宮崎 駿 (宮﨑 駿 、みやざき はやお、1941年 〈昭和 16年〉1月5日 - )は、日本 のアニメ監督 、アニメーター 。株式会社スタジオジブリ 取締役 、公益財団法人 徳間記念アニメーション文化財団 理事長 、三鷹市立アニメーション美術館 (三鷹の森ジブリ美術館 )名誉館主(初代館主)[ 4] 。
1963年 に東映動画 にアニメーターとして入社。その後いくつかの会社を経てフリーとなり、その間にテレビアニメ 『未来少年コナン 』、初の劇場用アニメ『ルパン三世 カリオストロの城 』で頭角を現した。
1984年 に個人事務所の二馬力 を設立し、翌年に高畑勲 らとアニメーション制作会社スタジオジブリ の設立に参加(2005年 に同社取締役に就任)。以後『天空の城ラピュタ』 『となりのトトロ 』『魔女の宅急便 』『もののけ姫 』などの劇場用アニメーションを監督し、『千と千尋の神隠し 』でベルリン国際映画祭 金熊賞 とアカデミー長編アニメ映画賞 、『君たちはどう生きるか 』でアカデミー長編アニメ映画賞、英国アカデミー賞 アニメ映画賞 を受賞した。2014年 には日本人で2人目のアカデミー名誉賞 を受賞した。
来歴
生い立ち
数千人の従業員を擁した一族が経営する宮崎航空興学 の役員 を務める一家の4人兄弟の二男として、1941年1月5日に東京市 文京区で生まれた。父は東洋ラジエーター(現:ティラド )元常務取締役の宮崎勝次 [ 5] 。比較的裕福な暮らしをしていたという。
太平洋戦争が始まり、宮崎航空機製作所が宇都宮 に移転したこともあり、幼児期に家族で宇都宮に疎開し、小学校3年生まで暮らしていた[ 注 2] 。1947年、母親が結核 を発症し、以後9年間にわたり寝たきりの状態となる[ 7] [ 8] [ 注 3] 。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区 永福町 に転居。
幼少時は身体が弱かった[ 注 4] ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫 や杉浦茂 の漫画、特に福島鉄次 の絵物語 『沙漠の魔王 』のファンという“漫画少年”でもあった。少年時代は親戚が営む老舗旅館である元湯・陣屋 の庭を遊び場にしていた[ 10] [ 11] 。
学生時代
進学校である東京都立豊多摩高等学校 在学中、高校3年生の時に観た東映動画 製作『白蛇伝 』に感動し、アニメーション にも関心を持つようになる。学生時代に、中学の恩師・佐藤文雄のアトリエでデッサン を独学で学び、ポール・セザンヌ のような印象派に影響されている[ 13] 。
学習院大学 に進学後、児童文学 サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇 を企画しつつ、漫画家 を志していたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する[ 14] 。
東映動画時代
学習院大学を卒業後、東映動画 にアニメーターとして入社する。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連 製作長編アニメーション映画『雪の女王 』に強い感銘を受け[ 15] 、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。
そして、入社間もない宮崎は『ガリバーの宇宙旅行 』のラストシーンを変更し、原画も担当するなど、早くから才能を現した。大塚康生 は「あ、これはぼくより沢山絵を描いている」と感じたという[ 16] 。
結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。そして、1965年に制作が開始した『太陽の王子 ホルスの大冒険 』に参加する。まだ、新人で原画に昇格したばかりの宮崎は高畑勲 の脚本作りを手伝ったり、場面のイメージボードを提出したりして、作品の完成度に貢献した。そのため、入社5年目で「場面設計」というメインスタッフのクレジットを与えられた。また、宮崎は本作に原画としても貢献し、森康二 ・大塚康生 ・小田部羊一 らと共に途中中断期間を挟んで、3年がかりで作画を完了し、なんとか公開させた。
1965年秋には、東映動画の同僚で、アニメーターの大田朱美 と24歳で結婚し、その後2人の男児をもうける。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』の後は、『長靴をはいた猫』『空飛ぶゆうれい船』などで原画を描いた後、最後の長編『どうぶつ宝島』にてアイデア構成と原画を担当する。しかし、『どうぶつ宝島』が興業的に失敗したことから、これまでのような長編は作れないという気分が宮崎たちの間に広がった。
Aプロダクション時代
1971年、30歳になった宮崎は、高畑勲、小田部羊一 と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ 』を制作するためにAプロダクション に移籍する。 原作者(アストリッド・リンドグレーン )との交渉に向かう藤岡豊 (東京ムービー社長)に同行する形で宮崎はスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描いていたが、原作者の許諾を得られず企画は立ち消えになってしまう。
その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『ルパン三世 』での初めて演出の仕事を引き受ける(高畑と共同。名義上はAプロダクション演出グループ )。スケジュールが逼迫しており、演出の宮崎が原画も大量に描かなければならなかった。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた。
その後宮崎は、1972年に『パンダコパンダ 』、翌1973年に『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻 』に参加。原案・脚本・美術設定・画面構成、原画を担当。本作は『長くつ下のピッピ』でやろうとしていたアイデアを活用している。
日本アニメーション時代
『パンダコパンダ』制作後は、高畑、小田部とともにズイヨー映像 (のちの日本アニメーション )に移籍し、『アルプスの少女ハイジ 』の準備に入り、宮崎は全話数全カットの場面設定・画面構成を担当。この作品は最高平均視聴率 が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。
その後も『ハイジ』の1年後、1976年に『母をたずねて三千里 』でも宮崎は全話数全カットの場面設定・レイアウトを担当。さらに、2話の原画も担当している。この宮崎による『ハイジ』『三千里』における前代未聞の仕事量は現在でも伝説的に語り継がれている。
未来少年コナンで初監督
1978年 、37歳の宮崎は、『三千里』終了後に当時シンエイ動画にいた大塚康生を作画監督に誘い、TVアニメ『未来少年コナン 』(NHK )で初めての演出(監督)を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はおらず、実質的には監督として現場を仕切っていた。
毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ 、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本 ・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした[ 17] 。
テレコム・アニメーションフィルム時代
『コナン』が終わり、高畑の『赤毛のアン』の場面設定・画面構成を担当していた宮崎は、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世 』の映画を大塚に持ちかけられ、宮崎は演出を引き受け、『赤毛のアン』を15話で降板し、テレコム・アニメーションフィルム (東京ムービー新社 内)に移籍した。
38歳の宮崎は、映画『ルパン三世 カリオストロの城 』(1979年 )で映画作品の監督デビューをした。
宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた[ 18] [ 19] [ 20] 。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SF アニメ全盛の時代ということもあって不発におわり、興行的には前作 に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。
しかしロリコン ブームを追い風にヒロインのクラリスが美少女アニメファンからカルト的支持を受け[ 21] 、後に再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。
美術担当の小林七郎 は「宮崎駿監督は大変優れた人で、常識的なセンスの中で完成度を上げていき現在のような大衆的な支持を得たが、自分で全部やりたい人で、すべてを自分の枠にはめようとする。なので、ジブリからは新しい可能性は出てこない、というのが私の考えです。」と評している[ 22] 。
宮崎本人は「ルパンや東映時代にやったことの大たなざらえ」と位置づけており、自らが手がけた『ルパン三世』1stシリーズのいくつかのエピソードも元ネタにしている。
この直後には、『ルパン三世 PART2』で第145話と最終回の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『天空の城ラピュタ 』に登場するロボット兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ 』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫 と出会っている。
1984年の『ルパン三世 PartIII 』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は、監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいた押井守 が監督を務めることになったが頓挫した(詳細は「押井版ルパン三世 」参照)。
風の谷のナウシカ
テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ 』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカ との間を行き来したが、企画への疑問から降板。1981年4月に公開された『じゃりン子チエ 』を監督予定だったが原作をそのまま使わない意向を示して高畑勲が監督することになった[ 23] 。
テレビシリーズについては1981年4月から製作開始した『名探偵ホームズ』の監督に就任していたが、合作相手のイタリア側の事情で4話分が完成した段階で制作が中断した[ 24] 。同時期には『花王名人劇場 』の枠で1981年8月に放送されたテレコム制作の『東海道四谷怪談 』も最初は宮崎が監督をすることになっていたが、宮崎が推薦した大塚康生に変更になった[ 23] 。
この時期、『となりのトトロ 』『もののけ姫 』『風の谷のナウシカ 』『天空の城ラピュタ 』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。
宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は、『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店 の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫 は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ 』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる[ 注 5] 。
さらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店 の徳間康快 社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し[ 25] 、宮崎の弟が勤務する博報堂 がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年 にアニメーション映画として製作・公開された。
映画『風の谷のナウシカ 』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー ・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった[ 注 6] 。
スタジオジブリ設立
1985年、44歳になった宮崎は、徳間書店の出資を得てスタジオジブリ を設立し、以後の制作の基盤とした。
1986年 には、『天空の城ラピュタ 』を公開。本作はナウシカとは異なる「純粋な漫画映画」であり、未来少年コナンの路線を踏襲するものとなった。
1988年 には、『となりのトトロ 』を公開。当初、徳間書店へ企画書を提出したものの、「昭和初期の田舎の話などヒットしない」と一蹴されていた。そこで鈴木は、高畑の「火垂るの墓」と同時公開することを提案し、各出版社が共同出資することでようやく許可を得られた。しかし当初は、2作品とも60分前後の中編作品の予定が、高畑が長編へと変更したことに対抗して、宮崎も大幅にストーリーを膨らませ主人公が姉妹2人の長編作品となり、有能なスタッフの取り合いとなった[ 26] 。
この頃、ラピュタ、トトロは高い評価を受ける一方で、ナウシカ以降興行収入は下がる一方であり、スタジオ存続をが危ぶまれる状況だった。しかしその後、両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、苦しいジブリの経営状態を支えた[ 27] 。
また1986年頃、宮崎が推薦した押井守 によるルパン三世 劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている[ 注 7] 。
日本での大ヒット連発
『魔女の宅急便 』(1989年)はスポンサーの意向により、当初指名されていた佐藤順一 、次に指名された片渕須直 が降板し宮崎が後を継いだ。プロデューサーの鈴木が広告宣伝に注力したことで、本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けて、ジブリはそれまで作品ごとにスタッフを召集・解散をしていた体制から、労働環境を整えるため社員化することを決定する。
『紅の豚 』(1992年)は、もともと日本航空 の機内で上映される30分程度の中編作品として企画されたが、次第に構想が膨らみ、最終的に93分の長編作品として公開されることになった。本作の主要スタッフには女性が多く採用されており、作中に出てくる工房で女性ばかりが働いているのは、当時のジブリを描いたものである。
『耳をすませば 』(1995年)で、脚本、絵コンテ、製作プロデューサーを担当。初夏に休暇で訪れた山小屋に、姪たちが残した漫画雑誌「りぼん 」があり、その中に柊あおいの『耳をすませば』が掲載されていたことがキッカケとなった。宮崎駿の後継者候補として将来を期待されていた近藤喜文 が監督を行ったが、公開から2年後に近藤は亡くなっている。
1997年 に公開された『もののけ姫 』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T. 』が持っていた日本の映画興行記録 を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。
世界的な巨匠として評価
2001年 に発表した『千と千尋の神隠し 』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2,350万人、興行収入308億円[ 28] と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭 では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞 を受賞し、2003年 にはアカデミー賞 長編アニメ賞 を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。
2004年 公開の『ハウルの動く城 』は、もともと細田守 監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネツィア国際映画祭 のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会 最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞 の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。
2005年 には、ヴェネツィア国際映画祭 において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞 を受賞。2006年 には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。
息子・吾朗の監督就任
2006年 公開の『ゲド戦記 』は、宮崎が1983年に刊行した「シュナの旅」(徳間書店刊)が原案としてクレジットされており、各所に同書に登場する設定が用いられている。また、鈴木敏夫や宮崎吾朗によれば、イメージボードやアイデアスケッチ等を書いていたようである。宮崎は20年来『ゲド戦記』の映画化を希望していたが叶わず、原作者のル=グウィン から逆に依頼が舞い込んだ際には『ハウルの動く城』の制作中であったため、鈴木が提案した息子の吾朗に監督を任せることになった。この承諾を得るためル=グウィンに会見した際には、宮崎は吾朗が描いたイメージボードを批判したり、自分がいかに原作を理解し、『風の谷のナウシカ』以降の全作品が影響を受けており、一番の適任であるかを熱弁した上で、歳をとったため吾朗が作ると説得したという[ 29] [ 30] 。
2008年 7月19日 に、新作『崖の上のポニョ 』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた[ 31] 。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという[ 32] [ 注 8] 。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した[ 34] 。
マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHK によって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀 」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会 に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年 には、文化功労者 に選ばれた。
2013年 に、自身の漫画作品、『風立ちぬ 』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ 』を公開。同年9月1日 、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二 が発表[ 35] 。
長編監督引退後
2013年、戦国時代 を舞台にした漫画を執筆中であると『月刊モデルグラフィックス 』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『アーマーモデリング 』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。
三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた[ 36] 。同年11月、第87回アカデミー名誉賞 を受賞。日本人としては黒澤明 以来2人目の快挙となる[ 37] 。同時受賞となった女優のモーリン・オハラ は長年の憧れで、会えたことに感動したという[ 38] 。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。京都府 八幡市 の石清水八幡宮 の本殿で奉納された。
