西園寺家(さいおんじけ)は、藤原氏北家閑院流の公家・華族である。公家としての家格は清華家。華族としての家格ははじめ侯爵家だったが、西園寺公望の勲功により、後に公爵家に陞爵。
支流に菊亭家・洞院家(室町時代に絶家)・伊予西園寺氏などがある。家紋(定紋)は左三つ巴を使用。
歴史
封建時代
閑院流の祖である閑院太政大臣藤原公季の五世の孫の藤原公実の四男の通季を祖とする。三条家や徳大寺家とは姉妹家にあたる(三条家は藤原公実の次男の実行の子孫、徳大寺家は公実の五男の実能の子孫)。
家名は、4代公経が元仁元年(1224年)に北山山荘に建立した西園寺(北山殿)にちなんでいる[注釈 1]。
藤原通季は保安年間(1120年 - 1124年)に鳥羽上皇の御厩別当になっており、ついで通季の曾孫の西園寺公経も正治元年(1199年)まで後鳥羽上皇の御厩別当になっている。さらに寛元4年(1246年)に西園寺公相が後嵯峨上皇の御厩別当になっており、これ以降は中絶の時期はあれど、院の御厩別当の地位は西園寺家の世襲となり、その立場は戦国時代・江戸時代にも変わることがなかった。
公経は源頼朝の同母姉妹の坊門姫の娘の全子を妻とし、加えて摂家将軍「藤原頼経」の祖父に当たることから、鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため、承久の乱に際しては幕府に内応する恐れがあるとして朝廷によって幽閉されるが、かえって乱後に幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣にまで昇進して家格を高めることに成功した。
公経より公宗までは朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内・立后させ、天皇の外戚として一時は摂関家をも凌ぐ権勢を振るった。実兼は大覚寺統に接近し、亀山法皇や後醍醐天皇に娘を入れたが、子の公衡以降は反・幕府的態度を取る大覚寺統からは離反し、次第に持明院統との関係を深めている。
また、藤原実宗(公経の父)は藤原師長から桂流・西流の琵琶の奥義を得て以来、琵琶の家として知られた。特に後鳥羽天皇以来、琵琶は天皇が習得する必須の楽器とされるようになってから宮廷でも重要視され、西園寺公相が後深草天皇の琵琶の御師(御琵琶師)とされて以降、歴代天皇は西園寺家の当主から琵琶を習う慣例となり、政治的のみならず、文化的分野でもリードするようになった[7]。
この時期は西園寺家の女性の成員も文化面で活躍しており、伏見天皇中宮の永福門院(西園寺鏱子)は京極派を代表する大歌人で、後醍醐天皇中宮の後京極院(西園寺禧子)も勅撰歌人である。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は退勢に陥る。公宗は北条氏残党である北条泰家(時興)をかくまい、後醍醐天皇を暗殺して持明院統の後伏見上皇を擁立する[8]謀叛を計画したが、弟公重の密告によって発覚したために処刑され、家は公重が継承した。やがて公重が南朝へ参候したため、公宗の遺児実俊が右大臣に昇って家名を再興したが、往時の権勢は失われた。またこの頃、一族の公俊が家領の伊予国宇和郡に下向して土着し、伊予西園寺氏の祖となった。近世初期の実晴は細川忠隆の長女を御台所に迎えたが、その遺産は家政の基盤となる。以後は当主の夭折が相次ぎ、他家からの養子が続いた。
家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実・雅楽(琵琶)。琵琶の伝授は江戸時代に597石(実高約400石)の微禄しかなかった西園寺家にとって重要な収入源になっていた(西園寺公望は琵琶が嫌いで家臣たちを心配させたという)。西園寺家には官位持ちの諸大夫5家と侍4家が家臣として仕えていた。一条家の家礼だった。
明治以降
幕末に同じ閑院流の徳大寺家から養子に入った公望は、戊辰戦争で山陰、東山、北陸各道に出征して倒幕に尽し、明治維新に貢献した。賞典禄300石を賜る。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、西園寺家も旧公家として華族に列した。
