“ニキ”アンドレアス・ニコラウス・ラウダ (独 : Andreas Nikolaus "Niki" Lauda , 1949年 2月22日 - 2019年 5月20日 )は、オーストリア 出身のレーシングドライバー 。
1975年 、1977年 、1984年 のF1 チャンピオン。「スーパーラット」「不死鳥」の異名があり、ミスが極めて少ない走りから「コンピューター 」の渾名を持つ[ 1] 。実業家 の一面もあり、引退後はF1チームの役職を歴任した。
プロフィール
デビュー前
生家はいくつもの製紙工場 を所有する資産家 で、その長男として生まれた。1966年 にニュルブルクリンク で開催されたドイツグランプリ を観戦したのがきっかけで、レーサーの道を進む決意をする。しかし、事業を継がせることを望んでいた家族は、ラウダのレース活動に協力的ではなかった。家族に内緒で参戦した初のレースでいきなり2位に入り新聞 のスポーツ欄に掲載されたため、その記事を見た父親が激怒してレース禁止を言い渡したが、次に出場したレースでは優勝してしまったため、一層の怒りを買い「レーサーを辞めないなら、ラウダ家の物を一切置いて家から出て行け」と言われてしまう。それでもレースを続けたため、暫く勘当 されることとなった。後ろ盾のないまま自らスポンサー獲得の交渉も行い、金銭的苦労を重ねながらステップアップしていった。そのため生命保険 を担保 に借金をしたりもした(当時のオーストリアでは生命保険を担保にするのは普通の事であった)。
マーチ時代
欧州F2 選手権等で活躍後、1971年 8月の地元開催グランプリにマーチ からF1 にスポットデビューする。このデビュー戦では父親による各所への圧力でチームへの持参金が足りず、金策の為に自らの交渉術の結果、銀行 から融資 を受けられることになったが、担保は自らの生命保険であった。ラウダは、参戦前に自分のレース計画や将来の展望について記者会見を行う、新しいタイプのドライバーだった。チームメイトのロニー・ピーターソン とは友人であったが、マーチは資金不足でありピーターソンの1台に注力する状況が続いた。ラウダはピーターソンと遜色のない速さもみせたが、1972年 末にマーチとは契約終了となった。
BRM時代
F1での活動継続のピンチに立ったラウダであったがマールボロ BRM に売り込みをし、BRMへ持参金を持ち込む条件で翌1973年シーズンのF1シートを確保した。また資金稼ぎのために参戦していたBMW アルピナ・ツーリングカー での活動も、引き続き延長することとなった。
1973年
BRMではマシンの信頼性に問題があり、入賞はベルギーグランプリ での5位のみだったが、各グランプリでリタイアするまでは速さを見せていた。特にモナコグランプリ でフェラーリ をリードする走りをしたことでエンツォ・フェラーリ がラウダに注目。また、BRMで1レースだけチームメイトとして一緒に走り、既にフェラーリへの移籍を果たしていたクレイ・レガツォーニ からの推薦もあった。夏には、翌1974年からフェラーリの監督となるルカ・ディ・モンテゼーモロ を代理として、フェラーリが正式にラウダを勧誘。BRMとの契約をクリアーし移籍が決まった。そして、BMWアルピナ・ツーリングカー参戦もこの年で終了となった。
フェラーリ時代
跳ね馬の新旗手
1974年のオランダグランプリ
1975年のラウダ
1974年
南アフリカグランプリ で自身初のポールポジションを獲得。続くスペイングランプリ ではポール・トゥ・ウィンで初勝利を達成し、シーズン中盤にはドライバーズポイント首位に立った。イギリスグランプリ ではレース終了間際にピットインした際、観客の乱入によりコースに復帰できず5位となる珍事が起きた。この年は2勝し、最多の9ポールポジションを獲得したが、終盤戦の5連続リタイアによりタイトルを逃した(ドイツグランプリ やカナダグランプリ でミスもしていた)。しかしこのシーズンは、徹底したテスト・ドライブこそが、レースで高性能を引き出す鍵であることをラウダは理解した。アンダーステア を抱えていた312B3 を進化させる為、フェラーリの工場に隣接するフィオラノサーキット を納得するまで走り込んだ。
1975年
テストを積極的に行い、312T を開発。第3戦南アフリカグランプリ より投入された312Tは信頼性も高かった。ラウダは5勝9ポールポジションをあげ、速さと安定した走りでポイントを重ね、ワールドチャンピオン となった。フェラーリのコンストラクターズタイトル 獲得にも貢献した。監督のモンテゼーモロ、デザイナーのマウロ・フォルギエリ との関係も良好だった。しかし、そのモンテゼーモロは同シーズンで監督を退き、フィアット に戻った。後任はランチア のレース部門を管理していたダニエル・オーデット が就任した。
大事故からの生還
1976年のドイツグランプリ
1976年のイタリアグランプリ
1976年
春に交際していたマルレーネと結婚。前年チャンピオンの勢いそのまま、改良された312T2と共に快進撃を続け、第9戦終了時点で5勝、2位2回の成績で、2位に23ポイントも差をつける圧倒的なポイントリーダーであり、ワールドチャンピオンの連覇は間違いないものと思われていた。
