『日本レコード大賞』(にほんレコードたいしょう、英: THE JAPAN RECORD AWARDS)は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞である[注 1]。
略称は「レコ大」(レコたい)。主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はTBSである。TBSテレビ・TBSラジオとその系列局が放送し、番組名は『輝く!日本レコード大賞』(かがやく にほんレコードたいしょう)[注 2]。
概要
1959年に創設され[注 3]、1970年代から1980年代にかけて、テレビにおける歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えた。しかし、レコード会社や事務所の力関係により受賞者が決まっているとの指摘もあり[1][2]、また賞レースに左右されない音楽活動を希望することなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが1990年代から増えるようになった(福山雅治、B'z、Mr.Children、ジャニーズ事務所所属歌手など)。これにより賞の権威は大きく低下した[2]。また、第36回(1994年)には大賞を受賞した歌手がミュージック・ビデオの撮影で渡豪していたため、授賞式に出席しないという異例の事態となった(2020年現在に至るまで、大賞を受賞した歌手が授賞式に出席しなかった唯一の例となっている)。
審査委員
第56回(2014年)を例として掲載する(計23人)
沿革
賞の創設
戦後の日本の音楽界においては、ジャズ、ロカビリーなど米国由来の新しいジャンルが流れ込んできており、若者世代から熱狂的な支持を受けていた。一方で音楽界の主流を占めているのは戦前から続く歌謡曲で、大手のレコード会社が専属の作家に売れ筋の曲を書かせ、発売するという寡占状態が成立していた。結果、若者世代がコンサートを通じて新音楽を、年配世代がレコードを通じて歌謡曲をそれぞれ支持するという世代間の空白が生じていた。
1959年、古賀政男、服部良一らの主導で、レコード会社所属の作曲家による親睦団体『日本作曲家協会』が設立される。古賀、服部らは、世代間のギャップを超えた「新しい日本の歌」を生み出すべく、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指した。範としたのは、前年に米国で始まったグラミー賞であった。
しかし古賀らの動きは音楽界の主流派の非協力という形で抵抗を受ける。共催を申し込んだ社団法人日本蓄音機レコード文化協会(現・日本レコード協会)には断られ、レコード会社はビクター以外の協力は得られなかった。大手新聞社の音楽記者会は事態を警戒して初年度の審査への参加を留保して、テレビ各社はラジオ東京テレビ(現・TBS)のみが賛意を示した(これが縁で、レコード大賞の放送はTBSで行われている)。運営委員長を引き受けた古賀は参加者の不安を抑えるために私財を投げ打ってでも必ず実施すると宣言し、実際に赤字分を個人負担した。
草創期
古賀の自腹によってどうにか開催された第1回レコード大賞で大賞を受賞したのは、ロカビリー系の「黒い花びら」、歌手は本作でデビューの水原弘、作詞は放送作家の永六輔、作曲はジャズ奏者として一世を風靡した中村八大という、主流の歌謡曲とはかけ離れた組み合わせであった。後に作詞家として大成した永は後年、第1回の大賞を権威ある作品ではなく全く無名人の作品にしたことを、「審査員の良識だったと思う」と述懐している。
以降も新ジャンルからの受賞が相次ぎ、受賞曲がヒット、受賞者が売れっ子のヒットメーカーになるにしたがって、日本の音楽界のボーダーレス化が進んでゆく。古賀らが立ち向かったレコード会社の専属作家制度は、1970年ごろには姿を消した。初めの数年は賞自体の知名度が低く[注 5]、放送時間は年末の昼間、会場も神田共立講堂など小規模の会場であった。
黄金期
1969年、第11回から番組の構成を一新する。大晦日の『NHK紅白歌合戦』が始まる前の19時から21時に本選『輝く!日本レコード大賞』を開催・生中継する様になり、カラーでの全国放送を開始。更に会場を帝国劇場に移し、総合司会に元NHKアナウンサーの高橋圭三を起用。格調高く、より緊張感の漂う雰囲気に様変わりした。
三賞(最優秀新人賞・最優秀歌唱賞・大賞)ノミネートの作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら、および既に受賞が決定している歌手(大衆賞受賞者・企画賞受賞者・特別賞受賞者など)は楽屋ではなく、観客と共に客席で進行を見守っていた。三賞ノミネートの歌手がステージに現れる際は、奈落から迫りによって登場し、作品紹介と歌唱が行われた。
