ピエルルイジ・マルティニ(Pierluigi Martini, 1961年4月23日 - )は、イタリア出身のレーシングドライバーで元F1ドライバー。フジテレビの中継における表記は「ピエロルイジ・マルティニ」[1]。
経歴
ジュニア時代
イタリアのフォーミュラ・フィアット・アバルトでチャンピオンを獲得する。
フォーミュラ3
1981年、イタリアンフォーミュラの名門トリヴェラート・レーシングよりイタリアF3選手権にステップアップ。1982年にパヴェーシへ移籍すると3勝を挙げランキング3位に浮上し、1983年にヨーロッパF3選手権で4勝を挙げ、ジョン・ニールセン、エマニュエル・ピロとの争いを制してシリーズチャンピオンを獲得。ヨーロッパF2選手権へのスポット参戦も経験した。この年のヨーロッパF3チャンピオン獲得により、シーズンオフにF1ブラバムのオーナーであるバーニー・エクレストンから声がかかり、プライベートテストにマウロ・バルディ、クリスチャン・ダナー、ロベルト・ゲレーロと共に呼ばれBT52Bをドライブした[2]。翌1984年に向けてディフェンディングチャンピオンでありNo.1ドライバーのネルソン・ピケをサポートするブラバムのNo.2シートに座る候補としてアイルトン・セナやベテランのジョン・ワトソンと並んで報じられるが、ブラバムのメインスポンサーであるイタリア企業パルマラットが最終的にテオ・ファビの起用を希望し[3]、この時のF1レギュラーシート獲得は成らなかった。
フォーミュラ2 / WEC
ヨーロッパF3選手権を主戦場としていた1983年シーズン途中に、おじのジャンカルロ・マルティニ(英語版)の友人であるジャンカルロ・ミナルディ[4]のチーム、ミナルディと契約し、ヨーロッパF2選手権にスポット参戦、デビュー戦で2位表彰台を獲得した。同時期にはWECにもランチア・LC2で参戦し、ベッペ・ガビアーニとのコンビでシルバーストン1000kmを7位入賞、マウロ・バルディとのコンビでブランズ・ハッチ1000kmを7位入賞、イモラ1000kmで9位などの結果を出した。
1984年9月、F1第14戦イタリアGPにて、アイルトン・セナの契約トラブルによる出場停止とジョニー・チェコットの負傷欠場のため、トールマンと契約しF1へスポット参戦したが、予選不通過となり公式記録上のデビューは成らなかった[5]。
フォーミュラ1参戦 (第1期:1985年)
1985年、1カー体勢でF1にステップアップすることとなった「ミナルディ」から、F1レギュラー参戦を果たす。これは当初予定されたアレッサンドロ・ナニーニにスーパーライセンスが認定されなかったことで、前年F1予選に参加しスーパーライセンス所持者となっていたマルティニにチャンスが巡ってきたものだった。しかし、F1では実質ルーキーであり、またミナルディもF1参戦初年度で競争力・信頼性どちらも欠けたマシンとなったM185でのデビューシーズンは、完走3回・最高成績8位(オーストラリアGPで記録・完走8台の最下位)という結果に終わる。
翌1986年、ミナルディは2台体制での参戦となったが、エース格にマールボロのスポンサーを持つアンドレア・デ・チェザリスを起用。もう1台にはFIAよりスーパーライセンスの発給が認められたナニーニの起用が決定し、これによりF1シートを失ったマルティニは国際F3000選手権に参戦カテゴリーを移し、キャリアの再構築を計ることとなった。
国際F3000選手権参戦 (1986年-1988年)
1986年はF3時代も所属したパヴェーシ・レーシングより国際F3000選手権に参戦、チームメイトはルイス・ペレス=サラとなった。マルティニは第5戦イモラで初優勝すると次戦ムジェロも連勝し、イヴァン・カペリ、エマニュエル・ピロとのチャンピオン争いに加わる。しかし最終戦ハラマでピロとカペリを抑えて1位でチェッカーを受けた後、チームのレギュレーション確認ミスにより失格処分を受け9ポイントを失う不運もあり、シリーズランキングは3位となった。
1987年もパヴェーシに残留し、ローラワークスへ移籍したサラに代わってパオロ・バリッラがチームメイトとなった。開幕戦で5位に入賞後チームがマシンセッティングの方向性を誤り、第6戦エンナ・ペルグーサで2位表彰台を得た以外は苦戦続きのシーズンとなった。
1988年にファースト・レーシングへ移籍。ここで競争力をとり戻し、第3戦で3位、第6戦で優勝と、前年加わることが出来なかったランキング上位争いに復帰。シーズン途中にミナルディからF1参戦復帰後もF3000への参戦を継続し、ランキング4位となった。
フォーミュラ1参戦 (第2期:1988年-1995年)
