渡邉光男(1977年 - 1983年)
麻丘 めぐみ(あさおか めぐみ、1955年〈昭和30年〉10月11日 - )は、日本の女優、歌手、演出家。本名は藤井 佳代子(一時、田島 佳代子が本名だった時代もある)[2]。大分県出身で、大阪府育ち[3]。1970年代を代表するアイドルの一人で、清楚なルックスと優しい歌声で一時代を築いた[4]。
2020年代現在は女優の活動を中心に置きながら歌手活動も続けている。キリスト教 カトリック教会の信徒である[5]。シアタードリームズカンパニー所属。芸文株式会社と業務提携をしている。堀越高等学校→明治大学付属中野高校定時制課程卒業。
大分県速見郡日出町生まれ、生後半年から大阪市住吉区で育った[3]。父方の先祖は日出藩の家老で、大阪に移るまでは祖父母とともに日出城址内の武家屋敷に住んでいた[6]。「私の実家は、日出城の二の丸です」と麻丘はインタビューで語っている[6]。子供の頃から活発だった4歳上の姉に付き添う形で劇団に入り[7]、1歳8か月でCMに出演[3]、3歳で子役として芸能界デビューする。初舞台は梅田コマ劇場で、花菱アチャコや森光子らとの共演だった[3]。
小学5年の時に母に連れられ上京。その3か月前に遠藤実の内弟子として単身上京していた姉の生活を支えるためだった。杉並区久我山に母娘3人で暮らすが家計は苦しく、日々の献立はジャガイモばかりだったという[8]。
中学時代には、当時創刊間もない少女雑誌『週刊セブンティーン』等でモデルとして活動。当時の芸名は本名の藤井佳代子(途中から本名・芸名共に田島佳代子に改名)。
モデル業の合間に、歌手となった姉の仕事現場に雑用係として度々顔を出していたところ、その場にいたレコード会社のスタッフから幾度となく歌手デビューを持ちかけられる[9]。しかし、頑張りつつもヒットに恵まれない姉の姿を間近に見ていたことから自分に歌手は無理だと、しばらくは誘いを断り続けていた[7]。最終的に説得を受け入れた理由は、このままヒットが出ないと姉がレコード会社から契約を切られるのではないかと危惧し、そうならないためには自分が会社の言うことを聞けばいいのではないかと考えた上でのことだった[9]。姉をサポートしたいがための、不本意な決断であった[8]。
芸名は、所属レコード会社のビクターが「丘めぐみ」という名を用意したが、本人は「何か一つ足りない」と思い、国語辞典を開いて「あ」の頁に「朝」「浅」「麻」のそれぞれの文字を見てピンと来たという。朝だと朝丘雪路、浅だと浅丘ルリ子と名字が同じになるので、麻の字を足して自らの芸名とした[10]。
1972年、「芽ばえ」でアイドル歌手デビュー。"演歌のビクター"からのポップス系歌手第一号でもあった[11]。40万枚を超えるヒットとなり、第14回日本レコード大賞では最優秀新人賞を受賞[12]。
1973年、「わたしの彼は左きき」がオリコンチャート週間1位も記録する大ヒット[12]。第15回日本レコード大賞・大衆賞や第4回日本歌謡大賞・放送音楽賞を受賞し、同年の『第24回NHK紅白歌合戦』にも出場、自身の代表曲にもなる。麻丘自身は右利きだが、この曲がヒットしていた時には、左手でサインを書いて見せたり、左手で箸を使って見せたりしていた。
また、彼女のトレードマークでもあった姫カットが、同世代の女性の間でブームとなった。なお本人が姫カットにした由来は、お洒落のためではなく、モデル撮影の際にヘアメイクのバリエーションを持たせやすいようにとの合理的な理由から。モデルの仕事をしていた当時はヘアメイクアーティストもスタイリストも付いていなかったため、必要に迫られて自ら考案したものだという[13]。
1974年3月、日劇で行われたリサイタルの最中に舞台セットから転落し、左肘剥離骨折および肋骨骨折の重傷を負う。そのために約半年間の休養を余儀なくされる。
1977年、当時フジテレビ社員のディレクターであった渡邉光男と結婚。6月27日に行われた婚約発表の模様は、当日の『ヒットスタジオ』番組内で紹介された[14]。麻丘は結婚を機に自分の人生を一旦リセットしたい気持ちもあり、周囲の反対を押し切って芸能界を引退する[7]。長女・ひとみをもうける。
1983年に離婚と同時に芸能界へ復帰する。以後、俳優業をメインに活動を続ける。
2000年、演劇集団『シアタードリームズ・カンパニー(TDC)』を主宰。出演のみならず、自ら芝居やリーディングのプロデュース・演出も手がける。
2008年頃から自らコンサートを企画・開催するなど、歌手活動を本格的に再開する。元々、歌手デビュー時から「歌う」ことを楽しいとはあまり感じておらず[15]、芸能界復帰後も積極的に歌に関わる機会は少なかったが、それにもかかわらずファンを始めとした周囲からの好評に「本当に申し訳ないことをしたなぁ、何で歌って来なかったんだろう」「そういう方々に恩返しのつもりで歌っていかなきゃって、すごく感じました」と語っている[11]。
2009年、33年ぶりにファンクラブが発足。
2020年1月、29年ぶりの新曲となる「フォーエバー・スマイル」が配信リリースされた[16]。
他
ほか
バックナンバー333(「藤井佳代子」名義) - 宮本和知の熱血!昼休み
第1回から第10回までは制定なし。第32回から第34回までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表(ただし第32回に限り演歌、歌謡曲、ポップス、ロックの4部門に分けて発表した)。
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