アルフォンス・ミュシャ(フランス語: Alphonse Mucha、チェコ語: Alfons Mucha、本名:アルフォンス・マリア・ムハ(チェコ語: Alfons Maria Mucha)[2]、1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、チェコ出身でフランスなどで活躍したグラフィックデザイナー、イラストレーター、画家。「ミュシャ」という表記はフランス語の発音によるものであり、チェコ語での発音は「 ムハ[ヘルプ/ファイル]」である。
アール・ヌーヴォーを代表する画家で、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』、『黄道十二宮』、『四芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』などが挙げられる。
プロフィール
オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェ(チェコ語版、英語版)に生まれた[3]。ブルノ中学校に入り教会の聖歌隊となった。当時は音楽家を志したが、1875年に声が出なくなり志を諦める。コーラス・グループの仲間のひとりにレオシュ・ヤナーチェクがいた。夏休みに合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど絵を得意とした。中学校を中退、地方裁判所で働く。19歳でウィーンに行き舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通う。この頃、ハンス・マカルトの作品に触れ、多大な影響を受けた。2年後失業。1883年、ミクロフでクーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる。25歳のときエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学、卒業し、28歳のときパリにてアカデミー・ジュリアンに通う。
彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した『ジスモンダ』 (en:Gismonda) のポスターである。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注することにしたが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いてたミュシャに飛び込みで依頼したものだった。威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、文字通り一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした。またサラ・ベルナールにとっても、この『ジスモンダ』が、フランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなった[4]。その後もミュシャは「椿姫」、「メディア」、「ラ・プリュム」、「トスカ」など、サラ・ベルナールのポスターを制作している。
サラ・ベルナールの他、煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などの多くのポスターの制作をおこなっている。これらは女性と様式化された装飾の組み合わせが特徴的である。特に1896年に制作されたJOB社のポスターは大変人気があり、コレクター用に小型判が作られている[5]。
ポスターに並び、装飾パネルも数多く手がけている。2点ないし4点のセットの連作が多く、いずれも女性の姿を用いて様々な寓意を表現している。代表的な作品には以下のようなものがある。
- 装飾パネル連作『四季』(1896)
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『春』
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『夏』
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『秋』
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『冬』
また、挿画本分野の作品も手掛けている。
パリでの初期苦闘時代、ミュシャは雑誌の挿絵によって生計を立てていたが、次第に認められ、パリの大出版社、アルマン・コランの挿画家として活躍するようになる。東洋的な情景をドラマチックに描き、高い評価を得た「白い象の伝説」、33点の木版画が挿入され、挿画家としての名声を高めた「ドイツ歴史の諸場面とエピソード」も、同社から出版された作品である。
代表的な作品には、年代順に以下のようなものがある。
- 『白い象の伝説』(1894年) 木版画
- 『ドイツ歴史の諸場面とエピソード』(1896年) 木版画
- 『トリポリの姫君イルゼ』(1897年) リトグラフ
- 『アダミテ』(1897年) 木版画/フォトレリーフプリント
- 『ラマ』(1898年) リトグラフ
- 『主の祈り』(1899年) リトグラフ/版画集
- 『クリオ』(1900年) リトグラフ
- 『UTOK MORE』(1922年) プリント
- 『ANDELICEK Z BAROKU』(1929年) プリント/サイン入200部有
宗教的思想に裏付けられた文学的解釈、それを美へと昇華する芸術力。挿画本分野において、ミュシャは独自の、そして輝かしい業績を残している。
アメリカの富豪チャールズ・クレーン(英語版)から金銭的な援助を受けることに成功し、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作する[6]。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものである。スメタナの連作交響詩『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成までおよそ20年を要している。
また、この時期にはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市庁舎のホール装飾等を手がけている。1918年にハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキアが成立すると、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを行った。財政難の新しい国を慮って、デザインは無報酬で請け負ったという。
1939年3月、ナチス・ドイツによってチェコスロヴァキアは解体された。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由で逮捕された。ナチスはミュシャを厳しく尋問したが、78歳の彼には大きな負担となった。間もなく釈放されたものの、4ヶ月後の7月に体調を崩し死去した。遺体はヴィシェフラド民族墓地に埋葬された(現在はヤンとラファエルのクベリーク親子と同じ墓石に埋葬されている[1])。
戦後に成立した共産党政権は、ミュシャと愛国心の結びつきを警戒し、彼の存在を黙殺した。しかし、民衆の中でミュシャへの敬愛は生き続け、プラハの春翌年の1969年には、ミュシャの絵画がプリントされた記念切手数種が制作されている。また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、改めて高い評価を受け、現在はチェコを代表する国民的画家として認知されている。
日本におけるミュシャ
ミュシャの挿絵やイラストが、明治時代の文学雑誌『明星』などにおいて盛んに模倣された。
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ミュシャの「JOB」(1894年)
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借用した例・文芸誌『新古文林』(1905年表紙・
石川寅治)
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ミュシャの「JOB」(1896年)
ミュシャの有力コレクションの一つは日本にある。堺市が所有し、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館で一部が展示されている「ドイ・コレクション」である。カメラ店の創業者である土居君雄が、本業の買い付けや商談の為に渡欧する度に買い集めた。また、ミュシャ子息のジリ・ミュシャとも親交を結び、彼の仲介によってコレクションの中核が築かれた。1989年には、土居にチェコ文化交流最高勲章が授与されている。土居が1990年に他界すると遺族は相続放棄し、1993年、土居夫妻が新婚時代に居住したことのある堺市に寄贈された。
作曲家フェルステルとのコラボレーション
- プラハのミュシャ博物館で上映されているミュシャ紹介ビデオの伴奏には、チェコの作曲家であるヨゼフ・ボフスラフ・フェルステルの作品『シェイクスピア組曲』が使われている。
- フェルステルの交響曲全集(MDGレーベル)のCD3枚には、いずれもミュシャの絵が使われている。
ギャラリー
演劇ポスター
広告ポスター
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『リュション』(1895)
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『ランスの香水:ロド』(1896)
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『リュイナール・シャンパン』(1896)
