ジャガー・レーシング(Jaguar Racing)は、イギリスのジャガーランドローバー・モータースポーツが運営するレース部門である[1]。同社の自動車ブランドである「ジャガー」の名前で参戦している。
現在は、タタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS)をタイトルスポンサーに、ジャガー・TCS・レーシングとしてフォーミュラEに参戦している[1]。以前は2000年から2004年までF1で活動したF1コンストラクターだった。また古くはスポーツカーレースに参戦。特に1980年代後半から1990年代前半にかけてスポーツカー世界選手権や、IMSA GT選手権でジャガー・XJRシリーズは成功を収めた。
フォード・ワークスのジャガーレーシング
フォード・パフォーマンスとは、フォード・レーシングの謂いだという。それに「プレミア」が冠される。
プレミア・パフォーマンス・ディビジョン (PPD)とは、3社で構成されるフォードのF1部門をひとまとめにした総称で、フォード・パフォーマンスの最上位という位置づけ。
スチュワート・グランプリ社の買収に先立って、フォードは事前にエンジンを製造する会社を、そして、1999年の第4四半期にはさらにあとひとつの会社を調達していた。
1999年6月[4]、米国の自動車メーカーフォードは、活動を支援してきたジャッキー・スチュワート率いるスチュワート・グランプリを買収し、同社傘下のジャガーブランドで2000年からF1参戦を開始した。そのマシンは往年のナショナルカラーのブリティッシュ・レーシング・グリーンを纏い、「ビッグキャット」と呼ばれたジャガーのデザインが描かれた。
レース諸戦
2000年
ドライバーは前年ランキング4位、フェラーリでドライバーズランキング2位に輝いたエディ・アーバインがエース待遇で加入し、昨年のヨーロッパグランプリでフォードにワークス勝利をもたらしたジョニー・ハーバートとのイギリス人コンビとなった。アーバイン加入やフォードの完全ワークス体制で開幕前は注目を集めたが、前年度の好成績が嘘のように低迷。ポイントはアーバインが稼いだ4ポイントのみ。ハーバートはノーポイントに終わった。アーバインは途中オーストリアGPを欠場し、テストドライバーのルチアーノ・ブルティが出走する。ランキングは9位。
2001年
アーバインは残留、前年限りで引退したハーバートに代わりブルティがレギュラーに昇格した。しかし、ブルティがスペインGPからプロストに移籍。代わりにプロストでテストドライバーを務めていたペドロ・デ・ラ・ロサを起用した。アーバインがモナコGPで表彰台に上がったが他には特に目立った活躍はできず、ランキングは8位に終わった。
2002年
アーバインとデ・ラ・ロサのコンビを継続。アーバインはイタリアGPで表彰台に上がるなどし、8ポイントを獲得。デ・ラ・ロサはノーポイントに終わった。ランキングは7位。
2003年
ドライバーを一新し、前年ミナルディで好走したマーク・ウェバーをエースに迎え入れる。セカンドシートは新人のアントニオ・ピッツォニア。ウェバーは特に予選で高パフォーマンスを見せ、コンスタントに入賞する。ピッツォニアは苦戦を続け、遂にドイツGP前に解雇。ミナルディよりジャスティン・ウィルソンを迎え入れる。身長185cm(ウェバー)と192cm(ウィルソン)という大柄コンビとなった。ウェバーは17ポイントを獲得しドライバーズランキング10位、ピッツォニアはノーポイント、ウィルソンはアメリカGPで1ポイントを獲得した。ランキングは変わらず7位。
2004年
ウェバーは残留、もう1つのシートは新人のクリスチャン・クリエン。マレーシアGPではウェバーがフロントローを獲得。クリエンも序盤は新人らしくアグレッシブな走りで好走したものの、両者ポイントにはなかなか届かず。それでもウェバーは7ポイント、クリエンは3ポイントを獲得しランキング7位はキープした。この年を最後にジャガーとしての活動に幕を降ろす。
チーム体制の変遷
PAG / PPD / サブ
レースチームの社名変遷
レースチームの社名変遷
スチュワート・グランプリ社1995.11.01-2000.01.04
社名
|
Stewart Grand Prix Ltd.