2015年 、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『毛虫のボロ 』を制作中であることを明らかにした[ 39] 。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作はスティーブンスティーブン が担当している[ 40] 。
2015年5月8日、在日米軍再編 における普天間飛行場 の名護市 辺野古 移転計画に反対する辺野古基金 の共同代表に就任した[ 41] 。同年7月13日、日本外国特派員協会 の要請に応じて東京都 小金井市 にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく沖縄県 に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて鳩山由紀夫内閣 が提案した県外移設の実現を強く求めた[ 42] 。
引退撤回
2016年 11月13日 午後9時からNHK で放送された特別番組 「終わらない人 宮﨑駿」の番組内で、宮崎が「長編企画 覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容はモザイク で隠されていたが、「2019年 完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。
2017年 2月24日 、鈴木敏夫が「Oscar Week 2017」で、長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった[ 43] [ 44] 。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートし[ 45] 、10月28日には早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『君たちはどう生きるか 』であると明かされた[ 46] 。
2018年 5月15日 、4月に死去した高畑勲 のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた[ 47] 。
2023年 7月14日 、『君たちはどう生きるか』が公開。9月に行われた第48回トロント国際映画祭 で日本映画史上初となるオープニング作品となり、観客賞の次点第2位となる。翌年にはゴールデングローブ賞 と英国アカデミー賞 で日本映画史上初となるアニメ映画賞を連続して受賞し、2024年 3月11日 に行われた第96回アカデミー賞 では自身としては2度目となる長編アニメ映画賞を受賞した[ 48] 。
略歴
2009年 7月28日 、ジョン・ラセター との対談にて
人物
埼玉県 所沢市 在住[ 53] 。愛煙家 [ 54] 。
愛車はシトロエン・2CV [ 55] 。ルイ・マル 監督のフランス映画『恋人たち 』に登場しているのを見て興味を持ったことがきっかけで、簡素で合理的な設計の2CVに「このクルマそのものが文明批判だ!」と感銘を受け、1967年に初めて購入[ 56] 。以後少なくとも5台以上2CVを乗り継いでいる[ 56] 。なお宮崎は、2CVについて戦前のフランス航空機 との設計思想の類似性を指摘している[ 56] 。2CVは「2馬力 」の愛称で知られ、宮﨑が1984年に設立した個人事務所「二馬力 」の名称の由来にもなった[ 55] 。
愛用時計は、ジャガー・ルクルト のレベルソ[ 57] 。2005年の第62回ヴェネツィア国際映画祭 で「栄誉金獅子賞 」を受賞した際に贈呈されたもので、ケースバックに映画祭のシンボルが刻印されている[ 57] 。
作風
子供の視点
一貫して子供 に向けて作品を作り続けている。これについて「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている[ 58] 。児童文学 を愛読している。
宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて、成長するにつれて対象年齢を上げて作品を作り、息子が成長しきると今度は友人などの子供を対象にしており、『千と千尋の神隠し』の公開時には、ガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明している[ 60] 。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた。
主人公の性別
『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』などに見られるように、主人公が少女であることがやや多い傾向にあるが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからとのこと。同性だと自身と重ね合わせすぎて、悲観的な物語にしかならないとも語っている。
しかし、『未来少年コナン』『カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』『紅の豚』『もののけ姫』などのように、男性が主人公の作品も少なくなく、主人公の性別にこだわっている訳ではない。
脚本なしでの制作
制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、脚本 なしで絵コンテ と同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界のウォルト・ディズニー 」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的な制作管理能力と、クオリティとスピードを両立した作画能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。
また、漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」という[ 62] 。
キャラクターデザイン
まず宮崎によるキャラクターのオリジナルデザインの原案イラストが描かれ、それを作画監督がトレースする形で設定表を作っていく。設定表が作られた後も物語の展開によって、キャラクターデザインそのものが変わる場合もある。井上俊之 曰く「90%は宮崎さんのもの」とのこと[ 63] 。
作画作業
他のアニメーターによる原画が上がった段階で、宮崎が簡単に修正した後、作画監督がクリンナップしていく[ 63] 。
軍事マニア
戦史 ・兵器 マニアとして知られ、第二次世界大戦 から前の甲冑 ・鎧兜や兵器(装甲戦闘車両 、軍用機 など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊モデルグラフィックス 』誌の『宮崎駿の雑想ノート 』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている[ 注 11] 。
2009年から2010年にかけて『モデルグラフィックス 』誌に零式艦上戦闘機 の開発者である堀越二郎 の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、一式戦闘機「隼」 の活躍と陸軍 エース・パイロット の戦果を記録した、戦史家梅本弘 (市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース 』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている[ 64] 。
ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、モールス符号 での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。最も本人の趣味が反映された『紅の豚 』に関しては製作後も「道楽 でくだらない物を作ってしまった」と罪悪感 に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている[ 65] 。
声優の起用方針
イギリス の新聞『ガーディアン 』でのインタビュー の中で「日本の女性声優 は、男性を惹きつけるコケティッシュ な声 を持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている[ 66] 。
作品名の共通点
監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋の 神隠し、崖の上の ポニョなど、平仮名の「の」が含まれている。
ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』[ 注 12] を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない[ 67] 。
作風の変化
『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕は、もう既成の起承転結 のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。
高畑勲との関係
アニメーション作家・映画監督の高畑勲 は東映動画 (現・東映アニメーション )時代の先輩であり、宮崎に多大な影響を与えた。東映動画の労働組合 に書記長 として従事した際、高畑は副委員長として宮崎を支え交流を深めていった。
高畑の初監督作品・映画『太陽の王子 ホルスの大冒険 』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが、次々とイメージボードを描きアニメーター(兼 場面設定 )として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人ギルド ・コミューン の形成と善悪 の彼岸を描いた思想背景、労働者コミュニティの連帯感、ベトナム戦争 が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、強烈な“作家性”に宮崎が傾倒。含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆なレイアウト で魅せる高畑の演出も宮崎にとっては憧れの的だった[ 68] 。