オープニング演奏・歌手の伴奏・発表時のファンファーレ・受賞時のBGM・クロージング演奏にはステージ後方に控える総勢72〜73名のオーケストラと合唱団が担当。その内訳は、ビッグバンド(サクソフォーン5名・トランペット4名・トロンボーン4名・ピアノ・エレキベース・ドラムス各1名:番組後半開始前にもうひとつのビッグバンドと交代)とリズム楽器(エレキギター2名・ラテンパーカッション1名)に加え、当時の音楽番組の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ(弦楽合奏団:昭和40年代では第一ヴァイオリン8名・第二ヴァイオリン6名・ヴィオラ4名・チェロ4名の計22名で、これは室内管弦楽団あるいは小規模の交響楽団に匹敵する)とハープの大々的使用、原曲の特徴的なフレーズを強調・装飾的に彩る各種管打楽器(フルート、オーボエ、ホルン、ティンパニ、グロッケンシュピール、チャイムなど)、さらに混声合唱団(ソプラノ6名・アルト6名・テノール6名・バス6名の計24名)[9]を擁する絢爛豪華なサウンドで、クラシックの指揮者のような気品あるタクトさばきが定評の長洲忠彦が永らく指揮者を務めた。番組の前半開始時とビッグバンド交代後の後半開始時には、字幕のみならず司会者高橋圭三による演奏者と指揮者の紹介が必ず盛り込まれており、人間が奏でる生の楽器演奏がいかに重要視されていたかがうかがえる。
審査会場の帝国劇場内「インペリアル・ルーム」と中継を結び、審査の進捗状況がTBSアナウンサー小川哲哉によって随時レポートされた。三賞の発表は高橋圭三が行ったが、特に大賞時は作品名・受賞者名が収まった筆書きの式辞用紙を審査委員長がうやうやしく届け、観客や視聴者・聴取者の期待と緊張をより一層高めた。ドラムロールが響く中、高橋圭三自身も開封する式辞用紙の手が大きく震えるほどであった。
大賞発表直後、客席で見守っていた受賞者(作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら)がステージへの登壇を促され、敬虔なBGMが流れる中、制定委員長・運営委員長から賞状、ブロンズ像(吉田芳夫作)、記念楯(東郷青児作)、副賞の目録が贈呈されるセレモニーが丁寧に行われた。また受賞者の身内や友人が駆けつけ花束を贈る場面も多かった。
音と演出に総力を注ぎ、さらに国民的番組であった紅白歌合戦と時間帯が連続することにより、賞のネームバリューが上昇、視聴率も紅白と肩を並べるほどになる[注 6]。また、本賞の人気に刺激され、『日本歌謡大賞』をはじめ、民放各局で歌謡音楽賞が次々制定されるようになった。
賞の権威は確固たるものとなったが、賞の創設に関わった服部良一は1974年ごろ、権威の上昇と比例して賞の商業的な付加価値が高まり、レコード会社の賞とり合戦の過熱と作品の質よりも人気が先行する傾向が相乗し、さらにこれが審査の不透明さを巡る黒い噂を生じさせていることを懸念していた。
ホイチョイ・プロダクションズのテレビ解説本「OTV」ではこの件に触れており、「(当時の選考委員だった)荻昌弘さんはレコード会社やプロダクションの間できわめて評判が悪い。なぜならあの人はマジでいい曲、巧い歌手に投票してしまうからだ。」と評している[11]。また、同著では第26回(1984年)の新人賞を辞退した菊池桃子を例に出し、乱立する賞レースが負担となりボイコットする歌手が出てきたことを指摘している[12]。
衰退期
1980年代には台頭してきたニューミュージックを中心に音楽の権威に対する考え方の変化が起こり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになり、賞の権威は低下し始める。
第27回(1985年)から会場を日本武道館に移し、授賞式の華やかさを増すことでテコ入れを図るも視聴者離れの歯止めが効かず、第28回(1986年)で視聴率が30%を割り込む。
この頃からノミネート歌手がそれぞれ専属のバンドを起用することが多くなり、オーケストラは演歌系歌手のバックと式典音楽のみを担当するようになってきた。
1989年、紅白歌合戦が放送開始時刻を19時台に引き上げることによって紅白が裏番組になり、視聴者を奪われると同時に歌手のやり繰りにも苦労するようになる。この年を境に視聴率は一気に20%を割り込む。
第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割し、視聴者による電話投票の導入するなど打開策を講じたが、大賞のジャンル分けでレコード会社の認識との食い違いが生じるなど問題が生じ、また電話投票は組織票が問題視され、第35回(1993年)で廃止された[13]。
第36回(1994年)では、大賞を受賞したMr.Childrenが欠席するという異例の事態になる。大賞受賞者が欠席したのはこの1回のみ。この年から会場がTBS放送センターに移る。歌手の伴奏は打ち込みカラオケが主流となる。
第46回(2004年)からは紅白歌合戦や『年忘れにっぽんの歌』の出演でNHKホール(渋谷区)や新宿コマ劇場(新宿区)とを移動する出演者への配慮で、会場を新国立劇場(渋谷区)に移した。
第47回(2005年)には視聴率が当時過去最低の10.0%を記録。常連だったスポンサーの多くが降板し、スポンサー枠自体が縮小されるに至った。第48回(2006年)から裏番組とのバッティングの弊害を解消すべく、開催日を1日繰り上げて12月30日に変更した[14]。同時に放送時間を拡大し、過去の受賞曲で構成される事前番組が放送されるようになった。
年別詳細
1950年代 1959
1960年代 1960 - 1961 - 1962 - 1963 - 1964 - 1965 - 1966 - 1967 - 1968 - 1969
1970年代 1970 - 1971 - 1972 - 1973 - 1974 - 1975 - 1976 - 1977 - 1978 - 1979
1980年代 1980 - 1981 - 1982 - 1983 - 1984 - 1985 - 1986 - 1987 - 1988 - 1989
1990年代 1990 - 1991 - 1992 - 1993 - 1994 - 1995 - 1996 - 1997 - 1998 - 1999
