小田 実(おだ まこと、1932年〈昭和7年〉6月2日 - 2007年〈平成19年〉7月30日)は、日本の作家・政治運動家。体験記『何でも見てやろう』で一躍有名になった。日本に多い私小説を批判し、全体小説を目指した[1]。ベトナムに平和を!市民連合の設立者の一人、九条の会の呼びかけ人の一人。妻は画家の玄順恵[2]。
大阪府大阪市出身。旧制天王寺中学(のち大阪府立天王寺高等学校)に入学するが、学制改革により新制大阪府立夕陽丘高等学校に進学し、東京大学文学部言語学科を卒業する。大学卒業後は代々木ゼミナールで英語科講師。
1958年(昭和33年)、米フルブライト基金により渡米。その後、一枚の帰国用航空券と持参金200ドルで世界一周旅行に出かけ、一泊1ドルのユースホステルなどに宿泊しながら、世界のあらゆる人たちと語りあった。現在のバックパッカーの走りともいえ、 その体験記『何でも見てやろう』はベストセラー、書名はそのまま流行語にもなり小田実の名前も一躍有名になった[3]。一枚の航空券をもって世界を駆け巡る習慣はその後も続き、小田実の作家活動・思想形成の基本的スタイルとなった。
1960年安保闘争の時期から、平和運動を開始する。
1965年(昭和40年)2月7日、アメリカが北ベトナム爆撃(北爆)を開始。反戦運動が高まる中、同年春、市民団体「声なき声の会」の事務局長を務めていた高畠通敏は鶴見俊輔に「北爆に対し無党派の市民として抗議したいが、『声なき声の会』では小さすぎる。政党の指令を受けないサークルの呼びかけで、ベトナム戦争を支援する日本政府に抗議するデモをやろう」と電話をかけた。鶴見と高畠は、当時西宮市に住んでいた小田を東京に呼び寄せ、同年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(のちの「ベトナムに平和を!市民連合」)を結成した[4][注 1]。小田は代表に就任した。
1969年(昭和44年)11月、ワシントンD.C.で開催される反戦集会に参加するため渡米したが、アメリカの当局からはデモに参加しないこと、デモをアジらないことといった条件が附せられ、違反した場合には逮捕することを通告された[6]。
1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙に三里塚闘争の指導者である戸村一作が出馬すると、宇井純・浅田光輝らとともに「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」を発足させた[7][8]。
1975年(昭和50年)3月13日、詩人の金芝河が反共法違反で再逮捕された[9][10]。同年5月17日から19日にかけて、小田、大江健三郎、井出孫六、青地晨、日高六郎、真継伸彦、高史明、鄭敬謨らは金の即時釈放を訴え、数寄屋橋公園で48時間ハンガー・ストライキを行った[11][12]。
一貫して市民の立場をとることを信条としている。左翼と見做される場合が多い。マルクス主義には懐疑的で、「マルクス主義における党組織論は、カトリックと似ている」、「マルクス主義者は真理を独占していると考えているが、人間の行動の動機は、財産欲による場合よりも性欲による場合が多い」などと述べている。2005年(平成17年)の衆議院議員選挙では、土井たか子が事実上の政界引退を表明したことに遺憾の意を表し、社会民主党支持を明らかにしている。
竹内洋によると、小田実は『何でも見てやろう』で一躍有名になった当時は、リベラル左派のように見えたという[13]。しかし当時の論壇は、左翼によって席巻されていたため、小田は「良心的」扱いの右翼の扱いだったという。小田自身以下のように記している[13]。
討論番組は、ふつう「右」からひとり、「左」からひとり、まんなかが「中立」で、これが司会者をつとめるものだが、私が「右」の代表者として招かれていることだ。後年になって「べ平連」の運動で「左」と自他ともにもくされる人物とあまたつきあうようになったとき、このころの私について新ら手の「右翼」が出て来たと思っていたと彼らに言われておどろいた。 — 小田実「あとがきとしての年譜」『小田実評論撰]』四、筑摩書房、2002年7月
2007年(平成19年)7月30日午前2時5分、胃がんのため東京都内の病院で死去。75歳だった。
1970年代に当時の軍事政権に迫害された韓国の金大中の救出運動にも加わったものの、同時に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を「地上の楽園」と賛美するキャンペーンを行った進歩的文化人を代表する一人でもあった。たとえば小田実は『私と朝鮮』(筑摩書房、1977年)の中で、
第三世界にとって、かつては日本が進歩のモデルだった。 しかし、今、そのモデルは、例えばアフリカの多くの国にとって、北朝鮮にとって代わられようとしている。 彼らの暮らしにはあの悪魔のごとき税金というものが全くない。これは社会主義国をふくめて世界のほかの国には未だどこも見られないことなので特筆大書しておきたいが、そんなことを言えば、人々の暮らしの基本である食料について「北朝鮮」がほとんど完全に自給できる国であることも述べておかねばならないだろう。
