インドとパキスタンの関係 は、多数の歴史的・政治的事件により、複雑で全体として敵対的な関係である。両国の関係をまず決めたのは1947年の強引なインド・パキスタン分離独立 であり、それによってカシミール紛争 が始まったほか、両国間では印パ戦争 など何度もの紛争が起き、その結果両国の関係は敵意と疑念に包まれている。北インドとパキスタンは、人口構成 や共通言語 (主にパンジャーブ語 とヒンドゥスターニー語 )において多少重なる部分がある。
概要
1947年にイギリス領インド帝国 が解消すると、二つの新しい主権国家(インド連邦 とパキスタン )が建国された。旧イギリス領インド帝国のその後の分裂によって、最大1250万人が故郷を離れざるを得なくなり、推定数十万から100万人まで死者を出した[ 1] 。人口で多数派を占めるムスリム (英語版 ) と大きな少数派のヒンズー教徒 (英語版 ) のいるパキスタン が後にイスラム共和国になった(ただし憲法はいかなる宗教にも信教の自由 を保証している)一方で[ 2] 、インド は人口で多数派を占めるヒンズー教徒 (英語版 ) と大きな少数派のムスリム のいる世俗国家 (英語版 ) としてまとまった[ 3] 。パキスタンは後に、移民の流出と、バングラデシュ独立戦争 による東パキスタン分離独立 (英語版 ) によって、少数派ヒンズー教徒のほとんどを失った。
独立して間もなくインドとパキスタンは公式の外交関係を樹立したが、乱暴な分離と数多くの領土問題は、両国の関係に暗い影を投げかけることになる。独立以降の両国は3つの大きな戦争 や一つの宣戦布告なき戦争 のほか、無数の小競り合いや軍事的対立を経験している。これら紛争の中心となったのはカシミール紛争 であるが、例外として第三次印パ戦争 や、東パキスタン (今のバングラデシュ )の分離につながったバングラデシュ独立戦争 もあった。
関係改善の試みは数多く行われている(有名なところではシムラー協定 やアグラサミット (英語版 ) 、ラホール宣言 (英語版 ) がある)。1980年代前半以降両国関係はシアチェン紛争 (英語版 ) や1989年のカシミール暴動 (英語版 ) の激化、1998年のインド とパキスタン の核実験、1999年のカルギル戦争 によって特に険悪になった。一部の信頼構築手段 (英語版 ) は(2003年の停戦合意やデリー・ラホール間バス (英語版 ) のように)事態の沈静化に成功した。しかしこういった努力は断続的なテロ攻撃によって妨害されている。2001年のインド議会攻撃 (英語版 ) では両国はほとんど核戦争の瀬戸際 (英語版 ) まで行った。また民間人68人(ほとんどはパキスタン人)が死亡した2007年のサムジャウタ急行爆破 (英語版 ) も両国関係における大きな転回点であった。パキスタンの武装勢力によるムンバイ同時多発テロ は当時進行中のインド・パキスタン和平会談に対して深刻な打撃 (英語版 ) となった[ 4] 。
両国の新政権選挙が済んでからの僅かな雪解け期間が終わると、両国の対話はまたも2016年のプサコット襲撃事件 (英語版 ) によって行き詰まった[ 5] 。2016年9月、インドが管轄するカシミールでのインド軍基地に対するテロ攻撃 (英語版 ) ではインド陸軍 兵士19名が死亡し、これは近年において最悪の被害者数である。インド側は、襲撃はパキスタンが支援するジハーディスト (英語版 ) 集団が起こしたものと主張したが、パキスタン側はこれを否定し、襲撃はインド治安部隊による過度の力の行使が原因となった地域の騒乱 (英語版 ) に対する現地の反応だったとしている。この襲撃は管理ライン (Line of Control) をはさんでの軍事衝突 (英語版 ) を引き起こし、停戦協定違反とさらなるインド治安部隊に対する武装勢力の襲撃 (英語版 ) が増大した。2016年以来、絶え間ない衝突、継続的なテロ攻撃、両国での民族主義的発言の増大によって両国関係は崩壊し、関係修復の可能性がほとんど見えていない[ 6] [ 7] 。特に2019年プルワマ襲撃事件 の後でインド政府は1996年にパキスタンに保証したパキスタンの最恵国待遇 を廃止した[ 8] 。インドも主にパキスタン製のアパレル製品とセメントの貿易に対する関税率を200%に引き上げた[要出典 ] 。
2010年代前半のインドとパキスタン両国の新政権の選挙以降、関係改善の試みもいくつかあった。特に互いに貿易を自由化する互恵原則に基づく無差別市場参加 (NDMARB)の合意に向けてのコンセンサスの発展がそうである[ 9] 。インドとパキスタン両国は、南アジア地域協力連合 と南アジア自由貿易地域 (英語版 ) に加盟している。パキスタンは大人数を集める毎年のインド国際見本市にずっとパビリオンを出展してきた[ 10] 。しかし両国関係の悪化によって、パキスタンの貿易会社は出展を拒否されるようになった。
2015年11月、新しいインドの首相ナレンドラ・モディ とパキスタンの首相ナワーズ・シャリーフ は、両国の交渉再開に合意し、翌月モディ首相は、インドへの帰途にパキスタンを短期間予定外で訪問し、2004年以来パキスタンを訪れた最初のインド首相となった[ 11] 。こういった努力にもかかわらず、両国関係は国境を越えて繰り返されるテロリズム 活動のせいで依然として冷たいものになっている。2017年のBBCワールドサービス の世論調査によると、インド人のうちパキスタンの影響を肯定的に見ているのは5%のみで85%は否定的であり、一方でパキスタン人のうちインドの影響を肯定的に見ているのは11%、否定的に見ているのは62%であった[ 12] 。
2019年8月、ジャンムー・カシミール連邦直轄領 の特別な地位を廃止する (英語版 ) インドの国会 でのジャンムー・カシミール連邦直轄領再編成法 (英語版 ) 改正を受けて[ 13] [ 14] 両国間にさらに緊張が高まった。パキスタンは外交関係を格下げし、領空を封鎖し、インドとの二国間貿易を中断した[ 15] 。
両国の比較
独立時に生まれた紛争の種
議論にふけるムハンマド・アリー・ジンナー とマハトマ・ガンディー 。有名な写真で、最近クルワント・ロイ (英語版 ) の作品と判明した。
インド・パキスタン分離独立 に続いた各地の暴動で、数十万人のムスリムとヒンドゥー教徒が死んだ。インドに暮らすムスリムとパキスタンに暮らすヒンドゥー教徒やシク教徒 数百万人の移住は、現代において最大級の人口移動であった。両国は自国領を通って移住する少数民族に十分な安全を提供していないと非難し合った。これは新たに生れた両国間の緊張を高める要因となった。
イギリス領インドの分離独立にあたってのイギリスの計画では、680あった藩王国 はそれぞれ2つの国のどちらに加わるかを自ら選べるようになっていた。少数の例外があるものの、ヒンドゥー教徒が多数を占める藩王国のほとんどはインドに加わり、他方ムスリムが多数を占める藩王国のほとんどはパキスタンに加盟した。しかしこの時の一部の藩王国の判断が、後にパキスタン・インド関係に強い緊張をもたらすことになる。
ジュナーガド問題
ジュナーガドは現代のグジャラート州サウラシュトラ地域 (英語版 ) の一部である。
ジュナーガド はグジャラート州 の南西端の県で、マナヴァダール公国 (英語版 ) 、マングロル公国 (英語版 ) 、バブリアワード公国 (英語版 ) の3公国があった。ジュナーガドはパキスタンに隣接しておらず、間に他の県がいくつもはさまっていた。住民は圧倒的にヒンドゥー教徒が多く80%を占めていたが、統治者ナワブ (英語版 ) ・マハバート・カーン (英語版 ) はムスリムであった。マハバート・カーンは1947年8月15日にパキスタンに加盟した。パキスタンは1947年9月15日に加入を最終的に承認した。
インドはこの加入を正当なものと認めなかった。インドの立場は、ジュナーガドはパキスタンに隣接しておらず、多数を占めるジュナーガドのヒンドゥー教徒はインドへの加入を欲しており、この県は3方をインド領に囲まれているというものであった。
パキスタンの立場は、ジュナーガドには統治者と政権があってそれがパキスタンへの加入を選択したのだから、それが認められるべきだというものであった。またジュナーガドには海岸線があるため、インド国内の飛地 としてパキスタンとの海運を維持できた。
両国ともこの問題を平和的に解決できず、すでに熱気を帯びた状況を悪化させただけであった。ヴァッラブバーイー・パテール (インドの内務大臣 (英語版 ) )は、ジュナーガドのパキスタン加盟を認めてしまったら、グジャラート州全体に騒乱が起きるおそれがあると感じていた。インド政府はグジャラート州での暴動を予防するために、パキスタンに同意をいったん無効にし住民投票 を行う猶予を与えた。サマルダス・ガンジー (英語版 ) はジュナーガドの人民の亡命政府としてArzi Hukumat (ウルドゥー語 でArzi は「移行の」、Hukumat は「政府」)を樹立した。パテールはジュナーガドの3公国の併合を命じた。
インドはジュナーガドへの燃料と石炭の供給を絶ち 、航空と郵便を遮断し、県境に部隊を派遣し、すでにインドに加盟していたマングロル公国 とババリアワード公国を占領した[ 38] 。10月26日、インド軍との衝突が起こると、ジュナーガドのナワブと家族はパキスタンに逃げこんだ。11月7日、崩壊に直面するジュナーガドの宮廷は、インド政府に国の行政を引き継ぐことを依頼した。ジュナーガドのデワン(シャー・ナワーズ・ブットー (英語版 ) 卿、有名なズルフィカール・アリー・ブットー の父)は、インド政府 に介入を依頼することに決心し、インド政府のサウラシュトラ (英語版 ) 地域代表ブッチ氏にその旨の書簡を送った[ 39] 。パキスタン政府 (英語版 ) は抗議した。インド政府はパキスタンの抗議を却下し、デワンの求めに応じて介入を決めた[ 40] 。インド軍は1947年11月9日にジュナーガドを占領した。1948年2月には住民投票が行われ、ほぼ全員一致でインドへの併合が支持された。しかしながら、パキスタンはインドによるこの併合を正式には認めておらず、パキスタン国内の地図ではジュナーガドもパキスタン領となっているものが存在する[ 41] 。
カシミール紛争
カシミール はムスリムが大半を占める王侯国だが、統治するのはヒンドゥー教徒の王マハーラージャ ・ハリ・シング であった。インド・パキスタン分離独立 の時、国の統治者マハーラージャ・ハリ・シングは独立を保つことを望み、インド連邦 にもパキスタン にも参加したがらなかった。インドとパキスタンの両国が王侯国を独立した中立国と認めてくれることを望んでいたのである[ 42] 。