|
本店
|
Building 2, Bradbourne Drive Tilbrook, Milton Keynes, MK7 8AT, UK
|
設立
|
1995.11.01
|
状況
|
後援者のフォードに事業を譲渡 Jackie Stewartは 2004.08.27まで Jaguar Racing社のディレクターとして登録
|
フォードの後援で1997年からの参戦が実現した フォードのファクトリーチーム これとの組み合わせになるコンストラクター部分は エンジンはフォードが資金提供するコスワース 車体はジョーダンと同様な手法
|
|
ジャガー・レーシング社 2000.01.04-2004.11.16
社名
|
Jaguar Racing Ltd.
|
本店
|
Building 2, Bradbourne Drive Tilbrook, Milton Keynes, MK7 8AT, UK
|
状況
|
フォードが事業を売却
|
フォードのファクトリー参戦の実行部隊
フォード所有になる コスワース・レーシング社とPiグループ社との 3社でファクトリー参戦を実現
|
|
レッドブル・レーシング社 2004.11.16-現在
社名
|
Red Bull Racing Ltd.
|
社番
|
03120645
|
本店
|
Building 2, Bradbourne Drive Tilbrook Milton Keynes, MK7 8AT, UK
|
種類
|
非公開
|
状況
|
アクティブ
|
設立
|
1995.11.01
|
現社名 / 旧社名
Red Bull Racing Ltd.
|
2004.11.16-現在
|
Jaguar Racing Ltd.
|
2000.01.04-2004.11.16
|
Stewart Grand Prix Ltd.
|
1995.11.01-2000.01.04
|
事業内容 : その他のスポーツ活動 興行に参加し世界各地に旅しレース業務を実行
|
|
関連企業・人物
関連企業・人物
|
Ford Motor Company
|
Dearborn, Michigan
|
1903.06.16 -
|
Neil Ressler , Vice President
|
(1994 - 2000)
|
Research Center
|
Ford Research and Engineering Center
|
Richard Parry-Jones , Vice President
|
Dearborn, Michigan
|
Premier Automotive Group (1999-2011.08) Wolfgang Reitzle
|
|
Jaguar Cars
|
1990 - 2008
|
|
Aston martin
|
1991 -2007
|
|
Volvo
|
1999 - 2010
|
|
Land Rover
|
2000 - 2008
|
|
Mercury
|
1938 - 2011
|
|
Daimler
|
1990 - 2008
|
|
Lincoln
|
1990' - 2002
|
PPD
|
② 1999.06 買収取得
|
スチュワート・グランプリ社
|
Neil Ressler , 非業務執行取締役
|
(1999.01.01 - 2000.01.04)
|
(英:Stewart Grand Prix Ltd.)
|
(1995.11.01 - 2000.01.04)
|
ジャガー・レーシング社
|
(英:Jaguar Racing Ltd.)
|
(2000.01.04 - 2004.11.16)
|
レッドブル・レーシング社 [6]
|
(英: Red Bull Racing Ltd.)
|
RBR
|
(2004.11.16 継承)
|
① 1998.07.08買収取得
|
コスワース・レーシング社
|
Neil Ressler , Chairman
|
(1998.09 - 2000.12)
|
Niki Lauda , Chairman
|
(2001 - 2002)
|
Richard Parry-Jones , Chairman
|
(2003 - 2004)
|
③ 1999年第4四半期買収取得
|
Pi グループ社
|
Tim Routsis ,Managing Director
|
(2002.03 - 2004)
|
Tony Purnell , Pi Research, President
|
(1987 - 2004)
|
Neil Ressler , Chairman
|
(1999年第4四半期 - 2002.03)
|
Pi の持ち分 →
|
レッドブル・レーシング・ホールディングス社[7]
|
(英: Red Bull Racing Holdings Ltd.)
