菊亭家(きくていけ)は、藤原北家閑院流西園寺家の庶流にあたる公家・華族。公家としての家格は清華家、華族としての家格は侯爵家。近代前には今出川家(いまでがわけ)の家名も併用されたが、明治以降の戸籍制度のもとで菊亭を名字に定めた。家紋は三つ紅葉。
歴史
封建時代
鎌倉時代末期、太政大臣西園寺実兼の四男右大臣菊亭兼季によって創設された。兼季は「今出川」と「菊亭」の2つの号を用いているが、「今出川」は兼季の邸宅・今出川殿からとられている。「菊亭」はこの今出川殿に兼季が愛好した菊が数多く植えられていたことから来ているという話が『続本朝通鑑』には見えるが、西園寺家領の殿邸の一つに「菊亭」があり、それが兼季に伝領されたためと考える方が自然とする説がある。江戸時代中期に篠崎東海が著した有職故実解説書『故実拾要』によると、大納言までは「菊亭」を称し、大臣にのぼると「今出川」を称したのだという。 明治維新以降に戸籍認定の際、号の「菊亭」を正式な名字として採用、統一化した。
公家としての家格は清華家、内々、旧家。家職は四個の大事、有職故実、雅楽(琵琶)。
安土桃山時代の当主で右大臣まで登った菊亭晴季は、豊臣秀吉と親交が深く、よくその相談に預かった。秀吉に関白職を斡旋したのも彼だった。豊臣秀次事件に関与して一時越後に流罪となったが、後に赦免されて右大臣に復帰した[3]
江戸時代の家禄は1355石、正保2年(1645年)に300石加増され1655石[注釈 1]となり、摂家の鷹司家の1500石を上回ることになった。清華家で1000石以上を有していたものは他にない[4]。菊亭は同格の公家と比べても財政的に恵まれていた事から、他の清華家から負担を求められた場があり「おめり申し上ぐべし」と言われていた[4]。たとえば他家が二年目に官位を申請するならば、菊亭家は同じ官位を三年目に申請したという具合である。
明治以降
菊亭脩季の代に明治維新を迎える。明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、菊亭家も旧公家として華族に列した。
明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で691石4斗[注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は3万275円8厘(華族受給者中170位)。明治前期の脩季の住居は東京府麹町区元園町にあった。
明治17年(1884年)7月7日に華族令施行で華族が五爵制になると旧清華家として脩季が侯爵に列せられた。
初代侯爵の脩季は、貴族院成立後侯爵として無選挙で議員となり、立憲政友会の幹事長を務めた。また明治22年(1889年)には伯父三条実美らとともに北海道雨竜原野に5万ヘクタールの土地貸し下げを受けて、雨竜華族農場を組織したが、明治24年(1891年)に解散・分割となり、明治26年(1893年)に深川村に5756ヘクタールの菊亭農場を開設、明治32年(1899年)に全耕地を小作人に分譲するまで経営を続けた[12]。
明治38年10月8日に脩季が死去し、公長が侯爵位を継承。彼は殿掌を務めた。公長の代の昭和前期に菊亭侯爵家の邸宅は京都市左京区永観堂町にあった。
昭和19年9月23日に公長が死去した後、実賢が爵位と家督を継承したが、彼も翌年9月15日に没している。
実賢には娘として賢子があり、彼女は志賀逸夫と結婚しており、その間の次女直子が公長夫人章子の養子という形で跡を継いだ。
系譜
※ 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
菊亭文庫
家に伝わる文書は京都大学、専修大学に「菊亭文庫」として所蔵されている。
脚注
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によると、幕末期の菊亭家領は山城国乙訓郡大藪村のうち27石、山城国乙訓郡下植野村のうち277石3斗5升、山城国乙訓郡井之内村のうち111石8斗5升5合、山城国紀伊郡下鳥羽村のうち785石4斗7升1合1勺、山城国紀伊郡吉祥院村のうち3石3斗、近江国蒲生郡長田村のうち300石であり、合計6村・1504石9斗7升6合1勺だった。また、同データベースでは記載から漏れているが、このほか国立国会図書館デジタルコレクションの『大阪府全志』に河内国茨田郡門真一番上村のうち300石が今出川家領と記載されている。
- ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである。
出典
参考文献
文献
外部リンク