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『カサンフィス印刷所』(1896)
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『ルフェーブル=ユティール ゴーフレット・ヴァニーユ』(1896)
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『ネスレ離乳食』(1897)
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『ブルーデシャン』(1897)
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『ショコラ・イデアル』(1897)
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『トラピスティーヌ酒』(1897)
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『モナコ・モンテカルロ』(1897)
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『インカのワイン』(1897)
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『ムーズ川のビール』(1897)
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『ソシエテ・ポピュレール・デ・ボザール』(1897)
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『フォックスランド・ジャマイカ・ラム』(1897)
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『サロン・デ・サンのミュシャ展』のポスター(1897)
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『ネスレ社の表慶』あるいは『ネスレ社の奉祝ポスター』(1897)
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『バニョレの石鹸工場』(1897)
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『ウェイヴァリー自転車』(1898)
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『ジョブ』(1898)
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『ベネディクティン』(1898)
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『ひなげしの女』(1898)
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『ビスキー・コニャック』(1899)
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『ジュレ・フレールの香水 シルヴァニアエッセンス』(1899)}}
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『ブルーズ・アダンクール香水商会』(1899)
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『モエ・エ・シャンドン シャンパン・ホワイトスター』(1899)
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『モエ・エ・シャンドン ドライ・インペリアル』(1899)
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『フラート・ビスケット』(1899)
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『1900年のパリ万博でのボスニア・ヘルツェゴビナ館ポスター』(1900)
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『万国博覧会オーストリア館ポスター』(1900)
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『「エドシック・モノポール」の広告ポスター』(1901)
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『ペルフェクタ自転車』(1902)
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『ネクター』(1902)
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『ズデンカ・チェルニー』(1903)
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『セントルイス万国博覧会ポスター』(1904)
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『「遠国の姫君」メリザンドのサラ・ベルナール(ルフェーヴル・ユティル・ビスケットのポスター)』(1904)
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『ワーナーズ 錆びない コルセット』(1909)
装飾パネル
チェコ時代
絵画・版画
挿絵・表紙
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『イリュストラシオン』誌のクリスマス号(1896)
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ミュシャ直筆原画付挿画本『トリポリの姫君イルゼ』挿絵(1897)
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文芸雑誌「ラ・プリュム」の第200号表紙(1897)
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『アイユールの歌』表紙(1897)
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雑誌『オー・カルティエ・ラタン』(創刊5周年記念特別号)の表紙絵(1897)
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雑誌『オー・カルティエ・ラタン』(創刊6周年記念特別号)の表紙絵(1898)
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ミュシャ挿画本『主の祈り』表紙(1899)
カレンダー
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チョコレート・マッソンのカレンダー『恋人たち』(1895)
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ヴィーユマール印刷所の万年カレンダー『パリスの審判』(1895)
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ルフェーヴル・ユティル社のカレンダー『ビスケット・シャンパン ルフェーブル=ユティール』(1896)
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チョコレート・マッソンの販売促進用として1897年用に制作されたカレンダー『四季:春、夏、秋、冬』(1896年制作)
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ショコラ・マッソンの1898年のカレンダー『人生の四つの時:幼年期、少年期、壮年期、老年期』(1897年制作)
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文芸誌「ラ・プリュム」の宣伝用として発行されたカレンダー『黄道十二宮』(1896-97)
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『クロモリトグラフ』(1902)
スラヴ叙事詩
装飾デザイン集
『装飾資料集』『装飾人物集』(1901)、『装飾図案集』(1900)の3種類で構成されている。
パッケージデザイン
ホイットマン社のチョコレート缶容器(1900)
切手
撮影
写真
文献
画集・図録
書籍
CD-ROM
- 『アルフォンス・マリア・ミュシャ I. 黄道十二宮 ハイブリッドCD-ROM for Macintosh/Windows95』自在堂/ピクトグラフ、1997年、PG-M01
- 『アルフォンス・マリア・ミュシャ II. 装飾資料集/装飾人物集 ハイブリッドCD-ROM for Macintosh/Windows95』自在堂/ピクトグラフ、1997年、PG-M02
- 『アルフォンス・マリア・ミュシャ III. 主の祈り/連作集 ハイブリッドCD-ROM for Macintosh&Windows95/98』自在堂/ピクトグラフ、1999年、PG-M03
- 千足伸行監修『ミュシャ作品集 アール・ヌーヴォーの華麗なる遺産』シンフォレスト、1999年12月9日発売、CD-ROM画集
参考文献
脚注
関連項目
外部リンク