|
RBRH
|
(2004.11.09 - 2006.12.20)
|
|
reynard の持ち分 →
|
2001年 年末起動の ビスター本部救済保存プロジェクト 2003.03、管財人の管理下に入るも 同月、風洞建設を完了し ベン・アガザンジェロウの率いる 50名の空力チームの活動が開始する
|
Pi と連動, D.Pitchforth
|
MD, Team Principal
|
(2002.11.26 - 2004.08.27)
|
R3C改良プロジェクト, テクニカルディレクター
|
(2002.03 -)
|
|
← レイナード・レーシング社 (1977-2002) (1993.08.10 - 1998.08.06 - 2010.02.09) レイナード・モータースポーツ社[5]
|
エイドリアン・レイナード Director在任期間 (1993.09.24 - 2006.10.24)
|
|
David Pitchforth, レイナードビスター風洞建設 BAR風洞, ARC風洞, NASCAR風洞建設
|
(2001 - 2002.03) 1997 - (1998, 1999, 2000)
|
スチュワートのサブコンストラクターから
|
(1998 - 1999)
|
|
チーム役員・属性・在籍変遷
2000年
この時期、フォード副社長のニール・レスラー[23]は、コスワースエンジニアリング(1958-1998)の買収によって成立した、コスワースレーシング(1998-2004)の会長職を兼任していた。そのニール・レスラーがジャガー・レーシングのチーム代表に就任し、ボビー・レイホールをマネージングディレクターに据えた。
レースカーは、ゲイリー・アンダーソンがスチュワート・SF-4として用意したものがジャガー・R1として使用され、ゲイリー・アンダーソンは引き続き在籍し、年末にスティーブ・ニコルズと交代しR2の設計は引き継がれた。
2001年
(の創設)
ニール・レスラーは、2000年で辞任し、コスワースレーシング会長職はニキ・ラウダが引き継ぎ[24]、プレミア・オートモーティブ・グループ (Premier Automotive Group、略称:PAG) の責任者・ウォルフガング・ライツレ(英語版)の指揮下に、新たにプレミア・パフォーマンス・ディビジョン (Premier Performance Division、略称:PPD)が創設され、フォードの所有するF1関連の3つの部門の協調と指揮系統関係の明確化が図られ[19]、ラウダがPPDのCEOに就任し、ボビー・レイホールがチーム代表兼CEOに就任し、ギュンター・シュタイナーがマネージングディレクターに就任したが、8月、レイホールはラウダによって追放された[25]という。
レイホールがチームから去ったことにより、PPD CEOのラウダが自ら表に出てチーム代表、シュタイナーのマネージングディレクターは翌年のライツレの失脚と、それに続く体制崩壊まで継続する。
2002年
R3を用意したスティーブ・ニコルズはシーズン開幕1カ月前に解任される。
2002年半ば、フォードはジャガー・レーシングをカリフォルニアのライツレ率いるPAG指揮下からデトロイト本社の傘下に戻すことを決定。ライツレはあえなく解雇されてしまう。また、ラウダもこの時の人事によってシュタイナーと共に解雇されている。ちなみにこの時ラウダはフォード本社に問い合わせても全くコンタクトが取れず、自分の解雇をニュースで知ったという有様だった。この解雇が原因で、ラウダは相当なイギリス人嫌いになったという。また、この時のラウダの"置き土産"となったのが、アントニオ・ピッツォニア(ジャガー→ウィリアムズ第3ドライバー)である。
2003年 - 2004年
ライツレの後任には、フォード・レーシング (フォード・パフォーマンス)のリチャード・パリー・ジョーンズ(英語版)が就任する。
早速ジョーンズは1999年に買収しておいた、フォード傘下でレース用の電子システムなどを手がけるPIリサーチから、辣腕として知られていたトニー・パーネル(英語版)をチーム代表に、デビッド・ピッチフォースをマネージングディレクターとして招聘したという触れ込みで改革に着手する。
本社の扱いになり、極端な予算削減を言い渡された新チーム首脳陣は、2003年2月のバルセロナ・テストの最中に120名ものスタッフを突如解雇し、テストを途中で切り上げさせ、チームを強引にイギリスへ戻している。この結果、チームは30%強もの人員を整理。さらに、パフォーマンス条項を理由にシーズン途中でピッツォニアを解雇。スポンサーから資金援助を受けているために、サラリーが発生しないジャスティン・ウィルソンをミナルディから獲得する。ピッツォニアは、もともとラウダが契約したということで目の敵にされていたという。