ルパン三世第一シリーズ (共同演出)、パンダコパンダ (高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、アルプスの少女ハイジ 、母をたずねて三千里 (高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した[ 68] 。宮崎の監督作『風の谷のナウシカ 』、『天空の城ラピュタ 』では高畑がプロデューサー を務めている[ 68] 。
ハイジや三千里で共に仕事をした富野由悠季 (絵コンテ担当)は「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんなことはありません。高畑さんの訃報の後、改めてお二人の関係性を考えて結論が出ました。高畑さんがいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれませんでした!」「宮崎さんも、高畑さんについて『僕が読めない本を読んでる』と言っていました。そういう部分を容認するのか、乗り越えるのか、どうやったら高畑さんを黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだと思っています」「世間は宮崎さんがアカデミー賞を取ったこと(2002年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞)から、高畑より宮崎の方が上、なんて気分があるのかもしれません。でも、高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言できます」[ 69] 。
その後、ファンタジー やリアリティ の考えの違いから2人は別個に創作するようになるが常に2人は相手のことを気にかけていた。互いに強烈な負けず嫌いという共通点もあるが、高畑に対する宮崎の畏敬の念は特別だった。『千と千尋の神隠し 』の制作の際、宮崎は視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていた。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑に教わったためである[ 68] 。
ふたりの巨匠を支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っている[ 68] 。
宮崎監督自身もインタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えたことがある[ 70] 。
アニメ界への意見
日本のアニメ界への危機感
以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して危機感を抱き続けており、1985年2月号のアニメ雑誌『アニメージュ 』の押井守 、河森正治 との対談や、1986年 『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見にて[ 71] 「セーラー服 が機関銃 撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子がバズーカ 振り回すような作品は、いいかげんやめてほしい」と発言していた。
2002年、ドイツ のベルリン映画祭 金熊賞受賞の際、記者会見 で「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語り、イギリス のBBC など、日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず、世界 のアニメーションファンを含めて、様々な反響があった[ 72] 。
手塚治虫の評価
1989年 、手塚治虫 が亡くなった際に、漫画史における手塚の功績に敬意を表した上で、手塚のアニメーション作品は、店子を集めて無理やり義太夫を聴かせる落語(『寝床 』)の長屋の大家と同じ旦那芸であると痛烈に批判し、手塚がリミテッド・アニメーション とフルアニメーション の違いもろくに理解せず喧伝していたことなどに触れ、「アニメーションに関しては(中略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べた。また、手塚作品の悲劇性についても否定的な見解を示しており、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても否定的評価を下し、「趣味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば」と総括している[ 73] 。
宮崎の監督作、『ルパン三世 カリオストロの城 』について手塚が意見を述べたことがあり、作画を担当したテレコム・アニメーションフィルム のアニメーター達に対し、カリオストロは3コマ作画だそうだが、手塚が総監督した『火の鳥2772 愛のコスモゾーン 』は2コマのフルアニメーションであると語ったという。しかし、宮崎の盟友であり、『カリオストロ』で作画監督を務めた大塚康生 によると、『火の鳥』には、2コマ特有の描き方や工夫が全く入っていなかったという。大塚は「手塚先生は理念としてのフルアニメーションに憧れていらっしゃるが、技術的な使い方はご存じない、もしくは関心はお持ちでないのだとわかりました」と指摘している[ 74] 。
一方で、手塚がテレビアニメ『鉄腕アトム 』を安価な予算で作って以来、日本におけるアニメの製作費が低くなる前例となってしまった件に関して、宮崎は、日本 が経済成長を遂げていく過程では必然のことであり、「引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけ」とする立場を取っている。その上で、あのタイミングで手塚さんが始めなければ自分達はあと2、3年は(当時の東映動画で)腰を据えて長編アニメーションを作れたかもしれないが、それも今となってはどうでもいいことだと述べている。
それ以降、宮崎が手塚について語る事はほとんど無かったが、2009年 に行われたインタビューにおいて、7歳の時に手塚の「新宝島 」を読み「言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かし、「モダニズムとは、繁栄や大量消費と同時に、破壊の発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。だがアニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた[ 76] 。
宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の『わんわん忠臣蔵 』にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮崎との合作アニメ映画『ロルフ』も企画されていた[ 77] 。この合作は実現しなかったがロルフの企画は名前を変え『風の谷のナウシカ』の原案になった[ 78] 。
ディズニーの評価
前述の手塚治虫に対する批判の1年程前に、ディズニー に対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」[ 79] 。
政治的・思想的スタンス
戦争観
著名なミリタリーマニアである一方、現実の戦争 行為には断固として反対している。大学時代には「戦争がいかに経済的に不合理であるか」という経済学の講義に感銘を受け、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てた経験もある。作品中では『未来少年コナン 』『風の谷のナウシカ 』『もののけ姫 』などに見られるように、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。しかし一貫して戦争の悲惨さや愚かさを描き、兵器や戦争が登場する作品でそれらを安易に美化する事はない。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは堀田善衛 [ 80] 「方丈記私記」をイメージしたものだという[ 81] 。湾岸戦争 に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明して、小田実 を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「ニューヨーク・タイムズ に湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じている他[ 82] 、同時期に製作した『紅の豚 』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという[ 65] 。
第二次世界大戦
宮崎は、イギリスの児童文学 作家 ロバート・ウェストール の『ブラッカムの爆撃機 』に併収された2006年の漫画「ウェストール幻想 タインマスへの旅」でのウェストールとの架空対話において、神風特別攻撃隊 について志願しただろうと語っている[ 83] 。
宮崎「ウェストールさん あなたは間に合えばですが 爆撃機のクルーに志願しましたか?
ウェストール「そうしたとおもいます あなたは?KAMIKAZE は…」
宮崎「おそらく…そうしたと思います 虚勢をはってふるえながら」
ウェストール「…少年の忠誠心を否定してはいけません 煽ったり利用したりするのはもちろん論外ですが 少年たちの勇気は、本来悲劇的なのです しかし この世界の重要な一部です」 — 宮崎駿「ウェストール幻想 タインマスへの旅」[ 83]
『風立ちぬ 』製作時には作品テーマもあって、第二次世界大戦 における日本の戦争責任について積極的に発言している。「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として二郎 を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」[ 84] としつつも、堀越二郎を祭り上げる動きに関しては「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」[ 85] 「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」[ 86] と述べている。
