グルジアの歴史 (History of Georgia )では、カフカス山脈 (コーカサス山脈)南側のザカフカス (南コーカサス)地方に所在するグルジア/ジョージア (グルジア語:საქართველო(サカルトヴェロ))の歴史 について解説する[ 注釈 1] 。
なお、本項では1991年 のジョージア独立宣言 以前の国家については「グルジア」、1991年の独立宣言以降は「ジョージア」と表記する。また、言語 の名称としては「グルジア語 」を使用する。
旧石器時代
スヴェティツホヴェリ大聖堂(ムツヘタ=ムティアネティ州 ・ムツヘタ )
ドマニシ城とその背後に広がるドマニシの考古遺跡
21世紀 に入って、ジョージア国内では南東部のドマニシ の洞窟 から約180万年前から160万年前にかけての原人 タイプの化石人骨 が相次いで発見されている[ 1] 。
ホモ・ゲオルギクス
ドマニシ出土人骨のデータから、脳容積はおよそ600〜770立方センチメートル、身長は140センチメートル前後と推定され、従来東アジア で発見されていた原人よりも原始的な特徴を持ち、アフリカ大陸 外では最古の年代が想定されている[ 1] 。ユーラシア大陸 最古のこの原人は「ホモ・ゲオルギクス 」と命名され、遺跡 からはいわゆる「礫器 」に属するオルドヴァイ 型石器 群や動物 化石 なども多量に発見されており、前期旧石器時代 のグルジア(ジョージア)では生業として狩猟 が盛んだったことがうかがわれる[ 1] 。2003年 には、歯 のほとんどない老人の頭骨が発見されたことから、鳥獣肉の柔らかい部分(内臓や骨髄など)を食べさせる一種の介護のような活動さえ行われた可能性が指摘されている[ 1] 。
他に、前期旧石器時代に属し、対称形 の礫器が特徴的なアシュール文化 や、中期旧石器時代 に属し、剥片石器 を多数伴うムスティエ文化 期の遺構 ・遺物 がグルジア各地の洞窟や遺跡から発見されている。ムスティエ文化は、旧人 (ネアンデルタール人 )段階の文化に含まれ、死者の埋葬 が行われたことで知られる文化層であるが、西アジア ではこの層から新人(現生人類 )に属する原クロマニョン人 の化石人骨 が発見された事例がある[ 2] 。
新石器時代・青銅器時代
グルジアではクヴェヴリ と称される土器がワイン製造のために用いられてきた
コルキス盆地 やフラミ渓谷 、南オセチア などグルジア各地で新石器時代 の遺跡が発見されており、紀元前6000年 から紀元前5000年 にかけて以降、刃先に磨製石器 を利用した鍬 やつるはし 、石製の鎌 、製粉用の摩臼 、貯蔵用の土器 などを伴う本格的な定住生活と穀物 栽培 が始まったと考えられる[ 3] 。石器の石材には主として地元産のフリント や黒曜石 が用いられたと見られる[ 3] 。コムギ やライムギ については、カフカス地方は最も重要な種 の発祥地とされている[ 4] 。また、牛 や豚 などの牧畜 を行い、ぶどう を含む果樹の栽培も行われていた。後世のグルジアワイン (コーカサスワイン)の祖となる飲料 も作られていたと考えられ、この地はしばしばアルメニアと並んで「ワイン 発祥の地」「世界最古のワイン生産地」と称される[ 4] 。
グルジア(ジョージア)を含むカフカス地域は、先史時代 にあっては金属 精錬 の発祥地の一つとされる[ 3] 。紀元前4000年 以降、金 ・銀 ・銅 など金属を用いた道具 の使用が始まり、特に銅に錫 を合わせることにより強度を増した青銅器 が盛んに鋳造された(青銅器時代 )。紀元前3700年 頃から紀元前2500年 頃にかけてのマイコープ文化 や紀元前3400年 頃から紀元前2000年 頃にかけてのクラ=アラクセス文化 (英語版 ) の青銅器時代の遺跡からは夥しい数の金属器が発見されている[ 5] 。こうした文化はカフカスの中で孤立していたのではなく、周辺諸地域と連続して展開していたとみられる[ 5] 。『旧約聖書 』には青銅器の生産に長じた「タバル」という民族の名が登場するが、ジョージアでは彼らは自分たちの先祖の一流をなすと考えられている[ 6] 。
紀元前2400年 頃、南カフカス地域とアナトリア にインド・ヨーロッパ語族 に属する人々が移住してきたと考えられる[ 6] 。B・A・クフティンがトリアレティ(クヴェモ・カルトリ州 )で調査した遺跡によれば、当時のグルジア内陸地方では紀元前2000年紀 には遊牧 を生業とする諸部族が生活し、部族の指導者と見られる人物の墳墓からは美麗に彫琢された金銀製の容器が副葬されるなど、当時の社会が首長 に富と権力を集中させていた様相が見てとれる[ 3] 。また、副葬品 には宗教的な儀式の光景なども刻まれ、当時の信仰の一端を今日に伝えている[ 3] 。
紀元前2000年紀はまた、オリエント 諸地域の諸民族が盛んに移動を行った時期にあたっており、紀元前1700年 頃に小アジア に成立した王国ヒッタイト は、「クルガン仮説 」によれば、ザカフカス地方を経由して移動したインド・ヨーロッパ語族が中心となって建国された国と推定される(ただし、異説もある)。ヒッタイトでは鉄器 が使用され、その伝播の広がる速度は青銅器を上回った(鉄器時代 )。
グルジア/ジョージア人の起源
コーカサス(カフカス)地方の民族・言語分布
この地域においては、青銅器時代後期に部族連合の形成が進行していったとみられる[ 7] 。
現在のグルジア人 (ジョージア人)の祖先は、紀元前1000年紀 初頭のニネヴェ図書館 収載のアッシリア の年代記 に登場する[ 3] 。のちにはアッシリアに北接して勃興するウラルトゥ王国 (アララト王国)の楔形文字 で刻された年代記にも登場する[ 3] 。なお、ウラルトゥ王国で用いられたウラルトゥ語 は、フルリ・ウラルトゥ語族 に属する膠着語 で、現在は消滅しているが、1950年代 から1960年代 にかけてグルジア人言語学者 ギオルギ・メリキシヴィリ (英語版 ) によって解読された言語 である。
それに対し、グルジア語 はコーカサス諸語 (カフカス諸語)に属する南コーカサス語族 (カルトヴェリ語族)に属し、グルジア西部山岳地帯で話されるスヴァン語 、グルジア西部黒海寄りの地域で話されるメグレル語 、トルコ北東部海岸のトラブゾン で話されるラズ語 などに近く、18もの方言 を有する[ 6] 。グルジア語、スヴァン語、メグレル語間の関係は相互に意思疎通困難な独立言語であるが、メグレル語とラズ語の間には方言程度の差異しかない[ 6] 。今日、グルジア語の話者を狭義のグルジア人としてスヴァン人、メグレル人を加えて広義のグルジア人とすることがあるが、グルジア語にあっては狭義のグルジア語の話者のみがカルトリ人であって、スヴァン語、メグレル語の話者はあくまでもそれぞれスヴァン人、メグレル人であり、三言語を総称する固有の語は存在しない[ 6] 。なお、このうち文章語として発展したのは狭義のグルジア語のみである[ 6] 。
グルジア人の祖先となる民族は、黒海の東岸に広範囲に分布して後にコルキス王国を作るコルキス人の源流をなすクルハ族 と、のちに南西グルジアのタオ地方に定住するタオホイ族の源流をなすディアウヒ (英語版 ) 族であり、両民族を母体として形作られたと考えられる[ 3] 。記録によれば、紀元前9世紀 にはディアウヒの一部がウラルトゥ王国に組み入れられた。
コルキス人の富裕さについては、早くからギリシャ人 たちの知るところであり、ギリシア神話 におけるコルキス王女メーデイア と金羊毛 (翼を持つ金色の羊の毛皮 )の物語に端的に示されている[ 3] 。グルジア人に関わって文献 上に現れる民族としては『旧約聖書 』「エゼキエル書 」におけるトゥバル人とメシャチ人が挙げられる。これはそれぞれアッシリア人 にはタバリ人、ムシキ人と表記されていた民族であり、古典古代 期の著述に現れるティバレニ人、モスホイ人に相当する[ 3] 。
紀元前8世紀 から紀元前7世紀 にかけて、ウクライナ 地方で生活していたキンメリア とスキタイ の侵略を受けてコルキスの中で緩やかに進んでいた国家統合への動きは後退し、キンメリア人がアナトリア に侵入するとアナトリア方面から駆逐された諸部族がクラ川 流域に殺到して土着の人々との間で交流・混合が進んだ。これによって後のイベリア王国 の民が形成されたと考えられる[ 3] 。
古典古代文化時代とキリスト教化
西のコルキス王国と東のイベリア王国
前2世紀の西グルジア出土のブロンズ像(ジョージア国立美術館 (英語版 ) 所蔵)
グルジアのヴァニで発見された女神ニケ の像
紀元前6世紀 以降、黒海 に面する西グルジアの地にコルキス王国 (コルヒダ王国)が成立し、黒海東岸のギリシャ植民市 の影響の下で発展を遂げた[ 8] [ 9] [ 10] 。黒海とカスピ海 を繋ぐ地峡 地帯には交易路が通り、地中海 とペルシア 地域を結ぶ貿易 が盛んに行われていた。現在も残る港湾都市スフミ はディアスクリア、ポティ はファシス、バトゥーミ はバトゥスの名で古代ギリシャ世界に知られており、西方のミレトス からのギリシャ人 が入植した[ 3] [ 注釈 2] 。グルジアはプロメテウス の伝説や上述の金羊毛探索に関わるアルゴ船 漂流記など古代ギリシャ神話の舞台となり、グルジア西部を流れるリオニ川 は、ギリシャ人には「ファシス川」として知られ、ヘーシオドス の『神統記 』、ロドスのアポローニオス の『アルゴナウティカ 』、ウェルギリウス の『農耕詩 』などには「海の航行東限」として記されている[ 11] 。
コルキス王国東側の内陸部は、紀元前6世紀にオリエント を統一したアカイメネス朝 ペルシア、続いてセレウコス朝 の一部となり、紀元前4世紀 から紀元前3世紀 にかけてはイベリア王国 (カルトリ王国)が成立した[ 9] [ 10] 。伝説によれば、最初のイベリア王は、マケドニア王国 のアレクサンドロス3世 (大王)に対抗したとされるパルナヴァズ1世 である。その領域は今日の中部グルジアのカルトリ (カルタリニア)、東部グルジアのカヘティ 、西南グルジアのサムツヘ とその周辺であり、ここは、ギリシャ文明 の影響が直接及ばない地域であった[ 3] 。住民は上述の通り、西方のアナトリア・コルキス方面から流入してきた人々と土着民との融合によって形成された人々である[ 3] 。クラ川・アラグヴィ川 (英語版 ) の合流点近くに立地する首都ムツヘタ は、現代ジョージアの首都トビリシ の北20キロメートルに所在し、現在、町全体がUNESCO の世界文化遺産 に登録されている[ 3] [ 12] 。なお、「ムツヘタ」の地名はこの地を開いた首長ムツヘトスに由来するといわれている[ 12] 。
紀元前2世紀 、コルキス王国は黒海東南海岸にあったポントス王国 のミトラダテス によって制圧され、紀元前65年 にはそのポントスが共和政ローマ のポンペイウス 軍に敗れたことでコルキス(西グルジア)はローマの属領となった[ 3] 。同じ頃、東グルジアのイベリア王国もローマの保護下に置かれた[ 3] 。ただし、その支配は緩やかで名目的なものであり、実際にはペルシアの影響も及んだ。
聖女ニノのイコン
1世紀 に入り、キリスト教 が創始されると、グルジアでは12使徒 による伝道 が行われたと伝えられており、伝説ではアンデレ 、シモン(熱心党のシモン )、マタイ が宣教したといわれ、バルトロマイ やタダイ がグルジアに来ていたと主張する文書もある。特にローマ支配の揺らいだ3世紀 から4世紀 にかけては大幅に信者が増加した[ 13] 。これは、カッパドキア 出身の囚われの聖女ニノ (グルジアのニノ)の布教によって東グルジアの多くの人が入信したことによるといわれている[ 3] 。
ナカラケヴィの城壁
帝政ローマ が衰退に転じた4世紀、西グルジアの旧コルキス王国の一部(現在のアブハジア 地域)にはラジカ王国 (英語版 ) が成立し、古代コルキスを併合した[ 9] [ 10] 。ラジカ王国は正式名をエグリシ王国といい、首都をアルケオポリス(現、ノカラケヴィ (英語版 ) )に置き、東ローマ帝国 との結びつきを強めた[ 3] [ 7] 。この王国は523年 にキリスト教を受容し、562年 、東ローマに併合された[ 7] 。
イベリア王ミリアン3世
ムツヘタのジワリ修道院(全景)
イベリア王国では、330年代 にキリスト教に深く帰依したコスロヴ朝 (英語版 ) のイベリア王ミリアン3世 (英語版 ) によってキリスト教が国教として採用された[ 9] [ 10] 。世界でも301年 のアルメニア王国 に続いて2番目に古いキリスト教国教化の例である[ 13] 。キリスト教がこの地域の公式宗教となったことは、その後のグルジア文化の影響に大きな影響を及ぼした[ 8] 。なお、現在のアゼルバイジャン にあたる当時のアルバニア(カフカス・アルバニア王国 )でも4世紀中頃にキリスト教化しており、また、上述の通り、ラジカ王国のキリスト教受容はこれら3国より遅かった[ 13] 。
4世紀にイベリア王国の首都ムツヘタに建立されたスヴェティツホヴェリ大聖堂 は、正面に装飾彫刻が施されたグルジア最古の教会で、グルジア人の魂の拠り所といわれている[ 12] [ 13] 。また、ミリアン3世が「山の頂に十字架 を建てよ」と命じたことから、ムツヘタ市街の正面山頂に十字架が建てられ、のちにジワリ修道院 が建てられた[ 12] 。ジワリ(ジュヴァリ)とは「十字架」の意味で、この修道院を上空から見た平面形状は十字形をなしており、6世紀 から7世紀 にかけての建立といわれている[ 12] 。
グルジアの教会は当初、シリアのアンティオキア総主教 の管轄下に置かれたが466年 には独立教会となり、カトリコス (総主教)の座はムツヘタに置かれた[ 14] 。5世紀 のグルジアでは当時一流の哲学者 、イベリアのペトル が活躍している[ 7] 。
ベツレヘムにある最古のグルジア文字碑文(430年 )