パキスタンとの停戦合意 (英語版 ) があったにもかかわらず、パキスタン軍の一部がカシミールに派遣された。パキスタンの民兵組織の支援を受けて、パシュトゥーン人 のマースード (英語版 ) 族が[ 43] 1947年10月に「グルマーグ作戦 」の名の下にカシミールに侵攻し、同地を占領しようとした。部隊は10月25日にバーラームーラ (英語版 ) に到達し確保した。そしてわずか50km先のシュリーナガルに進めば無防備な飛行場を確保できたのにそうしようとせず、数日間バーラームーラに留まった。カシミールの保安部隊は、弱体で装備も貧弱なためパキスタン軍とは戦えないことが判明した。マハーラージャはこの侵攻がパキスタンへの併合につながることを恐れてインドに接触し、カシミールを守る部隊の派遣を要請した。インドのネール首相は部隊を送る準備をしたが、インドの副総督ルイス・マウントバッテン卿 は、インドが部隊を送る前にインドに加盟するようマハーラージャに助言した。そこで彼は、猶予を許さない事態に鑑みて1947年10月26日にインド連邦に加盟する証書に署名した。
チャールズ・チェネヴィクス・トレンチ (英語版 ) は著書『The Frontier Scouts』(1985年)でこう書いている。
1947年10月…部族兵はトラックに乗って(明らかに公式の補給支援を受けながら)カシミールに入った…この作戦には少なくともイギリスの将校1名、ハーヴィー・ケリーが参加していた。この部族民部隊がきわめて重要な飛行場のあるシュリーナガルを奪取することを防ぐものは何もないようだった。たしかにそうだったのだ、彼ら自身の欲以外には。特にマースード族は略奪や強姦、殺人にふけって時間をむだにした。その間にインド軍が空輸され、部族兵はカシミールの盆地から山岳地帯へと押し出された。マースード族は殺伐とした雰囲気で帰国した――楽勝のチャンスを逃し、シュリーナガルでの略奪もできず、物笑いの種になったのだ。
パキスタンのムハンマド・アクバル・カーン (英語版 ) 将軍によると侵攻部隊は「なにか不明の理由でバーラームーラで(丸)二日を無駄にした」[ 44] 。
侵攻したパキスタン軍が州内に展開し、州都シュリーナガルからわずか50kmのバーラームーラを1947年10月25日から数日間略奪する一方で、マハーラージャは1947年10月26日にインド自治領への加入証書 (英語版 ) に署名した。シェイク・ムハンマド・アブドゥラは、すでにその前日10月25日にデリーに到着し、軍を送るようネルーを説得にかかっていた。彼は同州が直面する危険について率直に話し、すぐに加入を承認し、インド軍を迅速に同州に派兵するようネルーに求めた。(シェイク・アブドゥラは著書『Aatish-e-Chinaar』の中でこの話を裏付け(416ページと417ページ)、さらにV.P.メノン (英語版 ) が署名した加入証書を携えて10月26日にデリーに戻ったと記録している(417ページ))[ 45] 翌1947年10月27日、インド総督 は証書を受領承認した。マハーラージャの署名と総督の受領承認によって、ジャム・カシミール王侯国は、イギリス議会が可決した1947年インド独立法 (英語版 ) に従ってインド自治領の一部となった。
この時までに侵攻部隊は州都シュリーナガル に迫っていたが、インド軍がデリーから空輸され、1947年10月27日にカシミールのシュリーナガル空港に着陸し、空港を確保した後、続いて侵攻部隊をカシミール盆地から排除した。
インド軍はカシミール各地からの侵攻部隊をなんとか撃退したが、冬が始まると同州の多くの場所が通行不能になった。パキスタンとインドの激しい戦いが何週間か続くと、パキスタン指導部とネルー首相は停戦を表明し、住民投票 の約束をして国際連合 の調停を要請した。1957年、カシミール北西部は完全にパキスタンに統一され、アザド・カシミール (パキスタン統治下のカシミール)となった。その後1962年には、中国がラダック に接する北東部国境地帯のアクサイチン を占領した。また1984年、インドはメグドゥート作戦 (英語版 ) を開始し、シアチェン氷河 の8割以上を確保した。
パキスタンは現在、住民投票 によるカシミールの民族自決権を支持し、約束された住民投票でカシミール住民の運命を決めるべきだとしている。一方のインドは、マハーラージャが加入証書に署名した以上、カシミール全域がインドと一体になったと主張している。
こうしたさまざまな政治的相違のため、この地域の領有をめぐって1947年 と1965年 の戦争、さらに1999年にも紛争 が起きている。カシミール州は今も、1947年の紛争で合意された停戦ラインである管理ライン (LoC: Line of Control)(1972年のシムラー協定 で一部修正)によって2つの国に分断されたままである。
戦争、紛争、論争
インドとパキスタンは、独立時から多数の紛争を戦っている。両国間には3つの大きな戦争、即ち1947年と1965年の戦争、1971年のバングラデシュ独立戦争があった。加えて1999年の非公式なカルギル戦争 と何件かの国境での小戦闘があった。
第二次印パ戦争
第二次印パ戦争は、1965年4月から1965年9月にかけて生じた複数の小戦闘と、パキスタンのジブラルタル作戦 (英語版 ) によって始まった。この作戦は、ジャンム・カシミール に部隊を浸透させて、インドの統治に対する暴動 を起こさせようとしたものである[ 46] 。インドは報復として、西パキスタン への本格的な軍事攻撃を開始した。17日間の戦闘で双方とも数千人の損害を受け、第二次世界大戦以来最大の装甲車両による戦闘、最大の戦車戦が起こった。ソビエト連邦とアメリカ合衆国による外交的介入によって国際連合 主導の停戦が成立し、続くタシケント宣言 (英語版 ) の発出によって両国の戦闘行為は終わった[ 49] 。戦闘のほとんどは双方の歩兵 および機甲 部隊どうしで戦われ、空軍もかなりの支援を行ない、また海戦も行われた。
第三次印パ戦争
第三次印パ戦争 でパキスタンが敗れてパキスタンの降伏文書 に署名するパキスタンのニアジ (英語版 ) 中将
独立してからのパキスタンは、地政学的に二つの地域(西パキスタン と東パキスタン )に分かれていた。東パキスタンに住むのはほとんどがベンガル人 であった。東パキスタンの政治危機に続いて、1971年12月のパキスタンの軍事作戦 (英語版 ) とベンガル人に対する虐殺 が起こると、すぐに東パキスタンの状況は制御不能となり、インドが反乱を起こしたベンガル人に味方して介入を始めた。この短いが激しい戦争は、東パキスタンの独立をもたらした。この戦争でインド陸軍 は三方向から東パキスタンに侵攻し、同時にインド海軍 は空母ヴィクラント を使って東パキスタンの海上封鎖を行った。この戦争ではインド海軍による初めての敵港湾への攻勢作戦、トライデント作戦 (1971年) (英語版 ) とパイソン作戦 (英語版 ) が行われ、カラチ港が二度攻撃された。この攻撃でパキスタンの海軍戦力は相当部分を失ったが、インド側の艦船喪失はなかった。しかしフリゲートINSククリ (F149) (英語版 ) がパキスタン潜水艦の魚雷攻撃を受け、インド海軍は一隻を失うことになった。東パキスタン侵攻から13日後、9万人のパキスタン軍人がインド陸軍 とムクティバヒニ (英語版 ) に降伏した。パキスタン軍が降伏すると、東パキスタンは独立国バングラデシュ になった。
カルギル戦争
1998年-1999年の冬、インド陸軍は例年と同じように、カシミール のカルギル (英語版 ) 地方の非常に高い山頂の駐屯地から撤退していた。パキスタン陸軍 は管理ラインを越えてこれら駐屯地を占領した。インド陸軍は雪が溶けた1999年5月にこのことに気付いた。その結果インドとパキスタン両軍部隊の激しい戦闘が発生し、これがカルギル戦争 と呼ばれている。インド陸軍はインド空軍の支援を受けて、パキスタンが占領していた駐屯地の多くを奪回した。パキスタンは国際的な圧力と多くの死傷者により残りの駐屯地からも後に撤退した。
他の領有権争い
シアチェン氷河 やコリ湾 (英語版 ) など他の領有権争いでも関係は膠着している。
水域を巡る論争
インダス川水域条約 (英語版 ) はインドからパキスタンに流入する川を管理している。水は両国の武力紛争の原因ともなり得ると指摘されたことがあるが、現在までのところニムーバズゴ水力発電所 (英語版 ) のような問題は、外交を通じて解決されている[ 50] 。
ベンガル難民危機(1949年)
1949年、インドは、共同体での暴力、脅迫、当局の抑圧のために東パキスタン (現在のバングラデシュ)から西ベンガル州 などの州に流れ込んだ100万人に迫るヒンドゥー教徒の難民を記録した。難民の状況はヒンドゥー教徒やインドの民族主義者を憤慨させたし、難民を吸収しきれないインドの各州において資金上の負担となった。ネルー首相とサルダル・パテルは、戦争の可能性も否定しないまま、交渉のためにリアカット・アリー・カーン をデリーに招いた。多くのインド人がこのことを宥和政策と呼んだが、ネルーはカーンとともに、両国が少数民族の保護と少数民族委員会の創設を約束する条約に署名した。カーンとネルーは通商条約にも署名し、平和的な手法で双方の紛争を解決すると約束した。数十万人のヒンドゥー教徒がじょじょに東パキスタンに帰還したが、両国の関係におけるこの雪解けは、主としてカシミール紛争 のために長くは続かなかった。
アフガニスタン
アフガニスタンとパキスタンも、国境(デュアランド・ライン )を巡り歴史的に対立してきた。歴代のアフガニスタン政権はこのラインを国境として承認することを拒否してきた。このことは両国間に強い緊張をもたらし、さらには軍事衝突 (英語版 ) まで引き起こしたが、ここではパキスタンが勝利した。パキスタンは、アフガニスタンがバルーチスターンの分離主義反徒 (英語版 ) を匿い、遠く1950年代からパシュトゥン人とバルーチスターン人の分離主義的傾向に資金援助しようとしてきたと以前から非難している。1970年代、ズルフィカール・アリー・ブットー の下でパキスタンは報復としてアフガニスタンのイスラム主義派閥を支援し始めたと考えられている[ 51] 。これらの派閥は、ソビエト連邦や南アジアの同盟国インドと友好的であったアフガニスタン政権に対して反抗的であることが判明した。
後にソビエト連邦は、アフガニスタンのイスラム主義者がさらに力を得て最終的に国権を奪取するのを防ごうと介入したが、これは後に大失敗に終わった。アメリカ合衆国とその同盟諸国は、ソ連が直接にアフガニスタンに関与することを恐れて、ソ連の力を削ごうとアフガニスタン国内のムジャヒディンに対するパキスタンの支援に手を貸し始めた。1978年からのアフガニスタン紛争 では、すべての勢力が大きな損害を受けて手詰まり状態になり、ソ連にとって大きな損失となった。国際合意に従ってソ連は撤退した。しかしさまざまなアフガニスタンの派閥は、誰が権力を握るかについて一致できず、互いに、またソ連やイラン、パキスタンなどの外部支援勢力とも戦った。
外部からの支援が続いたため、1989年からは内戦 に発展した。そこではパキスタンがターリバーン を支援して、アフガニスタン国内の利権を確保し戦略的支援を提供しようとしたのに対し、インドはじめ他の周辺国は北部同盟 を支援した。
ターリバーン がアフガニスタン紛争 において多くの地域で北部同盟を破ると、ターリバーン政権はパキスタンほか2か国から支援を受け続けた――そこに9月11日の攻撃 が起きた。インドは断固としてターリバーンに反対し、支援するパキスタンを批判した。インドは正式に国際連合 と共に北部同盟 の政権を承認し、北部同盟との関係を確固たるものにした。インドがパキスタンの隣国アフガニスタンとの関係 (英語版 ) を深め、同国内で存在感を増したことは、パキスタンを悩ませた。