明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で465石8斗[注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄の引き換えで支給された金禄公債の額は2万3682円10銭2厘(華族受給者中200位)。明治前期の公望の住居は東京市麹町区一番町にあった。
1884年(明治17年)7月7日に公望は、旧清華家として侯爵を授けられた。
公望は、明治3年にフランス留学から帰国して以降、駐オーストリア、駐ドイツ、駐ベルギー各公使、賞勲局総裁、貴族院副議長、枢密顧問官などを歴任した後、第2次伊藤内閣に文部大臣、外務大臣として入閣。第2次松方内閣では外務大臣、第3次伊藤内閣では文部大臣として入閣し、枢密院議長も務めた。ついで政友会総裁となり、明治39年と明治44年に内閣総理大臣を二度務めた後、1920年(大正9年)9月7日に勲功により公爵に陞爵(しょうしゃく)した。
公望は元老として明治後期から昭和初期の政界に重きをなした。特に明治後期から大正初期に西園寺公望と桂太郎が交互に内閣総理大臣を務めた時代を桂園時代と呼ぶ。リベラリストだが、共産主義は受け入れず、君主制を拒否しないコスモポリタン・自由主義者の立憲君主主義者だった。
昭和前期の西園寺公爵家の住居は静岡県庵原郡興津町と東京府東京市神田区駿河台にあった。
男子がない公望は、長女新(明治19年12月20日生、大正9年1月没)の夫西園寺八郎(毛利元徳公爵の八男)を養子に迎え、公爵位を継承させた。
八郎の子は不二男(明治43年11月26日生、昭和61年5月31日没)。不二夫の夫人春子(大正9年1月5日生)は鮎川義介長女。不二男の長男は公友(昭和18年6月22日生)。公友の夫人延子(昭和22年1月2日生)は清原薫三女。
公友の長男は直之(昭和54年9月25日生)。
歴代当主
系譜
西園寺家の所領・家禄・財産
鎌倉時代に西園寺家は諸国の知行国主となり、その所領は日本全国に存在したが、西園寺家が特に執着していたのは海上交通に面する所領だった。最も重要な所領は鎌倉時代を通じて事実上家領として支配してきた伊予国であり、1236年には西園寺公経が幕府に強要して橘公業の同国宇和郡の知行を止めさせて自らの所領にしている。南北朝動乱期には一円支配下に置いた宇和郡に、その一流の立間氏や松葉氏を土着させて、室町時代以降にさらにその足場を固めて伊予国の戦国大名化した(伊予西園寺氏)。
江戸時代の所領の表高は597石だったが、実高は400石程度しか取れなかったという。国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の西園寺家領は以下の通り。(5村・597石1斗4升)
- 山城国葛野郡西院領のうち - 22石1斗4升
- 山城国乙訓郡今里村のうち - 104石
- 山城国乙訓郡大原野村のうち - 200石
- 山城国紀伊郡吉祥院村のうち - 1石
- 山城国紀伊郡東九条村のうち - 270石
維新後、戊辰戦争の軍功により賞典禄300石を永世下賜された。
所領は、明治維新後に465石8斗の現米の家禄に換えられたを経て、最終的に明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と賞典禄は2万3682円10銭2厘の金禄公債と交換された。
明治27年(1894年)より天皇の御手許金で「旧堂上華族恵恤賜金」が創設され、その利息が旧堂上華族を対象に分配されるようになった。これにより西園寺家は旧堂上家の公侯爵家として900円の配当を年2回受けることができた。
西園寺文庫
西園寺家の文書や蔵書などは、以下の場所などに所蔵されている西園寺家は、京都大学、立命館大学、学習院大学と関係が深い。[要出典]
脚注
- ^ 当初の景観は法成寺をもしのいだというが、南北朝時代には早くも荒廃したため[要出典]、寺地は足利義満に譲られ、やがて鹿苑寺(金閣寺)が建てられた。
- ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである。
参考文献
- 参考資料
関連項目
外部リンク