しかし、ニュルブルクリンク で開催された第10戦ドイツグランプリ で悲劇に襲われる。レインタイヤでスタートしたが、ドライタイヤに交換して後退してから順位を挽回中に「ベルクヴェルク」の一つ手前にある左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、コース右側のキャッチフェンスを突き破り、露出していた岩に衝突、その衝撃でヘルメット が脱げてしまった。
クラッシュし発火したマシンはコース中央まで跳ね返され停止、これにブレット・ランガー のサーティース・TS19 が衝突し、アメリカ人ドライバーのガイ・エドワーズ 、後続で停止したハラルド・アートル 、アルトゥーロ・メルツァリオ 、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行った。事故原因については、縁石にタイヤを乗せた弾みでスピンしてからのリアサスペンション の故障説があり、ラウダ自身はタイヤトラブルだと語っているが、その後もコントロールを失った真の原因は確定できず謎となっている。
ラウダはヘルメットが脱げてしまった影響で頭部に大火傷を負い、FRP 製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けた。数日間生死の境を彷徨ったが、臨終儀式の用意のために神父 が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復。事故発生から6週間後の第13戦イタリアグランプリ で奇跡のレース復帰を果たし、4位入賞した。この時モンツァ・サーキット に姿を現したラウダの顔の右半分には、自らの大腿部の皮膚を移植した火傷治療の痕が生々しく残っている状態だったが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事も無かった。一方、マクラーレン のジェームス・ハント が第14戦カナダグランプリ 、第15戦アメリカ東グランプリ と連勝し、ラウダはそれぞれ8位、3位だったためポイント差を詰められた。
タイトル争いは最終戦のF1世界選手権イン・ジャパン に持ち込まれた。この時点でポイントリーダーはラウダで、わずか3ポイント差の2位にハント。富士スピードウェイ での決勝は、コースに川ができるほどの豪雨に見舞われた。レース中止案もある中で強行された決勝を、ラウダは「リスクが大きすぎる」として、わずか2周をスロー走行したのみでピット・インし自らリタイアした。一方のハントは決勝で3位に入賞し4ポイントを獲得、1ポイントラウダを上まわり逆転での1976年F1ワールドチャンピオンとなった。
独断でリタイアし自ら王座を手放したラウダに、フェラーリのテクニカル・ディレクターのマウロ・フォルギエーリ が「マシンのせいといえばいい」と言ったがこれを拒否し、またエンツォ・フェラーリは公には庇ったが、その後の関係はギクシャクしていく。また、ラウダが負傷欠場していた第12戦オーストリアグランプリの期間中、ラウダがレースに復帰する見込みがないと判断していたエンツォは、チーム監督のオーデットに指示を出し、ブラバムのカルロス・ロイテマン をラウダの代役としてフェラーリに引き入れていたが、ラウダが早期に復帰したため、結果的にチームメイトであるレガツォーニの解雇につながり、これをきっかけにラウダとチーム首脳の間に亀裂が生じた。
1977年のオランダグランプリ 1977年
前年からの皮膚移植治療などに注力したことも重なり、1977年シーズン前のテスト・プログラムからラウダは除外されていたが、その間にチームはカルロスロイテマン寄りになってしまっていた。第3戦南アフリカグランプリでシーズン初勝利を挙げ、チームの体制を自分に取り戻そうとするが、チームはラウダよりもロイテマンを優遇するような素振りを見せるようになっていた。また第11戦ドイツグランプリ、第13戦オランダグランプリをそれぞれ勝利し、シーズン3勝、2位6回と安定した速さを見せ第15戦アメリカ東グランプリ にて2度目のワールドチャンピオン を確定した。
しかし、前年からの経緯や、自分よりもロイテマンを優先するチームに嫌気がさし、フェラーリからの離脱を決意していたラウダは、ゴードン・マレー のデザインした、サーフェイス・クーリング(表面冷却)と呼ばれるブラバム・BT46 に惹かれ、ブラバムの代表であるバーニー・エクレストン とサインを交わし翌年からの移籍が決定した。すると、ラウダと共にブラバムへ移籍したいと希望したメカニックがフェラーリから即時解雇され、ラウダはこれに激怒。アメリカ東グランプリ後に2戦を残してフェラーリを去った。この際、引き止めたいエンツォ・フェラーリと去りたいラウダとの間で、白紙の小切手を前にした生々しく激しい口論も発生している(後述)。
ブラバム時代
1978年オランダGP
1978年
完走したレースは2勝、2位3回、3位2回と安定して速かったが、BT46はラウダの見込みに反して信頼性が低く、全16戦中6戦をマシントラブルで、3戦をアクシデントでリタイアし、ランキング4位で終わった。スウェーデングランプリ ではファン・カー と呼ばれたBT46B に乗り優勝したが、リアエンドに取り付けられた冷却用ファンが禁止されている「可動する空力デバイス」に当たるとのクレームを受け、次レースから同システムの使用が禁止された。
また、この年にラウダ航空 を設立し実業家としてのキャリアが本格スタート。チャーター便 の航空市場に参入した。
1979年