カーブルでの2008年インド大使館爆破 (英語版 ) は、アフガニスタンのカーブル にあるインド大使館へのテロ としての自殺爆弾攻撃で、現地時間2008年7月7日午前8時30分に起こった[ 52] 。アメリカの諜報関係者は、この攻撃はパキスタンの軍統合情報局 が計画したものだと述べた[ 53] 。パキスタンはいかなる責任も否定しようとしたが[ 53] [ 54] 、ジョージ・W・ブッシュ 大統領はパキスタンのユースフ・ラザー・ギーラーニー 首相に証拠を突きつけ、もう一度同じような攻撃があれば「重大な行動」を取らねばならないと警告した[ 55] 。
パキスタンは、ジャンムとカシミールの暴動 (英語版 ) とアフガニスタンでのテロに関わっているとしてインドやアフガニスタン、アメリカ合衆国[ 56] [ 57] 、イギリスから非難されている[ 58] 。2009年7月、アースィフ・アリー・ザルダーリー 元パキスタン大統領は、パキスタン政府が短期的な外交目標を達成するために複数のテロ集団を「創設し養成していた」ことを認めた[ 59] 。2008年にブルッキングズ研究所 中東政策センター (英語版 ) が発表した分析によると、パキスタンはテロ集団を援助するなどテロ支援について世界で「最も活動的な」国であり、カシミール でインドと戦うさまざまなテロ集団を昔から援助してきたほか、アメリカを後ろ盾としたアフガニスタン政府と戦っているタリバンの主要な援助国でもある[ 60] 。
カシミールでの暴力事件(1989年-現在)
アメリカの外交問題評議会 が公表した複数の報告書によると、パキスタン軍と軍統合情報局(ISI)は、アルカーイダ の一員であるジャイシュ=エ=ムハンマド をはじめカシミール で活動するテロ集団への密かな支援を行った[ 61] [ 62] 。パキスタンは、カシミール でのテロ活動との関わりをいっさい否定し、インドの支配から逃れようとするl分離派 集団への政治的・精神的な支援をしているに過ぎないと主張している。カシミールの武装組織の多くは、カシミールのパキスタン支配地域 (英語版 ) に本拠を置いており、インド政府はこれを支援のさらなる証拠だとしている。
ジャーナリストのスティーブン・スレイマン・シュウォーツ (英語版 ) は、複数の武装組織や犯罪組織が「パキスタン軍の高官、諜報機関ISI、その他同国の軍事組織から支援を受けている」と記している[ 63] 。
暴力事件の例
ジャンム・カシミール州議会に対する暴動:2001年10月1日、ジャンム・カシミール州議会近くで自動車爆弾が爆発し、27人が死んだ。カシミール分離派によるものとされている。2001年12月のインド国会 に対する攻撃に次いで有名なインドに対する攻撃の一つであった。テロリストの遺体とそこから回収されたデータは、この攻撃の責任がパキスタンにのみあることを示していた[要出典 ] 。
カシムナガル攻撃:2003年7月13日、ラシュカレトイバ の一部と考えられる武装団がシュリーナガル のカシムナガル市場に手榴弾を投げ、近くの市民に発砲した。27人が死亡し、さらに多数が負傷した[2] 。
アブドゥル・ガニ・ロネ暗殺:有名な全党フリヤット会議の指導者がシュリーナガル の追悼デモのさなかに身元不明の男に暗殺された。この暗殺はロネ氏に対する十分な警護を行っていなかったとして駐留インド軍に対する広範な示威行動に発展した[3] 。
2005年7月20日のシュリーナガル 爆破事件:自動車爆弾が有名な教会通り付近のインド陸軍 装甲車の近くで爆発し、インド陸軍 軍人4人と市民1名、自爆者1名が死亡した。テロ組織ヒズブル・ムジャーヒディーン がこの攻撃に対して犯行声明を行った[4] 。
ブドシャーチョーク襲撃事件 :シュリーナガル の中心部ブドシャーチョーク付近で2005年7月29日のテロ攻撃で2人が死亡し17人以上が負傷した。負傷者のほとんどは、メディアの記者であった[5] 。
グラム・ナビ・ロネ殺害事件:2005年10月18日、容疑者が当時のジャンム・カシミール州教育相グラム・ナビ・ロネを殺害した。どこのテロ集団もこの襲撃事件に対する犯行声明を出さなかった[6] 。
2016年ウリ襲撃事件 (英語版 ) :2016年9月18日、インドのジャンム・カシミール州のウリ (英語版 ) 近くで、重装備のテロリスト4人によるテロ攻撃が発生、18人が死亡し20人以上が負傷した。「カシミールにおいてこの20年間で最悪の死者数を出した治安部隊への襲撃事件」と報じられた[ 64] 。
2019年プルワマ襲撃事件 :2019年2月14日、ジャンム・シュリーナガル国道で治安部隊を運ぶ車列が、インド・ジャンム・カシミール州プルワマ区アワンティポラ近くのレトポラで車に乗った自爆者に襲撃された。この襲撃事件で中央予備警察部隊(CRPF)員38人と襲撃者1人が死亡した。襲撃の犯行声明は、パキスタンに拠点を置くイスラム主義武装組織ジャイシュエモハメッドが行った[ 65] 。2月26日、インド空軍が報復として48年ぶりに管理ライン を超えてパキスタン国内への空爆(バーラーコート空爆 )を行った。
その他の暴力事件
パキスタンのテロリストが行ったとされる事件のうち、断然衝撃が大きかったのはインド国会 への襲撃であった。インドはパキスタンが多数の襲撃を行なったと非難し、パキスタンはこれを強く否定して、2001年から02年にかけて両国は核戦争 の瀬戸際にまで進んだ。しかし国際的な平和への努力によって、核能力ある両国の緊張は緩和に向かった。
このほかでもっとも有名なのは、インディアン航空814便 がネパールのカトマンズ からニューデリーに向かう途中でハイジャックされた事件である。同機は1999年12月24日、離陸から約1時間後にハイジャックされ、アムリトサル 空港に、それからパキスタンのラホール に行かされた。燃料の補給後に航空機はドバイ に向けて離陸し、最終的にアフガニスタンのカンダハール に着陸した。激しいメディアの圧力を受けながら、インド政府はハイジャック犯の要求を飲み、機中のインド人乗客の解放と引き換えにマスード・アズハル を釈放した。しかしこの決定はインド政府に多くの犠牲を払わせることになる。マスード・アズハルはカラチ に潜伏していると考えられ、後にカシミール のインド治安部隊に何度もテロ活動を行った組織ジャイシュ=エ=ムハンマド の指導者になった[7] 。
2000年12月22日、ラシュカレトイバ に属するテロ集団がニューデリー の有名な赤い城 (レッド・フォート)を強襲した。この城にはインド陸軍 部隊が配備され、中央捜査局 (英語版 ) とインド陸軍 が共用する警備厳重な尋問室がある。テロリストは赤い城 周辺の警備をうまく破って、勤務中のインド軍人 に銃撃を開始し、その場で2人を殺害した。これはインドとパキスタンが停戦を宣言してわずか2日後の事件であった点が特に注目された[8] 。
2002年、インドは再び、ジャンム・カシミールからのテロリストがインドに潜入してきていると主張し、パルヴェーズ・ムシャラフ パキスタン大統領はこの種の潜入はすでに止んでいると否定した。インド外務省の報道官はこれを「ことばの使い方がおかしい」と切り捨てた[ 66] 。わずか2か月後、ジャイシュ=エ=ムハンマド に属するカシミールのテロリスト2人がグジャラート州 アフマダーバード のスワミ・ナラヤン寺総合ビル (英語版 ) を襲撃し、女性18人と子供5人を含む30人を殺害した。この襲撃はジャンム・カシミール で州選挙が行われてからわずか数日後の2002年9月25日に発生した。2人のテロリストからは同じ文面の手紙が見つかり、この襲撃が2002年グジャラート州暴動 (英語版 ) で数千のムスリムが死亡したことに対する報復として行うものだと主張する内容であった[9] 。
2003年8月25日には2個の自動車爆弾が南ムンバイ で爆発した。1個はインド門 近くで、もう1個は有名なザヴェリバザールで爆発し、少なくとも48人が死亡し150人が負傷した。どこのテロ集団も犯行声明を出さなかったが、ムンバイ警察 とRAW (英語版 ) は2つの爆発についてラシュカレトイバ の関与を疑った[10] 。
2005年7月5日には、失敗に終わったが、ラシュカレトイバ に属する6人のテロリストがアヨーディヤー バーブリー・マスジド を襲撃した。テロリストたちは主な係争中の場所 に達する前にインド治安部隊 に射殺された。ヒンドゥー教礼拝者1名と警官2名がこの事件で負傷した[11] 。
2001年インド議会襲撃事件
2001年インド議会襲撃事件 (英語版 ) は2001年12月13日に起きたニューデリーのインド国会議事堂 への襲撃事件で、襲撃犯5人を含む14人が死亡した。実行犯はラシュカレトイバ とジャイシュ=エ=ムハンマド のテロリストであった[ 67] [ 68] 。この襲撃でテロリスト5人、デリー警察 (英語版 ) 職員6人、議会警備員2人、庭師1人の計14人が死亡し[ 69] 、これによってインド とパキスタン の緊張は高まり、2001年-2002年の印パ対立 (英語版 ) を引き起こした[ 70] 。
2001年-2002年の印パ対立
2001年-2002年の印パ対立 (英語版 ) はインドとパキスタンの軍事的なにらみあいで、双方が国境 およびカシミール 地区の管理ライン (LoC)の両側に軍を集結させた。この事件は1999年のカルギル戦争 以来初めての大規模な軍事的対立であった。先に軍の集結を始めたのはインドで、2001年インド議会襲撃事件 (英語版 ) と2001年ジャンム・カシミール立法府自動車爆弾事件 (英語版 ) への対応としてであった[ 71] 。インドは、これらの事件はパキスタンに本拠を置く2つのテロ集団(ラシュカレトイバ とジャイシュ=エ=ムハンマド )により行われ、彼らは共にパキスタンのISI の支援を受けていると主張したが[ 72] 、パキスタンは否定した[ 73] [ 74] [ 75] 。国際的な外交上の調停により緊張は収まり、2002年10月にインド[ 76] とパキスタン[ 77] の部隊はともに国境地域から撤退した。
2007年サムジャウタ急行爆破事件
2007年サムジャウタ急行爆破事件 (英語版 ) はサムジャウタ急行 を狙った2月18日のテロ攻撃であった。サムジャウタ急行はインドのニューデリーとパキスタンのラホールを結ぶ国際列車で、印パ国境を越える2本の列車のひとつである。少なくとも68人が死亡し、ほとんどはパキスタン国民であったが、一部はインドの治安部隊員や民間人であった[ 78] 。
ムンバイ同時多発テロ
パキスタンのテロリスト10人によるムンバイ同時多発テロ では173人を超える人が死亡し308人が負傷した。犯人側の唯一の生き残りで事件中に逮捕されたアジマル・カサブ (英語版 ) はパキスタン国籍であることが判明した。この事実はパキスタン当局が認めた[ 79] 。2010年5月、インドの裁判所は、4件の殺人、インドに対する戦争遂行、共謀 、テロ の罪で有罪とし、死刑判決を言い渡した[ 80] 。
