マンモハン・シン (英語:Manmohan Singh 、ヒンディー語 : मनमोहन सिंह 、パンジャーブ語 : ਮਨਮੋਹਨ ਸਿੰਘ 、1932年 9月26日 -)は、インド の政治家 、経済学者 。第17代インド首相 。
出自
1932年9月26日にパンジャーブ 地方の西部(現在のパキスタン 領)に位置するガー村で[ 1] シク教 徒の子として誕生する。インドとパキスタンが分離独立 をすると、家族と共にインドのアムリトサル に移住した[ 1] 。
シンは貧しい環境で育ったため、貧困克服の手段を学ぶことで故郷への貢献を果たそうと経済学者を志す[ 2] 。そしてチャンディーガル のパンジャーブ大学 で経済学 を学び、1952年 に学士 、1954年 に修士 の学位 をそれぞれ取得する。1955年 にはイギリス のケンブリッジ大学 セント・ジョーンズ・カレッジに留学[ 3] 。ここで彼は優秀な成績を収めた学生に送られる「アダム・スミス 賞」と「ライト賞」を授与されている[ 4] 。また、通常は受験するのに3年間の課程が必要な最終試験も入学2年未満で受験して同大学の学位を取得した[ 3] 。さらにオックスフォード大学 ナフィールド・カレッジでも学び、1962年 に博士 課程を修了してPh.D. を取得する。
経済学者から政治家へ
インドに帰国してからは経済学者として活動し、パンジャーブ大学とデリー大学 で経済学の教鞭を取る。同時に国際連合貿易開発会議 (UNCTAD)に勤務していた期間もある。その後中央政府 の官僚 となり、インド外国貿易省とインド大蔵省でそれぞれ経済顧問として働き、さらに1976年 から1980年 までの期間にインド大蔵省の事務次官を務めた。それからも1982年 から1985年 までインド準備銀行 (中央銀行 )総裁、1985年から1987年まで経済計画委員会副委員長、1990年 から1991年 まで首相経済諮問委員会委員長を務めるなど、要職を歴任した。
1991年6月に国民会議派 のナラシンハ・ラーオ 政権で大蔵大臣に就任した。当時インドは経済危機に直面していたが、シンは首相のラーオとともに経済危機克服に乗り出し、今までインド政府が行ってきた社会主義 的な計画経済 の代わりに市場主義経済 を導入した。そして多岐にわたる経済改革を推進し、産業ライセンス制度の撤廃や対内直接投資 の規制緩和 、国営企業の民営化 などを行った。結果としてインド経済は危機を克服し、実質経済成長率 も1991年には2.1%だったものが1996年 には7.6%にまで伸び、中国 に次ぐ経済発展に成功し[ 5] 、インドの財務大臣も務めたP・チダンバラム からは「インドの鄧小平 」とまで称えられることとなった[ 6] 。この功績により、1997年 には第2回日経アジア賞 を受賞している。
また、1991年から上院 議員も務め、1995年 、2001年 、2007年 にそれぞれ再選している[ 7] 。インド人民党 が政権の座にあり、国民会議派が野党 だった期間には、1998年 から2004年 まで上院の野党院内総務を務めている[ 7] 。
首相
2004年のインド総選挙で国民会議派がインド人民党を破って第一党となると、国民会議総裁であるソニア・ガンディー がそのまま首相に就任するかと思われたが、イタリア 生まれのソニアは自身が首相となるのを固辞し、代わりにシンを首相に指名した。この裁定により、シンはインド独立以来ヒンドゥー教徒 以外では初めてとなる首相に就任する。清廉で質素な生活を送り人格者として知られるシンは好意的に受け止められ、高支持率でスタートを切った。
2008年 、閣外協力をしていたインド共産党 中心の左翼戦線 がアメリカ合衆国 との米印原子力協力 (後述)に反発して政権を離脱した上に、連邦議会下院 でシンの信任投票が行われる事態になる。しかし7月22日 に行われた投票で過半数の信任を得たため、引き続き首相を務めた。
2009年の総選挙 において国民会議派中心の政党連合 である統一進歩同盟 が勝利したため、シンは同選挙後も首相を続投することになり、第二次政権 をスタートさせた。下院の任期満了後に選挙を経て続投する首相は初代のジャワハルラール・ネルー 以来2人目となる。
2014年 1月、シンは首相続投を否定し、今期限りでの退任を表明。同年5月の総選挙 直後に退任した。総選挙では野党のインド人民党が大勝し、国民会議派は下野。これに伴い、シンの後任の首相にはインド人民党のナレンドラ・モディ が就任した。