2000年代 2000 - 2001 - 2002 - 2003 - 2004 - 2005 - 2006 - 2007 - 2008 - 2009
2010年代 2010 - 2011 - 2012 - 2013 - 2014 - 2015 - 2016 - 2017 - 2018 - 2019
2020年代 2020 - 2021 - 2022 - 2023 - 2024
各賞
各賞受賞者には東郷青児作の楯が授与される(写真を参照)[注 7]。
いずれも第65回(2023年)時点のもの[15]。
- 対象年度に発売されたすべての邦楽シングルの中で「作曲、編曲、作詩を通じて芸術性、独創性、企画性が顕著な『作品』」「優れた歌唱によって活かされた『作品』」「大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映・代表したと認められた『作品』」の3点に該当する『1作品』に贈る[16]。そのため、賞の授与は、作詞者・作曲者・編曲者・音楽プロデューサー・所属プロダクション・所属レコード会社・および作品の歌唱者が対象になる。審査対象は、「優秀作品賞」に選ばれた『作品』とする。以上のように日本レコード大賞は決して歌手だけが受賞するものではなく、作品全体に贈呈されるものである。
- 対象年度以前に発売された作品でも、「対象年度に顕著な実績を上げた作品」であれば選考対象とされる。
- 過去には副賞としてテレビ番組スポンサーの1社(自動車メーカー)から車が贈られた。
- 過去にはその名が示すとおり、レコード→CDが選考対象だったが、現在は配信楽曲を含めたすべての音楽ソフトが選考対象となっている。
- 歴代最多の大賞受賞アーティストは、4回のEXILEである。
- 大衆の強い支持を得て作品としても芸術性・独創性に優れ、その年度を反映したと認められた『作品』に贈る。「金賞」や「ゴールド・ディスク賞」という名称が使われていた時期もあったが、第50回(2008年)からは「優秀作品賞」に変更された。
- 対象年度内の作品を最も的確に表現し、さらに高めた『歌手』に贈る。審査対象は「金賞」に選ばれた作品の歌手としていたが、第50回(2008年)からは11月下旬から12月上旬にかけて行われる選考委員会で決定されることになった。放送では番組の後半に集中させる。この賞を受賞した歌手は紹介VTRの後に司会者とのやり取りを挟んで楽曲披露がある。歌唱の際には近年の音楽番組では減少傾向にあるオーケストラの生演奏がある。
- 対象年度に於いて社会的に最も世の中を賑わせ注目された『人』『楽曲』『作品』『現象』などに贈る。その他にも年によって特別な賞が設けられる場合がある。
- 特に作詩・作曲・編曲の分野で独創的であると認められた『作品・作者』に贈る。作詞賞を「西条八十賞」、作曲賞を「中山晋平賞」としていた時期もある。
- 対象年度内に於いてデビュー(初めて芸能活動として歌う)し大衆に支持され、将来性を認められた『歌手』に贈る。放送では番組の前半に放送される。この賞を受賞した歌手は紹介VTRと楽曲披露の後に司会者と短いやり取りがある。「最優秀新人賞」は、「新人賞」の中から最も優秀と認められた『歌手』に贈る。
- 独創的な企画意図をもって製作され、それによって成果を上げ大衆音楽に大きな貢献をした『作品』(ミュージックビデオを含む)に贈る。
- 第48回(2006年)から「日本作曲家協会奨励賞」として新設された賞。日本作曲家協会が日本の心を伝え未来のある実力ある『歌手』に期待を込めて贈る賞。第56回(2014年)からは、魅力的な歌唱で大衆の支持を集めている『歌手』も受賞対象になると同時に、現在の賞名に変更。
- 長年に亘り音楽活動・評論活動を展開し、音楽界に大きな貢献をした『故人』に贈る。
過去に存在したか、不定期に設けられている各賞
- 第1回(1959年)から第15回(1973年)まで子供向けの童謡やアニメソングに与えられた賞だった。建前としてはレコード大賞を童謡が受賞した際には「歌謡曲賞」を設けることになっていた[17]が、結局「歌謡曲賞」が設けられることはなかった。ザ・テンプターズの『おかあさん』がヒットした際には、同曲も「童謡賞」の対象にすべきかという議論があったという[18]。第16回(1974年)にヤングアイドル賞の導入により廃止された。そのヤングアイドル賞も1回限りで廃止された。
- 優れた歌唱によって活かされた作品に贈られる賞として定義され、文字通り歌手の歌唱力を評価したものである。作詩賞、作曲賞、編曲賞と共に第1回(1959年)から設けられた賞である。第11回(1969年)からは最優秀歌唱賞が設けられその候補としての位置付けとなり、さらに第19回(1977年)までは大賞の最有力候補としての位置付けでもあった(第17回(1975年)から第19回(1977年)までの3年間は大賞候補10組作品の中から歌唱賞5組作品が選出され、さらにその中から大賞と最優秀歌唱賞が決定された)。第20回(1978年)からは金賞の導入により廃止された。
- 第11回(1969年)から第19回(1977年)まで、大衆に支持された歌手や楽曲に与えられた賞だった。当初は歌唱賞と同様に大賞候補としての位置付けだったが、第17回(1975年)からは大賞候補の枠外の位置付けとなった。第47回(2005年)に1度だけ復活した。
- 1980年に引退した山口百恵のそれまでの実績を称え与えられた(第22回・1980年)。他に都はるみ(第26回・1984年)、中森明菜、瀬川瑛子(ともに第29回・1987年)が受賞している。