インドは襲撃事件を計画し実行したとしてパキスタンに拠点を置く武装組織ラシュカレトイバ を非難した。インドの当局者は、審理のため容疑者を引き渡すようパキスタンに要求した。当局者はまた、襲撃の高度な手法から見て実行犯は「パキスタンの公的機関の支援を受けているに違いない」とも言った[ 81] 。2009年7月、パキスタン当局は、ラシュカレトイバがカラチとタッター の拠点から襲撃事件を計画し資金提供したことを認めた[ 82] 。2009年11月、パキスタン当局は襲撃事件を計画し実行したとして先に逮捕していた7人を起訴した[ 83] 。
2015年4月9日、襲撃の最大の指導者ザキウル・レーマン・ラフヴィ (英語版 ) は[ 84] [ 85] 、パキスタンで20万パキスタン・ルピーの保釈金 を積んで保釈を承認された[ 86] [ 87] 。
インドの情報局RAWは、パキスタンを中傷しパキスタンのバロチスタンの暴動 (英語版 ) のために暴徒を訓練・支援する秘密工作を行っていると言われている[ 88] [ 89] [ 90] [ 91] 。
大量破壊兵器
インドには核兵器 開発の長い歴史がある[ 92] 。インドの核(原子力)開発計画は、独立後間もなく計画を始めた1944年にまでさかのぼる[ 92] 。1940年代から1960年代に、インドの核開発は、軍事転用できるまでにゆっくりと進歩し、国中に核電力インフラを広げた[ 92] 。核兵器開発の決定は、中国の侵攻 と北インド の併合後にインド首脳陣により行われた。1967年、インドの核計画は核兵器開発を目指すこととなり、インディラ・ガンディー が注意深く監督にあたった[ 93] 。1971年、インドは軍事作戦 に勝利するとパキスタンに対する軍事的・政治的主導権 を得た。1972年に核実験の準備を開始すると、インドは1974年ついにポカラン実験 地域で(コードネーム:微笑む仏陀 )最初の核爆弾を爆発させた[ 93] 。1980年代から1990年代、インドは宇宙ロケットと核ミサイル (英語版 ) の開発を開始し、これに応えてパキスタンもインドとの宇宙開発競争に参入した[ 94] 。パキスタン自身の計画 (英語版 ) は宇宙ロケットと核ミサイルを開発し、1990年代中頃に無人の宇宙船の飛行試験を始め、この努力は今日まで続いている[ 94] 。
1971年の第三次印パ戦争 で敗れたパキスタンは1972年に自身の核爆弾開発計画を開始し、1974年にインドがポカラン実験 地域で初めての核爆弾実験に成功すると、その努力に拍車をかけた[ 93] [ 95] 。この大規模な核爆弾開発計画は、核開発計画に対する直接の対応として出てきたものである[ 96] 。1983年、パキスタンは密かに一連の分裂なしの実験 (コードネーム:キラナⅠ (英語版 ) )を成功させるという画期的な成果を収めた。パキスタン政府はこれらの冷たい実験 について公式の発表は行わなかった[ 96] 。次の数年の間、パキスタンは全国的に核電力計画の拡大・近代化を行ない、電力を供給するとともに国家経済への下支えとした。1988年、いずれの国も核施設を攻撃しないと約束する相互取り決めが両国間でなされた。同じく1988年には文化交流と民間航空機に関する合意も開始された[ 96] 。1998年、インドは2回目の核実験を行ない(「インドの核実験 (1998年) 」の記事参照)、これに応える形でパキスタンも初の核実験を成功させた(チャガイⅠ とチャガイⅡ (英語版 ) 参照)。
対話などの信頼構築手段
1971年の戦争後、パキスタンとインドは、関係正常化に向けて緩やかに前進した。1972年7月、インドのインディラ・ガンディー 首相とパキスタンのズルフィカール・アリー・ブットー 大統領は、シムラー のインド軍駐留地で会談した。2人はシムラー協定 に署名し、それによってインドは(9万人を超える)パキスタン兵と西側の獲得した領土を返還し、「双方の交渉を通じて平和的な手法で紛争を解決する」ことになった。外交関係と通商関係も1976年に再開した。
1990年代
1997年、高官級の対話が3年の中断を経て再開した。パキスタンとインドの両首相も二度会い、外務大臣どうしは3次にわたる会談を行った。1997年6月、両外務大臣は今後の会談のテーマとなるべき8つの「重要問題」を明らかにした。独立時からの問題である(インドがジャンム・カシミールと呼ぶ)カシミールの状態に関する紛争は、今も両国の対話における最大の障害物である。インドはかつての王侯国全体がインド連邦と一体になったとの立場を崩さず、他方パキスタンは州や県の住民による自決を求める国連決議を重視すべきだとしている。しかしパキスタンは同じ決議の前半が定めたすべての占領地域からの退去には従っていない。
1997年9月には、カシミールの問題と、平和や安全保障の問題をどう扱うかの枠組み作りを巡って対話は決裂した。パキスタンは2つの問題を個別の審議会 で扱うべきだと主張した。インドは2つの問題は他の6つの問題と共に同時並行で取り扱うべきだと応じた。
1999年2月には、ラホール において両国首相の会談と3つの合意文書への署名があり、対話再開への努力が一気に大きな力を得た。
しかし同年10月には、民主的に選ばれたナワーズ・シャリーフ 政権がパキスタンの軍事クーデターによって転覆し、両国関係はまた後退した。
2000年代
2001年、アーグラ で首脳会談が開かれ、パキスタンのパルヴェーズ・ムシャラフ 大統領 が同地を訪れてインドのアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー 首相 と会った。会談は失敗に終わった。
2004年6月20日、インドで新政権が機能すると、両国は核実験 禁止協定を延長し、核戦争 に発展しかねない誤解を防ぐために両国の外務大臣間にホットライン を設置することに合意した[ 97] 。
バグリハールダム (英語版 ) 問題は2005年にパキスタンから提起された新しい問題である。
マンモハン・シン博士が2004年5月にインドの首相になると、パキスタンのパンジャブ州政府 (英語版 ) は敬意を表して誕生地ガー (英語版 ) を模範的な村として開発し、ある学校に彼の名をつけると発表した[ 98] 。またインド国内には「パキスタン (英語版 ) 」という名前の村があり、長年のうち折に触れて名前を変えるよう圧力を受けながらも村の住民はこれに抗している[ 99] 。この地域の暴力的な活動は2004年に沈静化していった。大きな理由が二つある。両国政府間の緊張緩和によって2003年に停戦 が成立したこと、そしてインド陸軍 が管理ライン にフェンスを設置したことである。さらに、国際社会から厳しい圧力を受けて、パキスタン政府は国内にある武装組織の訓練キャンプに対する対策を取らざるを得なくなった。2004年、両国はこの地域所在の部隊を減らすことでも合意した。
圧力を受けてカシミールの武装組織もインド政府に対話と交渉を申し入れ、インドはこれを歓迎した。
インド国境警備隊 (英語版 ) は、テロリストがパキスタンからインドに潜入する際にはパキスタン軍が必ず掩護射撃をしていると非難した。同様にパキスタンも、バルーチスターン解放軍 などパキスタン国内で展開するテロ組織を支援しているとインドを非難した。
2005年には、パキスタンの情報相シェイク・ラシッドがパキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州 で1990年にテロリスト訓練キャンプ (英語版 ) を運営していたとの訴えが出た。パキスタン政府は、これは両国の現在の平和に向けた動きを妨害しようとするものだとして、大臣に対する告発を却下した。
インドもパキスタンもともに、両国間の緊張を緩和するいくつかの相互信頼構築措置 (英語版 ) (CBMs)を開始している。この中には高官どうしの対話の増加、査証 発給制限の緩和、両国間のクリケット 国際試合の再開といったものがあった。シュリーナガル ・ムザファラバード 間のバス路線開設も、両国を近付ける助けになった。パキスタンとインドはまた経済面で互いに協力することも決定した。
関係改善のしるしは印パ国境近くの一連の輸送網再開に見られ、中でも特に重要なのはバス路線と鉄道路線である。
2005年7月には、武装勢力の一グループがパキスタンからカシミール に潜入を図り、インド治安部隊 と武装勢力との大きな衝突が起こった。同月にはカシミールの武装勢力がアヨーディヤー とシュリーナガル を攻撃した。しかしこの新事態は平和に向けた動きに殆ど影響を与えなかった。
2008年3月3日、スパイ容疑で1975年からパキスタンに収監されていたインド人1名が国境を歩いて越え、自由の身となった。この無条件釈放は両国の関係を改善するために行われたとパキスタンは言っている[ 100] 。
2006年、「国境なき友人」計画が二人のイギリス人旅行者の助けを得て始まった。アイデアはインドの子供とパキスタンの子供がペンフレンドになって友好的な手紙を出し合うというものであった。この発想は両国で非常に成功し、主催した団体が「とても対応しきれない」と述べるほどになった。また最近、世界最大のラブレター がインドからパキスタンに送られた[ 101] 。
2010年代
2010年12月、パキスタンの新聞数紙が、インド政府上層部とパキスタン国内武装勢力との関係についての記事を掲載し、それはアメリカ外交公電ウィキリークス流出事件 で判明したと主張した。イギリスの新聞『ガーディアン 』にはウィキリークスが流出させた公電があったので、調査した結果、パキスタンでの主張は「正確でなく」「ウィキリークスはプロパガンダ目的で悪用されていた」と結論した[ 102] 。
2011年2月10日、インドは11月26日のムンバイ襲撃事件の後で一時中断したパキスタンとの対話を再開することに合意した[ 103] 。インドはあらゆる外交関係を中断し、パキスタンがムンバイ襲撃事件の被告人に対して行動しない限り継続はあり得ないとしていた。
2012年4月13日には、インドがパキスタン国内で最恵国待遇 を獲得したという関係改善を受けて、インドはパキスタンからインドに対する直接投資 に関する制限を撤廃することを発表した[ 104] 。
2012年7月11日、パキスタンの外務大臣はプノンペンで、パキスタンは過去に締結した合意に基づいてサー・クリーク 、シアチャンなど一部の紛争を解決する意思があると述べた[ 105] 。2012年9月7日、インドの外務大臣は、パキスタン外務大臣とともに両国間の対話の進捗を検討するために3日間パキスタンを訪問すると発表した[ 106] 。
自然災害への対応
2001年インド西部地震
インド西部地震 への対応としてパキスタンのパルヴェーズ・ムシャラフ 大統領は、イスラマバード からアフマダーバード への救援物資を積み込んだ飛行機1機を送った[ 107] 。同機は200張のテントと2000枚以上の毛布を運んだ[ 108] 。更に大統領はインド首相に電話で、地震での損害についての「同情」を表明した[ 109] 。
2005年パキスタン地震