さらにこの頃フォード本社でもファイアストンとの問題が発生する。99年から40件以上、警察に記録されていたフォードのSUV、エクスプローラーのタイヤバースト事件において、エクスプローラーにはミシュラン製のタイヤも供給されていたにもかかわらず、当時フォード本社のCEOであったジャック・ナッサーはファイアストンの技術的欠陥だと主張したことに対し、ファイアストンがフォードを提訴。この訴訟はファイアストンの圧勝で終わり、フォードは多額の賠償金を支払う羽目になる。当然、この訴訟の引き金となる発言をしたナッサーは解雇された。後任のCEOには、フォード家出身のウィリアム・フォードが就任する。
実はフォード家自体は多額の資金が必要なF1活動に反対しており、ナッサーが15年に渡りフォード家の反対を押し切ってF1活動を続けてきたものであった。そのナッサー失脚がフォード撤退の決定的な要因となる。パーネルが採用したテクニカルディレクターのマーク・ギラン博士は、限られた予算の中でマシンを作ったものの、デトロイト本社の首脳の気持ちを変えることはできなかった。結局2004年9月17日、フォードのモータースポーツ部門のプレミア・オートモーティブ・グループの代表であったジョーンズがジャガー撤退を発表。後にジャガー・レーシング本体はレッドブルに売却され、レッドブル・レーシングとなる。共にレースエンジン製作の老舗コスワース・エンジニアリングとレース用電子システムなどを製作するPIリサーチも売却された。最後までビッグ・キャット(ジャガーの愛称)とブルーオーバル(フォードの愛称)は、ワークスとしての勝利を挙げることはできないまま、F1を去った。
ダイヤモンド紛失事件
2004年のモナコGPでは、ワーナー・ブラザースのスポンサーにより映画『オーシャンズ12』カラーのマシンを走らせた。PRの目玉として、フロントノーズにイスラエルのダイヤモンドメーカーシュタインメッツ社の時価25万ドルの同社製“ピンクダイヤモンド”(en)を埋め込んで出走したが、クリスチャン・クリエンの駆るマシンが1周目のロウズヘアピンでクラッシュ。壊れたフロントノーズはレース中コース脇に撤去されていたが、後でチームが回収するとダイヤが無くなっていた。
戦績表 + オペレーション
戦績表 + オペレーション
年
|
車体
|
エンジン/タイヤ
|
No.
|
オペレーション
|
|
|
|
得点
|
順位
|
ポール・スチュワート(team CEO, COO)
|
Neil Ressler, R.Parry-Jones, W.Reitzle, J.Browning
|
ボビー・レイホール (team MD)
|
|
2000年
|
ジャガー R1
|
コスワース 3.0L V10 CR-2 挟角72度 軽量
|
B
|
|
ドライバー
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
17
|
|
|
03.12
|
03.26
|
04.09
|
04.23
|
05.07
|
05.21
|
06.04
|
06.13
|
07.02
|
07.16
|
07.30
|
08.13
|
08.27
|
09.10
|
09.24
|
10.08
|
10.22
|
|
|
AUS
|
BRA
|
SMR
|
GBR
|
ESP
|
EUR
|
MON
|
CAN
|
FRA
|
AUT
|
GER
|
HUN
|
BEL
|
ITA
|
USA
|
JPN
|
MAL
|
|
|
4
|
9位
|
7
|
エディ・アーバイン
|
Ret
|
Ret
|
7
|
13
|
11
|
Ret
|
4
|
13
|
13
|
Inj
|
10
|
8
|
10
|
Ret
|
7
|
8
|
6
|
|
|
7
|
ルチアーノ・ブルティ
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
11
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
8
|
ジョニー・ハーバート
|
Ret
|
Ret
|
10
|
12
|
13
|
11
|
9
|
Ret
|
Ret
|
7
|
Ret
|
Ret
|
8
|
Ret
|
11
|
7
|
Ret
|
|
|
|
年
|
車体
|
エンジン/タイヤ
|
No.
