岡田 茉莉子(おかだ まりこ、1933年1月11日[1] - )は、日本の女優・映画プロデューサー。本名:吉田 鞠子(旧姓・田中)。父は戦前の無声映画で活躍した二枚目俳優・岡田時彦[3]。母は宝塚歌劇団卒業生で男役を務めた田鶴園子[3]。夫は映画監督の吉田喜重。
1933年、東京市渋谷区代々木に生まれた[4]が、生後間もなく京都に移住[4]。翌1934年、父が結核で死去し[4][1](このため岡田に父の記憶はない[3])、以後母は女手一つで茉莉子を育てることとなる[4]。東京市大森区北千束に住む母の妹で、宝塚スターだった御幸市子のもとで暮らし[4]、青葉幼稚園・赤松小学校に通う[4]。少女時代は病弱なこともあって[4]内向的な性格であった[3]。
1938年、母の田鶴はダンス教師の資格をとり、上海で教えることになった。また、1940年に御幸が東宝映画計画部でプロデューサーをしていた山本紫朗と結婚したため、大阪市宗右衛門町の母の実家(藍問屋であった)に転居[4]。1942年、祖父が死去し、母のいる上海へ渡った[4]。租界の北四川路のアパートに暮らしたが、外国生活になじめなかった[4]。このため1944年、単身帰国して品川区旗の台の御幸の嫁ぎ先に身を寄せ[4]、旗台小学校に通った[4]。小学校6年生の時に静岡市に集団疎開[4]。
1945年、香蘭高等女学校に入学(受験のため叔母宅に戻った3月10日夜に東京大空襲に遭っている[5])。叔父の新潟転勤に従い、新潟市西堀前に転居[5]。新潟市立高等女学校(学制改革後は新潟市立沼垂高等学校。現在の新潟市立万代高等学校)に転校した。新潟市も空襲にさらされ、命令に従い近所の人々と近郊の赤塚村に疎開[5]。移転の2日後、8月15日の玉音放送を聞いた[5]。
高校時代には演劇部に参加[5]。新潟で女学生時代(現在の高校2年生にあたる)の秋[3]、演劇部の友人と映画館でサイレント映画『瀧の白糸』(1933年版)を観て、帰宅後にその映画の話をすると母が泣き出したという。その時初めて、同作の主演俳優である岡田時彦が自分の父であることを知らされる[5][注釈 1]。翌日、今度は自分の父を見るために一人で映画館へ脚を運んだ[5]。高校卒業後、上京して叔母夫婦宅に同居[5]。
1951年、叔父の山本のすすめ[5]もあり、東宝ニューフェイスの第3期として、小泉博らと共に東宝演技研究所に入所した。入所して20日後、成瀬巳喜男の監督映画『舞姫』の準主役に抜擢されて銀幕デビュー[3]。
父親譲りのコケティッシュな美貌と艶のある演技力で瞬く間に頭角を現し、東宝映画の主演スターとなる[3]。以後10年間ほどは月1本のペースで様々な映画に出演し、その中には原節子や高峰三枝子といった、伝説的女優たちとの共演作[注釈 2]もある[3]。
1957年3月にフリーとなり、同年9月に松竹と専属契約する[6]。女性映画を得意とする松竹では数々のメロドラマに主演し、先に東宝から松竹に移籍していた有馬稲子と共に松竹の二枚看板として大活躍した。
1960年には父の盟友であった小津安二郎の監督映画『秋日和』に出演[7][1]。以降1960年代は、小津や木下恵介など当時の日本を代表する名監督たちの作品に複数出演する[3]。
1962年、「岡田茉莉子・映画出演100本記念作品」として自らプロデュースした主演映画『秋津温泉』がヒットし、多くの映画賞も獲得した[1]。会社の意向で助監督に戻されていた吉田喜重を監督に起用した作品であった[6]。『秋津温泉』の成功を機に女優引退も決意していたが、吉田に諫められて翻意[7](後述)。
1963年11月6日、吉田喜重との婚約を発表[7][1]。1964年(昭和39年)6月21日、旧西ドイツのバイエルン州で吉田喜重と海外挙式した[3]。仲人役は映画監督の木下惠介[3]と女優の田中絹代。
1965年、松竹とは2本の本数契約とし、事実上のフリーとなった[6]。1966年、吉田と独立プロ「現代映画社」を創立し、映画『女のみづうみ』を発表した[3]。同年10月、東宝演芸部と年間4本の専属契約を結んで以後は、商業演劇を中心に活躍する。また、吉田監督作品では、先述の『秋津温泉』などを含めた11作品でヒロインを務めた[3]。