- 第23回(1981年)から第25回(1983年)までデビュー2年目に顕著な活躍をした歌手に与えられた。
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で最も芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた作品に贈る。第50回(2008年)からは「優秀アルバム賞」「最優秀アルバム賞」として復活。
- 作曲家・吉田正の偉大な業績を記念し伝統的な日本の歌を充実させ、前進させた作曲家に贈る。
- 歌手・美空ひばりが戦後日本の社会、歌謡史に残した偉大な業績を称え、それを記念するに相応しい豊かな魅力と力量を持った歌手に贈る。初めて制定された第31回(1989年)当初は「美空ひばり賞」だったが、第35回(1993年)に「美空ひばりメモリアル選奨」に変更、第42回(2000年)を以て最後となる。
- 第21回(1979年)に新設された賞。その頃、金賞(現在の「優秀作品賞」)に選ばれていたのは、前年11月下旬 - 当年11月中旬に発売されたレコードに限られていたが、1979年には「夢追い酒」(渥美二郎)、「花街の母」(金田たつえ)、「みちづれ」(牧村三枝子)、「北国の春」(千昌夫)といった、発売されて数年経っている曲が立て続けに大ヒットしたため、この賞が新設された。その年の金賞の対象期間より前に発売され、その年に売上(通算)が100万枚に達したレコードに贈られていた。その後も「ロングセラー賞」は毎年選出されていたが、第25回(1983年)を最後に消滅。
- 長年に亘りレコードやCDを中心とする音楽活動を展開し、日本音楽界に大きな貢献をした『者』に贈る。
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた『作品』に贈られる。
- 「最優秀アルバム賞」は、「優秀アルバム賞」の中から最も優れた『作品』に贈られる。
- 社会的に世の中を賑わせ、注目された『音楽作品(特別映画音楽賞は映画音楽作品)』『人』に贈られる。第56回(2014年)から新設。
歴代大賞受賞曲
- 曲名、歌手名は公式サイトを参照。
- 第32回(1990年)から第34回(1992年)は、 歌謡曲・演歌部門と ポップス・ロック部門に分けられた。
- ^ 元々は1922年に吹き込まれ、1928年に大ヒットした二村定一の楽曲で、1961年にフランク永井がカバーした。
- ^ 初の2回目の大賞受賞。
- ^ 初の二連覇の快挙達成。
- ^ 「矢切の渡し」は元々、ちあきなおみのシングル「酒場川」(1976年発売)のB面として発表された楽曲で、1982年には、ちあきのA面シングルとして発売されている。翌1983年に細川たかしがカバーし、レコード大賞を受賞した。
- ^ 女性ソロとして初の二連覇達成。
- ^ 現在の音源元はUPFRONT WORKS/ライスミュージック。
- ^ 現在の音源元はBeing group。
- ^ 女性ソロとして中森明菜以来2組目の2連覇。
- ^ 女性ソロとして、中森明菜、安室奈美恵以来3組目の連覇。
- ^ 史上初の3連覇達成。
- ^ バンドおよびグループとして初の2回目の受賞。
- ^ グループとして初の2連覇達成。
- ^ 浜崎あゆみ以来2組目の3連覇。
- ^ 初の4回目の受賞。
- ^ 単独アーティストとしては初の平成生まれの受賞者。
- ^ 受賞者としては初めて全員が21世紀生まれ。
歴代最優秀新人賞受賞者
歌手名、曲名は公式サイトを参照。第53回(2011年)以降は歌手のみ受賞。
主な記録
三冠達成者
レコード大賞の主要な賞である大賞、最優秀新人賞(第10回以前は新人賞)、最優秀歌唱賞(第10回以前は歌唱賞)の3賞をすべて獲得している歌手は、2013年現在以下の5人となっている(三冠達成順、新人賞・最優秀新人賞以外は初受賞回を記載)。
大賞複数回獲得者
大賞を複数回獲得している歌手は、以下の11組、そのうち連覇を達成した歌手は8組となっている。
- 4回(3連覇)
- 3回(3連覇)
- 2回(2連覇)
- 2回(連覇無し)
大賞の副賞変遷
- 第12回(1970年)-第13回(1971年)・第15回(1973年):セリカ(トヨタ自動車)
- 第14回(1972年):世界一周旅行
- 第16回(1974年)-第27回(1985年):クラウン(トヨタ自動車)
- 第28回(1986年):ルーチェ(マツダ)
放送
発表の模様はテレビ(TBS系 (JNN) 地上波全国28局ネット)とラジオ(2023年はJRN全国5局ネット)で生中継されている(第42回(2000年)から第47回(2005年)まではTBS系BSデジタル放送のBS-i(現・BS-TBS)でも放送されていた)。
また、第44回(2002年)からCS放送・TBSチャンネルで過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年以降2回以上)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている[注 8]。
TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催会場は渋谷公会堂)が最古である[注 9]。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存し、第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。
