の言葉や水運の発展に伴う東北系の言葉、対岸の茨城の言葉など各地の言葉が入り混じっており、言葉の響きが重く、言葉の末尾に「べ」や「ぺ」を用いる他、濁音が多いことが特徴で、威勢のよい漁師言葉であるとされる
- 海亀の墓 - 亀が漁網にかかると酒をふるまい海に帰し、万一釣針にかかって死んだ時は、立派な墓を作り敬うという習わしがあり、妙福寺や長崎、恵比須山などに「亀墓」が見られる
- 生切り - 新年最初に漁船を出すことを「生切り」と呼び、銚子では生切りをつとめた船は不祥なことが起こるという言い伝えがあったため、各漁船の乗組員が生切りを避けようとしなかなか船を出すことができず、漁業組合は奨励金を出し抽選で第一船を決めていた
- 川施餓鬼 - 毎年一回、川口の千人塚で行われる海難事故犠牲者の慰霊と供養の儀式
名産・特産品
- 銚子つりきんめ - 一本釣り漁法により1尾ずつ丁寧に釣り上げられる高級魚
- 銚子の入梅いわし - 6月から夏場にかけての梅雨時に獲れるマイワシ
- 磯がき - 夏場が旬
- 灯台キャベツ - 「ちばエコ農産物」指定、銚子の春キャベツは日本一の収穫量
- 銚子メロン - 糖度16度以上の金印で、「第16回日本農業賞」を受賞
- 清酒 - 石上酒造「銚子の誉」[82]、小林酒造場「祥兆」」[83] など
- 醤油 - 江戸時代初期に紀州から製法が伝わり、ヤマサ醤油、ヒゲタ醤油、宝醤油、小倉醤油が醤油を製造している
- ひ志お - 大豆と大麦から麹を作り、1年以上熟成させて作る発酵調味料
- ぬれ煎餅 - 焼いた煎餅を熱いうちに醤油に浸し、しっとりした食感をもたせたもの
- 銚子伊達巻寿司 - 明治初期に細工寿司として考案された、分厚い厚焼き玉子焼きを半月状にして太巻き寿司の上に乗せた郷土料理
- 海藻こんにゃく - ツノマタやコトジツノマタを煮溶かして固めたもの
- 佃煮 - イワシ、カツオ、サンマなどを醤油で煮込んだもの
- なめろう - おろした魚に味噌や香味野菜を一緒にたたき合わせて作る漁師料理
- さんが焼き - なめろうを焼いたもの
- 木の葉パン - 古くから伝わる郷土菓子
- 今川焼 - 飯沼観音門前名物
- 犬吠の月 - 1973年(昭和48年)に昭和天皇への献上菓子として誕生
- いわしサブレ - イワシの水揚げ量日本一の銚子にちなんで作られた菓子
- 味噌ピーナッツ - 落花生にハチミツ入り味噌を絡めたもの
- 水産缶詰 - サバカレー、イワシ、サンマ蒲焼など
- 練り物 - 磯揚げ、はんぺん、かまぼこなど
- 宮内庁御用達
-
ぬれ煎餅の実演販売(犬吠駅)
-
ヤマサ醤油1919年の広告
伝統工芸品
- 千葉県指定伝統的工芸品
- 銚子萬祝式大漁旗 - 江戸時代からの技術を継承した大漁旗染物
- 銚子縮 - 千葉県指定無形文化財、千葉県指定伝統的工芸品第一次第一号指定の織物
- 籐製品 - 素材から製品まで手作業で作成される
文化財
国・千葉県指定および国登録文化財一覧[84]。
番号
|
指定・登録
|
類別
|
名称
|
所在地
|
所有者または管理者
|
指定年月日
|
備考
|
1
|
国指定
|
重要文化財(建造物)
|
犬吠埼灯台(灯台、旧霧笛舎、旧倉庫)
|
銚子市犬吠埼
|
国(海上保安庁)、公益社団法人燈光会
|
令和2年12月23日
|
1基、2棟
|
2
|
重要文化財(彫刻)
|
木造薬師如来坐像
|
銚子市常世田53-1
|
常灯寺
|
昭和34年6月27日
|
1躯
|
3
|
重要文化財(工芸品)
|
鐃
|
奈良国立博物館
|
円福寺
|
昭和34年6月27日
|
1口
|
4
|
記念物(名勝及び天然記念物)
|
屏風ケ浦
|
銚子市春日町744-1他
|
銚子市・千葉県・国
|
平成28年3月1日
|
|
5
|
記念物(天然記念物)
|
犬吠埼の白亜紀浅海堆積物
|
銚子市犬吠埼9578-10他
|
銚子市・国
|
平成14年3月19日
|
|
6
|
県指定
|
有形文化財(建造物)
|
猿田神社本殿
|
銚子市猿田1677
|
猿田神社
|
昭和30年12月15日
|
1棟
|
7
|
常灯寺本堂
|
銚子市常世田町53-1
|
常灯寺
|
昭和54年3月2日
|
1棟
|
8
|
海上八幡宮本殿
|
銚子市柴崎1-17
|
海上八幡宮
|
平成2年3月16日
|
1棟
|
9
|
有形文化財(彫刻)
|
木造薬師如来立像
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銚子市岡野台町2-473
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等覚寺
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平成元年3月10日
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1躯
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10
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木造薬師如来立像
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銚子市岡野台町2-473
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等覚寺
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平成元年3月10日
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1躯
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11
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木造菩薩立像
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銚子市岡野台町2-473
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等覚寺
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平成元年3月10日
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1躯
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12
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有形文化財(工芸品)
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梵鐘(享徳十一年在銘)
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銚子市馬場町293-1
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円福寺
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昭和42年3月7日
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1口
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13
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釈迦涅槃図
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銚子市馬場町293-1
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円福寺
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平成3年2月15日
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1幅
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14
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有形文化財(古文書)
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天正検地帳
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銚子市ほか
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銚子市ほか
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昭和57年4月6日
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18件・71冊
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15
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有形文化財(考古資料)