インドは10月8日の2005年パキスタン地震 への対応としてパキスタンにふんだんな援助を送った。インドとパキスタンの高等弁務官は、援助作業での協力について協議した。インドは食料や毛布、医薬品など25トンの援助物資をパキスタンに送った。インフォシス などのインドの大企業は22万6000ドルの義援金を提供した。10月12日にはIl-76 輸送機1機がトラック7台分(約82トン )の軍の医薬品、1万5000枚の毛布、50張のテントを空輸し、ニューデリーに戻った。ある空軍幹部は、もう一度同様の空輸ができるよう準備しておくようインド政府から要請を受けたとも述べた[ 110] 。10月14日、インドはワーガ を通る鉄道でパキスタンに2度目の援助物資を発送した。内容は5000枚の毛布、370張のテント、5トンの樹脂製シート、12トンの医薬品などである。さらに3度目の医薬品や援助物資もすぐ後で鉄道で送られた[ 111] 。インド政府はパキスタンへの援助として2,500万ドルの供与も約束した[ 112] 。インドはパキスタン地震 の救援作業のために印パ間の管理ライン にあるプンチ (英語版 ) 地区チャカンダバグの3か所の検問所のひとつを開放した (Rediff) 。このような温かい態度は、インドとパキスタン両国の信頼、親善、協同の新しい時代の兆しとなった。
逃亡犯
インドは、ダウード・イブラヒム (英語版 ) など、最重要の指名手配されたインド人逃亡犯がパキスタンにいると非難してきた。2011年5月11日、インドはパキスタンに隠れている「指名手配された最重要逃亡犯」50人のリストを公表した。これはアボタバードの屋敷 (英語版 ) でウサーマ・ビン・ラーディン が殺害された後のことで、パキスタンに戦術的な圧力をかけるためであった[ 113] 。
このリストの誤り2件が報道されると、インド中央調査局 (英語版 ) は再調査を行なうとしてリストをウェブサイトから削除した[ 114] 。その後、パキスタン内務省はインドからパキスタン政府に送られたインドの最重要指名手配犯50人のリストを拒絶し、リストに挙がった人々が国内で生きているかどうかをまず確かめるべきだとした[ 115] 。
社会的な関係
文化的なつながり
インドとパキスタン、特に北インドと東パキスタンにはインド・アーリア系 共通の歴史遺産としてある程度まで同種の文化や料理、言語があり、それは両国と亜大陸北部の大部分に広がって、両国の歴史的なつながりも支えてきた。パキスタンの歌手 (英語版 ) や音楽家、漫才師 (英語版 ) 、芸人はインドでも広範な人気を博し、インドの映画産業ボリウッド で一夜にして名声を得る者も多い。同様にインドの音楽 や映画 はパキスタンでも非常に人気がある。南アジア の最北端に位置するパキスタンの文化は、北インド 、特に北西部の文化に通ずるところがある。
パンジャーブ 地方は1947年に両国が分裂独立した際にパキスタンのパンジャーブ州 とインドのパンジャーブ に分かれた。パンジャーブ人 は今日パキスタンで最大の民族であり北インドで重要な民族でもある。シク教 の教祖は、今日のパキスタンのパンジャーブ州(ナンカーナサーヒブ (英語版 ) 市)で生まれた。毎年数百万のインド人シク教巡礼者がナンカーナサーヒブ (英語版 ) のシク教の聖地を訪れるために国境を越えている。シンド人 はパキスタンのシンド州 の先住民族である。ヒンドゥー教シンド人の多くは1947年にインドに移住し、同国にかなりの規模のシンド人社会をもたらした。加えて独立時にインドから新たに建国したパキスタンに移住した数百万のムスリムはムハジル人 (英語版 ) と呼ばれるようになり、主にカラチに住んで今もインドと家族的なつながりを維持している。
パキスタンとインドの関係は、メディアや通信といった手段によっても続いている。「平和への希望 (英語版 ) 」はザ・タイムズ・オブ・インディア とジャングメディアグループ (英語版 ) の間の共同事業、運動として相互の平和と外交的・文化的関係の発展を求めている。
地理上のつながり
ワーガ 近郊のインド・パキスタン国境 で夕方に行われる国旗降納式
インド・パキスタン国境はパキスタンのパンジャーブ州およびシンド州と、インドのパンジャーブ州、ラージャスターン州 、グジャラート州 との境界を定める正式な国境である。ワーガ の国境はインド・パキスタン国境と道路が交差する唯一の地点であり、パキスタンのラホール をインドのアムリトサル とつなぐ有名な大幹道 上にある。毎日夕方になると、両国の国旗を降ろし、双方の衛兵がことさらに軍事的なポーズを示して握手を交わすワーガ・アタリの国境式典 (英語版 ) が行われている。
言語上の結びつき
ヒンドゥスターニー語 は北インドとパキスタンのリングワ・フランカ (共通語)で、さらにそれぞれの国の標準語であるヒンディー語 やウルドゥー語 も同様である。標準語のウルドゥー語は、標準語のヒンディー語と相互理解が可能である 。ヒンドゥスターニー語も広くスリランカ人 (英語版 ) やネパール人 、バングラデシュ人 などの南アジア人の間のリングワ・フランカとして聞く・話すが行なわれ、またインド亜大陸のほとんどの地域が楽しむボリウッド 映画の言語でもある。
ヒンドゥスターニー語に加えて、インドとパキスタンでは、主に人の交流を通じてパンジャーブ語 (インドのパンジャーブ州ではグルムキー文字 が、パキスタンのパンジャーブ州ではシャームキー文字 が使われる)、カシミール語 、シンド語 が共通して分布している。これらの言語はインド亜大陸の国々で話される共通のインド語群 に属している。
結婚を通しての結びつき
時にはインド人とパキスタン人が国際結婚をすることもある。また両国の文化には広範な類似点があるため、離散したインド人とパキスタン人の間では結婚が多く、特にアメリカ合衆国でそうである。[ 116] 。
2010年4月、パキスタン注目のクリケット選手ショアイブ・マリク (英語版 ) は、インドのテニススター、サニア・ミルザ と結婚した[ 117] 。この結婚は多くのメディアの注目を集め、インドとパキスタン両国を呆然とさせたと言われた[ 118] 。
スポーツでの結びつき
両国間のクリケットやフィールドホッケーの試合は(SAARC競技大会などでは他の競技の試合もある程度)、しばしば政治的な色合いを帯びてきた。ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻 のころ、ムハンマド・ジア=ウル=ハク 将軍はインドが第二戦線を作ってソ連を支援することを思い留まらせようと「クリケット外交」のためにインドに向かった。パルヴェーズ・ムシャラフ も10年以上経って同じことをしようとしたが、効果はなかった。
テニス ではインドのローハン・ボパーナ (英語版 ) とパキスタンのアイサム=ウル=ハク・クレシ (英語版 ) が男子ダブルスのペアを組んで好成績を上げ、「印パ急行 (Indo-Pak Express)」とあだ名された[ 119] 。
離散者間の関係
世界中さまざまな国にインド系移民と在外インド人 、および在外パキスタン人 (英語版 ) が相当な規模でいるため、両者は離散者どうしとしてしっかりとした関係を築いている。イギリスに住む少数民族のうち人口で第1位と第2位にあたる在英インド人 (英語版 ) と在英パキスタン人 (英語版 ) とは、互いに友好的な関係であると言われている[ 120] [ 121] 。他の国でも南アジア系の居住地域に「リトルインディア (英語版 ) 」と「リトルパキスタン (英語版 ) 」とが共存していることは多い。在英インド人と在英パキスタン人とが同じ地域に平和的に協調して住んでいる都市としてバーミンガム 、ブラックバーン 、マンチェスター などがある。イギリスに住むインド人とパキスタン人は共に在英アジア人 (英語版 ) に分類されている。イギリスはパキスタンとインドの友好交流の中心地でもある[ 122] 。アメリカ合衆国ではインド人とパキスタン人は、南アジア系アメリカ人 (英語版 ) に分類され、多くの文化的特徴を共有している。アメリカ合衆国ではインド人とパキスタン人の通婚は珍しくない[ 116] 。
イギリスの欧州議会議員サッジド・カリム (英語版 ) はパキスタンの出身で、欧州議会インド友好議員連盟の会員である。カリムはヨーロッパをインドとの自由貿易に開放するのにも与った[ 123] [ 124] 。彼は2008年のホテルタージでのムンバイ襲撃事件を辛うじて逃れた。残虐行為があったにもかかわらず、カリムは生き残った犯人アジマル・カサブ (英語版 ) に死刑判決を言い渡すことを望んでいない。「公平かつ透明な審理が行われたと考え有罪判決を支持する。しかし死刑制度には賛成しない。終身刑を下すべきだと思うが、それは文字通りの(つまり保釈なしの)終身刑だ」と言った[要出典 ] 。
通商関係
この節の
加筆 が望まれています。
(2014年4月 )
直接のルートでの通商は現在、公式には禁止されており[ 125] 、そのため印パ間の通商の大半はドバイ経由で行なわれている[ 126] 。
関連項目
外交関係
歴史
人権
文化問題
テロと国家紛争
スポーツ
出典
^ Metcalf & Metcalf 2006 , pp. 221–222
^ Area, Population, Density and Urban/Rural Proportion by Administrative Units Archived 22 December 2010 at the Wayback Machine .
^ Marshall Cavendish (September 2006). World and Its Peoples . Marshall Cavendish. p. 396. ISBN 978-0-7614-7571-2 . https://books.google.com/books?id=j894miuOqc4C&pg=PA396
^ “Pakistan acknowledges surviving Mumbai gunman is a Pakistani ”. latimes . 2020年12月31日 閲覧。
^ “Sushma Swaraj rules out talks with Pakistan, John Kerry says no good or bad terrorist” . Indian Express . ENS (New Delhi). (30 August 2016). http://indianexpress.com/article/india/india-news-india/sushma-swaraj-pakistan-terrorism-john-kerry-india-visit-3004565/ 30 August 2016 閲覧。
^ Ankit Panda (19 September 2016), “Gurdaspur, Pathankot, and Now Uri: What Are India's Options?” , The Diplomat , http://thediplomat.com/2016/09/gurdaspur-pathankot-and-now-uri-what-are-indias-options/ 3 December 2016 閲覧。