第20回(1978年)からTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。
TBSラジオでは、テレビがCMや過去の受賞作のVTRが流れている間はTBSラジオの放送開始時間までに披露された楽曲をディレイ放送したり、ラジオ独自のインタビュー音声を流している。
放送データ
「日本レコード大賞」各回のテレビ放送概要
回
|
年
|
日
|
司会者
|
会場
|
平均視聴率
|
男性
|
女性
|
補助
|
1 |
1959年 |
12月27日 |
鶴田全夫 |
不在 |
不在 |
文京公会堂 |
記録なし
|
2 |
1960年 |
12月30日 |
芥川隆行 |
神田共立講堂
|
3 |
1961年 |
12月28日
|
4 |
1962年 |
12月27日 |
日比谷公会堂 |
10.8%
|
5 |
1963年 |
20.7%
|
6 |
1964年 |
12月26日 |
14.6%
|
7 |
1965年 |
12月25日 |
三木鮎郎 |
神田共立講堂 |
14.2%
|
8 |
1966年 |
12月24日 |
日比谷公会堂 |
13.5%
|
9 |
1967年 |
12月16日 |
渋谷公会堂 |
12.5%
|
10 |
1968年 |
12月21日 |
10.3%
|
11 |
1969年 |
12月31日 |
高橋圭三 |
(浅丘ルリ子) |
帝国劇場 |
30.9%
|
12 |
1970年 |
(佐良直美) |
(堺正章、加藤茶) |
36.7%
|
13 |
1971年 |
山本陽子 |
(沢田雅美) |
36.3%
|
14 |
1972年 |
森光子 |
46.5%
|
15 |
1973年 |
玉置宏 |
44.1%
|
16 |
1974年 |
小川哲哉 |
45.7%
|
17 |
1975年 |
43.0%
|
18 |
1976年 |
不在 |
41.9%
|
19 |
1977年 |
高橋圭三 久米宏 |
黒柳徹子 |
(小島一慶) |
50.8%
|
20 |
1978年 |
不在 |
42.9%
|
21 |
1979年 |
高橋圭三 |
檀ふみ |
43.3%
|
22 |
1980年 |
高橋圭三 渡辺謙太郎 |
中田喜子 |
34.3%
|
23 |
1981年 |
竹下景子 |
35.3%
|
24 |
1982年 |
高橋圭三、児玉清 |
(松宮一彦) |
31.3%
|
25 |
1983年 |
高橋圭三 |
松宮一彦 |
32.7%
|
26 |
1984年 |
森本毅郎 |
不在 |
30.4%
|
27 |
1985年 |
倍賞美津子 |
日本武道館 |
31.4%
|
28 |
1986年 |
竹下景子 |
29.8%
|
29 |
1987年 |
関口宏 |
三雲孝江 |
29.4%
|
30 |
1988年 |
21.7%
|
31 |
1989年 |
板東英二 |
楠田枝里子 |
14.0%
|
32 |
1990年 |
和田アキ子 |
12.5%
|
33 |
1991年 |
布施明、石田純一 |
黒柳徹子 |
山本文郎 |
14.7%
|
34 |
1992年 |
神田正輝 |
15.1%
|
35 |
1993年 |
宮本亜門 |
牧瀬里穂 |
13.3%
|
36 |
1994年 |
TBS放送センター |
15.3%
|
37 |
1995年 |
西田敏行、中山秀征 |
渡辺真理 |
不在 |
17.2%
|
38 |
1996年 |
堺正章 |
飯島直子 |
雨宮塔子 |
16.6%
|
39 |
1997年 |
草野満代 |
16.5%
|
40 |
1998年 |
江角マキコ |
18.5%
|
41 |
1999年 |
黒木瞳 |
進藤晶子 |
14.1%
|
42 |
2000年 |
14.0%
|
43 |
2001年 |
米倉涼子 |
安住紳一郎 |
小倉弘子 |
14.0%
|
44 |
2002年 |
菊川怜 |
13.3%
|
45 |
2003年 |
不在 |
12.7%
|
46 |
2004年 |
伊東美咲 |
小林麻耶 |
新国立劇場中劇場 |
10.4%
|
47 |
2005年 |
綾瀬はるか |
10.0%
|
48 |
2006年 |
12月30日 |
蛯原友里 押切もえ |
17.0%
|
49 |
2007年 |
16.8%
|
50 |
2008年 |
上戸彩、松下奈緒 |
16.9%
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51 |
2009年 |
藤原紀香 |
枡田絵理奈 加藤シルビア |
13.5%
|
52 |
2010年 |
15.0%
|
53 |
2011年 |
14.9%
|
54 |
2012年 |
安住紳一郎 |
新垣結衣 |
枡田絵理奈 |
吉田明世[19] |
16.6%
|
55 |
2013年 |
上戸彩 |
17.6%
|
56 |
2014年 |
仲間由紀恵 |
15.6%
|
57 |
2015年 |
江藤愛 |
13.0%
|
58 |
2016年 |
天海祐希 |
宇内梨沙 |
14.5%
|
59 |
2017年 |
古谷有美 |
14.4%
|
60 |
2018年 |
土屋太鳳 |
16.7%
|
61 |
2019年 |
江藤愛 |
14.0%
|
62 |
2020年 |
吉岡里帆 |
16.1%
|
63 |
2021年 |
12.0%
