北九州本線
戸畑線・枝光線
北方線
北九州線(きたきゅうしゅうせん)は、かつて西日本鉄道(西鉄)が福岡県北九州市内で運行していた軌道路線の総称である。
北九州市内の門司区・小倉北区・八幡東区・八幡西区の市街地を東西に貫く北九州本線(きたきゅうしゅうほんせん)、小倉北区と戸畑区の中心部を結ぶ戸畑線(とばたせん)、戸畑区と八幡東区の中心部を結ぶ枝光線(えだみつせん)、小倉北区と小倉南区の北方地区を結ぶ北方線(きたがたせん)の4路線があったが、いずれの路線も2000年(平成12年)までに全廃された。
筑豊電気鉄道線の列車が乗り入れていた北九州本線の黒崎駅前 - 熊西間については同線の全廃と同時に筑豊電気鉄道が第二種鉄道事業者になり、西鉄は鉄道施設を保有する第三種鉄道事業者になったが、この第三種鉄道事業については2015年3月1日に会社分割により筑豊電気鉄道へ承継され、この時点で西鉄北九州線は名実ともに完全に消滅した[1][注 1]。
門司築港が運営していた路線を委託された形で成立し、1936年(昭和11年)に廃止された田ノ浦線(たのうらせん)については、門司築港の項目を参照。
いずれも特記がないものは廃止時のデータである。
当線は元来九州電気軌道の手によって、国際貿易港として栄えていた門司、旧城下町で商業の中心地小倉、八幡製鐵所が立地する工業都市八幡、交通の要衝地折尾など北九州地区の主要都市を連絡する、阪神電気鉄道に範を取った都市間高速電車(インターアーバン)として計画・建設された。
そのような事情から、当線では開業当初より社長である松方幸次郎の縁で阪神電鉄1形に準じた構造の当時としては大型・高速[注 2]のボギー車である1形が使用され、以後も一般に完全な市内電車である福岡市内線よりも大出力・高速運転対応の車両が使用されていた。
最後まで残存した黒崎 - 折尾間を筆頭に専用軌道(新設軌道とも)の区間も多く、停留所間隔も長かったため、運行速度は路面電車としては比較的高速[注 3]であった。
街道沿いの主要都市や集落を極力フォローすることを優先してルートが選定された結果、勾配も多い上に運行区間が非常に長い[注 4]、という厳しい線路条件となったが、運行本数を増やしてフリークエントサービスに努めた結果、その利便性の良さと電気鉄道故の快適性もあって沿線住民から歓迎され、鹿児島本線電化まで長距離列車主体の国鉄鹿児島本線との棲み分けが成立していた。ただし長距離運転ゆえ高速性もある程度考慮されたとはいえ、急行運転は行なわれなかった。
また、専用軌道区間、特に富野 - 砂津間(小倉北区)の曲線区間では架線柱を斜めに建植する、阪神をはじめとする明治期のインターアーバンによく見られた古い様式の架線設備[2]が最後まで残されており、煉瓦造りの橋脚が多く残されていた。
沿線に八幡製鉄所が存在したことから、支線区を含めて高度経済成長期には3交代制の同所の勤務形態に合わせた大量輸送能力が求められ、路面電車としては日本初となる3車体連接車を筆頭とする大型連接車群の大量導入が、1950年代後半以降実施された。その結果、モータリゼーションによる自動車渋滞と、これによる路面電車撤去論が吹き荒れた1970年代初頭の時期にさえ、所轄の小倉北警察署が先導して、円滑な市内交通のために、小倉市街での自動車一方通行の断行[注 5]によって電車運行を最優先させるほどの輸送実績を上げていた。
しかしながら、1970年代前半以降は製鉄所の事業規模の縮小とモータリゼーションの進行で輸送需要が縮小、1980年代以降国鉄(JR九州)が近郊電車の高頻度運転や駅の新設などを開始したことで致命的打撃を受けた。1980年にモノレール建設に用地を提供する形で北方線が廃止、1985年10月に北九州本線の門司 - 砂津間と戸畑線、枝光線の全線が廃止され、1992年10月に北九州本線の併用軌道区間(砂津 - 黒崎駅前間)が全廃となる[3]。黒崎駅前 - 折尾間は並行道路が存在せず代替が困難として最後まで残されたが、2000年に鹿児島本線黒崎 - 折尾間に陣原駅が新設されたのと引き替えに廃止された。かくして、鉄道事業者としての西日本鉄道の創業にかかる当線は事実上全廃となった。