1988年、ミナルディでのレギュラー2年目を迎えていたエイドリアン・カンポスが予選落ちを繰り返し、成績不振により解雇される[6]。その後任としてマルティニは第6戦デトロイトGPよりミナルディのレギュラーシートを得てF1に復帰する。その初戦で完走9台となった決勝レースを6位で完走・入賞し、自身とチームにとって初のF1ポイント獲得を果たした。
1989年はミナルディに残留し開幕からレギュラー参戦、第8戦イギリスGPでは5位に入り、チームメイトのルイス・ペレス=サラも6位に入りチーム初のダブル入賞を果たした。このレースは、入賞しなければチームが予備予選組に回されるという瀬戸際の状態であり、土壇場でのダブル入賞にピットはまるで優勝したかのような騒ぎだったという。シーズン終盤も速さを見せ、第13戦ポルトガルGPではラップリーダーを記録し(最終的には5位)、最終戦のオーストラリアGPでは予選3位を獲得した(決勝でも6位に入賞)。同年は、回数に限ればマルティニのベスト記録となる、計3度の入賞を記録した。
同年の逸話として、戦闘力の低下したロータスで10位前後を走る機会が多かった元ワールドチャンピオンのネルソン・ピケがヤングドライバーについて語る機会があり、「経験の浅い若手が多い中団での戦いも大変だよ。でも、トップ集団にいた時には気付けなかった若い才能を間近に見る機会は増えた。ピエルルイジ・マルティニやジャン・アレジに秘められた新しい力に私が気付いたのは、回りで見ている他の連中(ジャーナリスト)よりも早かったはずだ。それは興味深い出来事だったね。」と名前を挙げ、その才能を評価された[7]。フェラーリからも高評価を受け、将来に関する交渉をしてオプション契約を結んだ(後述)。この年のフェラーリはイタリアの若手とオプション契約を数多く結ぶ手法を取っており、マルティニの他アレックス・カフィ、ニコラ・ラリーニ、ジャンニ・モルビデリともオプション契約を結んでいた。しかし翌1990年秋にフラビオ・ブリアトーレとの間で行われたアレッサンドロ・ナニーニの契約譲渡交渉(のちに破談)や、ジャン・アレジ獲得の際に多額の移籍金が必要となり、それ以前に存在したマルティニらのオプション契約はすべて解消された[8]。
1990年は、開幕戦のアメリカGP予選で一時トップタイムを記録しあわやポールポジションかと思われたが、マクラーレンのゲルハルト・ベルガーに終了間際で逆転されポールポジション獲得を惜しくも逃した。それでも予選2位タイムであり、自身とチームにとって初のフロントローを獲得した(ミナルディのマシンがF1においてフロントローを獲得した唯一の記録)。ただし、この年はピレリタイヤの特性により予選で速さを見せるものの決勝レースでのリタイヤも多く、3年ぶりにノーポイントとなった。
1991年、ミナルディは門外不出と思われていたフェラーリV12エンジンを搭載。サバイバルレースとなった第3戦サンマリノGPでは、キャリア最高位となる4位に入賞。終盤の第13戦ポルトガルGPでも、再度4位でポイントを獲得する[9]。
第15戦日本GPでは、予選でシーズンベストとなる7番グリッドを獲得。チームメイトのジャンニ・モルビデリも8番グリッドにつけ、四強の一角でありこの年1勝も記録していたベネトン勢を、2人揃って上回った。決勝でも、マルティニは終盤まで5位を走行。この年計6ポイントを獲得し、自身最高となるランク11位となり、コンストラクターズ部門でも、ミナルディチーム最高となるランキング7位を記録した[10]。
1992年、スクーデリア・イタリアに移籍。1984年のスポット参戦を除けば、唯一ミナルディ以外のチームから参戦した年となった。チームは同年フェラーリV12エンジンの供給契約を獲得しており、マルティニは2年続けてフェラーリエンジン搭載車に乗ることになった。ダラーラ製のBMS192を駆り前半戦に2度の入賞を見せたが、サスペンション設計及びセッティングに致命的な欠陥を持つマシンだったため、コーナリング性能が劣悪だった[11]。チームメイトのJ.J.レートと共に10位以下を争うことが多く、チームはダラーラとの提携をこの年限りで解消するに至った。翌年のチーム再興に向けてチームオーナーのジュゼッペ・ルッキーニ(英語版)はシャシー製造の依頼先をローラ社へ変更することと、ドライバーもフェラーリ社長のルカ・ディ・モンテゼーモロの後押しもありミケーレ・アルボレートへとオファーを出しており[12]、マルティニはシートは失ってしまう。
1993年開幕時にはレギュラーシートが無いF1浪人となっていたが、スポンサーマネー額の問題でシーズン前半のみの契約だったファブリツィオ・バルバッツァの契約期間が満了となり、その後任としてミナルディに復帰。ハンガリーGPでは予選7位を記録。チームメイトのクリスチャン・フィッティパルディと互角の速さを見せ、翌年のレギュラーシート契約を結ぶ。
