南 沙織(みなみ さおり、1954年〈昭和29年〉7月2日 - )は、日本の元歌手、元アイドル。本名:篠山 明美(旧姓:内間)。沖縄県中頭郡嘉手納町生まれ、宜野湾市育ち[1]。夫は写真家・篠山紀信。3児の母。次男は篠山輝信。
人物
沖縄県嘉手納町で生まれ、4歳の頃からは宜野湾市で育った[1]。幼少の頃は宜野湾市でも何度か引越しをしたが、南によると「どういうわけか、自宅はいつも普天間飛行場のゲートの近くだった」という[1]。母の勧めで真栄原のクライスト・ザ・キング・インターナショナル・スクールに通った[1]。義父はフィリピンが故郷で、第二次世界大戦後にアメリカ合衆国の軍属として沖縄に来ている[1]。
デビュー時は母親の郷里、鹿児島県(奄美大島)生まれとされたが[注 1]、実際は生まれも育ちも沖縄県[注 2](なお、出生から17歳までアメリカ施政権下)。また、フィリピン人とのハーフであるとされてきたが、正しくは両親とも日本人で母の再婚相手(義父)がフィリピン人である[2]。生育環境からいわゆるバイリンガルである。異父妹弟がいる[3]。カトリック信徒で、英語名「シンシア(Cynthia 月の女神、蟹座の守護神の意)」を愛称としている。星座が「蟹座」であることから、デビュー曲「17才」のジャケットの写真にも「蟹座」のデザインのシャツを着用しているほか、発売時のキャンペーンでは蟹のマークのシールが配布されていた。デビューから35年を経て発売されたCD-BOX『Cynthia Premium』の外箱には、同様に蟹座のマスコットがプリントしてある。
1972年の沖縄返還の前後に沖縄県民の間では非常に大きな盛り上がりがあったが、沖縄が日本に返還されることについて南は、「とても複雑な心境だった。素直に喜べなかった。」と述べている。その理由として、義父がアメリカ軍兵士を相手に飲食店を経営しており、返還を機に父の店はダメになるのではと懸念していたからであった。本人が「テレビよりもファンと直接触れ合えるコンサートが好き」と語っていたように[4]、芸能活動の多くは音楽活動に費やされ、テレビドラマや映画出演などの女優業はほとんど行わなかった。ただしデビュー当時の1971年、円谷プロダクション製作のパイロットフィルム『ミラーマン』に、主人公・鏡京太郎(柴俊夫、当時・柴本俊夫)の恋人・ユミ役で出演したことがあり、翌年にも柴が主演した『シルバー仮面』(宣弘社)の第6話にゲスト出演している。
著名人のファン
吉田拓郎は南のファンであることを再三にわたって公言しており、かまやつひろしと組んでリリースした「シンシア」は、南に捧げた楽曲である。また、泉谷しげるも同様で1973年に野音にて南とジョイントコンサートを行っている。
他にも羽仁進、大岡昇平、岩崎宏美、泉麻人、やくみつる、さくらももこ、みぶ真也などがいる。
来歴
デビュー前
歌手デビュー以前、地元沖縄で琉球放送の視聴者参加型のど自慢テレビ番組『オキコワンワンチャンネル』『100万人の大合戦』などでアシスタントのアルバイトをしていた。一方、その頃東京では、CBS・ソニーがデビューさせる新たな人材を探していた。ある時、琉球放送のテレビ番組にヒデとロザンナがゲスト出演した際、そのマネージャーが持ち帰った写真に偶々南が載っており、更にそれが偶然ソニー関係者の目に留まったことから[5]、急遽、東京に呼び寄せられることとなった。
現役時代
1971年の春、本土復帰前の沖縄から母親と二人で上京[6]。CBS・ソニー社長との顔合わせを経て、デビューに向けたプロジェクトが開始された[7]。
レコード・デビューまでわずか3ヶ月足らずというその過程について、作詞家の有馬三恵子は、「あんなにスムーズに新人歌手をデビューさせられた例は、他にない気がする」と語っている[8]。そして「詩心を大いに刺激した」という南のために書かれた詞の中から、「17才」がデビュー曲として採用され(タイトルは酒井政利による)、6月1日に「ソニーのシンシア」のキャッチフレーズを持って歌手デビュー。約54万枚の大ヒットとなった。
楽曲作りに着手した時点ではまだ芸名は決まっておらず、CBS・ソニーの社内公募では「南陽子」が1位だったが、有馬三恵子の「彼女のイメージは陽子じゃなく、沙織じゃないかしら」の一言で「南沙織」に決まった。[9]
デビュー時の南のインパクトについて、写真家の篠山紀信は「彼女の登場は、返還を目前とした沖縄のイメージ・アップのための国策歌手かと思ったくらい良かった」と述懐しており[7]、音楽プロデューサーの酒井政利は「そのタイミングは、南沙織が持つ気運のひとつであったのではないか」と著書で書き記している[10]。また、「世代的共感を歌うアーティストの始まり[11]」「日本におけるアイドルの第1号[12]」「元祖アイドル[13][14]」と評価されることもある[注 3]。
1971年暮れの第13回日本レコード大賞で新人賞を受賞し、同年のNHK『第22回NHK紅白歌合戦』にも初出場。プロマイドも、1971年、1972年の年間売り上げ実績では第1位を獲得している。また、同時期にデビューした小柳ルミ子・天地真理らと共に "新三人娘" と括られることもあり、当時のアイドルの代表格であった。
