森雞二
森 雞二(もり けいじ、1946年4月6日 - )は、将棋棋士。棋士番号100。高知県中村市(現:四万十市)出身。大友昇門下。棋聖、王位のタイトルを獲得。竜王戦1組通算5期。名人戦A級通算10期。2017年に引退。元大相撲幕内力士玉海力は甥[1]。 棋歴大阪に幼少期を過ごし、父親の死後、中学2年で母親と上京[2]。 晩学で知られる。将棋を覚えたのが16歳の頃と遅かったが、近所の将棋クラブでひたすら将棋を指し続け、僅か半年でアマ三段の実力にまで上達する[3]。森自身は「この期間は夜の11時まで夕食もとらずに将棋を指し続けた」と後年に述懐した。戦前はいざ知らず、森以降の世代で、これほどの「晩学」で名人位挑戦、タイトル保持まで進んだ棋士は他にいない。 奨励会入りを志したのも、短期間で将棋道場の中では最強となってしまって「もっと強い人と指したい」という思いを抱いたからである。道場の師範である大友昇が森の奨励会受験に際して「絶対にプロになれない」と止めにかかったのに対し、森は「プロになる気なんて全然ない」といってどうにか受験にこぎつけた。4級としての入会試験は2勝4敗で不合格の成績だったが、記録係要員として5級で奨励会入りとなった[3]。 1977年、第30期棋聖戦(1977年度前期)でタイトル初挑戦[4]。 1978年、第36期名人戦で中原誠に挑戦。挑戦に際し、「中原は強くない、負ける人はみんな勝手に転んでいるんだ」、「名人になったら土佐に帰る、指してほしい者は土佐に来ればいい」などと強気な発言をした。第1局の朝には突然剃髪して対局場に登場し、関係者を驚かせた[注 1]。しかも、この名人戦の模様がNHK特集という形で取り上げられていたため、森の坊主姿が関係者だけでなく、日本全国の視聴者にも知れ渡ることとなった[注 2]。ただ、森自身はのちに「相手を驚かそうとしたのではなく、自らの心を引き締めるために剃髪になった」と語っていた。 1982年、第40期棋聖戦(1982年度前期)でタイトル初獲得。タイトル獲得直前に、アマチュアの小池重明との指し込み三番勝負(角落ち、香落ち、平手)で3連敗し、当時の日本将棋連盟に大きな衝撃を及ぼした。この一件に対して、当時の日本将棋連盟の会長大山康晴が森に対し急遽「罰金」を命じた[5]とされていたが、森自身の後年の証言によると、むしろ大山は優しく森を迎え入れ「森君、残念だったねぇ」と声をかけ、森は将棋連盟に申し訳なく思い「対局料の半額を将棋界のために寄附したい」と大山に申し出て、それが受理されたという[6]。 1988年、第29期王位戦に谷川浩司王位の挑戦者として登場した際マスコミに、「身体で覚えた将棋を教えてやる」と発言し谷川を挑発。下馬評では当時名人だった谷川が有利との見方が大勢だったが、3-3で迎えた第七局、十八番のひねり飛車で谷川を破り、王位を獲得した。次期谷川がリターンマッチを挑む際「あれだけやられたのにまだ懲りないのですか」と再度挑発し話題となった。番勝負は1勝4敗で森の防衛失敗となった。 久々のタイトル戦登場となった1995年の第43期王座戦では羽生善治に挑戦したが、優勢な将棋を終盤で逆転負けする展開が続き、3連敗で敗退した。その際に、「魔術師が逆に魔術(羽生マジック)にやられた」とのコメントを残した。なお、この第43期王座戦での森雞二のタイトル挑戦が、昭和20年代以前生まれの棋士による最後のタイトル戦登場となった。 2006年3月、満59歳11か月にして順位戦B級1組に昇級。年長での順位戦昇級として大きな話題を集めたが、12戦全敗の成績で1期限りでB級2組に降級となった。 2017年3月2日、第75期順位戦C級2組最終戦で島本亮に敗れて3勝7敗に終わり、累積降級点が3つとなり順位戦陥落が決定。この時点で60歳の定年年限を上回る70歳であったため、規定により同2017年度の最終対局を以って引退することが確定した。残る棋戦は第30期竜王戦6組昇級者決定戦のみであったが、同2017年5月10日に金沢孝史との対局に敗れたのを最後に引退となった[7]。 棋風
人物
弟子女流棋士
(2024年4月1日現在)
昇段履歴
主な成績通算成績
タイトル獲得
一般棋戦優勝
将棋大賞
在籍クラス→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
その他表彰
日本将棋連盟役員主な著書
関連項目脚注注釈出典
外部リンク
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