グルジア文字 (カルトリ文字)は、中世の年代記には紀元前3世紀のパルナヴァズ3世の時代に考案されたと記しているが、実際には4世紀から5世紀頃にかけての時期に考案されたと考えられる[ 11] [ 15] 。グルジア語 を表記するために考案された独自の文字で、字形は異なるもののギリシア文字 と同じ原理の文字体系をなしている[ 15] 。グルジア文字の考案はキリスト教改宗と並んでグルジアに独自文化の基盤を作り出した[ 11] 。現存する最古のグルジア語文献は、5世紀に書かれた『聖シュシャニク女王の殉教』といわれており、当初はこのような宗教文学が中心であった[ 11] [ 16] 。5世紀前半のグルジア語最古の碑文がベツレヘム で発見されており、エジプト のシナイ半島 ではグルジア語の写本 が大量に見つかるなど、古代のグルジア人の活動は広範囲に及んでいたことが知られている[ 11] 。
イベリア王ヴァフタング1世
トビリシのナリカラ要塞(1911年) 19世紀に火薬庫 が爆発して建物の大部分が失われた。現在、要塞跡地には聖ニコラス教会が建っている。
イベリアは、一時ペルシア人の支配を受けたが、5世紀末には剛勇で知られるヴァフタング1世 (ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権が回復され、トビリシ の都市的発展が始まった[ 12] [ 17] 。トビリシはグルジア語で「温かい」という言葉「トビリ」に由来し、ヴァフタング王がこの町を建設した際に温泉 を発見したことから名付けられたといわれている[ 17] 。トビリシには、ヴァフタング以前の4世紀から5世紀にかけて「不落の城」という意味のナリカラ要塞 が建設されており、こののち幾度も外敵の侵入からトビリシを救った。6世紀初頭、ヴァフタング1世の子のダチ (英語版 ) 王が父の遺言に基づきムツヘタからトビリシへの遷都を行なった[ 17] 。トビリシでは、5・6世紀創建のアンチスハティ教会 (英語版 ) が最古の教会で、7世紀中頃にはシオニ大聖堂 (英語版 ) が建てられた[ 17] 。
カフカス地域のアルメニア、グルジア、アルバニアの3教会は、431年 に小アジア のエフェソス で開かれたエフェソス公会議 (第3回全地公会)での、イエス・キリスト は神 そのものだとしてその神性 のみを認める「単性説 」の採用に賛成した[ 13] 。ところが、東ローマ皇帝マルキアヌス が召集し、451年 にカルケドン(現、カドゥキョイ )で開かれたカルケドン公会議 (第4回全地公会)では単性説が否定され、「まことの神であり、同時にまことの人でもある」としてキリストの神性と人性との位格 的一致を説く、いわゆる「両性説 」が採決された[ 13] 。506年 、3教会の代表者はアルメニアのドヴィン (英語版 ) に集まってカルケドン説に反対する旨の決議を行ったが、以前から「両性説」に傾いていたグルジア教会は7世紀 初頭には明瞭にカルケドン信条 を告白する立場に立った[ 13] 。アルメニア正教会 は、これに対しコプト正教会 、シリア正教会 、エチオピア正教会 とともに「非カルケドン派 」にとどまり、これ以降ザカフカス地方はキリスト教の宗派によって国や地域が分立される状況が常態化したのである[ 13] 。
中世グルジアとその黄金時代
アッシリア十三士の一人ダヴィド・ガレジェリ教父。18世紀に描かれた細密画
ペルシアとメソポタミア を支配したサーサーン朝 はゾロアスター教 を国教としており、サーサーン朝の勢力がカフカス地方に及ぶとキリスト教勢力とゾロアスター教勢力は互いに抗争を繰り返した[ 18] 。523年 に西グルジアのラジカ王国がキリスト教を国教に定めると、サーサーン朝がこれに対して軍を派遣し、527年 から533年 まで続くラジカ戦争 (英語版 ) の結果、サーサーン朝は黒海 沿岸まで支配領域を拡大した[ 18] 。6世紀のラジカ王国は最終的に東ローマ帝国 (ビザンツ帝国)、東のイベリア王国はサーサーン朝にそれぞれ併合され、サーサーン朝のホスロー1世 はイベリアの王政を廃止した[ 9] 。これにより、イベリア王家であったホスロヴ家は退潮を余儀なくされた[ 19] 。なお、この頃、グルジアにはキリスト教信仰を強化するためにメソポタミア から13人の修道士 「アッシリア十三士 」が派遣されたといわれている。
錯綜した状況はなおも続き、7世紀 初頭、自立の動きを見せたイベリアに対し、ビザンツ皇帝 ヘラクレイオス は北方の遊牧民 、ハザール と同盟して遠征を行なった[ 18] 。627年 から629年 にかけてはサーサーン朝・イベリア王国連合軍と西突厥 ・東ローマ帝国・ラジカ連合軍との間でトビリシ包囲戦 が戦われ、627年には東ローマと結んだブルガール人 がトビリシを占領している[ 19] 。
642年 のニハーヴァンドの戦い 以降のイベリアではサーサーン朝の影響力が後退し、7世紀 後半からは新興のイスラーム を奉ずるアラブ人 の支配を受けた[ 9] 。ムスリム 勢力は当初正統カリフ によって指導されていたが、やがて世襲 のウマイヤ朝 、アッバース朝 が大帝国を形成し、イベリアはカリフ の領臣である各州の統治者の支配を受けた[ 3] [ 20] 。717年 にはアラブ艦隊がコンスタンティノープル を包囲するなど東ローマ帝国もまた危機に陥った[ 20] [ 注釈 3] 。736年から738年にかけて、トビリシは「ムスリムの征服 (英語版 ) 」を受け、これによってトビリシ首長国 (英語版 ) が成立した。これに伴い、ザカフカスにもイスラームの教義がもたらされたが、広い山岳地帯を抱えるグルジアへの流入は部分的なものにとどまり、キリスト教信仰が守られた。750年 、グルジア正教会 は自治教会となり、9世紀 から10世紀 にかけてはカフカス地域の布教の中心を担った[ 13] [ 21] 。8世紀後半には死後列聖 されたゴート人 のイオアンニス がイベリアに赴き、主教 に叙聖 されている。
アブハジア王国旗
764年 、グルジアは北方のハザールから再び侵略を受けた[ 11] 。かつてラジカ王国があったグルジア西部では東ローマ皇帝の直臣となったアブハジア人が次第に強勢となり、アンチャバヅェ家のアブハジア公レオン1世 (英語版 ) は8世紀末に皇帝から王号を許可された[ 19] 。レオン1世の母はハザール王女、妻はカルトリ大公の娘であったことからハザールとも良好な関係を保ったうえで「メグレル人の大公」を兼ね、子孫に王統を引き継いだ[ 19] 。アンチャバヅェ家のアブハジア王国 (英語版 ) は9世紀中頃から10世紀中頃にかけてが最盛期で、東グルジアの一部にも勢力を及ぼしたほかアルメニアの国政に介入する程の力を持った[ 19] 。
グルジア東部では、イベリア公国のバグラティオニ家 (英語版 ) が台頭し、9世紀初頭には、この家から大公アショト1世 (英語版 ) (在位:813年 -826年 /830年 )が現れた[ 3] 。853年 、グルジアは再びアラブ支配下に置かれたが、バグラティオニ家はイスラム帝国 や東ローマの退潮に乗じて徐々に自立性を強めていった[ 3] 。
8世紀後半-9世紀のアルメニア王国と南カフカス地方
アルメニアでは、バグラトゥニ家 (英語版 ) のアルメニア大公アショト1世 (英語版 ) (イベリア大公アショト1世とは別人)がアッバース朝によって「アルメニア、グルジア、コーカサスの大公」の位を許され、885年 にはアルメニアの諸侯によってアルメニア王に推戴された[ 19] 。こうして、カリフと皇帝の双方の承認の下、アッバース朝版図のアルメニア王国 が再興された[ 19] 。東ローマ帝国ではこれに対抗するため、908年 、アルメニア王領内のヴァン湖 南東にあったガギク・アルツルニ (英語版 ) に王号を与え、ヴァスプラカン王国 (英語版 ) が成立した[ 19] 。東ローマ・イスラム双方の角逐は、こうして拡大されたアルメニア王国のなかで再燃することになり、幾つもの小国が分立する状況がもたらされることとなった[ 19] 。こうした中、アルメニア王アショト1世は、西南グルジアのタオ (英語版 ) に本拠を置いて、東ローマ皇帝 からクロバラテスすなわち「宮殿の守護者」の称号 を獲得するのに成功した[ 3] 。なお、グルジア最初の歴史書『グルジアの改宗』が書かれたのは9世紀 のこととされている[ 22] 。
バグラト3世
10世紀 半ばになると、アッバース朝の繁栄にも陰りが見えるようになる一方、8世紀中葉以降再建された東ローマ帝国はマケドニア朝 下で最盛期をむかえ、10世紀中葉にはクレタ島 (961年 )、キプロス島 (965年 )、アンティオキア (969年 )などを奪回した[ 20] 。こうしたなか、グルジアではイベリア大公グルゲン (英語版 ) が現れ、アブハジア王女のグランドゥフトと結婚、イベリアとアブハジアの領域は2人の息子バグラト3世 (英語版 ) に継承された[ 19] 。バグラド3世は、アルメニア王のアショトの養子となって将来の地位を自ら保障し、975年 には東部グルジアのカルトリ地方の宗主権をも獲得して976年 バグラト朝 (英語版 ) のグルジア王国 を建てた[ 10] 。1001年 には義父アショトからアルメニアと南西グルジアを、1008年 には実父グルゲンから南西グルジア残部を受け取り、他の諸侯との抗争にも打ち勝って11世紀 始めにはカヘティ地方 を除く全グルジアの諸公国を統一し、西部グルジアのクタイシ を首都とする中世グルジア王国の隆盛がここに始まった[ 3] [ 9] 。
クタイシのバグラティ大聖堂
バグラト3世時代の黄金杯(999年)
バグラト3世はクタイシに大聖堂(バグラティ大聖堂 )を創建し、1010年 にはカヘティ地方をも支配下に収めた[ 23] [ 注釈 4] 。ただし、東部の要地トビリシは依然イスラームの支配下にあった[ 3] 。彼はまた芸術 振興にも尽力し、各地に教会 を建立した。
10世紀 から11世紀にかけてのグルジア王国成立期には、グルジア正教会 がバグラティオニ家の王朝を支えた。聖人として知られるイベリアのヨアネ が活躍し、レオンティ・ムロヴェリ (英語版 ) によって『グルジア年代記 (英語版 ) 』が書かれたのもこの頃のことである[ 22] 。グルジア正教会の首座主教 は、1008年 以降「イベリア (コーカサス )のカトリコス ・総主教 」の称号を有するようになった。東方正教会 の信仰は、グルジアと正教を奉ずる他の諸地域とを結ぶ政治的な絆となり、10世紀から13世紀 にかけてのグルジア王家は東ローマ帝国、キエフ大公国 、アラニア (北オセチア)などの王侯貴族との間で盛んに婚姻関係を結び、東ヨーロッパ 各地域との精神的結びつきを強めた[ 13] 。なかでも東ローマのニケフォロス3世ボタネイアテス の皇后 となったマリア・バグラティオニ は有名である。
聖地 イェルサレム やギリシャ の「聖山」アトス山 にもグルジア人僧侶のための修道院 が設営され、正教会の宣教師 もまた現在のオセチアや西ダゲスタン の山岳地帯で盛んに伝道活動を展開した[ 13] 。その遺構は今日ムスリム居住地域の山中で確認することができる[ 13] 。また、グルジアの守護聖人 とされる聖ゲオルギオス の竜退治伝説 も一説には、11世紀から12世紀にかけての成立とされている。
バグラト4世
バグラト3世の子ギオルギ1世 (英語版 ) は古都ムツヘタのスヴェティツホヴェリ大聖堂の修復を行い、ギオルギ1世の子のバグラト4世 (英語版 ) は1045年 、アルメニアの首都アニ (現トルコ共和国)を制圧した。1057年 にシリア のアンティオキア で開かれた地方教会会議では、グルジア正教会が自治教会資格を有することが公認されている[ 13] 。
建設王ダヴィド4世
ダヴィド4世の軍旗
11世紀後半にはトルコ人 勢力が中央アジア やペルシア の大部分を含む地域に広大な遊牧帝国セルジューク朝 を建設したが、グルジアもその侵略を受けるようになり、バグラト4世治下の1063年 には南西グルジアが、1068年 には東グルジアがセルジューク朝によって制圧された。
ダヴィド4世時代のグルジア王国(1124年)
ゲラティ修道院の「神の母 」のイコン
「建設王」と呼ばれたダヴィド4世 が即位したのは1089年 、父王ギオルギ2世 (英語版 ) より譲位されてのことであった。ダヴィド4世は、北カフカスのキプチャク人 を移住させて親衛隊 を組織し、軍制改革を行なってグルジアを強固な国家に改造し、1080年 にはセルジューク朝との戦いで勝利を収めた[ 23] 。1092年 に宰相ニザームルムルク と第3代スルタンのマリク・シャー が相次いで死去したのちのセルジューク朝はさらに斜陽傾向を強めたため、ダヴィド4世は1096年 には貢納の支払いを停止した[ 19] [ 24] 。
12世紀 に入ると、ダヴィド4世はクタイシ郊外のイメレティア丘陵にゲラティ修道院 と付属の王立学校(アカデミー)を創立した[ 23] 。この王立学校はグルジアを代表する科学者 、神学者 、哲学者 を擁し、のちにトビリシに都が遷ってからも、17世紀 に至るまでグルジアの文教の中心として栄えた[ 23] 。また、東ローマの首都コンスタンティノープル に多数の留学生を送り、学芸の振興に努めた。ダヴィド4世晩年の1121年 、ディドゴリの戦い (英語版 ) ではセルジューク軍を相手に勝利し、シルワン (英語版 ) と北アルメニアの領土を獲得し、さらに1122年 にはムスリム勢力に支配されていた要衝トビリシを奪還してここに都を遷した[ 3] 。
12世紀後半のギオルギ3世 (英語版 ) も1156年 にセルジューク朝を攻撃してこれに勝利し、1161年 から1162年 にはアルメニアにも侵攻してアニとドヴィンを占領するなど強勢を誇った。ダヴィド4世治世期以降、西ヨーロッパ のキリスト教国がこぞって十字軍 遠征に加わったことはイスラーム勢力の軍事力集中の阻害要因となり、キリスト教国であったグルジアはその恩恵を受けた[ 19] 。