|
オペレーション
|
Chairman, CEO, ニキ・ラウダ
|
|
|
得点
|
順位
|
ボビー・レイホール (team CEO・代表)
|
ニキ・ラウダ (team CEO)
|
|
|
2001年
|
ジャガー R2
|
コスワース 3.0L V10 CR-3 挟角72度 軽量
|
M
|
|
ドライバー
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
17
|
|
|
03.04
|
03.18
|
04.01
|
04.15
|
04.29
|
05.13
|
05.27
|
06.10
|
06.24
|
07.01
|
07.15
|
07.29
|
08.19
|
09.02
|
09.16
|
09.30
|
10.14
|
|
|
AUS
|
MAL
|
BRA
|
SMR
|
ESP
|
AUT
|
MON
|
CAN
|
EUR
|
FRA
|
GBR
|
GER
|
HUN
|
BEL
|
ITA
|
USA
|
JPN
|
|
|
9
|
8位
|
18
|
エディ・アーバイン
|
11
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
7
|
3
|
Ret
|
7
|
Ret
|
9
|
Ret
|
Ret
|
DNS
|
Ret
|
5
|
Ret
|
|
|
19
|
ルチアーノ・ブルティ
|
8
|
10
|
Ret
|
11
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
19
|
ペドロ・デ・ラ・ロサ
|
|
|
|
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
6
|
8
|
14
|
12
|
Ret
|
11
|
Ret
|
5
|
12
|
Ret
|
|
|
|
年
|
車体
|
エンジン/タイヤ
|
No.
|
オペレーション
|
Chairman, CEO, ニキ・ラウダ
|
|
|
得点
|
順位
|
ニキ・ラウダ (team CEO), ギュンター・シュタイナー (team MD)
|
|
|
2002年
|
ジャガー R3
|
コスワース 3.0L V10 CR-4 挟角72度 軽量
|
M
|
|
ドライバー
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
17
|
|
|
03.03
|
03.17
|
03.31
|
04.14
|
04.28
|
05.12
|
05.26
|
06.09
|
06.23
|
07.07
|
07.21
|
07.28
|
08.18
|
09.01
|
09.15
|
09.29
|
10.13
|
|
|
AUS
|
MAL
|
BRA
|
SMR
|
ESP
|
AUT
|
MON
|
CAN
|
EUR
|
GBR
|
FRA
|
GER
|
HUN
|
BEL
|
ITA
|
USA
|
JPN
|
|
|
8
|
7位
|
16
|
エディ・アーバイン
|
4
|
Ret
|
7
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
9
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
6
|
3
|
10
|
9
|
|
|
17
|
ペドロ・デ・ラ・ロサ
|
8
|
10
|
8
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
10
|
Ret
|
11
|
11
|
9
|
Ret
|
13
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
|
|
|
年
|
車体
|
エンジン/タイヤ
|
No.
|
オペレーション
|
Chairman, ヘッドof, トニー・パーネル(team CEO)
|
|
|
|
得点
|
順位
|
, デビッド・ピッチフォース(team MD)
|
|
|
|
2003年
|
ジャガー R4
|
コスワース 3.0L V10 CR-5 挟角90度 低重心
|
M
|
|
ドライバー
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
|
|
|
03.09
|
03.23
|
04.06
|
04.20
|
05.04
|
05.18
|
06.01
|
06.15
|
06.29
|
07.06
|
07.20
|
08.03
|
08.24
|
09.14
|
09.28
|
10.12
|
|
|
|
AUS
|
MAL
|
BRA
|
SMR
|
ESP
|
AUT
|
MON
|
CAN
|
EUR
|
FRA
|
GBR
|
GER
|
HUN
|
ITA
|
USA
|
JPN
|
|
|
|
18
|
7位
|
14
|
マーク・ウェバー
|
Ret
|
Ret
|
9
|
Ret
|
7
|
7
|
Ret
|
7
|
6
|
6
|
14
|
11
|
6
|
7
|
Ret
|
11
|
|
|
|
15
|
アントニオ・ピッツォニア
|
13
|
Ret
|
Ret
|
14
|
Ret
|
9
|
Ret
|
10
|
10
|
10
|
Ret
|
|
|
|
|
|
|
|
|
15
|
ジャスティン・ウィルソン
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
Ret
|
Ret
|
Ret
|
8
|
13
|
|
|
|
|
2004年8月27日 、フォードの指令で、チームのディレクターが全員解任されたので、2004年の最終5戦は、Piが代行してレースを運用
|
年
|
車体
|
エンジン/タイヤ
|
No.