映画が斜陽になった1970年代以降も映画出演を続けた[8]。また1973年の映画『戒厳令』では女優としてではなくプロデューサーとして、吉田作品を支えている。40代に入ってからも『人間の証明』(1977年)、『制覇』(1982年)、『序の舞』(1984年)、『マルサの女』(1987年)、『鏡の女たち』(2003年)などで主演や重要な役どころを演じた(詳しくはWikipediaの各記事を参照)。
テレビでは、2時間ドラマ『温泉若おかみの殺人推理』シリーズ(土曜ワイド劇場・テレビ朝日系列)に1996年から2019年までの23年間に渡り[注釈 3]、大女将役を演じた。
2009年、自伝『女優 岡田茉莉子』を上梓[9]。
24歳で松竹へ移籍後、藤原審爾の小説『秋津温泉』の新子役を演じてみたいと思い[注釈 5]、松竹の上役に同作の映画化を提案[3]。すると、「自分でプロデュースするならやってもいい」と告げられ、松竹の若手監督である吉田喜重[注釈 6]に同作の脚本・監督を依頼した[3]。遡ってデビューから間もない頃、女優業に自信が持てずに母に“辞めたい”と言ったことがあり、母から「何事も10年やってみなければ分からないわ」と助言された。この言葉を胸に、岡田は「とにかく10年は頑張ってみよう」との思いで女優業を続けてきたという。
『秋津温泉』が大成功を収めて数々の映画賞を受賞し、この時点で女優生活10年を迎え、本人も栄誉ある賞を受賞したことで女優引退を決意[3]。本作の祝賀パーティー当日、出席した母に「この場を借りて女優を引退しようと思う」と告げて壇上に向かおうとした。ところがこの言葉をたまたま近くで聞いていた吉田からの説得を受け[注釈 7]、一瞬にして翻意した[3]。直後の壇上でのスピーチでは、「命あるかぎり女優を続けます」と発言した[3]。
撮影中に吉田に惹かれ始めていたことから、『秋津温泉』の公開後からプライベートで彼と会うようになり、交際に発展[3]。吉田が1963年の映画『嵐を呼ぶ十八人』を撮り終えた頃、彼からのプロポーズを受けて結婚[3]。新婚旅行では約40日間にわたり、ヨーロッパ各国を巡った。当時はまだ同年4月の海外渡航自由化の直後で、貴重な海外挙式とヨーロッパ旅行となった。帰国後、夫婦で松竹を退社して独立プロ「現代映画社」を立ち上げた[3]。以降女優業を続けながら吉田の映画製作を金銭的にも支え続けた[注釈 8]。
仕事場での“強い女性”のイメージとは違い、結婚生活では控えめな性格である[3]。幼少期から家事を手伝っていたため家事が好きになり、結婚後は家事を仕事の息抜きにすることもあった[3]。吉田とはお互いに「自宅の玄関を入ったら仕事の話は一切しない」と決めて夫婦生活を送っていた[3]。また、2019年頃のコロナ禍になるまで、夫婦で年に一度ヨーロッパ各地に旅行していた[3]。家庭内では岡田はほとんどの場合聞き役を務めていたこともあり、2022年に夫が亡くなるまで夫婦喧嘩をしたことはない[注釈 9]。
夫婦に子供はなかったが、岡田は「二人で製作した11本の映画が私にとっては子供のようなものです」と語っている[3]。吉田の死後、岡田は「私にとって吉田は(仕事上の)父であり、恋人であり、師匠であり、友人であり、そして私を大女優に育ててくれた最高のパートナーでした」と評している[3]。
思ったことははっきりと口にする性格で知られる。若い頃は顔立ちが派手だったこともあり、1950年代前半の作品では奔放で気の強い女の役[注釈 10]ばかりが与えられた[3]。このことから22歳の頃、撮影所長室に一人で訪れて「自分のイメージをガラッと覆す作品に出演させて下さい!」と直談判し、それまでと異なる役柄にも挑戦するようになった[3]。
過去に男尊女卑のしきたりが根強い映画界において、俳優と女優で態度を変えるスタッフに一喝したこともある[注釈 11]。すると、その日を境にその撮影現場では、「姐御!お疲れ様でした!」と撮影所のスタッフ総出で見送られるようになったという[注釈 12]。また、TBSのバラエティ番組『爆報! THE フライデー』(2013年9月27日放送)に出演時、「最近の若い女優さんについてどう思われますか?」という質問に、「あの方たちは女優じゃありません。ただのタレントさんです。」と発言している。
役名は、「MOVIE WALKER」[12]などから。
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