同時期にスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』の寄稿文で、日本が第二次世界大戦に参加したことについては子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたと述べている[ 87] [ 88] 。この他にも「日本だけが悪人ということではないと思いますけど、そうかといって『最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?』と言うのもおかしい」「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただ、それ以上は『ちょっと待て』っていうのがやっぱり正しいと思うんです」「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」とも述べている。
こうした姿勢は当事者国の一つである東アジア 諸国で広い賞賛を受けており、中国の「人民日報 」は微博 (国営SNS )を通じて「記憶にとどめておくべき良識ある日本人」として宮崎の名を挙げている[ 91] 。韓国でも『風立ちぬ 』公開時に意図を説明する為の記者会見を行うなどの姿勢もあり、「日本の生ける良心」と賞賛されている[ 92] 。
憲法改正
2013年に憲法改正論議 が過熱した際、スタジオジブリ出版の小冊子『熱風』2013年7月号での特集「憲法改正 」で現状での改正には反対声明を行った。宮崎は「憲法を変えるなどもってのほか」を寄稿、日本国憲法 の改憲に反対の立場であることを闡明にした。寄稿文の中で、日本国憲法を議論する環境として「得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」であるとしている。特に憲法9条 と自衛隊 については「憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほうがいい。」と述べ、自衛隊は専守防衛に徹するべきであり、「そうしないと、本当にこの国の人たちは国際政治に慣れてないから、すぐ手玉に取られてしまいます。もし戦争 になるとしても、そのほうがまだましだと考えます」としている。同寄稿文では、現行憲法下での自衛隊についても好意的に評価している。災害 時の活動について「やっぱりこれはいいものだと思います。隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。」とし、イラク戦争 で行われた海外派遣については「イラク に行かざるを得なくなっても一発も撃たず、ひとりも殺しもせず帰って来ました」「僕は立派だったと思います」と評価している。
また憲法96条 を先に改正する案についても「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「詐欺 」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためには、ちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている。
集団的自衛権
憲法改正論議が沈静化した後、海外活動を円滑化する為に憲法解釈を用いた集団的自衛権 の整備が第2次安倍内閣 で推進されると、日本外国特派員協会 での記者会見 で、内閣総理大臣 安倍晋三 を「偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思います」「でも残らないでしょう」と厳しく批判した[ 42] 。現行憲法は15年間にわたる戦争 とその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。いわゆる「押し付け憲法論 」であるという批判に対しても、1928年の不戦条約 (戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ、決して『押し付け』でもないと述べている[ 42] 。
生命倫理・反差別
2016年1月28日 に東京都港区で開かれた「ハンセン病 の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にある全生園 を訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「園内通用券 」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品を真正面からやらなければならない」と語った[ 95] [ 96] 。
人工知能技術への批判
2016年 11月、宮崎に密着したNHK のドキュメンタリー「NHKスペシャル 終わらない人 宮崎駿」が放映され、その中でドワンゴ 創業者川上量生 のチームが宮崎に対して行ったプレゼンの様子が物議を醸した。当時、CGを使用した短編アニメの制作に取り組んでいた宮崎に対し、川上は自ら開発を進めている人工知能 を応用したCG技術を紹介した。このCGはゾンビ のようなキャラクターが頭を足のように使い、体をくねらせ移動させる奇妙なものだった。これに宮崎は激怒した[ 97] [ 98] 。
これを作る人たちは痛みとかそういうものについて何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。〔…〕
そんなに気持ち悪いものをやりたいなら勝手にやってればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めて何か生命に対する侮辱を感じます [ 97] 。
このシーンは多大な反響を呼び、『ニューヨーク・タイムズ 』紙などの海外メディアにも取り上げられた[ 99] 。
後に宮崎がこの発言の真意について問われると「要するに、人工知能というものを色々もてはやすと、やっぱり馬鹿げた事が起こるんだなって。その時に川上さんみたいにアナーキーな人が歯止めを持っていないなと思いましたね」と回答した[ 100] 。
2022年 にMidjourney やStable Diffusion などの著作物 を無断利用した生成AI がリリースされ、海外のアーティストによる批判が高まると、宮崎の「生命に対する侮辱 」(英: an insult to life itself )という発言は、クリエイターによる人工知能に対する拒絶のメッセージとして、映画監督のギレルモ・デル・トロ などによって引用された[ 101] [ 102] 。
左翼・社会主義
学習院大学時代に社会主義や共産主義などの左翼 運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。実際に高畑勲 らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら資本論 などの理論書は読んでいないと率直に述べている[ 103] [ 104] 。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。希望ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている[ 103] 。ただし後年に「マルクス 的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や[ 65] 、「今はプロレタリアート がいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている[ 105] 。
冷戦終結後の1990年代、『もののけ姫 』の公開後にかけて「社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向」と分析する宮崎駿転向論もあったが[ 106] 、しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。宮崎はもともと統制的・強権的なソ連型社会主義 には懐疑的で、ソ連 や中国 の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、アメリカ も嫌いです。日本も嫌いだけどね」と発言している[ 103] 。ニューヨーク近代美術館 での会見で中国の毛沢東 の語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが[ 107] 、後に「かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている[ 85] 。冷戦崩壊直前の1990年 11月 にはソ連と対峙するラトビア の独立運動で「人民戦線 」という用語が使用されている事に触れながら、「社会主義 が自由主義 っていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。西ドイツ の現状はどうなんですか?西ベルリン が健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている[ 103] 。天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている[ 103] 。『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きたユーゴスラビア紛争 に触れ、民主化による民族主義 の台頭に絶望感を覚えたという。そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後の赤 になるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している[ 108] 。
宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている[ 103] 。
2008年の講演で、日本の子供がナショナリズムから解放されるべきことを提唱した[ 109] 。一方で、「世界の問題は多民族にある」とも述べている[ 109] 。
反原発
スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で[疑問点 – ノート ] 、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は東小金井 で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した東日本大震災 の福島第一原子力発電所事故 に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、鈴木敏夫 、河野太郎 、大西健丞 、川上量生 による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちにトトロ などのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている[ 110] 。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている[ 111] [ 112] 。
欧米世界への批判
J・R・R・トールキン の作品『指輪物語 』がピーター・ジャクソン 監督により映画化された際、悪の勢力に味方するために象をつれて登場した人々が“アジア的”に描かれていたため、宮崎はこれを「黄人差別映画」であると批判した。また原作についても同様の批判を展開し、西洋ファンタジーの古典にそうした側面がある事を理解しない風潮を「馬鹿なんです」とも語った[ 113] 。また上述の流れからアメリカ映画(ハリウッド)全体に対しても「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「アフガニスタン戦争 での誤爆 と同じ理屈」など痛烈な批判を行い、(作り手の欧米人はともかく)日本人が一緒になって喜んでいる事を「信じられないぐらい恥ずかしい事」と評した[ 113] 。
シャルリー・エブド襲撃事件 をめぐる風刺画 問題について、「まずもって自国の政治家にやるべきであって、他国の政治家にやるのはうさんくさくなるだけ」と指摘。その上で、他の文明が崇拝しているものを対象にすることは「やめた方がいい」と話した[ 114] 。
影響を受けた作家・作品
アーシュラ・K・ル=グウィン
ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『指輪物語 』を厳しく批判する一方、アーシュラ・K・ル=グウィン の『ゲド戦記 』からの影響をしばしば公言し、「シュナの旅 」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている[ 115] 。
サン=テグジュペリ
フランス の作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ の愛読者であり、とくに『人間の土地 』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『世界・わが心の旅 』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便 のパリからトゥールーズ 、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ )まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった郵便機 乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行 」「人間の土地 」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。
中尾佐助
堀田善衛
網野善彦
『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら (鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子 運送業者、ハンセン病 患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝 さまとはなんぞや。」と話す女性を登場させるなど、網野善彦 の中世 史観 の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する[ 116] 。
レフ・アタマーノフ
宮崎はレフ・アタマーノフ (英語版 ) の『雪の女王 (1957年の映画) 』を見た時に、「目の上のラインは実線で描くが下の所には色線を描くというのを見て、こういう眼差しが優しくなる描き方があるのかと驚嘆した。それまでは上下両方とも実線で繋げた切れ長の目を描いていたが、そこから抜け出すヒントが雪の女王の中にあった。外国人がなんで日本のアニメーションはみんな目の線が切れているんだと言うけれど、僕らは雪の女王から貰った。」と語っている[ 117] 。また、「本当に見事に一筋の想いを貫いてそれを力にしてカイを取り戻そうという、ゲルダのそういう想いを描こうとする時にアニメーションというのは表現方法として非常に可能性を持っているんだなと見た時に思った。アニメーションは貫く想いを描くのに向いていて、それこそが自分がやりたかったものなのではないかと思った。だから色々な映画を見たがアニメーターになっていて良かったと思ったのは雪の女王です。」と語っている[ 117] 。
映画化に関連する作家・作品
ある作品を原作として宮崎駿がその物語を脚色しアニメーション映画化された例もあり、角野栄子 の『魔女の宅急便 』、柊あおい の『耳をすませば 』、堀辰雄 の『風立ちぬ 』、吉野源三郎 の『君たちはどう生きるか 』などがある。
上記以外の作品
20世紀のなかで最も影響を受けたものとして、ブルース・スプリングスティーン 、映画『イージー・ライダー 』、そしてジョン・フォード の監督作品、とりわけヘンリー・フォンダ 主演『荒野の決闘 』を挙げている[ 118] 。そのほかに、エーリッヒ・フロム の『自由からの逃走 』、ノーマン・メイラー の『裸者と死者 』、デヴィッド・リースマン の『孤独な群衆 』、フリッツ・パペンハイムの『The Alienation of Modern Man 』といった本からも影響を受けたと述べている[ 118] 。
自身の映画論
映像について
黒澤明
現代劇は時代劇と比べて色褪せやすく、その寿命は30年ほどであるとしているが、その年月を過ぎても見る価値のある名作の一本に黒澤明 の生きる を挙げ、役所に勤める主人公の渡辺課長が大量の書類に囲まれて作業的にハンコを押す1カットを特に絶賛しており、「この1カットだけで、この男が何十年も生きながら生きていない、ただ言われるがままにハンコを押しているだけのお役所仕事をしている男ということがわかり、かつ、この作品が名作、それも一人の映画監督が何十年に一本しか取れない名画、たったこの1カットだけでその監督の品格までも分かる名カット」と評しており、名画は途中から見ても、1カット見ただけで分かると持論を展開し、ロシア のアンドレイ・タルコフスキー のストーカー も同様の理由で絶賛した(「生きる」LDの宮崎解説より)[ 119] 。
ルイ・マル
ジャン=リュック・ゴダール やフランソワ・トリュフォー 同じくフランス映画 のヌーヴェルヴァーグ を代表するルイ・マル (死刑台のエレベーター や鬼火 でしられる)を敬愛しており、さよなら子供たち 公開時には劇場パンフレットに山田宏一 や辻邦生 、黒田邦雄 、スタンリー・ホフマン らと共に、宮崎は同作の評やマル論などを書いており、この宮崎評なども高く評価されている[ 120] 。
他者などの指摘
鈴木敏夫
鈴木は宮崎に影響を与えた、日本映画の大きな流れとして、「黒澤明 の強さ、木下恵介 の弱さ」と、そして「内田吐夢 作品の祝福されてこずに生まれた者の業」「抑えきれない怒りなどの衝動」を指摘し、内田作品の宮崎への影響として、「ナウシカ」で父を殺されたナウシカの怒りなどを挙げ、特に宮崎が好きな作品としてたそがれ酒場 を挙げ、また宮崎が山中貞雄 作品河内山宗俊 (1936年)をテレビで見て衝撃&感動を受けた様子などを著書「映画道楽」(ぴあ (2005/4/1)。ISBN 4835615409 )に書き記した[ 121] 。また宮崎と鈴木はヘンリー・フォンダ主演のテキサスの五人の仲間 が大好きである[ 122] 。1970年前半ころから映画やテレビを見る習慣を無くしており、宮崎いわく「映画を見てるよりも街を歩いている方が大切」といい、鈴木いわく「宮さんは未だに(2008年当時)ゴッドファーザー (フランシス・フォード・コッポラ 監督)すら見てませんから」とのこと[ 123]
押井守
前述のように手塚治虫は漫画家としては尊敬していても、アニメ制作者として批判し、リミテッドアニメ や虫プロ関連は批判しており嫌いだが、例外が富野由悠季 (代表作は海のトリトン や機動戦士ガンダム 、伝説巨神イデオン )であり、押井いわく「宮さんと富野さんは仲良しでさ、たまに電話して話してるんだ」「宮さんは虫プロは大嫌いだけど、富野さんだけは例外で好きで、富野さんは苦労人だから、そこも気に入ってる」と評し、しかし富野だけが例外であり、手塚アニメや虫プロ関係者は嫌っており、特に出崎統 は痛烈に批判している[ 注 13] 。またリミテッドアニメについて押井は「宮さんはリミテッドアニメ嫌いだけど、日本アニメはリミテッドアニメで進化した」と評している[ 125] 。
北爪宏幸
自身が関わることの多かった富野由悠季と比較して、作画視点でのアニメーションは素晴らしく完成度が高いが、登場人物の葛藤や確執と言った、映像面では描きにくい深層心理の描写は思いの外少なく、富野由悠季とは対極の位置にいる存在であると述べている[ 126] 。
お気に入りの作品
イギリスのウェブサイトが報じた宮崎のお気に入り映画10選
評価
幾原邦彦
アニメーション監督で音楽プロデューサーの幾原邦彦 は、宮崎駿の人間性について、同年代の富野由悠季と類似した部分があると前置きした上で、若手に対する強迫観念があり、有能な若手アニメーターの手腕は評価するが、演出については酷評している点に注目して、監督として一番欲しいのは従順で腕のいいアニメーターであり、才能ある若手の演出力とその台頭を恐れていると指摘している[ 128] 。
作品
長編映画
※監督作のみ太字
短編映画
テレビ
その他の作品
漫画・絵物語・イメージボードなど
デザインワーク
作詞
『君をのせて 』(『天空の城ラピュタ』主題歌)
『となりのトトロ 』(『となりのトトロ』主題歌)
『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)
