大阪市営電気鉄道(おおさかしえいでんきてつどう)、略称大阪市電(おおさかしでん)は、1903年から1969年にかけて大阪市が経営していた路面電車である。大阪市交通局が事業を行っていた。
1903年に開業した日本で最初の公営による電気鉄道及び狭義の「市電」であった(1895年に日本で最初に電気鉄道が開通した京都市での公営路線の開通は1912年、全面市営化は1918年)。1969年3月31日限りで全廃されたが、当時の政令指定都市で市電全廃を断行したのも大阪市電が最初である。
鶴原定吉が市長だった時代に、1903年(明治36年)、まず第一期線として花園橋(現在の九条新道交叉点) - 築港桟橋(現在の大阪港/天保山)5.1kmの築港線が開業した。天保山では同年7月、日本で初めて市(大阪市)自身が建設・運営する港として大阪港が開港したばかりで、それへのアクセス路線であった。
続いて1908年(明治41年)の第二期線(東西線・南北線、11.1km)開業で、市街を東西南北に結ぶ骨格が形成された。その後路線は第三期線43.2km、第四期線25.2kmそして期外線と急速に延長され、最盛期は118km弱と、市電では日本有数の路線となった(東京都電に次いで日本第2位)。
1950年代後半からの高度経済成長期に入ると、モータリゼーションやそれによる市電遅延や自動車渋滞の常態化により、乗客が減少した。1960年10月6日に大阪市北部地域を中心に10時間にわたる交通マヒが起こったことで市電廃止論が強まり、大阪市会は1966年3月、市電を全廃し高速鉄道(地下鉄)による新交通体系を確立する旨の決議を行い、市電は1969年(昭和44年)3月31日限りで65年半の歴史を終えた。なお、1953年(昭和28年)からは大阪市営トロリーバスも運行されていたが、こちらも市電廃止後しばらくした1970年(昭和45年)6月15日に全廃された。
軌間は標準軌(1435mm)、電圧は直流600V。標準軌は、大師電気鉄道に次ぐ日本で2番目の採用であった。塗色は、開業当時からは、御料車と同じ「ため色」と言う赤色一色だったが、戦後は淡いピンク色とインディアンレッドの2色塗りとなった。
大阪市は、市街地の交通を市が掌握する、市街交通市営主義(俗に言う市営モンロー主義)を当初から打ち出しており、基本的に市街地(1925年の大阪市域拡張前の旧市域)へ民営鉄道を入れさせなかった。このため他の市電に見られるような民営線の買収は少なく、南海鉄道(旧・大阪馬車鉄道路線の一部区間)と、阪堺電鉄(新阪堺)の2例にとどまっている。
現在、起点だった九条新道交叉点には「大阪市電創業の地」の碑が立つ。なお九条には九条新道からは400mほど離れているものの、2018年4月の民営化により消滅した大阪市交通局の本庁舎(民営化に伴い発足したOsaka Metroの本社となった)が所在するなど、市営交通には由緒深い地である。
開業の翌年には二階付き電車を導入し、市民からは「夕涼み電車」「魚釣り電車」と呼ばれた。これは日本における2階建車両の嚆矢といわれている。
車両の一部が広島電鉄で現在も運行されているほか、Osaka Metro緑木検車場内の市電保存館(開館は不定期)に保存されている。
1903年(明治36年)9月12日に開業した大阪市電築港線の花園橋西詰(後の花園橋) - 築港桟橋(後の大阪港)間5.1km(当時の公式記録では、3マイル15チェーン)の路線を大阪市電の第一期線と呼ぶ。
明治維新によって近代国家へと歩みだした日本の経済の中心地(商都)あった大阪市が市政100年の大計として、万難を排して建設した築港桟橋の完成と、誘致に成功した第5回内国勧業博覧会の開催(1903年〈明治36年〉)が大阪市電開業のきっかけであった。
そして、大阪市電築港線の開業から大阪市電の歴史が始まる訳であるが、この大阪市電築港線の開業は、日本初の公営による電気鉄道の開業でもあった。
※停留場名は、開業時のもの
大阪市電の第二期線は、大阪市街を縦横に走る二大幹線から成るもので、その名も東西線および南北線という路線名となった。なお、第三期線以降に敷設された大阪市街の中心を走る各路線は、堺筋線や靱本町線のように固有名詞で路線名が付けられるようになった。おおむね東西線は長堀川の北岸、南北線は西横堀川のやや西方を通り、交点となる四ツ橋にダイヤモンドクロッシングが設置された。
1908年(明治41年)8月1日に開業した、この大阪市電東西線の九条中通一丁目 - 末吉橋間と大阪市電南北線の本線ともいうべき梅田停車場前(後の大阪駅前) - 恵美須町間に加え、梅田停車場前から梅田新道を経由して大江橋まで南下する支線、大江橋から中之島二丁目(後の渡辺橋)まで西進する支線をあわせた路線が、大阪市電の第二期線である。
※停留場名は、すべて開業時のもの。
大阪市電の第一期線は、築港線のみで、大阪市電の第二期線は東西線と南北線の2路線のみであったのに対して、大阪市電の第三期線は、全13路線、総延長43.2kmに及ぶ巨大プロジェクトで、この中には、1933年(昭和8年)に当時の關一市長(第17代市長關淳一の祖父)によって御堂筋が整備されるまで大阪市の南北を走るメインストリートであった堺筋を走る堺筋線や、戦後、千日前通として整備されることになる大阪市の東西の道を走っていた九条高津線も含まれていた。
この計画は、1905年(明治38年)11月の大阪市議会において提案されたものの、その規模が大きいだけあって影響を受ける大阪市民(当時、大阪市に編入されていなかった地域も含まれる可能性はあるが)も多く、議論はかなり紛糾したが、結局、翌年度への持ち越し議案となったものの、1906年(明治37年)6月の大阪市議会において原案どおり可決された。
第四期線までは、各期毎に一つの纏ったプロジェクトであったのに対し、第四期線以後は、その時の輸送需要に応じて補足していくことになり、それらの路線を一括して期外線という。
そして、この期外線にも、日中戦争に突入する1937年(昭和12年)までに開業した19路線のみを指す狭義の解釈と、戦中・戦後を通じて開業した6路線を含む計25路線の広義の解釈とがあり、ここでいう期外線とは、後者の広義の期外線である。
この期外線の中には、大阪市の施策である「市営モンロー主義」に基づき、南海鉄道上町線の一部区間であった天王寺 - 公園東門間を「強制的に」買収し、大阪市営化した天王寺阿倍野線。市電同士を立体交差させ、玉川三丁目から野田阪神前まで軌道を敷いた野田線。湊町駅前から賑橋までの間を流れていた水路(難波新川)を挟んだ九条高津線の複々線化路線である九条高津連絡線。大阪港から天保桟橋経由湯、三条通四丁目までの単線ループ線であった築港北海岸通線。陸軍第四師団が置かれた大阪城からの陸軍の出動に配慮して軌道を道路の片側へ寄せて建設された城南線。地権者からの土地の提供を受けて都島本通から大阪市域外である守口まで軌道を敷いた都島守口線。戦時体制化の下、軌道事業を管轄する監督官庁である内務省、及び運輸通信省、並びに阪堺電鉄阪堺線が走っていた大阪府道29号大阪臨海線を管理する大阪府からの要請を受けた大阪市が「軌道法第17条」を発動し、阪堺電鉄を強制的に買収し、大阪市営化した阪堺線などが含まれている。
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軌道法に拠る路線のみ。△印は一部区間が別路線として現存、▼印は廃止後ほぼ同区間に別路線が開業。