パスパ文字 (パスパもじ、八思巴文字、モンゴル語 : дөрвөлжин үсэг 、dörvöljin üseg 、〔モンゴル文字 :ᠳᠥᠷᠪᠡᠯᠵᠢᠨ ᠦᠰᠦᠭ 〕 「方形文字」、チベット語 : ཧོར་ཡིག་གསར་པ་ 、hor yig gsar pa 「モンゴル新字」、中国語 :蒙古新字 Měnggǔ xīnzì 、八思巴字 Bāsībā zì )は、13世紀 にモンゴル語 など、大元ウルス (元朝)の各種言語表記に用いるために制定された表音文字 。上から下へと縦に綴り、行は左から右へ進む。パクパ文字 、方形文字 (ほうけいもじ)とも呼ばれる。
パスパ文字は発明から100年間ほどしか使われなかったが、チベット では1642年 に発足したガンデンポタン 政権のもとで、ダライ・ラマ がチベット ・ハルハ ・オイラト などの諸国のモンゴル人 王公たちに称号を授与する際、印章 に称号を刻むための文字として採用された[ 1] 。
歴史
創成とモンゴル帝国大元ウルスにおける使用
パスパ文字で書かれた元朝の勅令。 左→右へ読まれる。
漢字・パスパ文字の韻書 『蒙古字韻 』(1307年)の写本
モンゴル帝国 の大元ウルスで国師 であったチベット仏教 のラマ 、パスパ(パクパ) が、クビライ・ハーン の命を受けて、大元ウルス下の全ての言語を表記するための共用国字として作成した。
従来、モンゴル語 表記に使用していたウイグル文字 (ウイグル式モンゴル文字)は、モンゴル語の音を全て表記するためには不完全であり、大元ウルスが支配下に置いた地域で広く用いられている中国語 のような全く異なった音韻体系を持つ言語に使用を広げるのは非実用的であった。また、元より先に華北に存在した遼 や金 も独自の文字を持っていた[ 2] 。このため、元のクビライは、大元ウルス全体で使用するための新しい文字の設計をパスパに命じた。パスパは、叔父のサキャ・パンディタ が考案した文字を元に[ 2] 、モンゴル語や中国語などを包含するようにチベット文字 (悉曇文字 や現行のデーヴァナーガリー と同じくブラフミー文字 の系列)を拡張した。1269年 (至元 6年)3月、パスパが作成した文字は元の国字として公布された[ 3] 。パスパの没後、テムル 、カイシャン の時代、軟母音、後置字、再置字などのパスパ文字の細部の仕上げがされた[ 2] 。
この成果としての38字は、その形状に基づき「方形文字」などとも呼ばれるが、今日一般的には「パスパ文字」として知られている。元朝時代にはパスパ文字は、「蒙古字」ないし「蒙古新字」と称されていた。
字体の起源が、横書き のチベット文字にあるにもかかわらず、以前のウイグル文字や漢字と同様に縦書き であり、かつウイグル文字と同じく左から右へ書かれる。元 朝の公的文書や碑文には、中国語 をパスパ文字で表記したものも残されているが、全て漢字併記の形として書かれている。縦書きで漢字との併記になじみやすいという利点もあるが、声調 を区別できない表記法であるため、意味の誤解を生みやすく、単独での使用には堪えなかったためである。しかし、モンゴル人などが漢字を学習する場合には、およその読みが分かって効率を高める働きがあった。また、通常の楷書 体の他に、画数を増大させた篆書体 も存在し、印章 などにも使用されていた。
17世紀のチベット仏教圏における使用の復活
17世紀、モンゴル系のオイラト の支援で成立したチベット のダライ・ラマ政権 (1642年 - 1959年)のもとで、パスパ文字は印章の印面を刻むための字体の一種として大々的に復活をとげ、ダライ・ラマ 自身の印章や、ダライ・ラマがチベット やハルハ 、オイラト の王公、貴族たちにハン ・ホンタイジ ・ジノン ・タイジ などの称号を授与する際に送られる印章を刻むのに使用された[ 4] 。
現代に出版されたチベット文字の各種字体の学習帳にも「新ホル文字(hor yig gsar pa)」として収録されている[ 5] 。
用途
パスパ文字表記での「ウィキ 」
1269年 (至元6年)の制定以降、皇帝聖旨などの中央から発給されるモンゴル語の命令文書や碑文、印章、牌子(パイズ)、貨幣(大元通宝 、至元通宝 、至正通宝 )などに使用され[ 2] 、それらの遺物も多い。また、モンゴル語以外にトルコ語 を音写したケースも存在する[ 6] 。近年、元朝時代にパスパ文字で書かれたモンゴル語による皇帝聖旨などの命令文書やそれを刻した碑文が大量に発見されており、それらはパスパ文字モンゴル語文と漢字文の合璧碑文や、中には伝統的な漢字の文語文にパスパ文字による音写を並記したものも存在する[ 7] 。曲阜 の孔廟 には、1307年 に納められたパスパ文字と漢文を併記した碑文が現存する[ 8] 。