ブラバムはアルファロメオ 製V12エンジンを搭載するBT48 で戦っていたが、パワーはあるものの信頼性が低く結果が伴わなかった。また、同年にはアルファロメオのワークスチームがF1に復活しており、エクレストン代表はブラバムがアルファロメオからセカンドチーム扱いされることを避けたい事情から、搭載エンジンをV型8気筒のフォード・コスワース・DFVエンジン へ変更することを決定。ラウダはF1キャリアで初めてV8エンジンをドライブすることになる。シーズン終盤の第14戦カナダグランプリ にDFVエンジン搭載の新車BT49 を投入した。ラウダはこの新車をカナダGP初日のフリープラクティスで走らせた後、予選開始を前に突然レーサーを引退すると発表する。「同じ場所(サーキット )を何回も何回も走りまわらなくてもよくなったんだ。一生の終わらないうちに、やっておくべきことが他にあると思うんだ」と理由を語ったが、自著『To Hell And Back』においては、レースに対するモチベーションの低下を明かしている。エクレストンとの交渉で、200万ドルの契約延長を勝ち取ったが、同時に興味を失っていることに気付いた[ 2] ほか、これまで乗ってきた高回転型のV12エンジンに比べ、DFVエンジンは「音が平らでこもっており、何もかもが遅く感じられ、退屈だった」[ 2] ためという。引退後は、実業家としてラウダ航空の経営に専念することとなった。
マクラーレン時代
現役復帰
1981年
ラウダがレース界から去り2年経過していた同年シーズン終了の少し前、マクラーレン のロン・デニス とマールボロ のジョン・ホーガン から、ドニントンパーク でのMP4/1 のテストに招かれた。テストランを経て11月にマクラーレンからラウダのF1 への参戦が発表され、2年半ぶりに(翌1982年から)現役復帰することになった。「2年間、モーターレーシングに興味を示すことはなかった。でもオーストリアグランプリ (1981年)の時にふと気づいたら、(復帰を)考え込んでいた」とラウダは語っている。しかし、当時の航空業界は世界的な金融不況の直撃を受け、ラウダ航空の経営も順調ではなかったからという説もある。ラウダ航空はその頃、国営のオーストリア航空 と路線認可の紛争も抱えていた。ラウダのヘルメット はそれまで赤一色であったが、この復帰以後はラウダ航空の旅客機の尾翼と同様の「(LAUDAの)L 」をモチーフとしたデザインが施されていた。デニスはラウダとの契約時に、実業家とF1ドライバーの兼務となるリスク軽減の一策として「もしラウダが明白に(レーシングドライバーとしての)任務を果たしていない場合、開幕から4レースで降りてもらう」という一文を入れたいと要求し、ラウダは了承している。
1982年
シーズン開幕前の走行では、ラウダがレースから離れている間にF1で普及したラジアルタイヤ への違和感もあったが、以前と同様にテストで走りこんで感覚を取り戻していった。また、ニュルブルクリンクでの事故の後遺症 を克服するためにサポートを受けたアスレティックトレーナー (ヴィリー・ダンクル)のメニューで体力作りを行い、開幕に備えた。ラウダのチーフ・エンジニア担当はスティーブ・ニコルズ となった。第3戦アメリカ西グランプリ で復帰後初勝利し、第9戦イギリスグランプリ を含む2勝を挙げ、ランキング5位だった。
1983年
全15戦中、7戦をマシントラブルでリタイアし、ランキング10位。それでも第12戦オランダグランプリ からTAG のスポンサーシップを得て、ポルシェ 製1.5リッター・ターボV6エンジンを搭載したMP4/1E に乗った。残りのレースは翌年への準備となった。
3度目のタイトルと引退
1984年
MP4/2 を駆るラウダ アメリカGP (ダラス)1984年
前年ルノー でランキング2位を獲得しこの年マクラーレンに移籍してきた、ラウダにとって最後のチームメイトとなったアラン・プロスト と年間を通じてチャンピオン争いをすることになる。ラウダ5勝、プロスト7勝で、予選もプロストの15勝1敗と純粋な速さではプロストに分があったものの、プロストがリタイアしたり、マシントラブルが起きたレースなどで着実に上位で生き残ってチャンピオン争いに絡んだ。このシーズンで唯一予選でプロストを上回った第2戦南アフリカグランプリ ではプロストを従えての1-2フィニッシュで勝利。第5戦フランスグランプリ ではプロストのタイヤトラブルでのピットインに乗じてリードを奪い勝利した。第9戦アメリカグランプリ 終了時点では2勝する一方でリタイアも6回あり、プロストに10ポイント以上リードされたが、第10戦イギリスグランプリ 以降は7戦連続で入賞した。
その中でラウダにとっては最初で最後となる地元オーストリアグランプリ での優勝も経験した。トップを走っていたブラバム のネルソン・ピケ がスピンし、再出走はしたもののタイヤ摩耗が進んだのを見抜いたラウダはじわじわと差を詰めて残り10周ほどでトップに立つ。その後でラウダのマシンに変速ギアのひとつが砕けるトラブルが起きたが、ラウダのテクニックによりラップタイムを大きく落とさず、トラブルが起きているそぶりも見せなかった。2位のピケは縮まらないラウダとのタイム差を考えてポジションキープに移行し、優勝を勝ち取った。イギリスグランプリ以降、プロストは4勝3リタイアという結果だったが、ラウダはプロストがリタイアした3レースを全て制し、逆にプロストが勝利したレースでも2位3回、4位1回と着実にポイントを稼いだ。