北方線は九州電気軌道による開業ではなく、小倉軌道による馬車鉄道として開業した路線を小倉電気軌道に譲渡して電化し、のちに九州電気軌道による小倉電気軌道の吸収合併を経て西鉄北九州線の一路線となった。軌間は1067mm(狭軌)であり、1435mm(標準軌)の北九州線他路線との直通は不可能で、北方線専用の車両が用いられた。
車両番号は、1号から85号までが通し番号で、その後は新形式ごとに100の位で区分されていた。400形は4が「死」を連想させる忌み数として欠番とされた。
北方線も含めて北九州線オリジナル車両はゴシック体が使用されていたが、連接車のみローマン体を使用していた。66形も含め、福岡市内線廃止時に北九州線に入線した車両については、塗装変更を受けても福岡市内線時代のローマン体はそのままであった。またこのうち300形と500形は車番と車体側面の社紋が切り文字で処理されており、塗装処理が標準だった北九州線において異彩を放っていた。
前面の表記位置は窓下が標準だったが、600形の一部と3両連接車は窓上に表記し(福岡市内線と同じ)、他のボギー車も1976年からの塗装変更の際に順次窓上表記に改められた。
1911年(明治44年)の開業時には黒一色だったが、廃線となるまでの89年の歴史で何度か塗装変更が行われた。600形の一部車両はそのすべての塗装を経験している。
ボギー車は後の改造で、進行方向左側の前面窓が2段上昇窓に、前面中央窓がHゴム支持になるなど印象が変化している(詳細は各形式の項を参照)。
筑豊電気鉄道の乗り入れは北九州線全廃時点まで行われており、それまでに筑豊電気鉄道に在籍していた全形式が乗り入れていた。詳しくは、「筑豊電気鉄道#車両」の項目を参照。
戦後は福岡市内線との間で多くの車両移動が行われている。また、特殊な例として、「わっしょい百万夏まつり」の花電車として、1988年より1992年まで鹿児島市交通局20形電車と長崎電気軌道87形電車を借り入れて運行した。これら2形式も元は西鉄福岡市内線の車両であった。
電車の向きは、戸畑線・枝光線の廃止以前は、線形の関係で運用中に方向転換を生じることもあり[注 7]、ボギー車・連接車とも統一されていなかったが、1985年の戸畑線・枝光線の廃止以降は、ボギー車は折尾方がパンタグラフ側、連接車は砂津方がA車となるよう統一(但しボギー車と連接車のパンタグラフ位置は逆になる)された[注 8]。
他事業者に譲渡された車両として、2019年7月現在、長崎電気軌道で元23(現・168)、筑豊電気鉄道で元1044A(現・2003C)、広島電鉄で元502(現・602)、熊本市交通局で元2014AB(現・5014AB)が現役で使用されている。
電車の向きは、ボギー車は北方方がパンタグラフ側、連接車も北方方がA車であり、パンタグラフ位置は北方方に統一されていた。
太字は西鉄北九州線内他線との接続電停。名称は廃止時点のもの。
天神大牟田線 - 太宰府線 - 甘木線 - 貝塚線
*糟屋線 - *宇美線 - 大川線・上久留米線 - 宮地岳線(西鉄新宮 - 津屋崎間)
大牟田市内線 - 福島線 - 福岡市内線 - 北九州線
雑餉隈線
軌道法に拠る路線のみ。△印は一部区間が別路線として現存、▼印は廃止後ほぼ同区間に別路線が開業。
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