1972年から1974年頃までは、筒美京平が手がけた楽曲を中心にヒットを放ち、アルバムでは多くの洋楽ポップスもレコーディングした。そのファン層は広く、普段は洋楽しか聴かない層の獲得にも成功したと言われている[15]。
1975年発売の「人恋しくて」では田山雅充が作曲を担当。カヴァー・ソング以外では、初めて有馬・筒美コンビではないシングルA面曲となった。また、この曲で第17回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。以後、松本隆や荒井由実など、ニューミュージック系のライターも起用するようになった。珍しいところでは、アルバム『人恋しくて』において矢沢永吉("五大洋光" 名義)からも楽曲提供を受けている。1976年には、本人が「大のお気に入りの曲」と挙げる「哀しい妖精」を発表した。当楽曲は日本語歌詞(作詞: 松本隆)によるシングル・ヴァージョンのほか、ジャニス・イアンから提供された原詞そのままの英語ヴァージョンが15thアルバム『ジャニスへの手紙』に収録されている。
歌手活動引退
1978年1月、資生堂・春のコマーシャルソングに起用され、尾崎亜美が他アーティストに初提供した作品でもある「春の予感 -I've been mellow-」をリリース、スマッシュ・ヒットと成った。
ところが、24歳の誕生日を迎えた1978年7月2日、当時在学中だった上智大学での学業に専念するため、歌手活動にピリオドを打つ事を突如発表する。翌7月3日には、南自身の誕生日パーティーでの席上と、及びフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』の生出演時にも、改めて活動停止の詳細報告を自ら行った。さらに引退に際し、同年9月25日放送の『夜のヒットスタジオ』においては「南沙織 サヨナラ企画」が放送され、同期デビューで奇しくも同じ誕生日だった小柳ルミ子(年齢は南が2歳年下)や、当時同じ所属事務所(T&C ミュージック)だったピンク・レディーらが共演し、特に小柳と増田恵子が感極まって惜別の涙を流していた。そして、同年10月7日に調布市市民福祉会館で開催された「さよならコンサート」をもって、歌手業を含めた芸能活動を引退した。なお、当コンサートの映像は商品化されていないが、ライヴを録音したレコードが同年12月5日にリリースされている。
1979年、引退後に交際がスタートしたという[7] 写真家の篠山紀信と結婚。紀信との間には3人の息子をもうける。次男の篠山輝信は、2006年に俳優デビューを果たした。
1983年には、"Cynthia" 名義で作詞家としての活動を1曲のみ行っている。森山良子が作曲し「ウ・フ・フ」というタイトルでアグネス・チャンのアルバム『小さな質問』に収録された。
歌手活動の一時再開
1991年末、第42回NHK紅白歌合戦へ1977年の第28回以来14年ぶりに出場。NHKからオファーを受けた当初は「17才」「色づく街」の2曲を歌う予定であったが、南本人の希望もあって「色づく街」のみを歌うに至った[16]。なお、本人が登場する直前のコーナーでは、阿久悠が執筆した南の紹介文を渡辺美佐子が朗読し、BGMに「17才」のメロディーを流すという演出であった。
1992年以降、「家庭が第一」というポリシーのもと、基本的にはレコーディングのみと限定的ながら活動を再開して作品をリリース。この時「シンシア」の名で活動したこともあるが、他に同じ芸名の歌手がデビューしたと言う事もあり、「南沙織」に戻っている。
1997年4月にフィリップモリスのCMソングとなったシングル「初恋」をリリースして以降、新譜の発表はされていない。
2000年以降
2000年6月、歌手デビュー満30周年を記念した完全生産限定CD-BOX『CYNTHIA ANTHOLOGY』が発売された(CD5枚+DVD1枚の全6枚組)。日本の音楽CD-BOXとしては初めてDVDが同梱された作品であり、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高62位にランクイン、再プレスもなされた。またこの頃、リリースにあたってソニーミュージックの公式サイト「Art of loving」では、記念作品が完成した事に対して自ら謝辞コメントを寄せた音声が公開されていた。
沖縄本土復帰30周年となった2002年、「沖縄タイムス」(5月15日付)のインタビューで沖縄への思いを語ったほか、2003年7月には浴衣姿で被写体となった新聞広告(撮影: 篠山紀信)が掲載された。
2006年3月、恩師である酒井政利の「文化庁長官表彰・音楽プロデューサー45周年」パーティに、久しぶりに夫婦で公の場に登場し、乾杯の音頭をとった。同年6月には、歌手デビュー35周年を迎えるにあたり、全スタジオ・アルバム21枚を紙ジャケット仕様で復刻した完全生産限定CD-BOX『Cynthia Premium』が発売された(CD21枚+DVD1枚の全22枚組)。当ボックスでは「篠山シンシア」として監修も務めあげ、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高84位にランクインしている。