グルジアの黄金時代を築いたタマル女王
タマル女王時代のグルジア王国
ギオルギ3世の王女で1178年 に父王との共同統治者、1184年 に正式に王として即位したタマル 女王の時代、バグラト朝はザカフカス全域を支配する強国に発展した[ 3] [ 9] 。1194年 から1204年 にかけてはセルジューク朝に勝利してアルメニア南部を保護領としたほか、1195年 には現アゼルバイジャンのシャムコルの戦い に勝利して同地を支配した。1201年 から1203年 にかけてはアルメニアのアニとドヴィンを再併合し、さらに現在のトルコ共和国 北部を占領した[ 3] 。
また、1204年 、イタリア のヴェネチア 商人の策謀によって第4回十字軍 がコンスタンティノープルを占領し、東ローマ帝国が没落した際には、皇帝一族が現トルコ領内に建てた亡命 政権トレビゾンド帝国 の建国を援助している[ 3] 。
タマル女王時代は、その領域がカスピ海 沿岸のアゼルバイジャンからチェルケシア 、トルコ領エルズルム からガンザ(キロババート)にまで広がる、汎カフカス帝国を形作り、トレビゾンドおよびシルワンがその同盟国 ないし藩属国 であった[ 3] 。
タマル時代は、文化・学術の面でもグルジア王国の最盛期であり、多くの修道院 が寄進 され、とくに文学 分野の充実と教会 建築の発展が顕著であった[ 9] 。『グルジア年代記』が編まれ、また、タマル女王に仕えた官吏 で詩人 のショタ・ルスタヴェリ の活動がよく知られている[ 16] 。ルスタヴェリによるグルジア語の『豹皮の騎士 』はタマル女王に捧げられた、1,500以上の連から成る長編叙事詩 で、3人の勇士が誘拐された女性を救い、アラブ、イラン、インド 、中国 を舞台に繰り広げられる、愛と正義と自由を謳い上げた傑作として知られ、現代では日本語 を含む世界各国語に翻訳されている[ 8] [ 22] 。
なお、大カフカス山脈の南麓アッパー・スヴァネティ の地に住んでいたスヴァン族 (英語版 ) も、12世紀にはグルジアに組み入れられ、従前の土着宗教を捨てて熱心なキリスト教信者となった[ 25] 。スヴァン族は古来防御塔 の付設された住居で要塞村を築いて外敵に抵抗してきたが、この防御塔遺構は現在世界文化遺産に登録されている[ 25] 。
モンゴルの侵攻とその支配
ギオルギ4世
タマル女王死後のグルジアはホラズム・シャー朝 の軍による侵入を受けた。モンゴル高原 では13世紀 初頭にテムジン(チンギス・ハン )がモンゴル帝国 を建国し、1220年 、ホラズムを征服した。チンギス・ハンの命を受けたスブタイ とジェベ はホラズムの第7代スルターン ムハンマド2世(アラーウッディーン・ムハンマド )を追撃している途上でカフカス地方を通過した。グルジア軍はモンゴル軍と遭遇し、打ち負かされた[ 26] 。翌1221年、スベタイ・ジェベ軍2万がグルジア王国を再び攻撃したが、タマルの子ギオルギ4世 (英語版 ) は第5回十字軍 への支援を取りやめ、それに先立ってアゼルバイジャン・メソポタミア との同盟を計画したものの不発に終わり、国を挙げて抵抗したが敗北した[ 19] [ 27] [ 28] 。この2つの戦いは、キリスト教文明に属する地域がモンゴル軍からの猛攻を受けた最初であった[ 19] [ 28] 。コトマン川に面したクーナンの戦いでもグルジア・アルメニア軍は壊滅した。ギオルギ4世は3度戦って3度敗れ、緒戦で負った胸の傷がもとで1222年 に31歳で死去した。1223年 、ギオルギ4世の妹ルスダン がグルジア王位を継承したが、彼女には国政の経験がなかった。
女王ルスダンが当時ローマ教皇 ホノリウス3世 にあてた書簡の中には、モンゴル人たちをキリスト教徒 であるかのように見なす記述がみえる[ 29] 。それは、彼らがムスリム 勢力と激しく戦ったからであったが、やがてそうではないことが次第に明らかになっていった。モンゴルがカフカスの北へ去ると、一旦インド方面に逃れた第8代スルターンでムハンマド2世の子のジャラールッディーン・メングベルディー が中央アジアに帰還し、1225年 以降、アゼルバイジャンとグルジア王国への遠征に乗り出した[ 30] 。1226年 、グルジア王国の首都トビリシは彼によって占領され、灰燼に帰した[ 19] [ 30] 。ジャラールッディーンはこのとき自らを「イスラム世界の防衛者」を称している[ 19] 。
1236年 にジョチ の子バトゥ によるヨーロッパ遠征(バトゥの西征)が始まった。チョルマグン 率いるモンゴル軍が再びグルジアに侵攻し、ルスダン女王はグルジア西部クタイシ への避難を余儀なくされた。東部で抵抗を続ける貴族の多くは滅ぼされ、残った者はモンゴルに臣従し貢税を支払った。モンゴル軍はリヒ山脈 を越えなかったためグルジア西部の被害は少なく、ルスダンはようやく危機を脱した。その後、女王はローマ教皇 グレゴリウス9世 に支援を求めたが失敗し、1243年 、モンゴル軍3万が常駐する中グルジアはモンゴルに併合され、その属領となった[ 19] [ 31] 。モンゴルは、「グルジスタン州」を置き、そこにグルジアと南カフカス全域を管掌させ、グルジア王国の領主たちを通じて間接統治を行なった。
スヴァネティの防御塔
ホラズムやモンゴルの侵入が始まるとザカフカス地方は他の地域から孤立したため、氏族社会のスヴァン族では内部で氏族間抗争が激化した[ 25] 。スヴァン族の住む山麓地方のスヴァネティ にモンゴル軍が来ることは少なかったが、要塞村は内部抗争のためにさらに軍事性を強め、集落ごとに礼拝堂 が建てられるようになった[ 25] 。
グルジア王ダヴィド6世
内部抗争は王族も同様であった。1245年 、女王ルスダンが死去した。それに先立って彼女の甥 にあたるダヴィド7世 (英語版 ) ウルが女王に対し王位を自分に委ねるよう要求していたが、ルスダンは息子のダヴィド6世 (英語版 ) ナリンを王位後継者として認めるようモンゴル帝国に働きかけていた。
1246年 にカラコルム で開かれたモンゴル帝国第3代皇帝グユク の即位式には、皇帝一族、直属軍の首領、モンゴル領中国の軍政・民政における長官、ペルシア総督などに加え、ウラジミール大公 のヤロスラフ2世 、ルーム・セルジューク朝 のスルタンの弟、アルメニア王の代理などを始めとする周辺諸地域の王侯貴族が集まったが、その中にはグルジアの王座を争っていた2人のダヴィドの姿もあった[ 28] [ 32] 。グユク・ハンは1247年 、グルジア王国を東半部と西半部に分け、ダヴィド7世ウルには東部のカルトリを、ダヴィド6世ナリンには西部のイメレティを与え、2人を共同王として公認した[ 33] 。ナリンは自らの国のためにウルに臣従を誓わなければならなくなった[ 33] 。ダヴィド7世ウルは当初モンゴルによるアラムト(現、イラン)攻略に助力するなど親モンゴルの姿勢を鮮明している。
処刑されたグルジア王デメテル2世
1256年 、グルジアはモンゴル帝国の差配の下イルハン朝 の支配下に入った。イルハン朝は、トゥルイ の子フレグ がホラズム地方を根拠に建国したモンゴルの地方政権で、1258年 にはアッバース朝 を攻撃してバグダード を陥落させた[ 3] [ 9] 。1259年 から1260年 にかけて、ダヴィド6世ナリンに率いられたグルジア貴族たちは、モンゴル勢力に叛旗を翻し、モンゴル統制下のグルジアから西部のみイメレティ王国 (英語版 ) として独立することに成功した。ダヴィド7世ウルはナリンの起こした反乱に参加しようとしたが、ゴリ 付近の戦闘で敗退し、再度モンゴル支配を受け入れることになった。1261年 以降は、コーカサス地方はイルハン朝とサライ に都を置くもう一つのモンゴル帝国、すなわち、低地ヴォルガ川 地方に成立したジョチ・ウルス との間で引き起こされた一連の紛争の舞台となった。一方、イメレティを制圧しようとしたモンゴル軍は1261年、グルジア南部の要塞占拠を断念してこれをグルジア側に返還、1262年、ダヴィド6世はモンゴルと講和している。こうして東グルジアはイルハン朝の藩属国となったのに対し、西部のイメレティ地方はバグラト朝の傍系の下に辛うじて独立を保った[ 3] [ 9] 。東グルジアのデメテル2世 (英語版 ) はイルハン朝を分断する密計を立てたが、アルグン に対する謀反が疑われて陰謀は頓挫し、処刑された。その後も反モンゴル闘争はダヴィド8世 (英語版 ) によって続けられている。
メティヒ教会 現在はヴァフタング・ゴルガサリの像が建っている。帝政ロシア時代は監獄として用いられ、革命運動で検挙された作家マクシム・ゴーリキー が収監されていたこともある。
遊牧国家であるイルハン朝では税務行政上の首都(マラーガ 、タブリーズ 、ソルターニーイェ と遷る)と重要地点とを結ぶジャムチ の制度が整備され、東部の要地トビリシも「シャーフ・ラーフ(王の道)」と称する交通網の一つの終点として重要な役割を担った[ 34] 。グルジアのゴリ には重臣トカルの領地、西南グルジアのアルダハン (現、トルコ領)にはフレグの妻の領地があった[ 34] 。ハンは首都には常駐せず、国家の重要行事はむしろ行在所で多く開かれた[ 34] 。なお、トビリシのメティヒ教会 (英語版 ) は5世紀創建と伝わるが、中世にあってはシルクロード を往来する隊商 が安全を求めて逃げ込む砦 の役割も果たしていた。この教会はチョルマカン侵入の際に破壊され、往時の遺構は全て失われてしまっていたが、1289年 にデメテル2世によって再建された。
モンゴル支配下では、貢納は厳しかったものの一定の自治 は与えられ、またモンゴル人たちは宗教に対しては概して寛容政策を採用し、イスラームやネストリウス派 、ルーシ・グルジアの正教はむしろ民衆統治に役立てられた[ 35] 。これを形容して「パクス・モンゴリカ (パクス・タタリカ)」すなわち「モンゴルの平和」と称することがある[ 35] 。運輸交通上の変革としては、1260年 以降、ジェノヴァ共和国 とビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴス との条約によって黒海にジェノヴァ商船隊が乗り入れが実現した[ 34] 。クリミア半島 のフェオドシヤ やアブハジアのスフィミは港湾として発展し、その間の黒海沿岸には40ものジェノヴァ商館が設けられた[ 34] 。西欧からカフカス地方にもたらされる商品には木綿 、綿 、ビロード 、絨毯 、ヴェネチアン・グラス 、石鹸 、乳香 、塩 、生姜 、刀剣 などがあり、カフカスからの輸出品には塩干魚、イクラ 、獣の毛皮 、コムギ、蜜蝋 、ワイン、果実、木材 、「奴隷 」などがあった[ 34] 。ジェノヴァ商人とともにローマ・カトリック教会 の宣教師も訪れ、トビリシには伝道団常駐の地方本部もあった[ 34] 。
ギオルギ5世直筆の詔勅(14世紀)
モンゴルの支配は長く続いたが、「光輝王」と呼ばれたギオルギ5世 (英語版 ) が現れて東西に分裂していたグルジアを再統一し、ようやく1335年 にモンゴル勢力を放逐して、事実上の独立を果たした[ 3] [ 9] [ 10] 。ただし、翌年の1336年 にはトビリシで黒死病 (ペスト)が大流行し、王国は大被害を被った。また、ギオルギ5世の再統一はイルハン朝の宰相チョバン の助力を得て、グルジアの王統の独立保持に反対する国内の勢力を取り除くことができたためであった。その後もグルジアはモンゴルをその起源とするジャライル朝 とチョバン朝 の影響下にあった[ 36] 。
イスラーム諸勢力の侵入とグルジア分裂の時代
1380年 、モンゴル帝国再興の旗印を掲げたティムール がトビリシを占領、王と王妃は捕虜となった[ 19] 。さらに1386年 から1403年 にかけて計8度に及ぶティムール帝国 による猛襲は、経済的にも文化生活の面でも回復困難な打撃をグルジア社会に与え、その国土は極度に疲弊した[ 3] [ 9] [ 10] 。こののち一時黒羊朝 の支配に服している。
グルジア王アレクサンドレ1世
統一グルジアの最後の王は15世紀 前葉のアレクサンドレ1世 で、その息子の治世には幾つかの公国に分裂して絶え間ない抗争が続いた[ 3] 。1444年 にはトビリシがペルシア軍によって侵略を受け、1460年代 には東部でカヘティ王国 (英語版 ) が独立した。1466年、グルジア王国は遂に崩壊して分権化が進行し、無政府状態に陥った。その間、1453年 、コンスタンティノープル がオスマン帝国 のメフメト2世 によって陥落し、東ローマ帝国が滅亡したため、グルジアは西方キリスト教世界から隔離された状態に陥った[ 3] [ 37] 。
無政府状態は、1490年にイメレティ王国 (英語版 ) 、カヘティ王国、カルトリ王国 が相互の独立を承認するまで続いた。この時点でグルジアはバグラティオニ家の王統を戴く3王国に分裂し、また13世紀 以来の西南グルジアの有力豪族ジャケリ家 (英語版 ) が公式に支配したアタバク領サムツヘ国 (英語版 ) があり、さらに黒海沿岸にグリア公国 (英語版 ) 、サメグレロ公国 、アブハジア公国 (英語版 ) 、内陸部にスヴァネティ公国 (英語版 ) が独立した君公国として振る舞い、事実上5つの公国が分立する状態となった[ 16] 。
1490年 のカフカス地方
15世紀末のグルジアの3王国5公国