と書いている。また、訪朝した際には金日成にインタビューを行ない、記事は月刊プレイボーイに掲載されている。
そして北朝鮮側が日本人拉致を認めた後は、
1963年に日本が韓国との国交正常化に歩み始めた時から北朝鮮とも国交回復していれば、拉致はなかった。小泉首相は拉致家族に国の政治責任を謝罪すべきだ。日本政府は拉致された人がどう死んだのか、誰をどう処罰したのか、北朝鮮に明らかにさせなくてはならない。この究明と(拉致被害者家族に対する)国家補償の追及が、国交正常化の第一歩だ。一方、日本は朝鮮半島を植民地化する国家犯罪を犯した。金正日(総書記)は少なくとも拉致について謝罪したが、日本は従軍慰安婦問題で謝罪も補償もしていない。今こそこれをすべきだ。日本が国家犯罪を清算せず、国交ができないために、北朝鮮の国家犯罪による自国の犠牲者を生んだ。日朝両国が国家犯罪を認め合い反省することが、これからの「国交」の土台となる。 — 2002年9月18日付東京新聞朝刊社会面「日朝首脳会談 拉致事件・生死判明 識者の声・市民の声」
と、北朝鮮による日本人拉致の責任を日朝国交樹立の遅れに求めている。 また、北朝鮮の諸問題の原因は日本をまねたためだ、というような発言を自身のホームページのコラム新・西雷東騒』第4回に書き、『週刊新潮』2006年11月30日号「『ベ平連・小田実』は今も『北朝鮮の味方』という証明」により批判された。
1963年(昭和38年)夏に韓国広報部の招待で訪韓し、「韓国何でも見てやろう」(『中央公論』、1963年11月号)を発表したが、当時左翼は、社会主義=北朝鮮=善、韓国=アメリカ帝国主義の手先の構図であったため、訪韓しただけで「新手の右」「敵」扱いされ[13]、『中央公論』(1964年9月号)で藤島宇内と対談、藤島は「韓国何でも見てやろう」を「池田首相が国会答弁でいっていたことと同じだったんだよ」と酷評、小田は「藤島さんも、北鮮のことについて、もっと素直に批判なさったらいい」と反論しており、「後年の北朝鮮礼賛(『私と朝鮮』、『北朝鮮の人びと』)」とは異なる反応をしている[14]。竹内洋によると、そのようなスタンスであったからこそ、宇都宮徳馬から「資金は自分が出すから自民党の『平和憲法』擁護派として選挙に出てくれ」と依頼されたという[14][15]。
1969年(昭和44年)7月、在日朝鮮人や被差別部落民を扱った小説『冷え物』を発表[16]。この作品における「四つ」「エタ」などの表現を部落解放同盟が問題とした[17]。
これを受け、1971年(昭和46年)3月8日、「関西部落問題研究会」を名乗る団体のメンバー約10人が部落解放同盟の代理人を買って出る形で[18]ベ平連事務所に押しかけ、『冷え物』を差別小説として小田実とベ平連を糾弾し、作品の抹殺を要求。このとき「関西部落問題研究会」は、応対に出た吉川勇一に対し、重いスパナを手の中で回す、吉川の机に太い錐を突き刺して脅す、丸めた新聞紙で吉川の頭を殴るなどの狼藉を働き、対話はほとんど成立しなかった。
これに対し、小田は1971年(昭和46年)11月、『ある手紙』を書いて「関西部落問題研究会」の要求を退けると共に、「『冷え物』に同じ長さの批判文を含めて一冊の本として出版したいので、批判文を書いてもらいたい」と提案。すると「関西部落問題研究会」が姿を消してしまったため、部落解放同盟の土方鐵に批判文の執筆を依頼。結局、土方による「『冷え物』への私の批判」を併録する形で、1975年、河出書房新社から『冷え物』を出版した[19][20]。
1990年(平成2年)1月18日に発生した本島等・長崎市長への銃撃事件に際して、「日本は自由主義のはずではないのか。自由主義の根幹は言論の自由だ。それなのに、ルーマニアのチャウシェスク政権と同じような体制を作ろうと考えている人々が存在するということだ」[21]という談話を出した。
阪神・淡路大震災の体験から「自衛隊を災害救助隊に」と活動していた。しかし一方で、震災の時に「俺は被災した。なんでマスコミは、被災した俺のところにインタビューにこないんだ」云々言っていることを、自分はひとかどの見識を持っていて、被災したんだから、俺のところに取材にくるのは当然だ、と考えている呆れたやつ、指導者気取りの最悪のやつ、と吉本隆明に評されている[22]。
多くの小説・評論・エッセイを出しており、中でも代表作である1961年(昭和36年)の『何でも見てやろう』(河出書房新社)は多くの若者達に支持され、当時のベストセラーとなった。1988年(昭和63年)に『HIROSHIMA』でチュニスでのアジア・アフリカ作家会議によりロータス賞、1997年(平成9年)に短編「『アボジ』を踏む」で川端康成文学賞をそれぞれ受賞した。
・黒古一夫『小田実―「タダの人」の思想と文学』勉誠出版 2002年。ISBN 458504082