『カントリー・ロード 』(『耳をすませば』主題歌)※補作
『バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)
『もののけ姫 』 (『もののけ姫』 主題歌)
『タタラ踏む女達』 (『もののけ姫』 挿入歌)
『千と千尋の神隠し』イメージアルバム
『神々さま』
『油屋 』
『さみしい さみしい』
『白い竜 』
『崖の上のポニョ』イメージアルバム
『崖の上のポニョ 』(『崖の上のポニョ』主題歌)※補作詞
『いもうと達』
『ポニョの子守唄』
『ひまわりの家の輪舞曲』
『お母さんの写真』(CMソング)
著書(対談・インタビュー・共著も含む)
『トトロの住む家』 (画文集/写真和田久士) 朝日新聞社 (1991年)/増補改訂版 岩波書店 (2011年1月)
『時には昔の話を』(加藤登紀子 との共著、絵本、対談) 徳間書店(1992年)
『時代の風音』(司馬遼太郎 、堀田善衛 との鼎談) UPU(1992年)。 朝日文芸文庫 (1997年)
『何が映画か―「七人の侍 」と「まあだだよ 」をめぐって』(黒澤明 との対談集) スタジオジブリ (1993年)
『巨樹を見に行く―千年の生命との出会い』(共著) 講談社カルチャーブックス(1994年)
『出発点 1979〜1996』(エッセイ・発言集) 徳間書店(1996年)
『教育について』(共著、インタビュー集) 旬報社(1998年)
『虫眼とアニ眼』(養老孟司 との対談) スタジオジブリ(2002年)。新潮文庫 (2008年2月)
『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』(渋谷陽一 によるインタビュー集)ロッキング・オン(2002年)。文春ジブリ文庫(2013年11月)
『折り返し点 1997〜2008』(エッセイ・発言集) 岩波書店(2008年)
『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』(お薦め本50冊の紹介) 岩波新書 カラー版(2011年10月)
『腰ぬけ愛国談義』(半藤一利 との対談)、文春ジブリ文庫 (2013年8月)
『続・風の帰る場所―映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』(渋谷陽一 によるインタビュー集)ロッキング・オン(2013年)
表紙イラスト
実写作品
絵コンテ集
劇場用アニメーション映画
パンダコパンダ/パンダコパンダ雨降りサーカスの巻 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店)[ 注 18]
天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店)[ 注 18]
となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3(徳間書店)[ 注 18]
魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店)[ 注 18]
紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店)
耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店)
もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店)
千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店)
ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店)
崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店)
風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19(徳間書店)
君たちはどう生きるか スタジオジブリ絵コンテ全集23(徳間書店)
テレビアニメーション
ルパン三世 死の翼アルバトロス/さらば愛しきルパンよ スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!?/ミセス・ハドソン人質事件/青い紅玉 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
名探偵ホームズ 海底の財宝/ドーバー海峡の大空中戦!/ねらわれた巨大貯金箱 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
幻の作品
宮崎駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。
サイン・コサイン・シータ
大学時代の子供向け人形劇用の脚本。舞台は精神病院、少年アルファ何号と、少女シータ何号による物語。上演は実現しなかった[ 133] 。
長くつ下のピッピ
1971年頃、アストリッド・リンドグレーン 原作の児童文学作品[ 134] 。企画した東京ムービー社長の藤岡豊 自らスウェーデンに赴いて原作者から映画化の承諾を得ようとしたが、面会できずに頓挫する[ 135] 。このとき、宮崎はロケハンの目的で藤岡に同行し、現地で見た風景や家屋をもとに帰国後にイメージボードを描いている[ 135] 。そのイメージは後に『パンダコパンダ 』や『魔女の宅急便 』で活かされているほか[ 135] 、『アルプスの少女ハイジ』のオープニングに登場するブランコは、本作で用意した設定の流用である[ 136] 。残った制作資料は、子息である宮崎吾朗が『山賊のむすめローニャ 』をアニメ化した際に原作者(の著作権継承者)サイドの許諾が下りて、『幻の「長くつ下のピッピ」』(岩波書店、2014年10月、高畑勲・小田部羊一共著)として刊行され[ 137] 、宮崎によるイメージとストーリーボードおよびインタビューが掲載されている。また、鈴木敏夫によると、スタジオジブリ設立後も宮崎と何度もアニメ映画化について相談したが結局実現せず、リンドグレーンの没後に著作権継承者からジブリにオファーがあったときには宮崎は「遅すぎる」「時機を逸してしまった」と述べたという[ 137] 。
頭の上のチッカとボッカ
Aプロダクション在籍中の1973年頃に楠部三吉郎 とともに企画したテレビアニメ[ 138] 。コロポックル を主人公とし、彼らが人間のものを「狩猟」と称して勝手に持ち出すストーリーで、キャラクターもデザインした[ 138] 。毎日放送 に楠部が持ち込んで好感を得るも、宮崎が当時は無名だった点に難色を示され作品化は実現しなかった。その後、企画は形を変え、楠部が藤子不二雄 (ここでは藤本弘を指す。藤本は後の藤子・F・不二雄 )を原作にするという修正案を出したことで『ジャングル黒べえ 』として作品化が実現した。宮崎が作ったキャラクター等は使用されなかった[ 138] 。
ユキの太陽
ちばてつや の漫画。パイロットフィルムのみ製作された(2013年12月から全国のイオンシネマで期間限定で上映)。
もののけ姫
1980年頃、『美女と野獣 』&戦国時代をモチーフとしているが、1997年に映画化された『もののけ姫 』とは題名が共通なだけで、物語もデザインも全く異なる作品である。イメージボードは1993年にスタジオジブリ (後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。
ルパンの娘
1981年頃、アニメ評論家の岡田英美子との対談で語ったもの。主人公であるルパン三世の娘が、頭の弱い不二子の姪とコンビを組む学園物。
ロルフ
1981年頃、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。イメージボードが作成されている。舞台設定やデザインは『風の谷のナウシカ 』の原型とも言える作品。手塚治虫 との合作の予定だった。
戦国魔城
1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。
NEMO
1981年 - 1982年、ウィンザー・マッケイ 原作の『リトル・ニモ 』の企画にテレコム・アニメーションフィルム のスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。
風の谷の一日
1983年頃、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。
アンカー
1980年代半ば、夢枕獏 との対談で宮崎が提案した。『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督押井守 、プロデューサー高畑勲 で検討されるが、企画段階で中止される。宮崎の構想によると舞台は当時の東京、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険ものであるという。しかし、美少女を出そうとする宮崎と、鼻垂れ小僧のような汚い少女を出そうとする押井の間で企画は消滅した[ 139] 。
突撃!アイアンポーク
1985年頃、「宮崎駿の雑想ノート 」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。
大東京物語
ふくやまけいこ の漫画。後に現代には合わないと判断している。
墨攻
古代中国が舞台の酒見賢一 原作の歴史小説。構想では、敵に包囲された都市を1人の墨者が防衛するというもの。押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。
東京汚穢合戦
宮崎が1997年、NHK番組『トップランナー 』に出演した時に語ったもの。
ゴチャガチャ通りのリナ
柏葉幸子 原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町』
煙突描きのリン
架空の震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。三鷹の森ジブリ美術館 でそのプロットが見られる。かなり具体的に構想され、約1年間の検討の末にボツとなった。この物語のために作られた木村弓 の『いつも何度でも 』が、後に『千と千尋の神隠し 』の主題歌となり、主人公の「リン」の名は同映画の登場人物に再使用されている。