2008年10月には、週刊誌『アサヒ芸能』(第63巻第39号)内特集 "70年代アイドルを「感涙の総直撃」" に特別メッセージを寄稿。歌手デビュー当時の思い出や近況等が記載された。
2011年1月17日付の東京新聞・朝刊において、「この人-南沙織さん」の記事と顔写真(当時56歳)が掲載される。生まれ育った沖縄県の普天間基地移設問題に関し、南自ら「あの危ない飛行場が何故、未だに有るのか? 移設先が辺野古の海というのも駄目です」と猛反対するコメントと、及びデビュー40年を機に再び歌手業の復帰については、「もう声、出ませんよ」と首を振り完全否定していた。
2020年には週刊現代にて「いまもって特別な存在 なんで南沙織だったんだろう[17]」の見出しのもと4ページに渡り特集記事が組まれた。同年7月2日、自身の誕生日には歌手デビュー50周年目を迎えた記念企画CD-BOX『CYNTHIA ALIVE』が発売された。その中で、クリス松村との対談に参加している。
ディスコグラフィ
シングル
4TRACK COMPACT
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タイトル
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発売日
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備考
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1
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シンシアのクリスマス
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75.11.21
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クリスマスソングを4曲収録。「聖夜」「ジングル・ベル」他
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オリジナル・アルバム
ライヴ・アルバム
ベスト・アルバム(LPのみ)
CD化されたベスト・アルバム
CD-BOX
タイアップ曲
NHK紅白歌合戦出場歴
出演
テレビ番組
- 1971年10月23日 - 初出演
- 1978年1月21日 - 最後の出演
- 1971年11月1日 - 初出演
- 1978年9月25日 - 最後の出演(南沙織「サヨナラ」企画)
- 1974年11月12日 - よしだたくろう、かまやつひろしとともに出演[18]
- 1975年5月13日 - あおい輝彦、麻丘めぐみとともに出演[18]
- 1976年9月28日 - あおい輝彦とともに出演[18]
ラジオ番組
CM
脚注
注釈
- ^ デビュー・アルバム『17才』(1971.10.1、ソニーレコード)記載のプロフィールでは、出身地が「鹿児島」になっている。
- ^ 35周年CD-BOXで復刻されたデビュー・アルバム『17才』(2006年6月14日、ソニーレコード)記載のプロフィールでは、出身地が「沖縄」に修正されている。
- ^ 前出日経産業新聞の記事によれば、酒井政利は日本で初の「アイドル路線」と銘打って売り出したとのこと。
- ^ 1978年は紅白出演者の公式発表前となる10月に引退している。
出典
関連項目
外部リンク
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シングル |
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アルバム |
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オリジナル |
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ベスト (LP) |
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ベスト (CD) |
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ライブ | |
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CD-BOX | |
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楽曲 | |
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関連人物 | |
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