16世紀初頭から18世紀 前半にかけてのグルジアは、イラン高原 に建国された東のサファヴィー朝 、アナトリア半島 や新首都イスタンブール を本拠として周囲に勢力を拡大する西のオスマン帝国 の圧力を受け、しばしば両者の係争の地となった[ 9] 。後述の通り、多くの場合、東部のカルトリ王国とカヘティ王国はサファヴィー朝、西部のイメレティ王国はオスマン帝国の支配を受けた。しかし、このような分裂と異民族支配の中で、グルジア正教が東方で孤塁を守りえたのは、タマル女王を始めとする中世グルジア王国の輝かしい歴史とそこで培われた民族文化、キリスト教国としての長い伝統 によるものといえる[ 37] 。この時代、特にグルジア東部にあっては度重なる戦乱と住民の強制移住によって人口 が減り、経済活動も停滞を余儀なくされた[ 7] [ 注釈 5] 。トルコとイランの抗争は、イスラームにおけるスンニ派 とシーア派 の宗教戦争の性格も内包しており、この過程で南西部のアジャリア などではイスラーム化が著しく進行している[ 9] 。
1510年 、オスマン帝国はグルジア西部のイメレティ王国に侵入し、その首都クタイシを攻略した[ 3] 。その後まもなく、サファヴィー教団出身で王朝の始祖となったペルシアのイスマーイール1世 がカルトリ王国へ侵入した[ 3] 。1540年 から1553年 にかけては、サファヴィー朝第2代シャータフマースブ1世 による侵攻を受け、占領された。モスクワ・ロシア のイヴァン4世 (雷帝)とその後継者たちはグルジアの地に分立するキリスト教国に関心を持ち続けたが、ムスリム勢力の進出を阻止することはできなかった[ 3] 。
オスマン帝国下のイメレティ王国は頻繁に王位が交替し、混乱が続いた[ 34] 。サメグレロ公国のダディアニ家 (英語版 ) は17世紀のレヴァン2世 (英語版 ) の治世に最盛期を迎えたが17世紀後半には衰え、公国支配者の血統が交替した[ 34] 。サムツヘのジャケリ家はグルジア王家との婚姻によって独自の立場を築いたが、のちにオスマン帝国の直接支配下に入り、パシャ の称号を獲得し、その領域ではイスラーム化が進行した[ 34] 。
カヘティ王国では、16世紀前半に英明な君主レヴァン (英語版 ) が現れ、国王の権力を強化して絹 の交易などで王国を繁栄に導いた[ 38] 。一方のカルトリ王国では16世紀中葉にシモン1世 らがペルシアに対して抵抗して以降は、サファヴィー朝の宗主権を認めた[ 38] 。
1555年 、トルコとペルシアは長年の抗争の結果アマスィヤの講和 を結んで平和を実現する一方カフカスにおける相互の勢力範囲を定め、これはその後グルジア社会を大きく規定することとなった[ 16] 。1578年 、小康状態は破られ、オスマン帝国の勢力がカフカス全土を蹂躙してトビリシを制圧し、チルディル州 (英語版 ) が置かれた。サファヴィー朝では「英主」と称される第5代シャーのアッバース1世 はこれに反撃、オスマン勢力を撤退させた[ 3] 。アッバース1世はまたカヘティに対して略奪遠征を行なったのでその富は失われてしまった[ 38] 。
サアカゼ・スクエア(トビリシ)に立つ「大モウラヴィ」ギオルギ・サアカゼの像
サファヴィー朝の政治的影響下にあった東グルジアのカルトリ・カヘティでは、イスラーム改宗を条件にバグティオニの家系の王子から選ばれ、政治経済的ないし軍事的には衰退し、文化面でもペルシア文化の影響を強く受けた[ 16] [ 38] 。しかし、その一方ではアルメニア人やチェルケス人などとともに「グラーム (王の奴隷 )」と呼ばれる軍人・官吏としてサファヴィー朝を支え、イラン人やトルコ人と並んで枢要な国政ポストについてエリート の一画を占めるようなグルジア人が現れた[ 16] [ 39] 。「世界の半分」と称されたサファヴィー朝の帝都イスファハーン の長官職は半ばグルジアの王子による世襲の職となっており、現在のイラク 国境に近いシューシュタル の町は、グルジアの大貴族出身者の家系が約100年にわたって支配し続けた[ 39] 。
グルジア独自の伝統文化もペルシア支配下で復興を遂げた[ 16] 。それは、後世の歴史家をして12世紀初頭の「黄金時代」に対比し、「銀の時代」と呼称せしめるほどである[ 16] 。それを端的に示すのが、以下に述べる、17世紀 のグルジアが生んだカヘティ王ティムラズ1世 (英語版 ) 、カヘティ及びイメレティ王アルチル (英語版 ) (カルトリ王ヴァフタング5世 (英語版 ) 王子)という2人の優れた詩人王の存在であった[ 16] 。
「ティムラズ1世とその妻」(宣教師デ・カステッリのアルバムより)
ティムラズ1世は、アッバース1世の承認を獲得して1605年 にカヘティ王位に就いたが、1614年 にサファヴィー朝に対して叛旗を翻した[ 16] 。その結果、1624年 、サファヴィー朝の宮廷に名誉の人質 として送っていた母后ケテヴァン は拷問 のうえ処刑され、子息のアレクサンドレとレオンは去勢 の復讐を受けた[ 16] 。アッバース1世の対グルジア政策は峻烈を極め、グルジアに向けて懲罰遠征を敢行、ティムラズ王に協力したカヘティ人を大量に虐殺し、10万人以上をイランに連行して強制移住させた[ 16] 。これに対し、グルジアでは1625年 にギオルギ・サアカゼ (英語版 ) によって主導された大規模反乱が起こっている[ 16] [ 注釈 6] 。アッバース1世は、一方では国内のトルコ系武人の勢力を牽制するため、イスラームに改宗 した親サファヴィー派のグルジア人を大量に登用した[ 16] 。こうした中、強い正教信仰の持ち主であったティムラズ1世は、幽囚の身にあって母の殉教 を主題とする叙事詩など数多くの作品を残した[ 16] 。その作品はグルジア語文学の傑作とされるが、一方ではペルシア語 文学からの強い影響が指摘されている[ 16] 。
詩人王アルチル
17世紀後半、5度にわたってイメレティ王・カヘティ王の即位・退位を繰り返したアルチルは、公的には一度イスラームに改宗し、政治的にはティムラズ1世の孫のエラクレ1世 (英語版 ) とライバル 関係にあったものの、文学上は篤いキリスト教精神をもつ詩人としてティムラズの衣鉢を継ぐ存在となった[ 16] 。なお、アルチルの父ヴァフタング5世は親サファヴィー派で、ティムラズ1世を捕らえてサファヴィー宮廷に送り、ティムラズ幽閉のもとを作ったという因縁 の関係である[ 16] 。アルチル王は『ティムラズとルスタヴェリの対話』という、12世紀と17世紀という時代の異なる偉大な詩人2人が自らの生きた時代を語り合い、双方の詩作によって競い合うという設定の長大な詩を作り、グルジアの文芸復興を呼びかけた[ 16] 。1688年 頃、アルチルはロシアに亡命 している[ 16] 。
アルチルの教師であったイオセブ・サアカゼ は、ティムラズ1世と同時代を生きながらも彼とは対照的にサファヴィー朝下で出世しながら最後はグルジアの人々の立ち上がるという、下剋上 を体現した愛国者ギオルギ・サアカゼを称える一大叙事詩『大モウラヴィ伝』を残した[ 16] 。他に、詩人としてはダヴィド・グラミシヴィリ やベシキの名が知られ、その作品は今日でも親しまれている[ 22] 。
散文 による年代記 も著述された。17世紀末のパルサダン・ゴルギジャニゼ (英語版 ) の『グルジア年代記』がそれで、ゴルギジャニゼはグルジアの貧しい庶民階級の出身ながらイスファハーン のサファヴィー朝の宮廷に官吏として仕え、ペルシア語の叙事詩や法典 などをグルジア語に翻訳する一方、キリスト教受容史から始まるグルジアの歴史を著述した[ 16] [ 40] 。
18世紀 に入ると、カルトリ王国にヴァフタング6世 が現れ、1703年 から1711年 までは同国の摂政 、1723年 までは何度かカルトリ王位に就いた[ 3] 。彼は傑出した立法家であったが、その一方で、1709年にグルジアに印刷術を持ち込み、グルジア語印刷を始め、自国史の追究に関心の強い文化人でもあった[ 3] [ 16] 。彼は、ゴルギジャニゼの著したグルジア年代記の続編を編纂する目的で学者・有識者を集め、グルジア国内の写本 ・古文書 の精査を命じた[ 16] 。そして、その成果を14世紀から17世紀までの公的年代記としてまとめ上げ、『新グルジア年代記』と題して刊行した[ 16] 。ヴァフタング6世はまた『カリーラとディムナ 』など多くのペルシア語作品をグルジア語に翻訳している[ 22] 。
テイムラズ2世
1722年 、アフガン人 がイスファハーンを陥落させサファヴィー朝が崩壊すると、グルジアはオスマン帝国の新たな侵入を招いた[ 3] 。ペルシアでは征服者ナーディル・シャー が現れ、アフシャール部族をまとめてロシア帝国 との間に反オスマン同盟を結び、アフシャール朝 を創始してオスマン帝国に奪われた失地を回復、カルトリ王位をバグラト朝カフ家の一族でカヘティ王だったテイムラズ2世 (英語版 ) に与えた[ 3] [ 16] 。テイムラズ2世もまた詩人であった。
『新グルジア年代記』の刊行者ヴァフタング6世は1737年 にロシアで客死し、その子ヴァフシティ・バグラティオニ は1745年 、亡命 先のモスクワ で大著『ジョージア王国の記述 (グルジア語版 ) 』を書きあげた[ 16] 。この著作によって彼は「グルジアのギボン 」と形容されることがあり、また、本著とヴァフシティによって1752年 に制作されたヨーロッパ地図とは、2013年 、一括してUNESCO の世界記憶遺産 に登録された[ 16] 。ヴァシュフティ以外ではベリ・エグナシヴィリや『知恵と虚言の書』を書いたスルカン=サバ・オルベリアニらの人文主義者 の活躍がみられ、オルベリアニはヴァフタング6世の叔父にあたり、ペルシア語の辞書も編纂している[ 22] [ 41] 。
帝政ロシア時代
エレクレ2世
カルトリ・カヘティ王国の国旗
テラヴィ のエレクレ2世の宮殿
18世紀後半、東グルジアではカヘティ王国にエレクレ2世 (英語版 ) が現れ、サファヴィー朝滅亡後のペルシアで興起したアフシャール朝 を撃退し、父のカルトリ王ティムラズ2世死去後はその領域をも継承して、1762年 、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国 (グルジア王国)を建てた[ 3] [ 9] 。エレクレ2世はインド 在住のアルメニア商人たちと提携して新生王国の殖産興業 に尽力したため、グルジア経済は大いに発展した[ 8] [ 38] 。1768年 から1774年 にかけて起こった露土戦争 (第1次)ではエレクレはロシア側で戦った。クタイシを首都とする西グルジアのイメレティ王国もこの戦争ではロシア側に立ち、ソロモン1世 (英語版 ) 治世下の1779年 にはオスマン帝国の支配から脱却することに成功した[ 3] 。
ギオルギ12世
エレクレ2世は、1775年 、トビリシに神学校を開設した[ 17] 。また、北カフカスのダゲスタン からのレズギン人 の襲来やペルシア、トルコの両勢力から自国を守るため、同じ正教 を奉ずる北の大国ロシア帝国 との同盟を目指した[ 3] 。1783年 には女帝エカチェリーナ2世 との間にギオルギエフスク条約 (英語版 ) を結び、グルジアの独立 と領土 保全を保障することを条件にロシア帝国の保護国 となることを認めた[ 3] 。同じ年にロシアはクリミア半島 を併合しており、これらの動きに反発したトルコとの間で再び露土戦争 (第2次)が起こっている[ 42] 。しかし、フランス革命 期のロシアは、エカチェリーナが結んだ条約を無視して同盟国となったグルジアを見捨てたため、エレクレ2世は結局、新興カージャール朝 の創始者アーガー・モハンマド・シャー の猛攻に単独で立ち向かわなければならなくなった[ 3] [ 38] 。1795年 、グルジアは大敗北を喫してトビリシは略奪を受け、殖産興業政策の成果は無に帰した[ 3] [ 38] 。エレクレ2世は失意の中1798年 に没し、後継者のギオルギ12世 (英語版 ) は無条件で王国を「狂人皇帝」と呼ばれたロシアのパーヴェル1世 の保護に委ねようとした[ 3] 。病弱なギオルギは在位2年あまりで1800年 12月に死去した[ 3] 。
1801年 1月8日 、ロシア皇帝パーヴェル1世はカルトリ・カヘティ王国を廃して東グルジアの併合を宣言し、同年9月12日 、併合は新帝アレクサンドル1世 によって実行に移された[ 3] [ 注釈 7] 。ロシア風に「チフリス」と呼ばれるようになったトビリシにはカフカス総督府 (英語版 ) が置かれ、ギオルギエフスク条約の条項にも関わらず王制存続は無視され、ロシアの軍政長官の支配下に置かれることになった[ 17] [ 43] 。これに対し、カルトリ・カヘティの各地では人民の叛乱が起こっている[ 3] [ 17] 。なお、1803年 から1815年 にかけてはナポレオン戦争 の時期にあたり、ロシア帝国もこれに深く関わったが、アウステルリッツの戦い やフィンランド戦争 で活躍したピョートル・バグラチオン 将軍はグルジア王家の出身である。
グルジア軍道
カフカス総督は、帝政ロシアの他の植民地の総督府の長以上の権限を有し、ロシア内地同様に県(グベールニヤ )制が布かれ、県知事を始めとする支配者層にはグルジアやアゼルバイジャン等の現地の有力者の多くがそのまま組み入れられた[ 43] 。グルジアを編入したロシア帝国は19世紀 初頭、ザカフカスのより一層強固な支配と「グレート・ゲーム 」と呼ばれる覇権抗争においてペルシアの背後にあるイギリス への対抗のため、グルジア軍道 を建設した[ 44] 。
ロシアは1810年 には西グルジアのイメレティをも併合し、かつての3王国は総じて比較的簡単にロシアの一部になってしまったといえる[ 45] 。実際のところ、ここではほとんど流血 の事態は生じなかった[ 37] 。ロシアはまた、1828年 にはアルメニア を併合、さらに同年、ペルシアとの戦争の結果、シーア派 ムスリムの多いアゼルバイジャン北部を支配下に置き、1829年 にはグルジアのグリア を併合した[ 3] [ 45] 。ロシアではこの頃、デカブリストの乱 (1825年 )や11月蜂起 (1830年 )が起こっており、1832年 12月10日 には、これらに影響を受けたグルジア人貴族がロシア高官の粛清を謀る事件があったが未然に発覚して失敗に終わっている。また、グリアではロシア政府によるジャガイモの強制栽培に端を発した1841年グリア反乱 (英語版 ) が起こった。農民を中心に7,000人もの人が反乱軍に加わったが、ロシア正規軍とこれに同盟したグルジア貴族によって打ち負かされ、多くはシベリア に送られた。