毛虫のボロ
長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界を描く」という企画。長編化困難として『もののけ姫』の前に一旦ボツになったが、ジブリ美術館用の短編として完成した。
旅のラゴス
筒井康隆 原作のSFファンタジー小説
ジョナサンと宇宙クジラ
ロバート・F・ヤング のSF小説
名探偵芥川龍之介 対夏目漱石
明治の文豪が出てくる探偵モノ。
ポルコ・ロッソ 最後の出撃
紅の豚 の続編
宮崎駿版ゲド戦記
宮崎は本作の古くからのファンであり、1980〜90年代に出版社および原作者に対し、二度映画化の打診を行い断られている。その後2000年代に入り宮崎の映画が原作者にも知られることとなり、「もし「ゲド戦記」を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」と言わしめるが、当の宮崎は既に本作に対する当時の情熱を失っており、紆余曲折の末宮崎の息子の吾朗により映画化 された。
鉄砲侍
#長編監督引退後 を参照。
出演
長編映画
「もののけ姫」はこうして生まれた。(スタジオジブリ 、1998年6月26日発売、VHS )-『もののけ姫』の創作現場密着ドキュメンタリー
ラセターさん、ありがとう 〜「千と千尋」アカデミー賞受賞に隠された宮崎駿とジョン・ラセターの20年にわたる友情〜(スタジオジブリ、2003年11月19日発売、DVD )- 宮崎駿とジョン・ラセター の密着ドキュメンタリー
宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。(二馬力 、2004年8月6日発売、DVD)-「お母さんの写真」の創作現場密着ドキュメンタリー
宮崎駿とジブリ美術館(スタジオジブリ、2005年3月18日、DVD)
ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜(NHKエンタープライズ 、2009年12月8日発売、DVD・Blu-ray )-『崖の上のポニョ』の創作現場密着ドキュメンタリー
夢と狂気の王国 (ドワンゴ 、2013年11月16日公開)-『風立ちぬ』の創作現場密着ドキュメンタリー
短編映画
もののけ姫 in U.S.A.(スタジオジブリ、2000年4月29日公開)
オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号(スタジオジブリ、2002年10月2日公開)[ 140]
テレビ特集
世界・わが心の旅 「サンテグジュペリ 大空への夢 〜南仏からサハラ〜」(BS2 、1999年放送)
プロフェッショナル 仕事の流儀 「映画を創る 〜宮崎駿・創作の秘密〜」(NHK 、2007年3月27日放送)
プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル「宮崎駿のすべて 〜ポニョ密着300日〜」(NHK、2008年8月5日放送)-『崖の上のポニョ』の創作現場密着ドキュメンタリー
「NHK ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎 駿×宮崎吾朗〜」(NHK、2011年8月放送)-『コクリコ坂から』の創作現場密着ドキュメンタリー
NHKスペシャル 「終わらない人 宮﨑駿」(NHK、2016年11月13日放送)-『毛虫のボロ』の創作現場密着ドキュメンタリー
BS1スペシャル 「さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜」(BS1 、2021年4月29日放送)[ 141]
プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル「ジブリと宮﨑駿の2399日」(NHK、2023年12月16日放送)-『君たちはどう生きるか』の創作現場密着ドキュメンタリー[ 142]
受賞歴
脚注
注釈
^ 宮崎家の四男で末弟。駿とは6歳差。博報堂 のアカウント・ディレクターとして活動。『風の谷のナウシカ 』など、徳間書店 ・博報堂の映画共同製作に参加。1989年に発行の『アニメージュ特別編集ガイドブック 魔女の宅急便』(徳間書店)に「家族の風景-兄・宮崎駿」という記事を寄稿している[ 2] 。
^ 会社が中島飛行機 の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮が空襲 を受け、親類の運転するトラック で4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている[ 6] 。
^ 母親はその後回復し、後述の通り『風の谷のナウシカ』制作中まで存命した。
^ 医者からは20歳まで生きられないと言われ、これは後の創作に影響を与えた、と言う[ 9] 。
^ 漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の1994年 に完結。
^ 初のオリジナル長編映画だった『風の谷のナウシカ』製作中、宮崎が6歳の時から病気で寝たきりの母が亡くなり、非常に悔やんだと話している。この後、宮崎の作品には自身の母をモチーフにしたキャラクターが頻出するようになる[ 9] 。
^ 宮崎駿は1987年公開『紅い眼鏡』のパンフレットに自分が脚本で押井が監督するはずだったアニメ映画がつぶれてスケジュールが空いたときに二人で知床まで自動車旅行をした話、「押井さんについて」を寄稿している。
^ 映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言[ 33] 。
^ 2020年 に第27代学習院 院長に就任した耀(あかる)英一(元あさひ銀行 常務取締役)は、都立豊多摩高校および学習院大学政経学部で、それぞれ宮崎の一年後輩にあたる。学習院桜友会『桜友会報 No.117』(2020年12月)P7より。
^ 妻の朱美には著書『ゴローとケイスケ―お母さんの育児絵日記』がある。
^ 一応国ごとに動物が割り当てられており、ドイツ=豚、イギリス=犬(自ら手がけた『名探偵ホームズ』と同じデザイン)、アメリカ=ゴリラとなっている(ソ連にも豚を用いた例あり)。アジア人が登場する作品では動物化はされていない。
^ 「𦻙記」の読みは「せっき」。「𦻙 」(草冠の旧字体の下に耳を二つ)は宮崎による「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する創作であり日本の漢字には存在しない。これに相当するものが台湾の漢字に存在し、Unicode ではU+26ED9(CJK統合漢字拡張B )に収録されている。「聶」(耳を三つ)は誤記あるいは代用表記。
^ ただしアニメーターの遠藤正明は宮崎が出崎を嫌っていたという逸話について否定している[ 124] 。
^ 当時、テレコム・アニメーションフィルム所属だったアニメーターの遠藤正明によると担当カットは「コブラがエアカーで脱出するシーン」の「装甲車の砲塔上で兵士が射撃する所」とのこと[ 130] 。
^ 原話は、君島久子 の書いたチベット の民話「犬になった王子 」、岩波書店 。
^ 「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加え、宮崎の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併収。
^ 1991年 、映画宣伝用に自主的に作ったキャラクターを、球団創設70年にあたる2006年 、ファンクラブ設立にあたり起用したもの。熱心な中日ファンとして知られるスタジオジブリプロデューサー・鈴木敏夫 の橋渡しによって採用されることとなった。
^ a b c d これら「絵コンテ全集」の出版とは別に、『風の谷のナウシカ』についてはアニメージュ文庫にて、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』についてはロマンアルバムにて(いずれも徳間書店)、映画公開から程なくして出版されたものの、いずれも現在は絶版である。
出典
参考文献
「特集 憲法改正 」(PDF)『熱風』2013年7月号、スタジオジブリ出版部、2013年。
宮崎駿 著、スタジオジブリ 編『出発点 1979〜1996』スタジオジブリ、1996年。ISBN 4198605416 。
関連文献
単行本
ビデオ
「もののけ姫」はこうして生まれた。(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント 、1998年6月26日)
ラセターさんありがとう 〜「千と千尋」アカデミー賞受賞に隠された宮崎駿とジョン・ラセターの20年にわたる友情〜(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2003年11月19日)
ジブリがいっぱいCOLLECTION「世界・わが心の旅 」(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2004年7月23日)
宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2004年8月6日)
宮崎駿とジブリ美術館(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2005年3月18日)
プロフェッショナル 仕事の流儀 スペシャル 宮崎 駿の仕事(NHKエンタープライズ 、2009年1月23日)
ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン 、2009年12月8日)
NHK ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎 駿×宮崎吾朗〜(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン、2012年5月16日)
夢と狂気の王国 (ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン、2014年5月21日)
終わらない人 宮﨑駿(NHKエンタープライズ、2017年6月23日)
関連項目
外部リンク
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