内政
シン政権ではインドの高度経済成長 が継続しており、2005年 、2006年 、2007年の実質経済成長率はいずれも9%台の高い水準に達している[ 8] 。基本的にはラーオ政権のときに自らが大蔵大臣として進めた経済改革路線を継続し、経済の自由化を推進している(ただし第一次政権においては、連立政権のパートナーだった左派勢力からの反対により改革はあまり進展しなかった[ 9] )。また、経済成長に取り残された貧困層の間で台頭してテロ 活動を行っていたインド共産党毛沢東主義派 (ナクサライト)を「インド国内の安全保障上最大の問題」と位置づけ[ 10] [ 11] 、テロ対策と貧困対策に力を注ぎ、地方の日雇い労働者に対する賃金補償や農民に対する債務免除などの政策を実行し[ 12] 、2008年 のイスラーム過激派 によるムンバイ同時多発テロ事件 を受けて国家捜査局の設置なども推し進め[ 13] 、翌年2009年 にインド固有識別番号庁(UIDAI)を創設してアドハー システムの整備を決定した[ 14] 。
外交
2008年 、ロシア連邦大統領 のドミートリー・メドヴェージェフ 、中華人民共和国主席 の胡錦濤 、ブラジル連邦共和国大統領 のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ と
2006年 、アメリカ合衆国大統領 (当時)のジョージ・W・ブッシュ と
2009年 、内閣総理大臣 (当時)の鳩山由紀夫 と
訪印した天皇 、美智子皇后 を出迎えるマンモハン・シンとグルシャラン夫人(2013年11月)
国境などを巡って対立が続く中華人民共和国 やパキスタンとは、前首相であるアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー の対話路線を継続している。中国とはヴァージペーイーが示した戦略的パートナー関係の構築を目指し、首脳同士の交流も盛んに行っている。2005年にはパキスタンとともに中国が主導する上海協力機構 にオブザーバー加盟し、同年に国務院総理 の温家宝 、2007年には国家主席 の胡錦濤 がそれぞれインドを訪問し、2008年には逆にシンが中国を訪問し、同じBRICS として積極的な経済交流も行って中国はインド第2の貿易相手国となった[ 15] 。また、パキスタンとは2004年2月から開始された「複合的対話」を継続し関係正常化を目指している。しかし、2008年のムンバイ同時多発テロが発生した後、シンはパキスタンがテロに関与していると不信感を示し、パキスタンによるテロ対策が関係改善の条件だと発言[ 16] するなど、関係正常化には至っていない。
アメリカ合衆国とは関係強化を図っており、2007年7月に米印原子力協力を妥結している。2005年7月に訪米した際にアメリカ合衆国大統領 (当時)のジョージ・W・ブッシュ との共同声明 でこの取り決めを発表し、翌2006年にブッシュが訪印した時に合意した。この取り決めは2008年8月に国際原子力機関 (IAEA)理事会によって承認されたが、前述のように、承認に至るまでシンは連立与党内の反発を受けることになった。
日本 とも関係強化を目指しており、2006年12月中旬の来日の際に衆議院 で演説を行い、今回の訪日がパートナーシップ構想を具体化するためであると言明した[ 17] 。また、この演説では「戦後、パール判事 の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています」とも語り[ 17] 、8世紀に来日したインドの僧侶 ボディセナ(菩提僊那 )の時代から現代に至るまでのインドと日本両国の関係に触れている。この訪問は、日本とインドの首相が相互訪問を行うきっかけとなった[ 18] 。
さらに2008年10月の来日では、内閣総理大臣 (当時)の麻生太郎 との共同声明においてパートナーシップ構想の再確認を行い、安全保障協力についての共同宣言 を発表した。2009年 12月に内閣総理大臣(当時)の鳩山由紀夫 が訪印した際には、安全保障協力を促進するための行動計画を策定した[ 19] 。日米との関係強化により、日米豪印戦略対話 が設置された。
家族