ロシア側から見れば、ザカフカス(南カフカス)よりも北カフカスのチェチェン人 ・レズギン人などのイスラーム系山岳民族の方が難敵であった[ 45] [ 46] 。結局ロシアは、北カフカスを戦場とするカフカス戦争 (コーカサス戦争)に1816年 から1861年 まで、実に45年の歳月を費やした[ 45] 。この戦争は皇帝アレクサンドル1世が特別グルジア軍司令官アレクセイ・エルモーロフ (英語版 ) にカフカス平定作戦開始を承認したことで始まったが、山地民族の側は、ミュリディズム と呼ばれるイスラームの信仰によって結束し、イマーム と称される政治的・宗教的指導者によって政治制度が整えられ、ロシア帝国に対するジハード (聖戦)の機運を高めた[ 46] 。グルジアでは、ミングレア(旧サメネグロ)、スヴァネティ、アブハジアがそれぞれ1857年 、1858年 、1867年 に最終的に併合され、ロシア帝国の正式な版図となった[ 3] 。
1856年 のザカフカス地方 ロシア、トルコ、ペルシアの3帝国によって分割されている。
北カフカス征服戦争に対し、グルジアの軍隊と人々はロシア側で参加した[ 37] 。これについては、当時のグルジア人たちがロシア人たちと正教の信仰 をともにするというばかりではなく、ロシア統治の積極面を評価する現実主義 的な視点を持っていたという指摘がある[ 37] 。実際のところ、ロシアへの併合はムスリムの諸勢力の攻勢から自身を守ることができ、ロシア政府の主導するカフカス地域の再キリスト教化に参与できる点では利益があったのである[ 13] 。ロシア帝国はカフカス戦争終結後、ムスリムの多く居住する中央アジア に転進し、その侵略を本格化させていった[ 45] 。1877年 から翌年にかけて起こった露土戦争 はロシアの勝利に終わり、その結果、黒海沿岸のポティとバトゥミ、長くオスマン帝国の影響下にあったアジャリアもロシアに併合され、カフカス地域全域がロシア帝国領となった[ 9] 。
ロシアへの併合によってグルジア正教会 は1811年 、ロシア正教会 に吸収され、その組織的独立を失った[ 13] [ 14] 。グルジア教会のカトリコス (総主教 )は廃され、その教区はロシア教会に編入された[ 14] 。ロシアの宗務院に属する大主教 が置かれ、「グルジアのエクザルフ (総主教代理)」の職位が設けられた[ 14] 。大主教には当初はグルジア人聖職者が任じられたが、1817年 以降はそれもロシア人聖職者によって占められるようになった[ 14] 。これは、非カルケドン主義 に立つアルメニア教会 とは異なり、ロシア教会とグルジア教会の間には教義上の差異がないと見なされたからであったが、教義に相違はなくてもグルジアには非インド・ヨーロッパ語 として長い歴史をもつグルジア語の文章語 と独特の典礼 があり、グルジア人聖職者・信者にとってグルジア語の禁止とロシア語の強制は大きな苦痛を伴うものであった[ 13] 。グルジア人たちはロシア帝国政府に対し粘り強く教会の独立を要求した[ 13] 。
ロマン派詩人ニコロズ・バラタシヴィリ
そうした一方、グルジア貴族の師弟で露都サンクトペテルブルク に留学する者が多くなり、ロシア経由でロマン主義 文学の影響を強く受ける者も現れた[ 47] 。「グルジア・ロマン主義の父」といわれた詩人アレクサンドレ・チャヴチャヴァゼ (英語版 ) は帝政ロシアの軍人としても活躍したが、彼はロシアの有名な作家で外交官 でもあったアレクサンドル・グリボエードフ の義父としても著名である[ 47] 。また、しばしば「グルジアのバイロン 」と評されるニコロズ・バラタシビリ はその若い死が惜しまれたロマン主義の詩人で、『グルジアの運命』や『ペガサス』は後世に多大な影響をあたえた[ 47] 。
1860年代のカフカス総督府(チフリス)
開明的なミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフ 総督時代の1845年 から1854年 にかけては、グルジアの商業 と貿易 が急速に発展した時代であり、チフリス(トビリシ)には劇場 なども整備され、都市文化が開花した[ 3] [ 47] 。また、トビリシはカフカス全体における政治の中心でもあったため、ペルシア、オスマン帝国、フランス 、スウェーデン 、ベルギー の公館もあった[ 17] 。学芸面では、1850年 にロシア帝国地理学協会(1845年 創設)がトビリシに支部を設け、現地の知識人や外部からの観察者がそれぞれ夥しい民族誌 を著述している[ 43] 。これは、この地域のロシア化を意味する反面、新たな伝統の創出であるとともに近代的なナショナリズム の揺り籠になった[ 43] 。文芸の面でも、『曙』などの文芸誌が登場し、国民文学として新たな展開を見せるようになった[ 47] 。
1861年 にロシア皇帝アレクサンドル2世 の発した農奴解放令 はグルジアにも及び、それまで様々な条件を課されて農奴 の状態にあった東部グルジアの農民は1864年 に、西部グルジアの農民は1864年から1871年 までの間に自由 の身となり、従来の家父長制 的な慣行は近代教育の普及とヨーロッパ からもたらされた諸思想 によって急速に消え去っていった[ 3] 。
19世紀後半には、イリア・チャヴチャヴァゼ 、アカキ・ツェレテリ 、そしてヴァジャ・プシャヴェラ という、現代ジョージア人(グルジア人)にも「イリア」「アカキ」「ヴァジャ」で親しまれているグルジアの国民的作家が生まれた[ 47] 。東グルジア出身で旧王族のイリアは、読書社会協会を組織し、現代グルジア語の確立と普及にも努め、『オタルの未亡人』などの作品を残した[ 47] 。アカキは西グルジアの出身で『バシ・アチュキ』などの作品があるほか、識字運動 などを含む啓蒙 的な諸活動を展開した[ 47] 。山岳地帯のプシャヴィ (英語版 ) 地方出身のヴァジャは、生涯郷里を離れず、方言を用いて貧しい山地の現実と土俗の民俗的世界を繊細な感情で表現したもので、代表作に『客人歓待』がある[ 47] 。
1860年代 、トビリシには織物 工場が設けられ、1872年 、トビリシとポティの間の鉄道 が開通した[ 3] [ 44] 。さらに、バトゥミ・トビリシ・バクーの鉄道も敷設された[ 17] 。これにより、鉱山 ・工場 ・農場 経営などの諸産業が発展したが、資本 の多くはロシア人 、アルメニア人 、西欧諸国の人々の掌握するところとなり、グルジア人には恩恵が少なく、多数の農民と都市化 ・産業化 によって新たに形成された労働者階級 の多くはこれに不満を抱いた[ 3] 。1883年 、トビリシにザカフカス鉄道本部が置かれ、グルジア地域はザカフカス地方の鉄道輸送の要地となった[ 44] 。グルジアには大規模な工場としては鉄道関連のものしかなく、工場法 のような労働者保護のための立法もなかったことから、労働環境は劣悪なものであったが、発展期のロシア資本主義の一翼を担う地域として経済的にもロシア帝国に組み込まれていった[ 44] 。なお、1900年 の段階ではアゼルバイジャンのバクー 油田 は世界の石油 産出量の半分を占めており、同じ年にバクーとバトゥミを結ぶパイプライン が完成している[ 44] 。
農村にあっても、私有地も約3分の2が地主 の所有であり、大経営地はツァーリ (ロシア皇帝)に属し、修道院や教会も大きな領地を持っていた[ 44] 。20世紀 初頭に至っても全農業人口の半数近くが一時的義務負担農民(農奴解放によって土地用益権を得たものの、土地代金の支払いが終えるまで一定の義務を負担しなければならない農民)であり、零細な小作農民が多数を占めた[ 44] 。一方、皇帝アレクサンドル2世の暗殺後は締め付けが強くなり、1881年 に即位したアレクサンドル3世 は計画的なロシア化政策を打ち出して少数民族 の同化政策を強制的に推し進めたことから都市労働者を中心に強い反発が巻き起こり、知識人 中産階級 では民族主義 に目覚める人が増加した[ 3] [ 43] 。
イリア・チャヴチャヴァゼ公
ノエ・ジョルダニア
グルジアでは様々な形での民族再興運動が起こった。文学と社会運動を基本とする第1グループ(ピルヴェリ・ダシ (グルジア語版 ) )は作家のイリア・チャヴチャヴァゼやアカキ・ツェレテリ(いずれも上述)、一層急進的な第2グループ(メオレ・ダシ (英語版 ) )はギオルギ・ツェレテリ (英語版 ) など、そして、1892年 に活動を開始した社会民主主義 を奉ずる第3グループ(メサメ・ダシ (英語版 ) )はロシア社会民主党 員のノエ・ジョルダニア やニコライ・チヘイゼ らによって、それぞれ指導された[ 3] 。社会民主党はマルクス主義 を奉ずる非合法政党であった[ 3] 。1898年 からはイオセブ・ジュガシヴィリ(ヨシフ・スターリン )が第3グループに参加した[ 3] 。しかし、ジョルダニヤやチヘイゼが第3グループの主導権を掌握し、彼らの属したメンシェヴィキ (ロシア社会民主党の少数派)がグルジア民族主義の受け皿になると、スターリンはグルジアを離れ、やがてウラジーミル・レーニン と行動を共にするようになった[ 3] [ 9] 。
19世紀末葉以降は、このような民族主義の高まりに加え、ヨーロッパから新思潮としてもたらされた社会主義 の影響で労働運動 ・農民運動 が頻発するようになった[ 3] [ 9] 。
小説家のニノシヴィリを中心としてマルクス主義 の最初のサークルが結成されたのは1892年 、西グルジアの炭鉱でのことであった[ 48] 。1894年 のニノシヴィリの死去後はジョルダニアがこれを引き継いだ[ 48] 。なお、グルジア語の合法週刊誌『わだち』は1890年代 後半以降マルクス主義的な知識人の手によって編集されるようになり、幅広い農村の読者を獲得していた[ 48] 。これは、グルジアではこの時期、合法媒体 がグルジア語を用いてマルクス主義の論陣を張ることが出来たということを意味しており、やがて1902年 春のグリアでの農民運動「種まきストライキ」へと繋がる動きを準備した[ 48] 。1902年のアジャリアのバトゥミ でのストライキ や1903年 に南ロシア一帯に広がったストライキは社会民主党の指導によるものであった[ 49] 。1903年、トビリシでロシア社会民主労働党カフカス連盟が組織され、カフカスの諸都市での労働運動は一層組織化を強めた[ 48] 。1903年7月にバクーとオデッサ で始まったゼネラル・ストライキ はトビリシやバトゥミにも波及している[ 48] 。
1904年 2月、日露戦争 が始まった。この年の8月から9月にかけて日露間で戦われた遼陽会戦 でロシア陸軍 が日本陸軍 に敗北したことは労働運動・農民運動にも大きな影響を与えた。1904年末、グルジアではバクーやバトゥミの労働運動と結びついて農民委員会が結成され、広範な騒擾事件とゲリラ戦 が展開された[ 3] [ 50] 。特にグリア地方の農民蜂起は、ツァーリ 政府から地域権力を奪い、自治 を行なって地主 の所有する農地を占拠し、さらに武装集団を組織するに至ったというもので、その様態は「グリア共和国」と呼ばれる程であった[ 3] [ 48] 。「マルクス主義者が指導した世界初の農民反乱」と評されるこの動きは全グルジアに広がり、ここにはかつてのグルジア貴族も参加した[ 48] 。1905年2月18日 、グルジアに戒厳令 が布告され、ツァーリ政府はグリアの農民代表と交渉したが、地主地の接収や制憲議会の召集などを巡って意見が一致せず、交渉は決裂し、政府は3月に軍を派遣した[ 50] 。農民蜂起はカザーク 兵の鎮圧の前に崩壊した[ 3] [ 49] 。この動きはさらにロシア中部などへと波及していった[ 50] 。
こうした一連の動きはロシア第一革命 (1905年革命)と呼ばれており、1905年の前半期を通じて反政府運動と暴動がロシア帝国全土に広がった[ 51] 。ザカフカスでは、トビリシ、ポティ、クタイシ、バクー、ウラジカフカス 、アレクサンドロポリ(現、ギュムリ )でストライキが起こっており、トビリシ、カルス、バクー、ウラジカフカスでは軍部の反乱さえ起こっている[ 51] 。
日露戦争での戦敗はロシア人 のみならず、ロシア帝国内の諸民族にも大きな影響を与え、これを機に「自由主義者の春」という状況が生まれた[ 52] 。1905年9月17日 から22日にかけてはロシア帝国内の革命派によってフランス のパリ で反政府党・革命党会議が開かれ、そこには解放同盟(のちの立憲民主党 )やナロードニキ の流れを汲む社会革命党 (エスエル)、フィンランド民族主義党、ポーランド社会党、ポーランド国民連盟、アルメニア革命連合、ラトビア社会民主同盟など8団体が参加したが、ここにはグルジア革命的社会主義者連邦派党 の姿もあった[ 52] 。ツァーリ政府はこうした中セルゲイ・ヴィッテ が中心となって起草した十月詔書 を発し、ドゥーマ (国会)の開設を約束した[ 51] 。
1905年は、西グルジアを除くカフカス全域ではむしろ「民族紛争の年」という様相も呈していた[ 48] 。1906年以降、革命運動は停滞していくが、その間グルジアではメンシェヴィキが一層広範な支持を獲得していった[ 48] 。
民主共和国・ソ連邦時代
1914年 に第一次世界大戦 が始まると、ロシア・トルコ国境に位置する南カフカス地域は最前線となった[ 53] 。エンヴェル・パシャ 率いるトルコ軍はザカフカス西部の奪還を目指したが、12月の山岳地帯を軽装備で強攻したサルカムシュの戦い (英語版 ) で兵力の85パーセントを失う大敗北を喫した[ 53] 。これに対し、ロシア帝国軍はグルジア人やアルメニア人の義勇兵の参加も得て1916年 7月にはエルズィンジャン にまで侵入した[ 53] 。