1994年はミナルディとスクーデリア・イタリアが経営合併しての参戦となり、チームメイトはミケーレ・アルボレートとなった。シーズン序盤からアルボレートを予選で破る好走を見せ、前半戦に2度の入賞を記録。アルボレートの最高位が6位、1ポイント獲得だったのに対し、マルティニは最高位5位を2度記録する4ポイントを獲得し、チームを牽引した[13]。
1995年もミナルディに残留、チームメイトは元F3000チャンピオンのルカ・バドエルとのコンビとなった。同年のマシンM195はコンサバティブな手堅い設計だったが、エンジンが非力なフォード・ED V8搭載だったことでストレートでの速さを欠いていた中で、最高位が8位だったバドエルを上回る7位完走を2回記録し着実に結果を残した。しかし、ミナルディは鉄鋼業により資金力を持っていたスクーデリア・イタリアとの提携解消により運営資金が枯渇しており、第9戦ドイツGP(英語版)への参戦を最後にマルティニとの契約を打ち切り、新たなスポンサー資金を持ち込んだペドロ・ラミーと契約。シートを失った。
以後もグランプリ復帰を目指し、1996年に向けてミナルディとの間でレギュラーシート交渉は継続され、ドライバー候補にもなっていたが、チームはドライバーの実績よりもスポンサー資金の多さを優先させる状況だったため、ラミーのほかタルソ・マルケス、井上隆智穂と交渉。そこにマールボロたばこからの推薦を受けるバドエルと新人ジャンカルロ・フィジケラもシート争いに加わると、マルティニのシート獲得は断念され、F1参戦機会は以後訪れなかった[14]。
スポーツカーレース
その後はFIA GT選手権やアメリカ・ル・マン・シリーズ(ALMS)に参戦。また、1999年のル・マン24時間レースで総合優勝を果たした。
2000年のセブリング12時間レースにローラ・B2K/10で参戦後、ドライバーとしての参戦を休止。
2006年のグランプリ・マスターズにチーム・グローバルのレイナード・02iで参戦したのが最後のレースとなっている。
ミスター・ミナルディ
ミナルディとの強い絆を示す出来事として、1989年中盤からの好成績によりマルティニの能力はF1パドックで広く認知されたが[15]、1990年シーズン中の7月、フェラーリのナイジェル・マンセルがイギリスGPで引退を発表(後に撤回)したあと、マルティニはジャン・アレジ、アレッサンドロ・ナニーニの両名とも獲得できなかった場合に、というフェラーリから見て保険の条件ではあったが、1991年にアラン・プロストのNo.2としてフェラーリに入るという仮契約[16]をしていた(同様の交渉をフェラーリはリカルド・パトレーゼとも行っていた[17])。このため、ミナルディはマルティニのトップチーム入りの可能性にフタをしないよう、翌年の契約更新交渉を保留し待つことにした。結果として9月ポルトガルGP直前に事態が動き、フェラーリとナニーニは破談し、アレジがフェラーリでプロストのパートナーとなる事が発表された。これを受けて約2ヶ月推移を見守っていたミナルディは同じポルトガルGP期間中に改めてマルティニとの契約更新交渉を再開。待っていた期間中にフランスのリジェからも移籍要請オファーが届き、ミナルディより高額な年俸提示がされていたが、それを断ってマルティニはミナルディを選択し、同GP中に1991年契約成立の公式発表がされた。こうしたファミリーとしての絆、チームのF1GP初参戦、初ポイント、初のセッション首位、初フロントロウなど道を切り拓いたことから「ミスター・ミナルディ」と呼ばれるようになった[15]。F1にエントリーした124戦中107戦がミナルディからであり、1992年に在籍したスクーデリア・イタリアも、その2年後にはミナルディと合併している。引退後2020年代もイタリア・イモラで毎年開催される「ヒストリック・ミナルディ・デイ[18]」に姿を見せ、往年のマシンによるデモ走行を担っている。
日本においても、フジテレビのF1実況を担当した古舘伊知郎が「ミスター・ミナルディ」を使用したが、このほかにもマルティニの小柄でカールした髪型、チームにおける立場から「プチ・プロスト」とも呼んだ。
エピソード
- F1の決勝出走した119レースでの最高位は4位(2回)で、一度も表彰台(3位以内)には立てなかった。これは2014年ドイツグランプリでエイドリアン・スーティルに更新されるまで、一度も表彰台に登壇したことのないドライバーの最多出走記録であった。
- 陽気な性格で、多くの友人を持つ。
- 1990年日本グランプリのとき、自動車で行こうというチーム・マネージャー佐々木正に対して「F1には弱者の席は用意されていない」と主張し、一人で近鉄電車で鈴鹿サーキットまで行った。
- 1994年開幕前のムジェロ合同テストにミナルディが参加した際、マシンのテストドライブだけでなくマシンを輸送するトランスポーターの運転手も担当しファクトリーとサーキットを往復していた。