現存しないが、『孝経 』や『資治通鑑 』、『貞観政要 』などの漢籍類も武宗カイシャン などの命によってパスパ文字モンゴル語訳がされて、それらが印刷されたことが史書に記録されている(ウイグル文字のものではあるが、モンゴル語訳『孝経 』は現存する)。漢字の注音 にパスパ文字を用いた現存資料としては字書・韻書『蒙古字韻 』(1307年 )があり、類書『事林広記 』の元代刊本では「百家姓 」の項目に漢人の姓のそれぞれの音に対応するパスパ文字が並記されている。近年の文書研究では公文書の書式例文に官僚たちが押した署名や印章にパスパ文字が用いられた形跡が確認されている。
しかし、幾何学的なパスパ文字は早書きに適していないために普及せず、一般には便利なウイグル文字が使用されることが多かったと考えられている[ 2] [ 9] 。その後、1368年 、元朝が明 朝の攻撃を受けて北走すると、幅広く認められないままに急速に使われなくなった、と考えられていた。
しかし近年の調査で、北元 以降もモンゴル高原周辺のモンゴル王侯や仏教寺院において、印章や門扉の祈願文などに篆書体 のパスパ文字が近代になるまで、使用例は減少していたものの使い続けられていたことが判明している。
17世紀に入り、オイラト の支援でチベット にダライ・ラマ の政権ガンデンポタン が発足すると、ダライラマがチベットやハルハ 、オイラトの諸国の王公・貴族たちに授与する称号を印章に刻むための文字として、ふたたび広く使用されるようになった。現代チベットではパスパ文字は「蒙古文字」と呼ばれ、印章や装飾文字に使用されることがある[ 2] 。
元代に著された膨大な文書資料は、当時の漢字音である近古音 を記録している歴史資料として価値があり、羅常培 、蔡美彪 などの現代の言語学者により、中国及び他のアジアの言語変化に関する手がかりとして研究されている。
ハングルとの関係
パスパ文字とハングルの比較
朝鮮の歴史やハングル の研究で知られ、コロンビア大学 名誉教授であるガリ・レッドヤード (英語版 ) は論文で、ハングルは元朝 のパスパ文字を参考にして考案されたという説を唱えている。
レッドヤードの主張の根拠のひとつは、『訓民正音 』にあるハングルの字形についての「象形而字倣古篆(形を象りて、字は古篆に倣ふ)」という記述である。伝統的には、この記述にある「古篆」は「古い篆書体 」の意だとされるが、レッドヤードはこの「古篆」は当時「蒙古篆字」の名で知られていたパスパ文字を指すとしている。レッドヤードはまた、ハングルの字母にパスパ文字と字体が似ているものがいくつかあり、いくつかの合成字母についても作り方がパスパ文字に似ていることを指摘している。
パスパ文字をハングルの基礎だとする見解は、レッドヤード以外の研究者からも出されている[ 10] [ 11] 。
文字の一覧
基本的な文字
以下の41字が基本的なパスパ文字である。1番から30番、35番から38番までの文字が子音であり、31番から34番、そして39番目の文字が母音である[ 12] 。
番号
パスパ文字
基になった字
名前
転写
1
ꡀ
TIBETAN LETTER KA ཀ [U+0F40]
KA
k
2
ꡁ
TIBETAN LETTER KHA ཁ [U+0F41]
KHA
kh
3
ꡂ
TIBETAN LETTER GA ག [U+0F42]
GA
g
4
ꡃ
TIBETAN LETTER NGA ང [U+0F44]
NGA
ng
5
ꡄ
TIBETAN LETTER CA ཅ [U+0F45]
CA
c
6
ꡅ
TIBETAN LETTER CHA ཆ [U+0F46]
CHA
ch
7
ꡆ
TIBETAN LETTER JA ཇ [U+0F47]
JA
j
8
ꡇ
TIBETAN LETTER NYA ཉ [U+0F49]
NYA
ny
9
ꡈ
TIBETAN LETTER TA ཏ [U+0F4F]
TA
t
10
ꡉ
TIBETAN LETTER THA ཐ [U+0F50]
THA
th
11
ꡊ
TIBETAN LETTER DA ད [U+0F51]
DA
d
12
ꡋ
TIBETAN LETTER NA ན [U+0F53]
NA
n
13
ꡌ
TIBETAN LETTER PA པ [U+0F54]
PA
p
14
ꡍ
TIBETAN LETTER PHA ཕ [U+0F55]
PHA
ph
15
ꡎ
TIBETAN LETTER BA བ [U+0F56]
BA
b
16
ꡏ