大戦中の1917年 、ロシア革命 が勃発した。二月革命 後、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの3つの地域は「カフカス特別委員会 (英語版 ) (オザコム)」の名で知られるペトログラード の一委員会によって支配され、また、グルジアの人々の長年の希望であったグルジア正教会の独立がようやく認められ、カトリコスが選出された[ 3] [ 14] 。その年、ボリシェヴィキ (ロシア社会民主党多数派)によって引き起こされた十月革命 では、ロマノフ王朝 の帝政ロシア が崩壊、立憲民主党 (カデット)が主導していた臨時政府 が倒された。南カフカスの民族主義者・社会主義者(グルジアのメンシェヴィキ、アルメニアのダシュナク党 、アゼルバイジャンのミュサヴァト党 )はこれを機にロシアから分離し、トビリシに結集してセイム(Sejm 、カフカス委員会議 (英語版 ) )という新しい機関を設置した[ 3] [ 53] 。ロシア人兵士は十月革命によって南カフカスを去り、1918年 3月にはヴェヒブ・パシャ (英語版 ) 率いるトルコ軍がこの地に押し寄せた[ 53] 。一方、革命の指導者ウラジーミル・レーニン は人民委員会議 (ソヴィエト政権)を組織し、1918年1月、ロシア内戦 の中から生まれた赤衛隊をもとに赤軍 (労農赤軍)を作った。
ザカフカース民主連邦共和国(1918年)国旗
1918年3月3日 、ソヴィエト・ロシア政府はカフカス委員会議に諮ることなく、バトゥミ、カルス、アルダガンのトルコへの割譲を含むブレスト=リトフスク条約 に調印した[ 44] 。西方からのトルコ軍の進撃に曝された南カフカスでは、1918年4月9日 、セイムによってザカフカース民主連邦共和国 の建国が宣言された。共和国の最高機関は、ザカフカス議会であり、グルジアのニコライ・チヘイゼ が議長を務め、アルメニア人とアゼルバイジャン人が副議長を務めた。4月13日 、トルコは新たな要求を掲げ、翌日グルジアのバトゥミ に侵入した[ 44] 。連邦共和国政府は、ブレスト=リトフスク条約を認めなかったが、軍事力 をほとんど保有していない状態だったため、5月11日 以降、バトゥミにおいてドイツ・トルコ軍司令部と交渉に入った。交渉中、グルジアとアルメニアは親ドイツ、アゼルバイジャンは親トルコなどそれぞれの立場に違いがあり、内部対立が生じたことから、連邦は解消され、5月26日 、メンシェヴィキの指導の下にドイツ軍保護下でグルジア民主共和国 が独立、トルコ影響下で27日にアゼルバイジャンが、28日にはアルメニアがそれぞれ単独国家を建国した[ 9] [ 53] 。グルジア民主共和国を承認したのはソヴィエト・ロシアを含む22カ国にのぼった[ 31] 。英米独伊を始めとするヨーロッパ諸国やトルコ・日本 などはボルシェヴィキ政権および赤軍を許可しないという公約を条件に民主共和国を承認した。6月4日 、グルジアはトルコと講和を結び、アジャリアなど一部の領土をトルコに割譲し、7月にはボリシェヴィキの建てたクバーニ=黒海ソビエト共和国 と抗争した[ 44] 。グルジアは当初ドイツ帝国 軍の保護下に置かれ、カフカスの油田地帯にはフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン (英語版 ) 率いる3000人のドイツ軍が進駐し、同盟国トルコとともにアゼルバイジャンを占領した[ 54] 。
1918年グルジア議会での独立宣言
トビリシのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂 (英語版 ) 前に集まったドイツ帝国軍
グルジア民主共和国は1918年5月26日の建国当初メンシェヴィキが連邦社会主義者、民族民主主義者と連合して国民会議を組織し、ノエ・ラミシヴィリ (ロシア語版 ) がその議長職を務めたが、7月24日 以降はメンシェヴィキのノエ・ジョルダニア が首相として政府を率いた。ジョルダニア政権の農相ホメリキは1919年 1月より包括的土地改革を本格化させ、地主や貴族の土地の一部を接収して農民たちに分与して自作農が創設されたため、農民層から支持された[ 53] 。メンシェヴィキは、1919年 2月のグルジア制憲議会選挙では得票数50万5,477票中40万9,766票、議席数130議席中109議席という圧倒的な支持を受けて政権は安定し、土地改革のほか司法改革、工業の国有化などの政策 を進めた[ 44] 。対ロシア防衛の面では、アントーン・デニーキン 率いる白軍 が優勢だった時期にはアゼルバイジャンと協力してこれを牽制した[ 53] 。
アゼルバイジャンのミュサヴァト政権はバクーの石油利権を巡ってドイツがトルコに圧力をかけたのでトルコへの併合は免れたが、中央同盟国 が敗北しトルコ軍が撤退すると替わってイギリス軍 が1918年11月に本格的に進駐してきた[ 53] 。内戦における白軍 有利の状況の中でイギリスは当初ミュサバト政権を承認しなかったが、反共防波堤にする方針に転じ、その中で自由選挙 も実施されたが、やがてロシア革命干渉戦争から手を引くこととして1919年8月バクーより撤退した[ 53] 。その後、内戦で優勢となった赤軍 (のちのソ連軍 )がバクーを占領、1920年 4月にソヴィエト政権が成立した[ 53] 。
第一次大戦中、オスマン帝国領内でアルメニア人虐殺 を経験したアルメニアは、1918年5月の決戦でトルコを撃退した地域をもとにダシュナク政権が独立し、連邦解消後はエレヴァン を首都として建国したものの、トルコ領内からの大量難民 に伴う住宅 問題・労働問題・感染症 問題の発生、オスマン帝国内のアルメニア人有力者からの干渉、さらにアゼルバイジャンやグルジアとの間には国境地帯の帰属を巡る紛争があって国家運営は難渋を極めた[ 53] 。イギリス軍の援助でカルス地方 を奪還したこともあったが、1920年秋のキャーズム・カラベキル 率いる新生トルコ軍との戦争に敗れ、11月には赤軍も侵入してきたため、ダシュナク党は赤軍受け入れを認め、1920年12月にソヴィエト政権が成立した。
1919年パリ講和会議 で画定されたグルジア民主共和国の領域と国境
グルジア民主共和国(1918年-1921年)国旗
グルジアでは、1918年7月末から12月まで、南部のボルチャロ郡(マルネウリ )やロリ地方 を巡ってアルメニアとの間で戦争状態になった(グルジア・アルメニア戦争 (英語版 ) )。グルジアからは国境警備隊のほかドイツ軍もこれに加わった。当初はアルメニアが優勢だったが、のちにグルジアが反撃して膠着状態となった。1918年末のドイツ・オーストリア 崩壊後、グルジアはイギリスの占領下に入った。イギリスは1919年1月、グルジア・アルメニアの和平を仲介し、グルジア西部に傀儡国家バトゥミ共和国 の建国を宣言した[ 3] 。しかし、グルジアの人々は、イギリスの支持を受けたデニーキン率いるロシア白軍を、ボリシェヴィキ以上に危険な存在だと考え、白軍の帝政秩序の回復を目的とする活動に対しては協力を拒否した[ 3] 。これにより、バトゥミ共和国は1919年のうちに崩壊、翌1920年7月には英軍はバトゥミから全面的に撤退した[ 3] 。グルジアはロシア支配に入ったアゼルバイジャンとも抗争した[ 8] 。
1919年10月から11月にかけてはグルジア各地で武装蜂起が相次ぎ、これは鎮圧されたもののグルジアは国内外の情勢の悪化に伴いロシアとの関係を修復する必要に迫られた[ 3] 。1920年5月7日 、ロシア・グルジア間でモスクワ条約 (英語版 ) が結ばれ、グルジアではボリシェヴィキの合法化が義務付けられ、それに基づいてセルゲイ・キーロフ を長とするソヴィエト使節団がトビリシに派遣された[ 3] 。キーロフらは民主共和国を崩壊させてこの地にボリシェヴィキ革命を実現すべく行動した[ 3] 。グルジアではグルジア共産党 (英語版 ) が発足して、メンシェヴィキ政権の打倒を準備した[ 3] 。1920年末の段階ではアルメニアにもソヴィエト共和国が成立していたので、グルジアは三方をソヴィエト共和国に囲まれる状態となっていた[ 44] 。
首都トビリシで軍事パレードをおこなう赤軍(1921年)
1921年 1月、グルジア民主共和国は旧連合国 の多くから独立国としては認められていたものの、前年に発足した国際連盟 への加盟は拒否された[ 3] 。すかさず、グルジア人ボリシェヴィキのヨシフ・スターリンとグリゴリー・オルジョニキーゼ は赤軍を指揮して軍事行動を起こした(赤軍のグルジア侵攻 (英語版 ) )[ 3] [ 9] 。同年2月のロリでの民衆蜂起を契機に、2月21日 、赤軍第11軍 が首都トビリシを侵攻、市街戦 の結果ここを占拠して、2月25日 、グルジア社会主義ソビエト共和国 の発足を宣言した[ 3] [ 9] [ 55] 。民主共和国政府はバトゥミに逃亡したものの3月17日 に国軍が降伏してバトゥミが陥落、亡命を余儀なくされた。メンシェヴィキはフランス のパリ においてジョルダニアを首班とするジョルジア民主共和国亡命政府 (英語版 ) として活動を続け、新しく成立したグルジア・ソビエト共和国はグルジア共産党第一書記のラヴレンチー・ベリヤ によって指導された。
十月革命直後のロシアでは、フィンランド やポーランド など旧帝国に併合されてまもない地域はいち早く独立を果たしたが、ウクライナ で独立の動きが強まってロシア内戦 が始まると、モスクワ のロシア共産党 最高指導部は、完全に独立した主権国家である各共和国が互いに対等な関係で条約を結び合うことで統一行動を演出するという方針を採用した[ 56] 。このような方針の下、1922年 12月13日 、グルジアのソビエト共和国はアルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国 に編入されて独立を失った[ 55] 。そしてそれと同時に、ロシア 、ウクライナ 、白ロシア およびザカフカースの4ソビエト共和国の対等な連邦として、ソヴィエト連邦 が正式に発足した[ 9] [ 55] 。ソヴィエト連邦は結局旧ロシア帝国の版図をほぼそのまま引き継いだ形となり、各共和国は主権対等の建前をとりながら、実際は各国の共産党はロシア共産党中央委員会の単なる地方委員会にすぎなかった[ 56] 。なお、1922年4月3日 、スターリンはレーニンの推挙でソビエト連邦共産党書記長 に任命されている。
モスクワによる急速な中央集権化 に対し、最も頑強に抵抗したのはグルジアであった[ 9] 。赤軍によるグルジア侵攻直後に始まり、1922年後半にピークを迎えたボリシェヴィキ内の論争が、いわゆる「グルジア問題 」である。この政治論争の主要な論点となったのは、グルジアなど3カ国でザカフカース連邦を構成するというモスクワの決定の是非であり、グルジア単独でソ連邦の一員になる立場を望んだフィリップ・マハラゼ やブドゥ・ムディヴァニ らグルジアのボリシェヴィキ指導者は、この決定に強硬に反対した。モスクワからの自治を維持しようとするグルジア側の願望や、ボリシェヴィキが画策していた国境政策の解釈にグルジア特有の解釈がこれに絡んで論争は複雑な様相を呈した。結局論争はスターリンとその盟友オルジョニキーゼの勝利に帰し、マハラゼやムディヴァニは失脚した。グルジアではソヴィエト化の過程、ソ連邦結成時における中央との軋轢が特に大きかったのである[ 57] 。
スターリンとオルジョニキーゼの立場は「民族主義の害毒」を撲滅し、ソヴィエト体制の枠の中で国としての結束を固めることを目指したものであり、全てのソヴィエト国家がロシアに併合されて従属的な立場に陥るよりはむしろロシアと同等の地位にあるべきであるというものであったが、これを病床で聞いたレーニンは官僚制的中央集権に基づいた大国主義的な抑圧の形態であるとして厳しく批判し、スターリンと晩年のレーニンとの不和の原因の一つとなった[ 3] [ 8] [ 49] 。また、3共和国の権限や機能の分担が曖昧なまま併合されたことは、のちに領土問題・国境問題が浮かび上がってくる元凶の一つとなった[ 58] 。
南カフカスにおけるソヴィエト体制の成立はまた、従来、バクーを除けばボリシェヴィキの勢力の弱い地域であったために、その軋轢も大きかった[ 58] 。旧政権政党の関係者は監視され、幹部は多く追放された[ 58] 。1923年 以降、グルジアではメンシェヴィキは解党させられ、旧党員はボリシェヴィキに吸収されるか、国外に亡命するかの選択を余儀なくされた[ 58] 。農村に対してはレーニンが中心になって進めたネップ (新経済政策)によって経済の自由化をある程度認めたため、当初は存在した農民の不満も次第に和らいでいった[ 58] 。
八月蜂起におけるチョロカシヴィリ軍
トロツキー 派敗北後の1924年 には、農村を襲った部分的凶作 、穀物調達の不振、穀物投機傾向の拡大と価格 の高騰、都市民の不満増大など「1924年秋の危機」と呼ばれる状況が現出した[ 59] 。これは、ネップの行き詰まりを示す事象ともいえたが、カクツァ・チョロカシヴィリ (英語版 ) らの指導によって大規模な反ソ農民暴動(八月蜂起 (英語版 ) )がグルジアで起こったことはロシア共産党中央を震撼させた[ 59] [ 60] 。この暴動は赤軍によって鎮圧されたが、スターリンはグルジアの暴動について「もしわれわれが農民に対する態度をそのものを根本的に改めないならば、・・・グルジアで発生したことは、ロシア全土でくりかえしおこるであろう」と論じた[ 59] 。
ヨシフ・スターリン(1943年)