グルシャラン・カウル夫人とは1958年 に結婚し、3人の娘をもうけている。長女のウピンダルは歴史学者 であり、デリー大学で教鞭を取っている[ 20] 。次女のダマンは作家 であり、The Last Frontier: People and Forests in Mizoram やNine by Nine といった作品を残している[ 21] 。三女のアムリットはアメリカ自由人権協会 の弁護士 を務めている[ 22] 。
脚注
^ a b "Dr Manmohan Singh: A story from humble beginnings ". Dr. Manmohan Singh Indian Prime Minister, May 21, 2004.
^ 「第2回日経アジア賞受賞者 」 NIKKEI NET 、1997年。
^ a b 「ケンブリッジ大、インドのシン首相に名誉博士号 - 英国 」 フランス通信社 、2006年10月11日 。
^ 「マンモハン・シン: 史上初のシーク教徒首相 」 ヴォイス・オブ・インディア、2006年10月10日 。
^ "India: Gross domestic product, constant prices―Annual percent change ". International Monetary Fund , 2009.
^ "Manmohan is Deng Xiaoping of India: P Chidambaram – Oneindia News". News.oneindia.in. 2 May 2008.
^ a b "Detailed Profile: Dr. Manmohan Singh ". National Portal of India.
^ 「基礎的経済指標(インド) 」 JETRO 、2009年1月16日 最終更新。
^ 「アジアを読む 『総選挙後のインド シン政権2期目の課題』 」 解説委員室ブログ、日本放送協会 、2009年6月2日 。
^ Robinson, Simon (29 May 2008). “India's Secret War” . Time . http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1810169-1,00.html 2019年11月8日 閲覧。
^ “India's Naxalite Rebellion: The red heart of India” . The Economist (London). (5 November 2009). http://www.economist.com/world/asia/displaystory.cfm?story_id=14820724 2019年11月8日 閲覧。
^ 「インド総選挙 与党連合が圧勝 シン首相続投へ」産経新聞 、2009年5月16日
^ “Home minister proposes radical restructuring of security architecture ”. Press Information Bureau, Government of india. 2019年2月18日 閲覧。
^ “Before the BJP: Here’s how Aadhaar took shape under Manmohan Singh’s UPA government ”. Scroll.in (2017年7月22日). 2019年2月18日 閲覧。
^ China becomes India's 2nd largest trade partner
^ 「パキスタンのテロ対策が印パ関係正常化の条件:シン首相 」 ヴォイス・オブ・インディア、2008年12月15日 。
^ a b
国会演説 - ウェイバックマシン (2007年8月6日アーカイブ分) インド大使館、2006年12月14日 。
^ “安倍首相がインドに何度も行く理由 ”. 日経BP (2017年9月20日). 2018年3月10日 閲覧。
^ 「安保協議を毎年開催、日印首脳が行動計画 」 読売新聞、2009年12月29日 。2009年12月29日閲覧。
^ 「インドのシン首相、娘の本の発売記念会に出席 」 IBTimes、2008年8月8日 。
^ "Meet Dr Singh's daughter ". Rediff News, January 28, 2009.
^ "PM's daughter puts White House in the dock ". The Times of India, December 21,2007.
外部リンク