^ Geeta Anand, Hari Kumar (29 November 2016), “Militants Attack Indian Army Base in Nagrota, Inflaming Tensions With Pakistan” , The New York Times , https://www.nytimes.com/2016/11/29/world/asia/kashmir-jammu-attack.html?_r=0 3 December 2016 閲覧。
^ “Pulwama attack: India will 'completely isolate' Pakistan” , BBC News , (15 February 2019), https://www.bbc.com/news/world-asia-india-47249133 15 February 2019 閲覧。
^ “Non-discriminatory market access: Pakistan, India all but sign trade normalisation deal ”. The Express Tribune (15 March 2014). 2020年12月31日 閲覧。
^ “Pakistani apparel at Trade Fair draws huge crowds” . TwoCircles . http://twocircles.net/2012nov18/pakistani_apparel_trade_fair_draws_huge_crowds.html
^ Haidar, Suhasini. “3 minutes that changed India-Pak ties ”. The Hindu . 2020年12月31日 閲覧。
^ “2017 BBC World Service Global Poll ”. BBC World Service . 4 August 2017 閲覧。
^ “India strips disputed Kashmir of special status” (英語). (5 August 2019). https://www.bbc.com/news/world-asia-india-49231619 8 August 2019 閲覧。
^ “UN expresses concern over India's move to revoke special status of Kashmir ” (英語). radio.gov.pk . 8 August 2019 閲覧。
^ “Pakistan sends back Indian High Commissioner Ajay Bisaria, suspends bilateral trade ” (英語). timesnownews.com . 8 August 2019 閲覧。
^ “Population Division – United Nations ” (英語). population.un.org . 国際連合. 2024年9月7日 閲覧。
^ “Country Comparison :: Population — The World Factbook - Central Intelligence Agency ”. www.cia.gov . 2020年4月25日 閲覧。
^ “National Symbols | National Portal of India ”. web.archive.org (2017年2月4日). 2020年5月1日 閲覧。
^ “Where is Pakistan? ” (英語). WorldAtlas . 2020年4月25日 閲覧。
^ “Size, Growth Rate and Distribution of Population ”. Census Bureau of India . 1 May 2020 閲覧。
^ “Pakistan Population (2020) - Worldometer ” (英語). www.worldometers.info . 2020年4月25日 閲覧。
^ “Press Information Bureau: Government of India news site, PIB Mumbai website, PIB Mumbai, Press Information Bureau, PIB, India’s Official media agency, Government of India press releases, PIB photographs, PIB photos, Press Conferences in Mumbai, Union Minister Press Conference, Marathi press releases, PIB features, Bharat Nirman Public Information Campaign, Public Information Campaign, Bharat Nirman Campaign, Public Information Campaign, Indian Government press releases, PIB Western Region ”. web.archive.org (2015年6月30日). 2020年5月1日 閲覧。
^ “Karachi Population 2020 (Demographics) ”. worldpopulationreview.com . 2020年4月25日 閲覧。
^ “Religions in Modern India ”. WorldAtlas . 1 May 2020 閲覧。
^ “Religion in Pakistan ” (英語). WorldAtlas . 2020年4月25日 閲覧。
^ “Ethnic Groups in India ”. WorldAtlas . 1 May 2020 閲覧。
^ “Ethnic Groups In Pakistan ” (英語). WorldAtlas . 2020年4月25日 閲覧。
^ “2019 Human Development Index Ranking | Human Development Reports ”. hdr.undp.org . 2020年5月1日 閲覧。
^ “| Human Development Reports ”. hdr.undp.org . 2020年4月25日 閲覧。
^ “World Development Indicators - Google Public Data Explorer ”. www.google.com . 2020年5月1日 閲覧。
^ “World Development Indicators - Google Public Data Explorer ”. www.google.com . 2020年4月25日 閲覧。
^ “Report for Selected Countries and Subjects ”. www.imf.org . 2020年5月1日 閲覧。
^ “Report for Selected Countries and Subjects ”. www.imf.org . 2020年4月25日 閲覧。
^ “Trends in World Military Expenditure ”. Stockholm International Peace Research Institute . 1 May 2020 閲覧。
^ “Data for all countries from 1988–2018 in constant (2017) USD (pdf) ”. STOCKHOLM INTERNATIONAL PEACE RESEARCH INSTITUTE (2017-2018). 25 April 2020 閲覧。
^ “2020 India Military Strength ”. www.globalfirepower.com . 2020年5月1日 閲覧。
^ “2020 Pakistan Military Strength ”. www.globalfirepower.com . 2020年4月25日 閲覧。
^ Lumby 1954 , p. 238
^ “Letter Inviting India to Intervene ”. 26 March 2012時点のオリジナル よりアーカイブ。16 October 2011 閲覧。
^ Lumby 1954 , pp. 238–239
^ POLITICAL MAP OF PAKISTAN | Pakistan Embassy Tokyo Japan (在日パキスタン大使館のサイト) 2021年5月9日閲覧
^ Mehr Chand Mahajan (1963). Looking Back . Bombay: Asia Publishing House (Digitalised by Google at the University of Michigan). p. 162. ISBN 9788124101940
^ Haroon, Sana (1 December 2007). Frontier of faith: Islam in the Indo-Afghan borderland . Columbia University Press. pp. 179–180. ISBN 978-0-231-70013-9 . https://books.google.com/books?id=20VIdFUoC3UC&pg=PA179 26 February 2012 閲覧。
^ “October 27, 1947: Dakota in my dell ~ FRONTLINE KASHMIR ”. Frontlinekashmir.org (27 October 2011). 25 April 2012時点のオリジナル よりアーカイブ。13 April 2012 閲覧。
^ “Instrument of Accession ”. 2020年12月31日 閲覧。
^ Chandigarh, India – Main News . Tribuneindia.com. Retrieved on 14 April 2011.
^ Lyon, Peter (2008). Conflict between India and Pakistan: an encyclopedia . ABC-CLIO. p. 82. ISBN 978-1-57607-712-2 . https://books.google.com/books?id=vLwOck15eboC&pg=PR11 30 October 2011 閲覧。
^ "Unquenchable thirst." The Economist , 19 November 2011.
