洞院家(とういんけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・西園寺家庶流。西園寺公経の男子実雄を家祖とし、鎌倉時代中期から室町時代中期にかけて存続した。
分家に羽林家の家格を有し、明治時代に華族に列した小倉家・正親町家がある。
現在まで存続している桓武平氏高棟王流嫡流の『西洞院家』とは、公家同士である点以外に共通点はなく、全く別の流れを持つ家である。
概要
家祖実雄は後嵯峨天皇のもとで左大臣に到達、後宇多・伏見天皇の外祖父として権勢を誇る。大覚寺統・持明院統双方の国母を出したことから、歴代当主が大臣に任じられるなど朝廷で重んじられ、また有職故実に明るい博識な家柄として多くの典籍を蓄積していた。中でも4代公賢は公事に練達し、『皇代暦』『拾芥抄』『魚魯愚抄』など数々の故実書を著した他、南北朝時代の重要史料とされる日記『園太暦』の記主であり、南北両朝より信任を得て太政大臣に至っている。
公賢の没後、その家門の継承について、南朝方の実守と北朝方の実夏との間で争われたが、室町幕府からの口入を得た6代公定のもとに統一された。なお、公定は『尊卑分脈』の編者、8代満季は『本朝皇胤紹運録』の編者として知られる。9代実熙は公賢らの著述を書写・増補するとともに自らも『名目鈔』を編み、同家の蔵書が公事の手引として幅広い関心を得た他、後花園天皇に箏の灌頂を伝授したという。
しかし、10代公数は伝来の家記・文書類を売却して文明8年(1476年)出家し、洞院家は絶家した。同じ閑院流の三条実敦は、『尊卑分脈』の末尾に、公数は「放埒」の人であるためにこのような行為をしたのであるとし、「不知法名」、「可洗耳(耳を洗うべし、このようなことは聞きたくもないという意味)」と記している。
ただし、9代実熙の当時には既に経済的に困窮して「番々の輩の如く成り下がる事はできない」と嘆かせる状況であったことから、公数の出家は清華家としての家格を維持できる見通しを失った事で没落よりも自ら絶家させる選択をしたとする指摘もある[1][2]。
累代の文書を失うことは家の存続を左右することでもあり、数年後、本家筋の西園寺実遠が子の公連をして洞院家を再興させたが、公連もまた30歳で出家し、その甥の西園寺実賢(西園寺公藤の子)が継承するも、消息不明となり、有名無実に終わった[1]。
『園太暦』を書写した甘露寺親長の奥書には「申断絶一流之由、文書記六売却方々、其内也。(洞院家を断絶させるために売却した)」とあり、公数が公連に家を継がせたくなかった意思があったとされる。また、洞院家の所領に関する文書については公連に継承されたものの、その所領はすでに武士に横領されており、収入を見込めるものではなかった[1]。
洞院家が所蔵していた記録、文書類は中院通秀らに売却され[3]、郢曲や内侍所御神楽の所作人は四辻季春が継承した[4]。
歴代当主
- 洞院実雄(1219年 - 1273年)
- 洞院公守(1249年 - 1317年)
- 洞院実泰(1269年 - 1327年)
- 洞院公賢(1291年 - 1360年)
- 洞院実夏(1315年 - 1367年)
- 洞院公定(1340年 - 1399年)
- 洞院実信(1357年 - 1412年)
- 洞院満季(1390年 - ?)
- 洞院実熙(1409年 - 1459年)
- 洞院公数(1441年 - ?)
- 洞院公連(1473年 - ?)
- 洞院実賢(1499年 - ?)
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
- ^ a b c 末柄豊「洞院公数の出家」田島公編『禁裏・公家文庫研究第一輯』 思文閣出版、2003年。
- ^ 井原今朝男「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」『室町期廷臣社会論』 塙書房、2014年。
- ^ (中本真人『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社、2021年12月22日、84頁)
- ^ (中本真人『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社、2021年12月22日、104‐105頁)
- ^ 正親町忠季の二男。
- ^ 西園寺実遠の二男。
- ^ 西園寺公藤の二男。
関連項目