TIBETAN LETTER MA མ [U+0F58]
MA
m
17
ꡐ
TIBETAN LETTER TSA ཙ [U+0F59]
TSA
ts
18
ꡑ
TIBETAN LETTER TSHA ཚ [U+0F5A]
TSHA
tsh
19
ꡒ
TIBETAN LETTER DZA ཛ [U+0F5B]
DZA
dz
20
ꡓ
TIBETAN LETTER WA ཝ [U+0F5D]
WA
w
21
ꡔ
TIBETAN LETTER ZHA ཞ [U+0F5E]
ZHA
zh
22
ꡕ
TIBETAN LETTER ZA ཟ [U+0F5F]
ZA
z
23
ꡖ
TIBETAN LETTER -A འ [U+0F60]
-A
-
24
ꡗ
TIBETAN LETTER YA ཡ [U+0F61]
YA
y
25
ꡘ
TIBETAN LETTER RA ར [U+0F62]
RA
r
26
ꡙ
TIBETAN LETTER LA ལ [U+0F63]
LA
l
27
ꡚ
TIBETAN LETTER SHA ཤ [U+0F64]
SHA
sh
28
ꡛ
TIBETAN LETTER SA ས [U+0F66]
SA
s
29
ꡜ
TIBETAN LETTER HA ཧ [U+0F67]
HA
h
30
ꡝ
TIBETAN LETTER A ཨ [U+0F68]
'A
'
31
ꡞ
TIBETAN VOWEL SIGN I ི [U+0F72]
I
i
32
ꡟ
TIBETAN VOWEL SIGN U ུ [U+0F74]
U
u
33
ꡠ
TIBETAN VOWEL SIGN E ེ [U+0F7A]
E
e
34
ꡡ
TIBETAN VOWEL SIGN O ོ [U+0F7C]
O
o
35
ꡢ
TIBETAN LETTER KHA ཁ [U+0F41]
QA
q
36
ꡣ
TIBETAN LETTER KHA [U+0F41] plus TIBETAN SUBJOINED LETTER WA [U+0FAD] ཁྭ
XA
x
37
ꡤ
TIBETAN LETTER HA [U+0F67] plus TIBETAN SUBJOINED LETTER WA [U+0FAD] ཧྭ
FA
f
38
ꡥ
TIBETAN LETTER GA ག [U+0F42]
GGA
39
ꡦ
TIBETAN VOWEL SIGN EE ཻ [U+0F7B]
EE
ee
40
ꡧ
TIBETAN SUBJOINED LETTER WA ྭ [U+0FAD]
SUBJOINED WA
w
41
ꡨ
TIBETAN SUBJOINED LETTER YA ྱ [U+0FB1]
SUBJOINED YA
y
追加された文字
番号
パスパ文字
基になった字
名前
転写
サンスクリット語・チベット語での例
42
ꡩ
TIBETAN LETTER TTA ཊ [U+0F4A]
TTA
tt
sha tt-a pa ... i ta (Sanskrit ṣaṭ pāramitā ) [Ill.3 Line 6]
43
ꡪ
TIBETAN LETTER TTHA ཋ [U+0F4B]
TTHA
tth
pra tish tthi te (Sanskrit pratiṣṭhite ) [Ill.3 Line 8] (TTHA plus unreversed I)
dhish tthi te (Sanskrit dhiṣṭhite ) [Tathāgatahṛdaya-dhāraṇī Line 16] (TTHA plus reversed I)
nish tthe (Sanskrit niṣṭhe ) [Tathāgatahṛdaya-dhāraṇī Line 10] (TTHA plus reversed E)
44
ꡫ
TIBETAN LETTER DDA ཌ [U+0F4C]
DDA
dd
dann dde (Sanskrit daṇḍaya ) [Tathāgatahṛdaya-dhāraṇī Line 14]
'-a kad ddha ya (Sanskrit ākaḍḍhaya ) [Ill.4 Line 7] (DDA plus reversed HA)
45
ꡬ
TIBETAN LETTER NNA ཎ [U+0F4E]
NNA
nn
sb-a ra nna (Sanskrit spharaṇa ) [Ill.3 Line 3]
ush nni ... (Sanskrit uṣṇīṣa ) [Ill.3 Line 6] (NNA plus reversed I)