^ Husain Haqqani Pakistan: Between Mosque and Military pg 174 Carnegie Endowment, 2010 ISBN 0870032852 , 9780870032851
^ Haleem, Abdul; Lin Jing (7 July 2008). “Militants mounting pressure to destabilise Afghan gov't” . news.xinhuanet.com. http://news.xinhuanet.com/english/2008-07/07/content_8506817.htm 7 July 2008 閲覧。
^ a b Mazzetti, Mark; Schmitt, Eric (1 August 2008). “Pakistanis Aided Attack in Kabul, U.S. Officials Say” . New York Times . https://www.nytimes.com/2008/08/01/world/asia/01pstan.html
^ Tran, Mark (1 August 2008). “Pakistan condemns New York Times claims” . The Guardian (London). https://www.theguardian.com/world/2008/aug/01/pakistan.usa 22 April 2010 閲覧。
^ Lamb, Christina (3 August 2008). “Rogue Pakistan spies aid Taliban in Afghanistan” . The Times of London. http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/article4449330.ece
^ International Terrorism: Threats and Responses: Hearings Before the Committee on the Judiciary By United States Congress House Committee on the Judiciary, ISBN 0-16-052230-7 , 1996, pp482
^ “Overview of State-Sponsored Terrorism ”. state.gov . 2020年12月31日 閲覧。
^ “Coalition Vows to Regain Afghan Town Seized by Taliban ”. The New York Times (18 July 2006). 2020年12月31日 閲覧。
^ Nelson, Dean (8 July 2009). “Pakistani president Asif Zardari admits creating terrorist groups - by Telegraph UK” . Telegraph (London). https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/pakistan/5779916/Pakistani-president-Asif-Zardari-admits-creating-terrorist-groups.html 21 June 2010 閲覧。
^ Byman, Daniel L. (May 2008). “The Changing Nature of State Sponsorship of Terrorism ”. The Brookings Institution . 2022年4月10日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年12月31日 閲覧。
^ The ISI and Terrorism: Behind the Accusations Archived 24 July 2009 at the Wayback Machine ., en:Council on Foreign Relations , 28 May 2009
^ “Pakistan's New Generation of Terrorists ”. Council on Foreign Relations . 2 December 2008時点のオリジナル よりアーカイブ。22 January 2012 閲覧。
^ Stephen Schwartz (19 August 2006). “A threat to the world ”. The Spectator . 24 December 2007時点のオリジナル よりアーカイブ。20 September 2007 閲覧。
^ “Militants attack Indian army base in Kashmir 'killing 17'” . BBC News. (18 September 2016). https://www.bbc.com/news/world-asia-india-37399969 18 September 2016 閲覧。
^ DelhiFebruary 16, India Today Web Desk New. “[https://www.indiatoday.in/india
/story/pulwama-attack-2019-everything-about-jammu-and-kashmir-terror-attack-on-crpf-by-terrorist-adil-ahmed-dar-jaish-e-mohammad-1457530-2019-02-16 Pulwama Attack 2019, everything about J&K terror attack on CRPF by terrorist Adil Ahmed Dar, Jaish-e-Mohammad]” (英語). India Today . 2020年12月31日 閲覧。
^ “India rejects Musharraf's claim on infiltration” . The Economic Times . (28 July 2002). http://articles.economictimes.indiatimes.com/2002-07-28/news/27364071_1_infiltration-pakistan-president-pervez-musharraf-state-colin-powell 15 July 2011 閲覧。
^ "Govt blames LeT for Parliament attack" . Rediff.com (14 December 2001). Retrieved 8 September 2011.
^ Embassy of India – Washington DC (official website) United States of America Archived 11 June 2010 at the Wayback Machine .. Indianembassy.org. Retrieved 8 September 2011.
^ PTI (13 December 2011). “Parliament attack victims remembered” . The Hindu. http://www.thehindu.com/news/cities/Delhi/parliament-attack-victims-remembered/article2711970.ece 23 October 2014 閲覧。
^ "[Pakistan Primer Pt. 2] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20120127094835/http://www.globalbearings.net/2011/10/image-from-gates-of-pakistan-naval.html |date=27 January 2012 }} From Kashmir to the FATA: The ISI Loses Control ," Global Bearings, 28 October 2011.
^ Rajesh M. Basrur (14 December 2009). “The lessons of Kargil as learned by India” . In Peter R. Lavoy. Asymmetric Warfare in South Asia: The Causes and Consequences of the Kargil Conflict (1st ed.). Cambridge University Press. p. 326. ISBN 978-0-521-76721-7 . https://books.google.com/books?id=-vifpWqV2WYC&pg=PA326 8 August 2013 閲覧。
^ "Who will strike first" , The Economist , 20 December 2001.
^ Jamal Afridi (9 July 2009). “Kashmir Militant Extremists ”. Council Foreign Relations. 2 March 2012時点のオリジナル よりアーカイブ。4 February 2012 閲覧。 “Pakistan denies any ongoing collaboration between the ISI and militants, stressing a change of course after 11 September 2001.”
^ Perlez, Jane (29 November 2008). “Pakistan Denies Any Role in Mumbai Attacks” . Mumbai (India);Pakistan: NYTimes.com. https://www.nytimes.com/2008/11/30/world/asia/30pstan.html 31 January 2012 閲覧。
^ “Attack on Indian parliament heightens danger of Indo-Pakistan war ”. Wsws.org (20 December 2001). 31 January 2012 閲覧。
^ "India to withdraw troops from Pak border" Archived 30 November 2003 at the Wayback Machine ., Times of India , 16 October 2002.
^ "Pakistan to withdraw front-line troops" , BBC , 17 October 2002.