ソ連では、レーニン死去後、スターリンが権力を奪取し、1928年 にはネップに対して否定的評価を下し、1929年 には第一次五カ年計画 を開始して農民から作物を強制的に徴収、これを海外に輸出 することで資金を調達し、それをもとに急速な工業化を図ろうとした[ 58] [ 61] 。コルホーズ を中心とする集団化によって農業生産の効率を高め、余剰人員を工業労働力に回そうとしたのである[ 58] 。その結果、都市住民には食糧が行き渡るようになり、市民生活は厳しく統制された反面、重化学工業 化と軍事化によってソ連は再びかつて大国ロシアと同じ道を歩むことが可能となった[ 61] 。スターリン自身はグルジア人であったが、権力を容赦なく振るった独裁者 という点では、雷帝イヴァン4世 やピョートル1世 などと同様、むしろ典型的なロシアの専制君主 の系譜を引く人物と見なされることがある[ 61] 。
一方農村では、ようやく安定した農家経営と自らの土地を得た農民たちが集団化と作物強制徴収で生活が脅かされることに反発し、カフカス地方ではウクライナと並んで激しい抵抗運動が起こった[ 58] 。農業生産は激減して飢饉 が発生する一方、地方の共産党組織そのものも混乱した[ 58] 。ソヴィエト政権は農業集団化を行うにあたって次第に警察力に訴えるようになり、抵抗者には「クラーク (富農)」とレッテルを貼って財産を没収して居住地から追放した[ 58] 。
1930年代、スターリンは「一国社会主義論 」を唱えて政敵を追い落とし、スターリン自身を頂点とする党組織の引き締めによって国家の政策を貫徹させようとして1936年 夏以降、一切の党内抵抗勢力を粛清した[ 58] [ 注釈 8] 。グルジア人ラヴレンチー・ベリヤ はスターリンの片腕として内務人民委員部 (NKVD)の長官を務め、その中心人物となった[ 3] 。粛清に際してはNKVDにノルマ を設け、国民には密告 を奨励したため、無制限なテロリズム となった[ 58] 。こうして、1936年から1938年 にかけての大粛清 の時代には、草創期のボルシェヴィキ指導者の多くが「トロツキスト」の烙印を押されて葬り去られ、グルジアでも「ムディヴァニ・オクジョア裁判」などがなされて土着の活動家の多くが「民族主義的偏向」の名のもとに処刑された[ 49] 。1936年12月5日、ザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国は廃止され、単独のグルジア・ソビエト社会主義共和国 に昇格した[ 9] 。国土とその住民はスターリン憲法 のもとで、ソヴィエト連邦からいつでも分離しうる権利を含む数々の権利が与えられた[ 3] 。
スターリンは独ソ戦 と第二次世界大戦 を通じて絶対的な権力を振るい、その中で民族強制移住 (英語版 ) がなされ、多くの民族が犠牲となった[ 62] 。独ソ戦末期の1943年 から1944年 にかけての北カフカス諸民族に対する過酷な強制移住が行われ、特にイングーシ人 とチェチェン人 のそれは大規模であり、のちに帰郷が許されたものの現在もなお大きな爪痕を残している[ 62] 。これに対し、「スターリン批判」ののちも故郷への帰還が許されなかったのがグルジア南西部のメスヘティ (英語版 ) 地方に住んでいたムスリム住民(メスフ人 )である[ 62] 。メスフ人(メスヘティア・トルコ人)はテュルク系民族 で、敵国トルコとの連携を疑われて中央アジア に強制移住させられた[ 62] 。1968年 には帰郷の権利が認められたものの歴代のグルジア当局はそれを許そうとせず、現在のジョージア政府も彼らの帰郷を認めていない[ 62] [ 注釈 9] 。一方、二月革命後もグルジア正教会を認めてこなかったロシア正教会が1943年になり、ようやくその独立を認めた[ 14] 。これは総力戦 を戦うにあたって、スターリンがグルジア民族主義を取り込む必要を感じたことにより、下した裁定の結果であった[ 14] 。
第二次大戦後の共産党内部ではスターリンの側近 にベリヤを始めとしてグルジア人も多く、ベリヤはスターリン亡き後の有力な後継者の一人と見なされていた[ 63] 。しかし、晩年のスターリンはベリヤの息のかかったグルジア人側近を警戒して彼らの多くを更迭し、さらに1951年 以降はベリヤ本人を失脚させる機会さえうかがっていた[ 63] 。1953年 に独裁者スターリンが没すると、ベリヤは「個人崇拝」を批判し、党と国家の分離を主張したがニキータ・フルシチョフ らとの政争に敗れ、この年の末、死刑 に処せられた[ 64] 。
ルスタヴェリ通り(トビリシ)の有名なコミュニケーションズビルに設けられた「5月9日の大虐殺」を記念する案内板
グルジアはソ連を構成していた諸共和国の中でも反中央意識が元々強く、1950年代 以降はグルジア人の権利を擁護する民衆運動がたびたび起こった[ 9] [ 57] 。その中でもよく知られているのが、1956年 5月9日 に起こった1956年グルジア暴動 (英語版 ) (第1次トビリシ事件)である。これは、第20回ソヴィエト共産党大会でのいわゆる「スターリン批判 」をきっかけにして起こった民衆暴動であり、武力弾圧によって数百名の死者が出たといわれる。
フルシチョフ時代、戦後の復興も一段落し、スターリン時代の恐怖政治が終わったことで人々も生活を楽しむ余裕が生まれたが、フルシチョフ政権は一方では「社会主義的競争」の名のもと民族語学校を次々に閉鎖したため、グルジアの都市部ではロシア語 学校が大半を占め、「文化のロシア化」が進んだ[ 65] 。その一方、政治の分野では各地で「脱モスクワ化」が進み、グルジアではヴァシーリ・ムジャヴァナゼ (英語版 ) グルジア共産党第一書記が自国の共産党組織の人事一切を取り仕切った[ 65] 。その任期は1953年 から1972年 まで21年におよび、フルシチョフ失脚(1964年 )後も続いたが、このような「長期政権」の背景には、スターリン時代に中堅ヴェテランの人材が大粛清によって余りにも多く失われ、若手が中心になって組織を運営しなければならなかったという事情がある[ 65] 。
レオニード・ブレジネフ が政権を掌握していた1970年代 、グルジアの反体制派はグルジア人の文化的・宗教的遺産に対する当局の破壊的な扱いにしばしば抗議した[ 14] 。ブレジネフはフルシチョフ政権末期に既に表面化していた計画経済 の失敗を改善するために各共和国の指導部の入れ替えを図り、1972年 、グルジアには同共和国グリア州 出身のエドゥアルド・シェワルナゼ を送り込んだ[ 65] 。シェワルナゼはブレジネフを賛美するキャンペーンを展開し、国内的には「民族主義的偏向」に対する批判を盛んに行なって中央からの統制を強めようとした[ 65] 。1978年 、グルジア・ソヴィエト共和国新憲法草案を作成する際、シェワルナゼは「グルジア語を国語とする」規定を削除したため、グルジア人たちがこれに抗議して4月14日 にはトビリシを中心に大規模な1978年グルジアデモ (英語版 ) が起こったため、削除案は取り消された[ 55] [ 65] 。この事件はかえってグルジア国内の民族主義を強める結果となり、シェワルナゼは政権を維持するためナショナリストたちとの妥協を余儀なくされた[ 65] 。
トビリシ事件(4月9日の悲劇)の犠牲者の写真
1985年 、ソヴィエト連邦ではコンスタンティン・チェルネンコ 書記長が死去すると後継にミハイル・ゴルバチョフ が選ばれ、グラスノスチ (情報公開)とペレストロイカ (建て直し)が掲げられた。対外面では、グルジア共産党第一書記だったシェワルナゼを外務大臣 に起用し、「新思考」外交が展開された[ 66] 。
1989年 4月、半世紀以上にわたる冷戦 が終結し、ゴルバチョフのペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、トビリシでは治安部隊が反ソ連を掲げるデモ隊 を解散させようとしてトビリシ事件 (第2次)が起こった[ 55] [ 67] 。これは4月6日 にアブハズ人 の運動に抗議するハンガー・ストライキ に端を発した4月9日 の平和的な大衆集会に、ソ連地上軍 がアフガニスタン から引き揚げた戦車 や毒ガス まで用いて、公式発表では19名(グルジア活動家の数字では少なくとも50人)の死者を含む犠牲者を大量に出した事件で、「4月9日の悲劇」と称される[ 67] 。この事件は、全ソ的に衝撃を与えたが、多分に他地域・他民族に対する「見せしめ」的要素を持つものであった[ 67] 。ゴルバチョフはこのとき報道機関 を通じて民族運動を抑える発言をしたことから、グルジア内ではゴルバチョフは「民族主義の味方ではない」というイメージが作られ、グルジアの民族運動を一挙に加熱させた[ 8] [ 57] 。
ソヴィエト連邦時代のグルジア
グルジアでは複数政党制 の正式承認を待たずに多くの野党 が発生した[ 57] 。その中でグルジア共産党も民族路線に接近して独立論を掲げるに至った[ 57] 。1989年9月、ソ連の共産党中央委員会総会が民族問題政治綱領を採択したものの、急進主義へと傾いた共和国の運動を満足させることができず、その年のうちにリトアニア 、ラトビア 、アゼルバイジャン、そしてグルジアも相次いで主権宣言を採択した[ 68] 。この年の11月、グルジア共和国最高会議では1921年のソヴィエト政権樹立を不法とする憲法改正 がなされ、これは事実上の主権宣言となった[ 57] 。
反面、ソ連邦時代の末期にはグルジア人とグルジア内に居住する少数民族 との関係が悪化した[ 9] 。グルジア・ソビエト社会主義共和国は、その内部にアブハジア、南オセチア、アジャールという3つの自治地域を抱え、グルジア民族主義とアブハジア民族主義、オセチア民族主義との間にはそれぞれ対抗関係があった[ 57] 。特にアブハジアの民族主義運動は既にペレストロイカ初期に高まりを見せていたが、これに対抗する形でグルジア民族主義運動も拡大していった[ 57] 。1987年頃から、グルジアの民族主義者たちが独立グルジアへのアブハジアの統合を強調するようになっていたが、アブハジア側はそれに反発し、一独立国として建国することを模索した[ 67] 。1989年7月にはアブハジアでグルジア語の教育を行うため、トビリシ大学 の分校をスフミ に設置する計画に対し、これに反対するアブハズ人がグルジア人を襲撃したことによって1989年スフミ暴動 (英語版 ) が起こった[ 67] 。これは、アブハズ人、グルジア人双方が猟銃 ・小銃 を用いた内戦状態に発展したが、約3,000人のソ連内務省治安部隊によって鎮圧された[ 67] 。犠牲者は、死者16人、負傷者137人にのぼった[ 67] 。
独立と内戦
初代大統領ガムサフルディア
主権宣言を採択したグルジア議会は1990年 3月に国家主権擁護の宣言を採択、11月には国名を「ジョージア共和国」(Republic of Georgia)に改称した[ 9] [ 57] 。
新生ジョージアの諸政党 は「独立 」という目標においては一致していたが、互いに協力するよりはむしろ分立しがちだったため、諸党派間の対抗関係が深刻化し、非合法 な武装集団もこれに混じったことから政治闘争はしばしば暴力 的な形態をとった[ 57] 。1990年秋のジョージア共和国最高会議 選挙はグルジア初の複数政党制による選挙となり、「円卓会議・自由ジョージア (英語版 ) 」が大勝した[ 31] [ 57] 。一方、ソヴィエト連邦中央は連邦派と民族派に分断され、1990年12月の人民代議員大会 では独立派共和国の代議員が多数欠席する一方、連邦死守派からの発言が目立ち、その中で国家権力 強化論が盛んに唱えられたことからシェワルナゼが独裁体制復活への危機感を表明した上でソヴィエト連邦の外務大臣 を辞任した[ 69] 。
1991年 3月31日 、国民投票 で独立を承認、4月9日 、ジョージアはソ連の承認を得ないまま独立 を宣言した[ 9] [ 10] [ 31] 。従来の「主権宣言」がソ連の一部という前提のもとに国家の権限分配を主たる問題にしていたのに対し、「独立宣言」はソ連からの完全独立を謳うものであり、その意味合いにはおのずと大きな懸隔があった[ 68] 。5月26日 、旧ソ連構成国15カ国中最初に行われた1991年ジョージア大統領選挙 では急進的な民族主義者で与党 指導者のズヴィアド・ガムサフルディア が86パーセントの得票率で大勝し、ジョージア初代大統領 となった[ 9] [ 10] [ 57] [ 70] 。1991年12月、ベラルーシ のミンスク にロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国の首脳が集まり、ソヴィエト連邦の解体と独立国家共同体(CIS)の発足が合意された(ベロヴェーシ合意 )[ 68] [ 71] 。CISの発足はカザフスタン のアルマトイ で行われ、旧ソ連を構成する11カ国が参加したが、グルジアはその中でただ1つ加盟を拒否する国となった[ 8] [ 注釈 10] 。
ガムサフルディアは、グルジア(ジョージア)の作家 として有名なコンスタンティネ・ガムサフルディア の子息であり、ヘルシンキ・グループ (Georgian Helsinki Group )[要曖昧さ回避 ] のリーダー格で古くからの反体制 活動家として有名だったので当初は圧倒的な人気を博したが、大統領就任後は政権運営に権威主義 的手法を多用したことから、次第に批判が強まった[ 8] [ 57] [ 70] 。具体的には、政治犯 の逮捕 ・虐待 や新聞 の検閲 などであり、1991年10月8日 には共産党代議員を追放している[ 31] 。さらに、無制限といってよい権限を大統領に与える法律を制定し、反対派からは「独裁者 」と呼ばれた[ 31] 。また、彼の強い民族主義的姿勢はアブハジアと南オセチアの分離主義をかえって助長した[ 70] 。