|
64 |
2022年 |
有村架純 |
10.7%
|
65 |
2023年 |
川口春奈
|
9.6%
|
- 視聴率はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。赤数字は最高視聴率で、青数字は最低視聴率。
- 第1回 - 第3回の視聴率はビデオリサーチ設立前につき記録なし。
- 第4回 - 第44回の視聴率の出典は『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』134-135頁。
- 通常アナウンサーは同授賞式では進行役となる事が一般だが第29・30回(1987年・1988年)の三雲については進行役という扱いでなく男性司会と同等の位置付けがなされていたため、ここでは女性司会の欄に記載する事とする。
- 19:00を境とした2部制で放送した年は、第2部の数値を示してある。
- ラジオ中継実況
- ? - 第40回(1998年):松宮一彦(TBSアナウンサー→フリーアナウンサー)[注 10]
- 第41回 - 第49回(1999年 - 2007年):小島一慶(元TBSアナウンサー)
- 第50回 - 第53回(2008年 - 2011年):向井政生(TBSアナウンサー)
- 第51回(2009年):新井麻希(当時TBSアナウンサー)
- 第54回 - 第63回 (2012年 - 2021年):駒田健吾(TBSアナウンサー)[20]
- 第64回 - (2022年 - ):赤荻歩(TBSアナウンサー)[21]
- 出演者補足
- 司会者は第11回(1969年)から第25回(1983年)まで高橋が長く務めていたがその後は幾度か司会者が変更され、第38回(1996年)から第53回(2011年)までは堺が務めていた。アシスタントにはその年の人気女優やTBSのアナウンサーなどが選ばれている。また、最近は番組の途中で司会者全員衣装を変えるのが恒例となっている。審査会場や他のライブ会場からのリポート担当、曲ナレーションのみのために声だけ出演をするアナウンサーなども回によっては存在する。
- ナレーションは第41回(1999年)から第51回(2009年)までケイ・グラントが担当しているが、第48回(2006年)のみ大塚明夫が担当した。第52回(2010年)から第54回(2012年)までは古野顕一が担当し、第55回(2013年)からはジョン・カビラが担当。
- 第11回(1969年)の浅丘と第12回(1970年)の佐良直美は厳密には「特別ゲスト」扱いとしての出演だが、実質的には高橋のアシスタントとしての役割を務めた。また第12回(1970年)の堺・加藤、第13・14回(1971・1972年)の沢田雅美、第24回(1982年)の松宮一彦アナ、第19回(1977年)の小島については観客へのインタビュー役を担当するための司会補佐として出演した。
- 第19回(1977年)より高橋は授賞式の進行一切を統括する「総合司会」として別のMC席から式全般の進行統括、最優秀歌唱賞・大賞・最優秀新人賞等の受賞者発表等を行い、高橋の下に更に「司会」としてもう1人の男性司会者と女性司会がコンビとなって歌手へのインタビュー、各部門賞受賞者発表等を行う形式になっていた。なお、それ以外の年(第21・25回(1979・1983年))もMC席には高橋1人が常在し、女性司会はインタビューなどのある際にその都度登場するパターンで進行され、厳密には一般的な男女ペア形式での司会とは異なる形となっていた。
テレビでのネット局
JNN系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが、以前はクロスネット局[注 11]が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。
静岡放送では、放送日が金曜日だった第13回(1971年)に番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした。また南海放送(愛媛県。日本テレビ系)では、木曜日にTBS系番組を同時ネットしていた年(1970年は20:00からの飛び乗りで、1981年は全編フルネットで放送)に限り同番組をネットしていた[注 12]。
近畿広域圏では1974年の第16回までは朝日放送(現:朝日放送テレビ)にてネット。翌年(1975年)の第17回から毎日放送でのネットになる。
福島県では、1971年の第13回から1982年の第24回まで福島テレビ(当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局[注 11]。現在はフジテレビ系)にネットされていたが、1983年の第25回からはTBS系新局として開局したテレビユー福島でのネットになる。
1978年・1980年はTV中継の同時ネット局のみロールスーパー方式(ネット局は略称・ロゴ出し)で紹介した。
2001-2005年の5年間は系列BSデジタル放送・BS-i(現・BS-TBS)でもサイマル放送が行われていた。
ラジオでのネット局
1978年(第20回)当時は20局以上ネットしていたが、2015年(第57回)は8局(うち、4局は途中飛び乗り)、さらに2023年(第65回)は6局(TBSと琉球放送、CBCラジオがフルネット、北海道放送・北陸放送・大分放送が19:00から途中飛び乗り)に留まっている。
JNN(テレビ)とJRN(ラジオ)との兼営局の一部が、テレビとラジオで同時放送している。