|
オペレーション
|
Chairman, ヘッドof, トニー・パーネル(team CEO)
|
トニー・パーネル
|
|
得点
|
順位
|
, デビッド・ピッチフォース(team MD)
|
デビッド・ピッチフォース
|
|
2004年
|
ジャガー R5
|
コスワース 3.0L V10 CR-6 挟角90度 低重心
|
M
|
|
ドライバー
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
17
|
18
|
|
03.07
|
03.21
|
04.04
|
04.25
|
05.09
|
05.23
|
05.30
|
06.13
|
06.20
|
07.04
|
07.11
|
07.02
|
08.15
|
08.29
|
09.12
|
09.26
|
10.10
|
10.24
|
|
AUS
|
MAL
|
BHR
|
SMR
|
ESP
|
MON
|
EUR
|
CAN
|
USA
|
FRA
|
GBR
|
GER
|
HUN
|
BEL
|
ITA
|
CHN
|
JPN
|
BRA
|
|
10
|
7位
|
14
|
マーク・ウェバー
|
Ret
|
Ret
|
8
|
13
|
12
|
Ret
|
7
|
Ret
|
Ret
|
9
|
8
|
6
|
10
|
Ret
|
9
|
10
|
Ret
|
Ret
|
|
15
|
クリスチャン・クリエン
|
11
|
10
|
14
|
14
|
Ret
|
Ret
|
12
|
9
|
Ret
|
11
|
14
|
10
|
13
|
6
|
13
|
Ret
|
12
|
14
|
|
|
年
|
車体
|
エンジン/タイヤ
|
No.
|
ドライバー
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
17
|
18
|
19
|
得点
|
順位
|
2005年
|
ジャガー R6 レッドブル RB1
|
コスワース TJ2005 挟角90度 低重心
|
M
|
|
|
AUS
|
MAL
|
BHR
|
SMR
|
ESP
|
MON
|
EUR
|
CAN
|
USA
|
FRA
|
GBR
|
GER
|
HUN
|
TUR
|
ITA
|
BEL
|
BRA
|
JPN
|
CHN
|
|
|
14
|
デビッド・クルサード
|
4
|
6
|
8
|
11
|
8
|
Ret
|
4
|
7
|
DNS
|
10
|
13
|
7
|
Ret
|
7
|
15
|
Ret
|
Ret
|
6
|
9
|
34
|
7位
|
15
|
クリスチャン・クリエン
|
7
|
8
|
DNS
|
|
|
|
|
8
|
DNS
|
Ret
|
15
|
9
|
Ret
|
8
|
13
|
9
|
9
|
9
|
5
|
ヴィタントニオ・リウッツィ
|
|
|
|
8
|
Ret
|
Ret
|
9
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
10.16
|
2006年
|
ジャガー R6 トロロッソ STR1
|
コスワース TJ2006 挟角90度 低重心
|
M
|
|
|
BHR
|
MAL
|
AUS
|
SMR
|
EUR
|
ESP
|
MON
|
GBR
|
CAN
|
USA
|
FRA
|
GER
|
HUN
|
TUR
|
ITA
|
CHN
|
JPN
|
BRA
|
|
|
|
20
|
ヴィタントニオ・リウッツィ
|
11
|
11
|
Ret
|
14
|
Ret
|
15
|
10
|
13
|
13
|
8
|
13
|
10
|
Ret
|
Ret
|
14
|
10
|
14
|
13
|
|
1
|
9位
|
21
|
スコット・スピード
|
13
|
Ret
|
9
|
15
|
11
|
Ret
|
13
|
Ret
|
10
|
Ret
|
10
|
12
|
11
|
13
|
13
|
14
|
18
|
11
|
|
|
|
ギャラリー
F1 前期型(2000年 - 2002年)
F1 後期型(2003年 - 2004年)
ジャガー・レーシング(F1) テンプレート
|
---|
設立創業者 設立関係者 | |
---|
主な関係者 | |
---|
風洞 |
カズマロ風洞 |
- カズマロ風洞 =ゴヴォーニ風洞 =
|
---|
ボロニェーゼ風洞 |
- サンタガータ・ボロニェーゼ風洞
|
---|
Aerolab風洞 |
- サンタガータ・ボロニェーゼ風洞
|
---|
|
---|
F1マシン/ 空力担当者 |