ジョージアでは大統領派とテンギズ・シグア (ロシア語版 ) 元首相 やテンギズ・キトヴァニ (英語版 ) 元国務大臣 らの指導する反大統領派が衝突するようになった[ 8] [ 57] 。特にゴルバチョフのクリミア 軟禁 を端緒とする1991年8月政変(ソ連8月クーデター )に際し、ガムサフルディアがモスクワの要求を飲んだのではないかという憶測が広がったため、一挙に反ガムサフルディア運動が起こって一時ジョージアは騒然となった。ロシアのボリス・エリツィン 大統領もCIS参加を拒否したガムサフルディア政権を支持しない立場を鮮明にした[ 8] 。混乱状態は一旦収拾されたものの12月21日 には「トビリシ反乱」と呼称される内戦 状態に陥り、この内乱は3週間続いた[ 31] 。1992年 1月6日、軍事クーデター によりガムサフルディアは失脚した。彼は激しい戦闘の中をトビリシの最高会議を抜け出して自動車 でアゼルバイジャンに移動、さらにアルメニアに逃亡した[ 8] 。
第2代大統領シェワルナゼ
反ガムサフルディア派の人々はモスクワにいた旧ソ連の外相だったエドゥアルド・シェワルナゼを指導者に招いた[ 31] [ 70] [ 注釈 11] 。1992年2月、一院制 の議会選挙が行われ、シェワルナゼ議長は直接選挙 で最高会議議長に当選した[ 10] [ 31] 。1992年11月、シェワルナゼ政権は議会議長が大統領を兼ねる法律を制定した[ 31] 。この年の7月31日 、ジョージアは国際連合 に加盟し、8月3日 には日本との国交も成立、1993年 12月3日 には独立国家共同体 (CIS)に参加した[ 9] 。ずば抜けた政治手腕の持ち主であるシェワルナゼは、自身をジョージアに招いた軍閥 の指導者たちを次々に投獄してその勢力を削ぎ、1995年 までに全権を掌握した[ 70] 。
ジョージア内戦(1993年8月-10月) 朱がジョージア政府統治地域、青紫がアブハジア・南オセチア政府支配地域、縞はアジャリア半独立地帯、緑ガムサフルディア反乱勢力の支配地域
ジョージア内戦(1993年10月-1994年1月)
その一方で、かつてのグルジアの領域内でも少数民族問題が噴出した。1990年、ガムサフルディア率いるジョージア政府がグルジア語 を強制したのに反発したオセット人 (オセチア人)たちは南オセチア自治州 をロシア領の北オセチア自治共和国 への編入を求め、これに対し、ガムサフルディアの親衛隊的存在である「ジョージア人民戦線」が同自治州の州都ツヒンヴァリ に通じる道路や鉄道を遮断したため、ジョージア・南オセチア間の武力衝突に発展した[ 8] [ 10] 。翌1991年 、北オセチアがロシア連邦 内の共和国に昇格し、この年の9月1日 、南オセチア自治州はジョージアからの独立を宣言し、南オセチア共和国となった。1992年1月19日 の住民投票ではロシアへの帰属が大多数を占めた[ 10] 。2月、ツヒンヴァリ周辺にジョージアの砲兵と装甲車両が配備され、砲撃を開始、南オセチア紛争 に発展した。紛争は1992年6月に停戦合意が成立、7月14日 にはロシア・ジョージア・オセチア混成の平和維持軍が導入され武装闘争は終結した[ 67] 。
1992年から1994年 にかけてはジョージア中央の政治抗争と民族紛争からジョージア内戦 (英語版 ) が起こっている[ 9] 。国内外の民族主義者の動きに対しては、シェワルナゼも守勢に立たざるを得ない状況に追い込まれた[ 70] 。
1992年2月21日 、ジョージアの軍事評議会は1921年にメンシェヴィキ政府によって制定されたグルジア民主共和国憲法の復活を宣言したが、アブハジアでは、アブハズ人たちはこれを自治権廃止と捉えた。1992年7月23日 、アブハジア自治共和国 最高会議がジョージアからの独立を訴え、「アブハジア共和国 」を宣言した[ 9] [ 70] 。これに対し、新生ジョージア軍 は3,000人の部隊をアブハジアへ送り、首都スフミ に進攻、内戦状態に陥った[ 9] 。1993年8月にはアブハジア軍 がスフミを占領、ロシア領から流入したチェチェン兵らによってジョージア軍はアブハジアより駆逐された[ 31] [ 70] 。1993年12月、ジョージア・アブハジア双方が暫定停戦に合意し、1994年 4月即時停戦実施協定に調印した(アブハジア紛争 )[ 9] 。この過程で20数万の在アブハジアのグルジア人が国内避難民として故郷を追われた[ 70] 。
一方、1993年の後半はジョージア内戦が再び激化した[ 31] 。スフミ陥落の頃、ジョージア国内に潜伏していたガムサフルディアとその支持者たちが西グルジアで反乱を起こしたためであった[ 31] 。12月31日 、ガムサフルディアはサメグレロで死去した[ 注釈 12] 。ジョージア内戦その終結後も南オセチアとアブハジアの地位はしばらくの間未確定のまま残された[ 9] 。
1995年ジョージア大統領選挙 (11月5日 実施)では「ジョージア市民同盟 」のシェワルナゼ議長が圧勝し、独立ジョージアの第2代大統領に就任、国名から「共和国」を外して「ジョージア」に改めた[ 10] 。大統領選挙とともに議会選挙も行われ、シェワルナゼはズラブ・ジワニア らの若手政治家を抜擢した[ 70] 。なお、この年、シェワルナゼの主導によって8月24日 に1995年ジョージア憲法 を採択、10月17日 に施行 された[ 70] 。新通貨のラリ の導入も、この年の9月のことである[ 70] 。
2000年3月のCISサミット(モスクワ・クレムリン) (左より)シェワルナゼ、コチャリャン (アルメニア)、プーチン (ロシア)、アリエフ (アゼルバイジャン)
安定政権を手に入れたシェワルナゼは、アメリカ合衆国 の支援とアゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ 大統領との盟友関係のもとでパイプラインの誘致などの施策を展開した[ 70] 。これは、ジョージアの地政学的位置を最大限活用し、西側との連携を追求したものであった[ 70] 。若手政治家の積極的な起用をアピールするなど、その外交力と国際的知名度によってシェワルナゼは長期政権への期待を演出した[ 70] 。1995年からは、首都トビリシにグルジア史上最大規模となる至聖三者大聖堂 が建設された。しかし、国内の経済的な立て直しは遅々として進めなかった。失業 問題は解決されず、停電 やガス の停止、断水 の常態化に加え、官界の腐敗が蔓延した[ 70] 。
1997年 、ジョージア政府はウクライナ の呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドヴァ とともにGUAM (民主主義と経済発展のための機構)を結成した[ 注釈 13] 。これは、ロシア中心の再統合の動きに対し、トルコを経由してパイプライン・鉄道などを建設し、ロシアを通さずに直接西欧 市場 と結びつく可能性が模索されたものであった[ 72] 。
シェワルナゼは2000年ジョージア大統領選挙 で前回を上回る得票率を得て再選を果たした[ 70] 。しかしその後は、内務省からの強い締め付けに反発する若手政治家がポスト・シュワルナゼを睨んでそのもとを離れる現象が繰り返し起こり、それが欧米 ではシェワルナゼ政権に対する信用の低下に繋がった[ 70] 。
2003年のバラ革命
2003年 11月2日 の議会選挙ではシェワルナゼ大統領と野党勢力が対立した[ 70] 。ここでは2年後に予定されていた大統領選挙を睨んで様々な政治勢力がその影響力拡大を図り、シェワルナゼはなりふり構わぬ多数派工作に努め、与党ジョージア市民同盟に野党勢力も取り込んだ「新しいジョージア」が辛うじて勝利したものの、新与党の構成を見れば諸勢力の寄せ集めという状態であった[ 70] 。
そして、この選挙の開票に絡んでは出口調査 などによって不正選挙 疑惑が発覚し、ミハイル・サーカシビリ 率いる野党「ジョージア国民戦線 」が選挙の不正とやり直しを主張、これについてはアメリカ合衆国も遺憾の意を表明した[ 70] 。11月22日 、新議会が召集されたものの反対派議員はこれをボイコット 、議会前には25,000人の反対派市民が集結し、議会で開会の辞が読み上げられる中市民が議場に乱入した。シェワルナゼは議会から逃亡し、11月23日 、大統領を辞任した。この無血の政変は「バラ革命 」と称されている[ 70] 。バラ革命は、ウクライナのオレンジ革命 やキルギス のチューリップ革命 に影響を与えた。
暫定大統領ニノ・ブルジャナゼ
2004年制定のジョージア国旗
こののち、シェワルナゼ政権で外務大臣を経験した野党「ブルジャナゼ・民主主義者 (英語版 ) 」の党首ニノ・ブルジャナゼ が暫定大統領に就任、ブルジャナゼは、従来の閣僚(ナルチェマシヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシヴィリ財務相、メナガリシヴィリ外相など)を更迭した。
第3代大統領サーカシビリ
2004年 1月のジョージア大統領選では野党統一候補のミハイル・サーカシビリが圧勝した[ 10] 。このとき、新しいグルジアの国旗 として中世グルジア王国で多用された「白地に5つのイェルサレム十字」が採用されている。また、この年、トビリシでは至聖三者大聖堂が完成した。これはグルジアのみならず世界でも最大級の正教会の大聖堂 である。
ところが、バラ革命による政権交代劇は、半独立状態にあったアジャリア自治共和国 内では厳しい批判を受けた[ 10] 。アジャリア(アチャラ)のアスラン・アバシゼ 最高会議議長はジョージアとの境界を閉鎖し、2004年3月サーカシビリ大統領の共和国入りを拒否した[ 10] 。サーカシビリはアジャリアを経済封鎖 するに至り、双方の部隊が境界付近に集結する事態へと発展した[ 10] 。2004年5月、「独裁者」」とも呼ばれたアバシゼ議長は結局ロシアに出国し、アジャリアはジョージアの直轄統治を受けることとなった[ 10] 。
サーカシビリとジョージ・W・ブッシュ
サーカシビリ政権は、イラク戦争 後のイラク への増派を直ちに決定し、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ のトビリシ訪問をホストするなど、親米色を鮮明にした[ 70] 。その一方で、ロシアで企業家として成功したベンドゥキゼを経済大臣に据え、フランスの駐グルジア大使を務めていた亡命グルジア知識人の末裔ズラビシヴィリを外務大臣に抜擢するなど大胆な人事を行い、合わせて国営企業の民営化を進め、腐敗追放などによって企業活動の環境を整備した[ 70] 。
2004年8月、サーカシビリ率いるジョージア国軍は南オセチアのツヒンヴァリ 付近に進入した[ 10] 。南オセチア自治州軍はロシア軍の支援を受け、両者の間で銃撃戦が起こった[ 10] 。ジョージア軍はのちに撤退し、2006年 11月には南オセチア分離独立の是非を問う住民投票 が実施され、発表によれば独立支持が99.9パーセントに達したという[ 10] 。ロシアとジョージアの対立は頂点に達し、2006年、ロシアはジョージアとモルドヴァ からのワイン 輸入 を禁止した[ 55] 。
南オセチア紛争で攻撃を受けたツヒンヴァリのロシアJPKF基地
2007年 11月以降、今度はジョージア国内でサーカシビリ大統領の辞任を求める大規模デモが展開され、500人以上の負傷者を出し、大統領はこれに対して非常事態宣言 を発令した[ 10] 。2008年 1月、前倒しして行われた大統領選ではサーカシビリが再選された[ 10] 。同年8月、ジョージア人の軍隊は南オセチアに進攻、これにロシア軍が軍事介入した(南オセチア紛争 またはロシア・ジョージア戦争)[ 10] 。この戦争はアブハジアにも飛び火した[ 10] 。ロシア・ジョージア間の軍事衝突はヨーロッパ連合 (EU)の仲介により停戦、ロシアは2008年8月に南オセチアとアブハジアの独立を承認した上で、9月に軍を撤退させた[ 9] [ 10] 。サーカシビリ政権は一層親欧米路線を強め、2009年 8月、ジョージア政府はCISから脱退、9月にはロシアに対し外交関係断絶を通告した[ 10] 。
2009年 2月8日 、トビリシの至聖三者大聖堂において、スペイン にあった旧王家ムフラニ家のダヴィッド・バグラチオン・ムフラニ ともう一つの王統、グルジンシスキ家のアンナ・バグラチオン・グルジンスキ王女との結婚式 が、各国の外交官 を含めて3000人が招待され盛大に執り行われた。旧カヘティ王国のグルジンスキ家と旧カルトリ王国のムフラニ家の王族同士の結婚は、王家の統合を意味し、海外メディア の注目を集めた[ 73] [ 74] [ 75] 。グルジア正教会の総主教イリア2世 は、かねてより立憲君主制 への復帰を求めてきたが、その実現には様々な困難があると指摘されている[ 76] 。
第4代大統領マルグヴェラシヴィリ
2012年 10月の議会 選挙ではロシアとの関係改善を目指す野党の「ジョージアの夢 」が勝利した[ 10] 。野党連合代表で実業家 のビジナ・イヴァニシヴィリ が首相 に指名された。そして、2013年 10月27日 の大統領選では「ジョージアの夢」推薦のギオルギ・マルグヴェラシヴィリ 候補がサーカシビリの親欧米路線を批判し、62パーセントの得票を得て当選を果たした[ 10] 。11月17日の大統領に就任したマルクヴェラシヴィリはロシアとの関係改善を進める一方でヨーロッパ連合(EU)・北大西洋条約機構 (NATO)への加盟を目指しており、ジョージアを巡る情勢は依然流動的である[ 10] 。
アブハジアと南オセチアは、事実上ジョージアより独立しており、2015年 10月現在、ロシア連邦、ベネズエラ 、ニカラグア 、ナウル の4カ国によってそれぞれ、主権国家 「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」として承認されている[ 10] 。
脚注
注釈
出典
参考文献
書籍
雑誌論文等
関連項目