ラウダとプロストとのチャンピオン争いは最終戦ポルトガルグランプリ までもつれ込んだ。ラウダは予選11位スタート。プロストが1周目でトップに立ち独走したが、ラウダは20周目で6位まで浮上するとその後も順位を上げ、最後は2位で走行中のナイジェル・マンセル のブレーキ不調によるペースダウンに乗じて2位を確保し、プロストにわずか0.5ポイントの差で、3度目のワールドチャンピオン に輝いた。この年間2位との差0.5ポイントはF1史上最小得点差でのワールドチャンピオンであり以後も更新されていない。全16戦中12勝を得たマクラーレンはコンストラクターズタイトル でも圧勝。ラウダは「今までチームメイトとこんなバトルをやったことはなかった。常に少しでも速く、少しでも上手に運転して、彼(プロスト)との競争で優位に立たなくてはならなかった」と喜びを語った。また、2年連続で最終戦でチャンピオン獲得を逃した後輩プロストへは「気にするな。来年は君がタイトルを取るよ」と声をかけている。この最終戦には1976年の事故以来サーキットへ一度も訪れなかったマルレーネ夫人も姿を見せ[ 3] 表彰式ではラウダと抱擁して喜びを分かち合った。
ラウダはマクラーレン在籍中の4年間、ポールポジションを1度も獲得していない(この1984年に限ればオーストリアグランプリの4位が予選最高位)が、ポールポジションを1度も獲得せずにワールドチャンピオンとなったドライバーはこの1984年のラウダを最後に出ていない。このように決勝レースで強さとしぶとさを誇示するラウダのレーシングスタイルは、これまで予選でも速さに拘る傾向が見られたプロストがそのドライビングスタイルを変えるきっかけとなる。
1985年
ラウダのマシンにトラブルが多発し、チャンピオン争いから脱落。自身が前年に予言したとおりプロストが初のF1ワールドチャンピオンを獲得した。第10戦オーストリアグランプリ でこの年限りでのF1引退を発表。ラウダは「昨年の私のモチベーションはアラン・プロストだった。彼とワールドチャンピオンシップで闘い、破る事だった。今年はプロストがワールド・チャンピオンを勝ち取ることを確かめたいと思った。1986年を走るための新鮮な動機を見つけようとしたが見つからなかった。もし今年がよい成績だったとしても同じ決断をしていたと思う」と語った[ 4] 。次戦オランダグランプリ でF1通算25勝目(1985シーズン唯一の優勝)を果たし、これがラウダのF1最後の優勝となった[ 5] 。同グランプリは予選10番手スタートながら終盤プロストの追い上げを巧みにブロックし0秒232の微差で抑え込んで勝っている。最終戦のオーストラリアグランプリ では一時トップを走行したが、ブレーキ トラブルでリタイアとなりレーサーとしてのキャリアを終えた。ラウダはその10日後にはボーイング737 の機長 養成トレーニング に姿を見せ、新しい人生を開始していた。
引退後
ニキ航空のエアバスA321型機
1991年 12月にフェラーリの社長となったルカ・モンテゼーモロから、前年に勝利を挙げられず低迷したフェラーリのF1活動の手助けを依頼されアドバイザーに就任[ 6] 。ミハエル・シューマッハ やエディ・アーバイン 、後藤治 などの国際色豊かなメンバーとともにチームを立て直し、チャンピオン獲得に貢献した。
2001年 夏にはボビー・レイホール の後任としてジャガー F1チームのチーム代表(CEO )となったが[ 7] 、社内人事の混乱により2002年シーズン終了後に解任された[ 8] 。
実業家としては、1978年に設立したラウダ航空 の創業に成功するが、1991年 に機体の設計上の不具合が原因で、タイ にて自社のボーイング767 型機が機体故障で墜落 する大惨事が発生した。
事故後に経営は持ち直すも、資金運用で失敗して経営権をオーストリアのフラッグ・キャリア であるオーストリア航空 に譲渡している。その後は2003年 に自らのファーストネームをつけた格安航空会社 のニキ航空 を設立し、経営者となった。2011年に共同出資者のエア・ベルリン へ会社を売却し、エア・ベルリンの社外取締役に就任した。このほかドイツ国内でのF1テレビ放送 (RTL ) にて解説を務めるほか、F1の現状について辛口のコメントを発している。2012年にはレース後の表彰式でのインタビュアーを務めた。
晩年期(2016年)
2012年9月、ラウダはエア・ベルリンの役員を辞任し、メルセデスAMG F1 の業務執行権を持たない非常勤会長に就任した。併せてチームの株式10%を保有するとみられる[ 9] 。ラウダは自身の役割について、イギリスのレース本部(ブラックレー)とドイツのメルセデス本社のつなぎ役と説明した[ 10] 。2013年からチーム代表に就任したトト・ヴォルフ をサポートし、2014年シーズン以降、コンストラクターズとドライバーズのダブルタイトルを独占するメルセデス黄金時代の到来に貢献した。
2016年1月にはオーストリアでビジネスジェット等の運行を手がけていた「Amira Air」社を買収、「Laudamotion (英語版 ) )」と社名を変更して再び航空業界に参入。2018年1月には、前年に経営破綻し運行を停止していたニキ航空の株式を買い戻し[ 11] 、同年3月より「Laudamotion」(ラウダモーション)ブランドで一部路線の運行を再開した(ただし実業務の多くはコンドル航空 に委託された)。