|
---|
フォーミュラE
ジャガーはF1撤退後フォードの手を離れ、インドのタタ・モーターズ傘下のジャガーランドローバーのブランドとなった。その後フォーミュラEに同名の「ジャガー・レーシング」として参戦している。独自のパワートレインを開発している。
レース諸戦
- 2016年-17年
2016年-17年シーズンより参戦開始。ウィリアムズF1からの支援、さらに日本企業パナソニックをタイトルスポンサーに迎え、「パナソニック・ジャガー・レーシング(Panasonic Jaguar Racing)」のチーム名で登録。ドライバーはミッチ・エバンスとアダム・キャロル、リザーブドライバーにはホーピン・タンを起用[26]。マシン名は「Jaguar I-Type 1」。戦績は、第4戦メキシコE-Prixで初ポイントを獲得。年間の総合順位では最下位に終わった。
- 2017年-18年
キャロルに代わり元F1ドライバー ネルソン・ピケJr.を起用[27]。マシンは「Jaguar I-Type 2」。戦績は、開幕第2戦の香港E-Prixでエバンスが3位入賞を果たし、初の表彰台を獲得。最下位だった昨シーズンから躍進し、年間総合で6位。両ドライバーも年間ランキング10位以内に入った。
- 2018年-19年
昨シーズンのドライバーラインナップを継続。マシンは第2世代シャシー“Gen2”を採用した「Jaguar I-Type 3」[28]。ピケJrが、第6戦の三亜E-Prixを最後に降板。次戦からの新ドライバーにアレックス・リンを起用した第7戦ローマE-Prixにて、エバンスによるチーム初優勝を飾った[29]。
- 2019年-20年
WECで活躍しているジェームス・カラドを起用し、リンはリザーブドライバーとして残留する。マシンは「Jaguar I-Type 4」。エバンスが第4戦のメキシコE-Prixにてキャリア2勝目を飾るが、後半戦は不振に終わってしまう。一方、カラドはベルリンE-Prix4レース目でWECに途中参戦するために降板し、トム・ブロンクビストが残りのレースに参戦する。年間総合は前シーズンと同じ7位。
- 2020年-21年
ヴァージンに在籍していたサム・バードを起用[30]。第2戦ディルイーヤE-Prixのレース2で移籍初の優勝を飾る[31]。シーズン成績は、これまでの最高位となる2位を記録した。
2021年-22年
新たにタタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS)をタイトルスポンサーに迎え、ジャガー・TCS・レーシングにチーム名を変更した[1]。
戦績表
ギャラリー
フォーミュラE(2016年 - )
-
I-Type 1
-
I-Type 2
-
I-Type 3
ジャガー・TCS・レーシング テンプレート
|
---|
フォーミュラE ジャガー・ワークス (2016年-17年 - 現在) |
チーム首脳・関係者 | |
---|
現在のドライバー | |
---|
過去のドライバー | |
---|
車両 |
- I-Type 1
- I-Type 2
- I-Type 3
- I-Type 4
- I-Type 5
|
---|
主なスポンサー | |
---|
関連組織 | |
---|
|
---|
スポーツカーレース
スポーツカーレースにおいてジャガー・XJRシリーズは、提携したトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)が製作し、1984年から1993年にかけて、スポーツカー世界選手権とIMSA GT選手権に出場したスポーツプロトタイプカーだった。これらは大きな成功を収めたが、そのハイライトは次のとおり。
ギャラリー
-
-
-
-
-
XJR-9 (1988年、グループC、1988年-1989年、IMSA)
-
-
-
XJR12 (1990年、グループC、1990年-1993年、IMSA)
-
XJR14 (1991年、グループC、1992年、IMSA)
-
ジャガー・レーシング (スポーツカー) テンプレート
|
---|
スポーツカー ジャガー・ワークス (1970年代以前) |
|
---|
スポーツカー ジャガー・ワークス (1982年 - 1992年) ジャガー・ワークス・TWR (1985年 - 1992年) |
チーム首脳・関係者 | |
---|
主なドライバー | |
---|
IMSA GTP | |
---|
グループC車両 | |
---|
ロードカー | |
---|
主なスポンサー | |
---|
関連組織 | |
---|
|
---|
脚注
関連項目
外部リンク