^ Reuters Editorial (21 February 2007). “At least 66 killed in India-Pakistan train blast ”. Reuters . 2013年12月15日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年12月31日 閲覧。
^ “Surviving gunman's identity established as Pakistani ”. 2010年6月20日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年12月31日 閲覧。
^ “Ajmal Kasab sentenced to death for Mumbai attacks ”. 2010年5月9日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年12月31日 閲覧。
^ “India Gives Pakistan Findings From Mumbai Probe, Urges Action Against Suspects ”. 2020年12月31日 閲覧。
^ Hussain, Zahid (28 July 2009). “Islamabad Tells of Plot by Lashkar” . The Wall Street Journal (Islamabad). https://www.wsj.com/articles/SB124872197786784603?mod=googlenews_wsj 28 July 2009 閲覧。
^ Schifrin, Nick (25 November 2009). “Mumbai terror attacks: 7 Pakistanis charged” . ABC News . オリジナル の27 November 2009時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091127091951/http://abcnews.go.com/International/mumbai-terror-attacks-pakistanis-charged/story?id=9176592 1 December 2009 閲覧。
^ Masood, Salman (12 February 2009). “Pakistan Announces Arrests for Mumbai Attacks” . New York Times . https://www.nytimes.com/2009/02/13/world/asia/13pstan.html?partner=permalink&exprod=permalink 12 February 2009 閲覧。
^ Haider, Kamran (12 February 2009). “Pakistan says it arrests Mumbai attack plotters” . Reuters. https://www.reuters.com/article/topNews/idUSTRE51B25820090212?pageNumber=1&virtualBrandChannel=10112 12 February 2009 閲覧。
^ “Pak court grants bail to Mumbai terror attack accused Lakhvi” . Yahoo! News. (9 January 2015). https://in.news.yahoo.com/pak-court-grants-bail-to-mumbai-terror-attack-accused-lakhvi-061534426.html 9 January 2015 閲覧。
^ “Lakhvi gets bail, again” . Dawn, Pakistan. http://www.dawn.com/news/1155805 9 January 2015 閲覧。
^ “RAW Is Training 600 Balochis In Afghanistan ”. outlookindia.com. 27 December 2011 閲覧。
^ “Pakistan Times! " RAW Creating Trouble for NATO in Afghanistan ”. Pak-times.com (25 September 2010). 30 April 2012時点のオリジナル よりアーカイブ。13 April 2012 閲覧。
^ “RAW collusion suspected: Probe faults Afghan serviceman for NATO air raid, says report – The Express Tribune ”. Tribune.com.pk. 27 December 2011 閲覧。
^ “RAW helping militants in Afghanistan: Musharraf ”. Rediff.com (31 December 2004). 27 December 2011 閲覧。
^ a b c Carey Sublette (30 March 2001). “Indian nuclear pgoram: origin” . Indian nuclear pgoram: origin . http://nuclearweaponarchive.org/India/IndiaOrigin.html 4 February 2013 閲覧。
^ a b c India's First Bomb: 1967-1974. “India's First Bomb: 1967-1974 ”. India's First Bomb: 1967-1974. 4 February 2013 閲覧。
^ a b Lodhi, SFS. “Pakistan's space technology ”. Pakistan Space Journal. 30 April 2013時点のオリジナル よりアーカイブ。4 February 2013 閲覧。
^ Pakistan atomic bomb project: The Beginning. “Pakistan atomic bomb project: The Beginning ”. Pakistan atomic bomb project: The Beginning. 4 February 2013 閲覧。
^ a b c “The Eighties: Developing Capabilities” . The Eighties: Developing Capabilities . http://nuclearweaponarchive.org/Pakistan/PakDevelop.html 4 February 2013 閲覧。
^ “CNN.com - Nuke hotline for India, Pakistan - Jun 20, 2004” . Edition.cnn.com. (20 June 2004). http://edition.cnn.com/2004/WORLD/asiapcf/06/20/india.pakistan 27 December 2011 閲覧。
^ “Schoolmate wants to meet PM” . The Hindu . (23 June 2007). http://www.hindu.com/2007/06/23/stories/2007062355601600.htm
^ “This 'Pakistan' has no Muslims ”. 2020年12月31日 閲覧。
^ . オリジナル の9 March 2008時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080309002707/http://edition.cnn.com/2008/WORLD/asiapcf/03/04/india.prison.ap/index.html
^ “Friends Without Borders - international penpal program between India and Pakistan ”. 2020年12月31日 閲覧。
^ Declan Walsh, Pakistani media publish fake WikiLeaks cables attacking India The Guardian 9 December 2010
^ “A New Turn in India Pakistan Ties ” (14 February 2011). 2020年12月31日 閲覧。
^ Banerji, Annie (13 April 2012). “India to allow FDI from Pakistan, open border post | Reuters” . In.reuters.com. http://in.reuters.com/article/2012/04/13/india-pakistan-trade-fdi-investment-idINDEE83C04M20120413 13 April 2012 閲覧。
^ “Pak willing to resolve bilateral disputes with India: Hina Rabbani Khar” . (12 July 2012). http://www.indianexpress.com/news/pak-willing-to-resolve-bilateral-disputes-with-india-hina-rabbani-khar/973482/
^ “Krishna to undertake 3-day visit to Pakistan from Sept 7” . (24 July 2012). http://www.indianexpress.com/news/krishna-to-undertake-3day-visit-to-pakistan-from-sept-7/978706/
^ “Quake may improve India Pakistan ties” . CNN . (2 February 2001). オリジナル の21 August 2010時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100821221743/http://archives.cnn.com/2001/WORLD/asiapcf/south/02/02/india.quake.02
^ “Rival Pakistan offers India help” . BBC News . (30 January 2001). http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/1139807.stm
^ Gujarat gets Musharraf to dial PM in New Delhi Archived 4 October 2012 at the Wayback Machine .
^ “Indian troops cross LoC to back up relief efforts ” (13 October 2005). 2020年12月31日 閲覧。
^ “Hindustan Times - Archive News ”. 4 November 2005時点のオリジナル よりアーカイブ。15 October 2005 閲覧。
^ “BBC NEWS - South Asia - India offers Pakistan $25m in aid” . (27 October 2005). http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4381982.stm
^ “India releases list of 50 'most wanted fugitives' in Pak” . Times of India . http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2011-05-11/india/29532084_1_hafiz-saeed-fugitives-paramjit-singh-panjwar 22 May 2011 閲覧。
^ “India: 'Most wanted' errors embarrass government” . BBC News (BBC). (20 May 2011). https://www.bbc.co.uk/news/world-south-asia-13465908 20 May 2011 閲覧。
^ “Pakistan rejects India's list of 50 most wanted” . Times of India . オリジナル の3 June 2011時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110603073334/http://timesofindia.indiatimes.com/world/pakistan/Pakistan-rejects-Indias-list-of-50-most-wanted/articleshow/8560151.cms
^ a b Chaudhry, Fahad Naveed | Hufsa (20 May 2017). “How Pakistani-Americans are entering interfaith and interracial marriages — and making them work ” (英語). DAWN.COM . 26 August 2019 閲覧。
^ “Shoaib's family impressed by hospitality in India” . The Times of India . オリジナル の21 April 2010時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100421061206/http://timesofindia.indiatimes.com/sports/events-tournaments/sania-shoaib-wedding/Shoaibs-impressed-by-hospitality-in-India/articleshow/5827685.cms
^ “Sania Mirza weds Shoaib Malik after divorce row” . Reuters . (12 April 2010). http://in.reuters.com/article/topNews/idINIndia-47624320100412
^ The Indo-Pak Express rolls on , The Economic Times
^ “The British Asian Trust ”. 2020年12月31日 閲覧。
^ [1] Archived 18 December 2009 at the Wayback Machine .
^ “Official UK Launch of the Pakistan India Friendship Forum On 8th February 200 7At The House Of Commons ”. 2020年12月31日 閲覧。
^ “Search for a Member - MEPs - European Parliament ”. europarl.europa.eu . 2020年12月31日 閲覧。
^ “EU-India: Free Trade Agreement to be signed by the end of 2010 say MEPs ”. europarl.europa.eu . 2020年12月31日 閲覧。
^ Nisha Taneja (Indian Council for Research on International Economic Relations); Shaheen Rafi Khan, Moeed Yusuf, Shahbaz Bokhari, and Shoaib Aziz (SDPI, Islamabad). Zareen Fatima Naqvi and Philip Schuler. ed. Chapter 4: India–Pakistan Trade: The View from the Indian Side (p. 72-77) Chapter 5: Quantifying Informal Trade Between Pakistan and India (p. 87-104) . (The International Bank for Reconstruction and Development, June 2007). https://nub.academia.edu/NishaAkter/Papers/910718/The_Challenges_and_Potential_of_Pakistan-India_Trade 29 August 2012 閲覧。 .
^ “South Asia's Growth and Regional Integration: An Overview ”. World Bank . p. 33. 29 August 2012 閲覧。
参考文献
Lumby, E.W.R. (1954), The Transfer of Power in India, 1945–1947 , London: George Allen and Unwin
Metcalf, Barbara D.; Metcalf, Thomas R. (2006), A Concise History of India (2nd ed.), Cambridge University Press, ISBN 978-0521682251 , https://books.google.com/books?id=jGCBNTDv7acC
追加の文献
Budania, Rajpal, "India's Pakistan Policy: A Study in the Context of Security," South Asian Studies , Vol.30:2,1995.
Burke, S.M.,Mainsprings of Indian and Pakistani Foreign Policies , Minneapolis, University of Minnesota, 1974.
Brines Russel, The Indo-Pakistan Conflict , London, Pall Mall Press, 1968.
Thomas Powers , "The War without End" (review of Steve Coll , Directorate S: The CIA and America's Secret Wars in Afghanistan and Pakistan , Penguin, 2018, 757 pp.), The New York Review of Books , vol. LXV, no. 7 (19 April 2018), pp. 42–43. "Forty-plus years after our failure in Vietnam , the United States is again fighting an endless war in a faraway place against a culture and a people we don't understand for political reasons that make sense in Washington , but nowhere else." (p. 43.) Pakistan 's support of Afghanistan 's Taliban guerrillas , including provision of sanctuary , relates to Pakistan's hope of acquiring India's Kashmir . (p. 42.)
外部リンク