運行再開と時を同じくして、ラウダはLaudamotionの株式をライアンエアー に売却したが(それに伴い運行業務の委託先も同社に変更)、以後もLaudamotionの会長として経営への関与は続ける[ 12] 。
晩年
2017年2月にはメルセデスとの契約を2020年末まで延長したが[ 13] 、2018年7月のイギリスGP 以降は、体力的なこともありチームから離脱した。
8月、前月より肺胞出血 の症状で入院していた病状が悪化したため、肺移植 の手術を受ける[ 14] 。手術は成功したものの退院までは2ヶ月を要し、その後も2019年1月にはインフルエンザ で入院するなど[ 15] 病状は一進一退を続けた。本人はF1への現場復帰を望んでいたものの、結局復帰を果たせないまま、2019年5月20日に家族から死去が公表された[ 16] 。
死去から2年後の誕生日となる2021年 2月22日 、生前より親交のあったゴードン・マレー はラウダの長年の功績を称え、新たに開発したスーパーカー「GMA・T.50 」のサーキット仕様車となる「T.50sニキ・ラウダ」を発表。1978年のスウェーデンGPで、マレーがデザインしたブラバムBT46B“ファンカー”で優勝したニキに敬意を表して命名され、生産台数はラウダがF1で優勝したレース数と同じ限定25台。1台ずつラウダとの関係が深いグランプリにちなんだ名前をつけるといい、最初のシャシーは彼が初めてポールポジションを獲得した南アフリカGPを意味する“キャラミ1974”と呼称される。販売価格は310万ポンド、日本円で約4億6000万円で販売予定[ 17] 。
なお、前述したオーストリア国籍のLaudamotion (英語版 ) はラウダの死後1年半程経った2020年10月に運航を停止した。ただし、親会社のライアンエアー がこの際にLaudamotionの全ての業務をマルタ 国籍のLauda Europe (英語版 ) に移管させており、Lauda Europeは2024年3月現在でも28機のエアバスA320ceo を用いて運航を継続している。ラウダの死から5年近くが経った現在でも、彼の名を冠した航空機がヨーロッパの空を飛び続けていることになる[ 18] 。
人物
エピソード
15歳の時に会社のトラック を運転して、工場間の短距離輸送をはじめていた。地元の警察官 は名士の息子であるラウダが来ると手を振っていたが、18歳になり自動車運転免許 を取得に警察へ来たラウダを見て、それまで無免許だったことを知ったその警察官は驚愕した。免許は取得できたものの、ラウダは厳しく叱られている。
初めてレーシングカーを手に入れる際、売り手には事前に実家をみせた。購入条件はラウダが持っていた公道用の車と交換し、不足分はそれを売った時に支払うというものであった。仮にラウダが支払わなくても実家が支払うだろうと売り手に思わせる為であった。その後、ラウダは前述のやり方でマシンを購入し続けるのだが、手にいれたマシンは丁寧に扱っていた。
フェラーリ入りして最初のテスト走行後に感想を聞かれると「ひどいマシンだ」と切り捨てた(当時のフェラーリではエンツォ・フェラーリの前でマシンの批判は禁句だった)。「フロントサスペンションを直してほしい」と要求すると、エンツォは「よかろう、ただしそれで1秒速く走れなければ、お前はクビだ」と告げた。ラウダは手直ししたマシンで1秒以上速く走り、有言実行ぶりを示した[ 19] 。
名誉に執着が無く、地元のガソリンスタンドで代金代わりにF1の優勝トロフィーを渡したこともあった。
1976年のニュルブルクリンクでの大事故では、病院では助かる見込みが少ないと思われ、神父 を呼んで臨終の儀式 まで行われていた。ラウダは「冗談じゃない、死んでたまるか」と、妻の呼びかけで薄れる意識を保とうとした。
事故前の記憶もラウダ曰く「ブラックホール 」となっており、直近のものとしてかろうじて思い出せるのは、事故2日前の夜に見たテレビのスポーツニュースショーだという(その番組ではニュルブルクリンクは安全性が低いと発言したラウダを臆病者と批判する内容を放映していた)[ 20] 。
その後、エンツォにイタリアグランプリ からの復帰を申し出たが「ダメだ。もし最終的に世界チャンピオンになれなかった時、事故のせいにできるから、あまり早く復帰しない方が良い」と一時は断られた。また、豪雨の最終戦(初の日本グランプリ)で自らマシンを降りた際には、メカニックに「また死に損なうのは御免だ」と告げたという。
事故からの復帰時には「恐怖心はない」とマスコミに言い続けたが、引退後に出版した自伝 では「あれは嘘だった。でもライバルに弱みを見せるのは絶対に避けたかったので、そういう事にしておいた」「実際にはモンツァでの復帰後最初の走行は恐怖で体が凍り付いていたし、特に金曜日は雨だったからとても怖かった。すぐにピットインしてマシンから飛び降りた」「結局、事故前と同じくらい速く走ろうとするのは止めた。気楽に、ゆっくり段々とスピードアップすれば良いと考え直してスタートすることにしたら、4位でゴールできた」と事故後に存在した恐怖心を告白している[ 20] 。