kshu nnu (Sanskrit kṣuṇu ) [Tathāgatahṛdaya-dhāraṇī Line 2] (NNA plus reversed U)
ha ra nne (Sanskrit haraṇe ) [Ill.4 Line 5] (NNA plus reversed E)
pu nn.ya (Sanskrit puṇya ) [Tathāgatahṛdaya-dhāraṇī Line 13] (NNA plus reversed subjoined Y)
46
ꡱ
TIBETAN SUBJOINED LETTER RA ྲ [U+0FB2]
Subjoined RA
r
bh-ru^ (Sanskrit bhrūṁ ) [Ill.3 Line 2]
mu dre (Sanskrit mudre ) [Ill.3 Line 9]
ba dzra (Sanskrit vajra ) [Ill.3 Line 9]
bkra shis (Tibetan bkra-shis "prosperity, good fortune") [Ill.5]
47
ꡲ
TIBETAN LETTER RA ར [U+0F62]
Superfixed RA
sangs rgyas (Tibetan sangs-rgyas "Buddha") [Ill.6]
48
ꡳ
TIBETAN SIGN SNA LDAN ྃ [U+0F83]
DEVANAGARI SIGN CANDRABINDU [U+0901]
チャンドラビンドゥ
^
o^ bh-ru^ bh-ru^ (Sanskrit oṁ bhrūṁ bhrūṁ ) [Ill.3 Line 2]
sa^ ha ... (Sanskrit saṁhatana ) [Ill.3 Line 9]
Unicode
パスパ文字に用いるUnicode は、バージョン5.0 以降で、U+A840 から U+A87F である。文字のほか、記号等を含む56字が割り当てられている。
U+
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
A
B
C
D
E
F
A840
ꡀ
ꡁ
ꡂ
ꡃ
ꡄ
ꡅ
ꡆ
ꡇ
ꡈ
ꡉ
ꡊ
ꡋ
ꡌ
ꡍ
ꡎ
ꡏ
A850
ꡐ
ꡑ
ꡒ
ꡓ
ꡔ
ꡕ
ꡖ
ꡗ
ꡘ
ꡙ
ꡚ
ꡛ
ꡜ
ꡝ
ꡞ
ꡟ
A860
ꡠ
ꡡ
ꡢ
ꡣ
ꡤ
ꡥ
ꡦ
ꡧ
ꡨ
ꡩ
ꡪ
ꡫ
ꡬ
ꡭ
ꡮ
ꡯ
A870
ꡰ
ꡱ
ꡲ
ꡳ
꡴
꡵
꡶
꡷
脚注
^ Schuh,Dieter,Grundlagen tibetischer Siegelkunde:Eine Untersuchung über tibetische Siegelaufuschriften in 'Phags-pa-Schrift,Sankt Augustin:WGH Wissenschafsverlag,1981.
^ a b c d e f 藤枝「パスパ文字」『アジア歴史事典』7巻、372-373頁
^ C.M.ドーソン 『モンゴル帝国史』3巻(佐口透 訳注、東洋文庫 、平凡社 、1974年6月)、39-40頁
^ 中野美代子『沙漠に埋もれた文字:パスパ文字のはなし』ちくま学芸文庫,1994。ISBN 4-480-08165-8 ,pp.50-69,211-217。石濱裕美子『チベット仏教世界の歴史的研究』東方書店,2001。pp.107-142
^ go ba dbyig, hri zhod lis,GANGS CAN MKHAS PA'I PHYAG BRIS SNA TSHOGS PHYOGS BSDUS RIN CHAN PHRANG BA/, kan su'u mi rigs dpe skurn khang,1990,ISBN 75421-0048-3 。pp.168-170。
^ 北川、杉山『大モンゴルの時代』、180頁
^ 北川、杉山『大モンゴルの時代』、179-180頁
^ 北川、杉山『大モンゴルの時代』、179頁
^ 佐藤長 「パクパ」『世界伝記大事典 世界編』7巻(桑原武夫 編, ほるぷ出版 , 1978年 - 1981年)、296-297頁
^ 正木晃 『裸形のチベット チベットの宗教・政治・外交の歴史』、37-38頁
^ 岡田英弘 『皇帝たちの中国』、第3章 ISBN 978-4562031481
^ “BabelStone : ʼPhags-pa Script : Description ”. www.babelstone.co.uk . 2019年6月28日 閲覧。
参考文献
関連項目
外部リンク
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