青森放送(RAB)ではかつて『JRNナイター』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。
福井県ではテレビにJNN系列局が存在せず、JRN系列である福井放送がラジオだけで2022年まで放送。しかし2023年はネットを見送り、通常の土曜日の編成を行う。
西日本放送(RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。
毎日放送(MBS)では1975年のネットチェンジから2005年まではテレビとラジオで同時放送されていたが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されていない。
LP・CD
- '67年度日本レコード大賞受賞 栄光のグランプリ(1968年、キングレコード SKK-411)
- 1967年の第9回各部門賞受賞作品の中から、キングレコード関連の作品を中心に収録。
- 〜輝く日本レコード大賞15周年記念〜日本レコード大賞グランプリ・ヒット曲集 “黒い花びら”から“喝采”まで(1973年 AMON・東京レコード/ビクター音楽産業 CD4A-5001)
- 第1回〜第14回の大賞受賞曲を、猪俣猛とアモンオールスターズの演奏、前田憲男の編曲によりインストゥルメンタルとしてカバー。
- J-GRAND PRIX Vol.1〜レコード大賞・歌謡大賞ヒストリー(1998年、ダブリューイーエー・ジャパン、WPC7-8581)
- J-GRAND PRIX Vol.2〜レコード大賞・歌謡大賞ヒストリー(1998年、ダブリューイーエー・ジャパン、WPC7-8582)
- 日本レコード大賞・日本歌謡大賞の各部門賞の受賞作品のうち、渡辺プロダクション所属の歌手の楽曲・渡辺音楽出版が原盤制作を手掛けた楽曲を収録。
- 日本レコード大賞 50th Anniversary Vol.I (1959年-1984年) (2009年、ハーバーレコード NQCL-4007〜8)
- 第1回〜第26回の大賞受賞曲をオリジナル音源で収録[22][23]。
問題点
ノミネートについて
第6回では、この年(1964年)に流行した坂本九の「幸せなら手をたたこう」が、原曲がアメリカ民謡であることから選考の対象外となった[24]。
第21回では、「第10回日本歌謡大賞」や「第8回FNS歌謡祭」でグランプリを受賞して社会現象になった西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、外国人の作曲作品のカバーであったため審査対象から外され、「勇気があれば」でのノミネートとなった。
第24回では、「第13回日本歌謡大賞」の大賞や「第8回日本テレビ音楽祭」のグランプリを受賞するなど、大ヒットした岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」[注 13]は、作曲者が木森敏之単独から木森とジョン・スコットの共作へと急遽変更されたため、外国人作家が製作した楽曲を対象外とする当時の日本レコード大賞の基準に該当しノミネートを見送られた。
第60回では、DA PUMP の「U.S.A.」が2018年最大のヒット曲として大賞受賞が本命視されていた[25]が、外国人の作曲作品のカバーであったため受賞を逃し、ノミネートの意義について批判が殺到した。
第65回では、YOASOBIの「アイドル」が10月時点でストリーミング累積再生数が5億回を突破(オリコン史上最速)し、海外では米ビルボードのグローバルチャート「Global 200」(7月1日付)で日本アーティスト歴代最高となる7位にランクイン、日本国内の総合音楽チャート「Billboard Japan Hot 100」では、歴代最多となる21週連続1位を獲得[26]するなどしたにもかかわらず、大賞候補から除外され物議を醸した[27]。
やらせ報道
やらせ疑惑
2015年に審査委員を務める産経新聞は、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した[2]。また、大賞常任実行委員で音楽評論家の富澤一誠はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた[2]。
やらせ暴露
2015年、レンタルチェーン店を展開するTSUTAYAが自社のニュースサイトにて、“特定のレコード会社や芸能事務所が審査委員に対して何らかの働きかけを行っている”とする音楽関係者の声を報じた[1]。この種の癒着は1970年代からあったとされるものの、審査委員の大半を新聞社とテレビ局の社員が占めるため、「報じない、報じられない」といった状態が続いてきたと、音楽評論家の麻生香太郎は指摘している[28]。
『週刊文春』2016年11月3日号においては、前年に大賞を受賞した三代目J Soul Brothersが買収によるものであったとの記事が掲載され、「年末のプロモーション業務委託書として」と書かれた当時の消費税込み1億800万円の請求書が公開された。このことについての三代目J Soul Brothersサイドからの反応は無く、事実は不明となっている[29]。