1977年、エンツォと口論の末フェラーリから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔 から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラーリを辞める話は報道されイタリア人の耳に入っていたため、フェラーリを辞めて行くドライバーに対する管制官 からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオ エンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。
1度目の引退から2年経った1982年に現役復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーであるマールボロ (フィリップモリス )の重役から「契約金はいくら欲しい?」と聞かれ、どのドライバーよりも遙かに高額を口にした。それに驚いた重役は「まだ誰よりも速く走る自信があるのか?」と尋ねるとラウダは「この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価と考えて欲しい。だからあなた方は私のドライバーとしての能力には1ドルだけ支払ったと考えてもらいたい。残りは私という個人への投資です。私が広告塔 になるPR効果は私の提示額よりはるかに高いと思いますよ」と答え、これを重役も了承した。そしてラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得し自分の「価値」を証明した[ 21] 。
レーサーとしての現役を引退した後、ラウダは航空会社 を起業したが、1991年 にラウダ航空004便墜落事故 が発生。創業者で社長だったラウダは事故を聞きつけると現場に駆けつけ、惨状を目の当たりにした。彼は事故調査委員会 のメンバーではなかったが、自ら進んで事故原因の徹底究明に尽力した。その行動には、前述の1976年ドイツグランプリ決勝での大事故の経験が根幹にあったと言える。結局は76年の事故原因はわからず仕舞いだったため、この004便の事故原因は何としても解明しなければならないとラウダを決意させた。現場調査やボイスレコーダー の記録を確認したことで事故原因はパイロットではなく機体にあると判断したラウダは、ボーイング 社の担当者へ粘り強く交渉と説得を繰り返し、「シミュレータ試験 で同様の状況から復帰できたというパイロット に実機で同じ試験を行え。私もその機に同乗する。それができなければ事故原因は操縦士や整備士 ではなく機体にある」と主張した。最終的にボーイング社は事故原因が自社の「スラストリバーサ が誤動作しても操縦を続ける事ができる」という誤った認識にあった事を認めた。ラウダ自身が曖昧さを嫌うことを示したエピソードと言える。
1992年 からフェラーリのアドバイザーとしてグランプリ開催中のピットに姿を見せるようになったが、当初は自らの役割を「自分が見て思ったことを情報としてフェラーリに提供するだけだよ。助力はできるけど共闘はしない。私には飛行機のビジネスがあるしね」と話し、「フェラーリから報酬は1ドル も貰っていないし、単にアドバイザー だよ。」とチームと一定の距離を置く発言をしていたが、1年後の1993年のインタビューでは「F1に正しい方向性を与えるのはフェラーリ以外にありえない。だから平日でもマラネッロ に行ったり、一生懸命やってるよ」「現役時代よりも今が一番フェラーリに深く関わってる。私は何か頼まれたら全力でそれを行う人間なんだよ」[ 6] と話しており、徐々に熱の入った活動となっていたことが窺える。
人間関係
エンツォ・フェラーリ はラウダを評して「永年ヌヴォラーリを探していたのに、バルツィ を見つけてしまったようだ」と語った[ 22] 。限界派のタツィオ・ヌヴォラーリ と頭脳派のアキッレ・バルツィ はライバル関係にあった往時の名ドライバーで、エンツォはヌヴォラーリのようなドライバーを理想としていた。
1974年 スペイングランプリでF1初優勝を遂げた時、同じ表彰台の3位には既にF1で9勝を挙げチャンピオンも獲得している先輩エマーソン・フィッティパルディ もいたが、それまで面識が無くほとんど話をしたことが無かった。その日の夜、宿泊するホテル の部屋の電話 が鳴り出てみると、エマーソンからだった。彼はわざわざラウダの居場所を探し電話をくれたのだった。すると「初優勝おめでとう、初優勝は最も難しい。次からは簡単だよ」とラウダに話した。ラウダはそのとき意味が分からずピンと来なかったが、いくつか勝利を重ねるとエマーソンの言葉はその通りだなと思ったという。
1977年 シーズン終盤、チャンピオンを獲得してフェラーリを去ることを決めていたが、エンツォ・フェラーリから白紙の小切手 を提示され、「いくらでもいいから好きな金額を書き込め!」と契約更新を促された。ラウダは意地からそれを固辞すると、エンツォは「何だ!何が望みなんだ!」と激昂。ラウダは「ただあなたのチームでこれ以上走りたくないだけだ」と告げたという。
カルロス・ロイテマン の事を「チームメイトか、ライバルか?」と記者に聞かれ、「どちらでもない」と答えた。
マクラーレン時代のラウダ(右)とプロスト(中央)
アラン・プロスト は、チームメイトになる以前からラウダのビッグファンであったことを公言している。また「ニキは私に何かを教えてくれた唯一の人だ。彼はマシンの技術面にも関心を示し、仕事に厳しく、厳格な人であった。私たちはふたりともエゴイスト だったけれど、考え方が似ていて、ドライビングも似ていた。マシンセッティングの仕方まで同じだった。ニキと出会ったことで、私は多くのことを学んだよ」と語っている。