- プロフィール上では身長は165cmという事であったが、実際には160cmにも満たないという表記もあった。
- 1991年に結婚している。
- 1978年イタリアグランプリの事故により亡くなったロニー・ピーターソンを尊敬し、自身のヘルメットの黄色いカラーリングはピーターソンのヘルメットのカラーリングから採った。ピーターソンを敬愛して自身のヘルメットカラーにその思いを投影していたのはミケーレ・アルボレートと共通しており、この2人は1994年にミナルディでチームメイトとしてコンビを組むというめぐり合わせにもなった。
- 引退後は投資家として成功している。
- ティレル・P34の熱烈なファンであり、自身の憧れであるロニー・ピーターソンが使用していたシャシーナンバー「P34/2」と「P34/5」の2台を所有している。また、サーキットイベントなどで行われるデモンストレーション・ランのドライバーを、自ら務めることもある[19][20]。
レース戦績
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
国際F3000選手権
- ‡ : ハーフポイント。レース周回数が75%未満で中断終了したため、得点が半分となる。
- 1986最終戦ハラマでは1位チェッカーを受けたレース後、マシンレギュレーション違反により失格処分となった。
F1
(key)
ル・マン24時間レース
脚注
- ^ 中継内でのテロップでは空白を入れて「ピエロ ルイジ マルティニ」表記だった他、スターティンググリッド紹介時のテロップでの略称表記は「P-L・マルティニ」であった。
- ^ SENNA TESTED FOR BRABHAM-BMW GrandPrix247 2019年3月3日
- ^ SUTTON's DIARY No.2未定のブラバムの事情 オートスポーツ No.394 23頁 三栄書房 1984年5月1日発行
- ^ Rainer Nyberg, Mattijs Diepraam (2001年). “Minardi's F1 debut was with a Ferrari!” (英語). 2009年12月26日閲覧。
- ^ F1公式記録では決勝レースへの出走が公式デビュー扱いとなる。
- ^ カンポスの新しい人生 グランプリ・エクスプレス '88カナダGP号 28頁 1988年7月2日発行
- ^ ネルソン・ピケ さらなる頂点を見つめて グランプリ・エクスプレス '90フランスGP号 9-11頁 1990年7月28日発行
- ^ GPX1990年ポルトガルGP号 30頁 1990年10月13日発行
- ^ このグランプリでは、3位を走っていたのが本家フェラーリのジャン・アレジであり、そのすぐ背後まで追い詰めるシーンも見られた。
- ^ ただしこの年の高額なフェラーリエンジンの使用料は、後々までミナルディを圧迫することとなる
- ^ スクーデリアイタリア F1コンストラクターズ・スタイルブック 74-79頁 ソニーマガジンズ 1992年10月25日発行
- ^ ついに消えゆくF1界最後のプロフェッショナル ミケーレ・アルボレートインタビュー F1グランプリ特集 vol.069 72-77頁 1995年3月16日発行
- ^ Minardi M194 チーム合併も活動継続以上の効果はなかったか 完全保存版・AS+F 1994F1総集編 84-85頁 三栄書房 1994年12月14日発行
- ^ '96エントリーリスト発表 参戦チームは11に F1グランプリ特集 vol.79 16-17頁 ソニー・マガジンズ 1996年1月16日
- ^ a b マルティニインタビュー「1991年は準備万端・卵の中からフェラーリ」 グランプリ・エクスプレス サンマリノGP号 10-11頁 1990年6月2日発行
- ^ フェラーリが一転、アレジー獲得に動いた金は15億円超 グランプリ・エクスプレス ポルトガルGP号 30頁 1990年10月13日発行
- ^ パトレーゼのフェラーリ入りはあるのか グランプリ・エクスプレス ベルギーGP号 28頁 1990年9月16日発行
- ^ イモラで開催された「ヒストリック・ミナルディ・デイ」にイタリアン・エンスージアストの熱気を見た GENROQ 2023年10月14日
- ^ 『サンエイムック GP Car Story vol.26 ティレルP34・フォード』 (三栄書房)86 - 95頁。
- ^ F1ドライバーになり、P34を所有。マルティニは”夢”を2度叶えた! en:Motorsport.com
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