2017年、『週刊文春』でレコード大賞の最高責任者である制定委員長を務めた作曲家の叶弦大が、「大手芸能事務所バーニングプロダクション社長の周防郁雄がレコード大賞を私物化していること」を同誌に暴露し、やらせを認めるような発言をした。その中で、叶と周防が会食をした際に、周防が「叶さん、この業界はちょっと悪いくらいじゃないといけない」「レコード大賞は、新聞社13人の過半数、つまり7人の記者を押さえておけば、自分の獲らせたい歌手に決めることができるんだよ」と叶に対して吹聴したことも述べている。また過去に週刊新潮も、レコード大賞の審査委員である大手スポーツ紙記者・新聞記者・JNN系列局員等に対してバーニングが高価な品物や商品券を贈るなどの贈賄行為を働いており、中には受賞させたいタレントの曲や映像が入った高価なiPodが送られてきたり、銀座や六本木のクラブでの接待を受けた者までいると報じている[30]。
2019年7月にジャニーズ事務所の創業者だったジャニー喜多川の訃報が報じられた際、多くのマスコミはジャニーの美談ばかりを紹介していたのに対し、音楽プロデューサーの福田裕彦は『アサヒ芸能』の取材に対して「もう25年以上前、既に『××にレコ大よこさなければ今後お前の局にはうちのタレントは一切出さない』の一言でレコ大放送の数日前に局の決定事項をひっくり返せた人です。綺麗事で生きていた人ではない。」とレコード大賞においてジャニーも圧力をかけていたことを暴露している[31][32]。
その他
年少アーティストへの対応
近年では大賞の発表が22時前に行われるため、13歳未満のアーティストは労働基準法および児童福祉法の都合上、20時までに会場から退出しなければならない(まれに大賞発表が23時前後の年もあり、18歳未満の者は22時までに退出することになる)。例として2019年に史上最年少で大賞を受賞したFoorinはメンバー全員が小中学生であり(当時の平均年齢は11.2歳)、発表時に不在だったため、代理の者が表彰を受けることとなった。さらに2006年から2009年までは最優秀新人賞の発表が21時を過ぎたことから(2008年は23時前に発表が行われた)、2007年の℃-uteも同じ理由で、プロデューサーのつんくが代理として表彰を受けている。
TBSでは、Xアカウントをレコード大賞の他、『音楽の日』や『日本有線大賞』と共有していたが、2017年に日本有線大賞が終了し、さらに2023年に『音楽の日』が新たにアカウントを取得したため、以降はレコード大賞単独のアカウントとなっている。
脚注
注釈
- ^ ここでいう「レコード」とは「記録」という意味ではなく20世紀中盤から後半にかけて使われた音楽記録メディアのことである。
- ^ 時期は不明だが、当初は「!」がなかった。民放では数少ないテレビ・ラジオの同時放送番組でもある。
- ^ この年には、TBSテレビをキー局とするニュースネットワーク「JNN」も発足した。
- ^ 基本的には5社連盟構成局のみだが、年によっては5社連盟に次いで有力な立場にある東北放送・中国放送も加わる。
- ^ 水原弘は第1回のレコード大賞を受賞した際に「レコード大賞って何だ?」と言ったというエピソードがある[8]。また、美空ひばりが出演しても客席がガラガラだった事もあったという。
- ^ テレビ中継の最高視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)は第19回(1977年)の50.8%[10]。
- ^ かつてはTBS賞として新制作協会員の吉田芳夫作のブロンズ像が贈られていた
- ^ TBSに現存している第10回(1968年)以降の放送分。CMはカットされるが、年によってはその部分には地上波で今年放送される回の5 - 15秒の番宣が挿入されている場合もある。過去には編成の関係で年明けの1月に放送されたこともある。
- ^ 同年には開始10周年を記念した特別番組「10周年記念音楽会」(1968年12月28日放送。開催会場はサンケイホール)が放映され、それまでの各賞受賞者達が勢揃いした。この特番は鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。この為、第9回以前の受賞曲の紹介では、この時の映像が使用されることが多い。
- ^ 松宮一彦は第39回(1997年)まではTBSアナウンサー。第40回(1998年)はこの年の6月にTBSを退社しフリーアナウンサーとしての担当。第41回(1999年)放送の直前に自殺。TBS時代の上司だった小島一慶が引き継ぐ形となった。
- ^ a b JNN系列局は排他協定の規則により、現在はクロスネットが禁止となっている。
- ^ 愛媛県では、1992年の第33回から、この年にTBS系新局として開局したあいテレビでネットされている。
- ^ 1982年の日本テレビ『火曜サスペンス劇場』テーマ曲。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
日本レコード大賞 |
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第61回 - (2019年 - ) | |
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注釈
第1回から第10回までは制定なし。第12回 は発表なし。第32回から第34回までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表 (ただし第32回に限り演歌・歌謡曲、ポップス、ロックの3部門に分けて発表した)。
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注釈
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