ネルソン・ピケ は、ブラバム時代の先輩であるラウダから影響を受けている。ピケがラウダに「F1での過密スケジュールに嫌気がさして真剣に引退を考えることもある」と話した所、ラウダから移動時間も自分の時間にできるプライベートジェットの使用を勧められ、ピケはその意見を参考にセスナ サイテーション を購入。自ら操縦し各国を時間を気にせずに移動するラウダ・スタイルで長距離移動するようになった[ 23] 。
ケケ・ロズベルグ は、その走りを「ニキと一緒にコーナーに入ったことが何度かあるが、非常にフェアだけど情け容赦ない攻め方をする」と語る。
ジョン・バーナード は「(マクラーレン時代に)ポルシェ の手綱を取れたのはニキのおかげだ。ポルシェは彼の意見なら聞く耳がある。信頼もしていたようだ」と語っている。
最後のF1勝利となった1985年オランダグランプリでラウダは予選10位に甘んじていたが、スタート前に友人のジャーナリスト 、ヘルベルト・フォッカーに「今日は君が勝つよ」と言われ「何言っているんだ。完走出来るくらいには頑張るけど、俺は生きて帰らなきゃならないんだぜ」とかぶりをふった。が、スタートの混乱に乗じて5位に躍り出たラウダは「ヘルベルトのために勝ってみせようじゃないか」と、会心のレース運びで勝利を飾った。
フェラーリのアドバイザー時代の1992年、ブラバムの女性ドライバージョバンナ・アマティ との不倫 報道で騒がれ浮名を流すなどプレイボーイ の一面もある。
帽子
大やけどを負って以来、公の場では傷を隠すためにアポロキャップ を被っている。1976年の暮れ、個人スポンサーだった清涼飲料水 メーカー・レーメルクエル (ドイツ語 : Römerquelle ) の担当者がやってきて「1977年からこの(メーカーロゴマーク入りの)キャップを常に 被るようにと言って持ってきた。やけどで髪の毛 がなくなった前頭部を隠すのにちょうど良いと彼らは思ったんだろうし、私が帽子を手離さなくなるだろうという計算もあったと思う。彼らは同時に契約金を減額したいとも言ってきた。ニュルブルクリンクでのクラッシュの影響でもう上位は走れないと思ったようだ」。レーメルクエル側の減額の言い分を飲んで1年契約延長し、翌年見事にチャンピオンに返り咲いたラウダは、金額を上げるからさらに契約を続行してほしいとやってきた同担当者に契約書を突き返した[ 24] 。
火傷痕とパルマラットのアポロキャップ(1978年)
1978年からは移籍したブラバムチームのメインスポンサーであるイタリア の食品会社・パルマラット (parmalat) の文字が入った赤い帽子を常に 被っていたため、時に「正装姿に赤いパルマラット帽」[ 25] などの奇妙な出で立ちとなったが、本人は平然たるものであった。パルマラットとの関係はブラバムを出た以後も27年続いた長く強いものだったが、2004年 にパルマラットが粉飾決算 スキャンダルを起こし破産したため契約が終了。広告収入を得るため新たな「帽子スポンサー」を募集した。以後、暖房 器具メーカーフィースマン (Viessmann)、スイスの機械加工メーカーエリコン [ 26] 、アブダビ の投資会社 アーバル (aabar、メルセデスGPの共同保有者でもあった[ 27] )などが契約した。
2014年には新たなキャップスポンサーとして遊技機 メーカー「ノボマティック (英語版 ) 」(NOVOMATIC)を披露。地元オーストリアでは批判を受けている大手賭博 会社としてニュースになったが[ 28] 、同社のキャップは2019年初頭の活動最終期まで着用し続けた。
ラウダの死去後最初のグランプリとなった2019年モナコグランプリ では、スタート前に全ドライバーが『NIKI 』とロゴが入った赤アポロキャップを着用しての追悼セレモニーが行われた[ 29] 。
日本国内での知名度
瀕死の重傷から6週間で再び復帰するまでの話は、日本の高校生 向け英語教科書 に掲載されていた時期もあった。1970年代後半の日本では空前のスーパーカーブーム とタイレル6輪車 の出現によりF1レースの人気も盛り上がりを見せており、ラウダは“大事故からレースに復帰したチャンピオン”という分かりやすい個性もあって、特に知名度が高かった。
実在する登場人物や企業が作中架空人物および作中架空団体と共に入り乱れて登場していたアニメ作品『グランプリの鷹 』では、「ニキ・ラウダ」の別発音「ニック・ラムダ」(当時は、こちらの名称の方がよく伝播していた)を名乗るキャラクターとして登場していた。
1980年代初頭(一時引退の時期)には日本のヨコハマタイヤ のCMキャラクターを務めている。
家族
1982年に現役復帰することが決まった際、何かにかこつけてマルレーネ夫人と揃って渡英し、夫人がショッピングする合間にこっそりテストに抜け出していた。その後、ラウダがレース界と関わることに反対である夫人がラウダのF1復帰を知った際には相当怒っており、『このろくでなし!』とこっぴどく罵られたという[ 30] 。
マルレーネ夫人との間に2人の息子を儲け、長男のマティアス・ラウダ もレーシングドライバーとなった。スピードカー・シリーズ をともに戦っていた片山右京 曰く「えげつないドライバー」。その他、非嫡出子 の息子が1人いる。