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金銅経筒(建長四年在銘)
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銚子市岡野台町2-473
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等覚寺
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昭和60年3月8日
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1合
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16
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無形文化財
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銚子縮
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銚子市松岸町
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常世田眞壱郎
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平成13年3月30日
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17
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記念物(天然記念物)
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渡海神社の極相林
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銚子市高神西町2
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渡海神社
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昭和34年4月24日
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18
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猿田神社の森
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銚子市猿田1675-21他
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猿田神社
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昭和49年3月19日
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19
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犬吠埼産出のアンモナイト
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銚子市前宿町1034
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銚子市
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平成18年3月14日
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5標本6点
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20
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国登録
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登録有形文化財(建造物)
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内野家住宅洋館
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銚子市長山町2034
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個人
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平成11年7月8日
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1件
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21
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磯角商店主屋
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銚子市飯沼町186
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個人
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平成26年4月25日
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1件
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22
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滑川家住宅主屋ほか
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銚子市野尻町27-1
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個人
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平成29年6月28日
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2件
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23
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旧西廣家住宅(治郎吉)主家ほか
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銚子市川口町1-6271
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株式会社ランス
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平成30年3月27日
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5件
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24
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石上酒造米藏ほか
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銚子市田中町7-1
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個人
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平成30年3月27日
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5件
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出身著名人
政治家・官僚
実業家
学術
文化・芸術
芸能・マスコミ
スポーツ
銚子市を舞台とした作品
文学
楽曲
君ヶ浜の風景を詠んだ歌人は多いが、ポップスの歌詞のモチーフにもされている。
MV撮影
屏風ヶ浦では、多数のプロモーション用ミュージックビデオが撮影されている。
映画
テレビドラマ
アニメ
- 『アマガミSS』(2010年、TBS系列)、『アマガミSS+ plus』(2012年、TBS系列) - 作品舞台は架空の街「輝日東(きびと)」であり、公式には案内されていないが、銚子市内の風景や実在施設をモデルとした背景画が度々登場する。一例として、主人公達が通う「輝日東高校」校舎は、銚子市立銚子高等学校を作画モデルとしている。
- 『セイレン』(2017年、TBS系列) - 「輝日東高校」は『アマガミ』に登場した高等学校。前作から9年が経過しているが、校舎の外観や敷地内の風景などはほとんど変わっていない。
脚注
注釈
- ^ a b 山岳や離島を除く平地。
- ^ 徳利ではない。
出典
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
銚子市に関連するメディアがあります。
- 行政
- 観光