次男のルーカス・ラウダはラウダ・スポーツ・マネジメントの経営者として、マティアスのマネージメントを担った。また2022年から自身もドライバーとしてラリーレイド に参戦を始めている[ 31] 。
1991年に15年連れ添ったマルレーネと離婚し、2008年8月に30歳年下のビルギット夫人(ラウダ航空の元キャビン・アテンダント )と再婚。2009年9月16日に60歳で双子 の父親になった。
映画
ウィーンでの"Rush"プレミアにて、ラウダ役のブリュール(左)、脚本のモーガン(右)と並ぶ。
2011年、1976年シーズン のラウダとハントのライバル関係 を描く"ラッシュ/プライドと友情 ""の製作が発表された。ピーター・モーガン が脚本を執筆、ロン・ハワード が監督を務め[ 32] 、ラウダ役はダニエル・ブリュール が演じた。2013年9月より全米で封切られた。
ブリュールの好演は様々な映画賞にノミネートされ、サンタバーバラ国際映画祭のヴァーチュオソス賞を受賞している。ラウダ自身も映画のプロモーションに協力し、ハント役のクリス・ヘムズワース と共にゴールデングローブ賞 授賞式に出席した。日本では邦題『ラッシュ/プライドと友情 』として2014年2月7日に公開(2月1・2日先行上映)。日本語吹き替え版では堂本剛 [ 33] と藤原啓治 [ 34] がラウダ役を演じた。
レース戦績
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権
F1
BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ
各種レース戦績
ニュルブルクリンク24時間レース 1位 (1973年)
スパ・フランコルシャン1000kmレース 1位 (1973年)
モンツァ4時間レース 1位 (1973年)
ザントフォールト4時間レース 1位 (1974年) 3位 (1972年)
ディープホルツ SRP/GT 1位 (1970年)
ニュルブルクリンク6時間レース 2位 (1971年)
キャラミ9時間レース 3位 (1972年)
タウレンポカル・ザルツブルクリンク 1位 (1971年)
関連文献
脚注
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
ニキ・ラウダ に関連するカテゴリがあります。
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
創設者 主なチーム関係者 F1ドライバー F1マシン 主なスポンサー
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン スポーツカー 主なスポンサー
太字はBRMにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。
チーム首脳※ チームスタッフ※ F1ドライバー F1車両 主なスポンサー 関連組織 F1チーム関係者
主なF1ドライバー
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代
※年代と順序はフェラーリで初出走した時期に基づく。 ※フェラーリにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はフェラーリにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はフェラーリにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代
太字はブラバムにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。
F1車両 (世界選手権) F1車両 (タスマンシリーズ) 主なスポンサー F5000 F2 F3 インディカー フォーミュラ・アトランティック フォーミュラ・ジュニア ヒルクライム用シングルシーター その他のシングルシーター レーシングスポーツカー ツーリングカーレース用 サーキット走行専用車
チーム首脳※ 主なチームスタッフ※ 現在のドライバー F1車両
現在のPUサプライヤー
メルセデス (1995 - 2014, 2021 - )
現在のスポンサー 主な関係者
主なF1ドライバー
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
※年代と順序はマクラーレンで初出走した時期に基づく。 ※マクラーレンにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はマクラーレンにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はマクラーレンにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
Can-Am F2 F5000 USAC/CART GT※ タイトルスポンサー エンジンサプライヤー
関連項目
※役職等は2024年2月時点。 ※太字のドライバーはメルセデスにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。