森 有礼 (もり ありのり、旧字体 :森 有禮 、1847年 8月23日 (弘化 4年7月13日 ) - 1889年 (明治 22年)2月12日 )は、日本 の政治家 、外交官 、思想家 、教育者 [ 1] 。通称 ・助五郎 、金之丞 。栄典 は贈 正二位 勲一等 子爵 。
第1次伊藤内閣 で初代文部大臣 となり、諸学校令 制定により大日本帝国 期の教育制度 を確立した。また明六社 、商法講習所 (一橋大学 の前身)の設立者、東京学士会院 (日本学士院 の前身)会員であり、明治六大教育家 に数えられる。
来歴
弘化4年(1847年)、薩摩国 鹿児島城 下春日小路町(現在の鹿児島県 鹿児島市 春日町 )で薩摩藩士 ・森喜右衛門有恕 の五男として生まれた。兄に横山安武 がいる。安政 7年(1860年 )頃より造士館 で漢学 を学び、元治 元年(1864年 )頃より藩の洋学校 である開成所 に入学し、英学 講義を受講する。
慶応 元年(1865年 )、五代友厚 らとともにイギリス に密航 、留学 し(薩摩藩第一次英国留学生 )ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン で学ぶ[ 2] 。ロンドンでは長州五傑 と会う。その後、ロシア帝国 を旅行し、さらにローレンス・オリファント の誘いでアメリカ にも留学し、オリファントの信奉する新興宗教 家トマス・レイク・ハリス の教団「Brotherhood of the New Life 」と生活をともにし、キリスト教 に深い関心を示した[ 3] 。また、アメリカの教科書を集める。
明治元年(1868年 )6月帰国。7月25日外国官権判事に任じられた[ 4] [ 5] 。22歳で高官になり月俸200円を給されていたが、30円で十分だと、9月10日、鮫島尚信 と共に、自分たちの「減俸嘆願書」を上申した。
明治3年(1870年 )秋、 少弁務使[ 6] としてアメリカに赴任する。
1872年 2月3日、アメリカ駐在少弁務使としてアメリカの有識者に日本の教育について意見を求める(その返書を1873年『Education in Japan』(『日本における教育』)として刊行)。1872年11月25日、ワシントンで『Religious Freedom in Japan』(『日本における宗教の自由』)を発表。
明治6年(1873年 )夏、帰国すると福澤諭吉 ・西周 ・西村茂樹 ・中村正直 ・加藤弘之 ・津田真道 ・箕作麟祥 らと共に明六社 を結成する。1874年5月から1875年2月に『明六雑誌』に「妻妾論」を発表。一夫一婦を主張する。
明治8年(1875年 )、東京銀座 尾張町に私塾・商法講習所 (一橋大学 の前身)を開設する。駐英公使をつとめていたときに、ハーバート・スペンサー から大きな影響をうけたといわれる。
同年2月6日、福澤諭吉が証人となり、幕臣広瀬秀雄の娘広瀬常 との結婚に際して3か条を交換して婚姻契約書に署名し結婚した(第3条に夫婦の共有物は無断で処分してはならぬ旨条項あり)。契約結婚のはしりと言われた。
同年11月、清国 公使になる。明治9年(1876年 )1月、保定府 (北京 の南方)で李鴻章 と会談。
明治12年(1879年 )11月、英国公使になる。
明治18年(1885年 )12月22日、第1次伊藤内閣 の下で初代文部大臣 に就任し(死没日まで)、東京高等師範学校 (東京教育大学 を経た、現在の筑波大学 )を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わる。また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校 に配る。
明治19年(1886年 )には、学位令 を発令し、日本における学位 として大博士 と博士 の二等を定めたほか、教育令 に代わる一連の「学校令 」の公布に関与し、様々な学校制度の整備に奔走した。黒田内閣 でも留任。
明治20年(1887年 )4月には、大日本教育会 の果たすべき役割の重要性について私案を提出している(1884年 の学習院講堂で開かれた常集会でも大木喬任 とともに演説を行っている)[ 7] 。
しかし明治22年(1889年 )2月11日の大日本帝国憲法 発布式典の日、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義 者・西野文太郎 に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去[ 8] 。43歳だった。
当時の新聞 が、「ある大臣が伊勢神宮 内宮を訪れた際、社殿にあった御簾 をステッキ でどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿 を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件 )問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な欧化主義 者であった森に人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。木場貞長 はのちにこの事件は事実無根であると書き残している。
人物
森有礼(1871年)
英語 の国語 化を提唱(国語外国語化論 )。
森の国語英語化論においては、馬場辰猪 ・西周 ・清水卯三郎 ・黒川真頼 が反対の説を唱えた。黒川真頼は明治8年(1875年)6月、『言語文字改革ノ説ノ弁』を『洋々社談』第二号に発表し、痛烈に批判した[ 9] [ 10] 。
森の急進 的な考えには当時の大衆 の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもした。
明治4年(1872年)に設立された日本アジア協会 の会員であった(設立時点で唯一の日本人会員[ 11] )。明治6年(1874年)2月の例会で神道 に関するディスカッション が行われた際には、「神道の中心思想は死者に対する敬虔な崇拝だ。日本の絶対主義 的現政権を維持するために政府が巧みにこれを政治利用したことは実に正当だったと考えるが、日本の初期の歴史記録とされている書物は信頼に値するとは到底言えない」という意見をのべている[ 11] 。
広瀬常との結婚は、日本における最初の契約結婚となった。契約は「それぞれが妻、夫であること」、「破棄しない限り互いに敬い愛すこと」、「共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと」の3条から成り、福沢諭吉 が証人となった[ 14] 。常とは、結婚11年目に常の素行上の理由で双方納得のうえ離婚した[ 14] 。
将棋を愛好し、福沢諭吉 ・服部金太郎 ・芳川顕正 らとともに名人小野五平 の後援者であった[ 15] 。
家族
父・森有恕、母・阿里
長兄・喜藤太有秀、次兄・喜八郎(青山良顕)、三兄・三熊(夭折)、四兄・喜三次(横山正太郎安武 。1870年政府に建白し自刃)
最初の妻・広瀬常(1855年生)。静岡県 の士族広瀬秀雄の長女[ 16] 。開拓使女学校 卒[ 17] 。1875年に森と契約結婚し、外交官の妻として英国に4年半滞在、帰国後離婚[ 16] 。森との間に3児。長男・森清 (貴族院子爵議員)[ 18] 。次男・森英、長女・安。離婚の原因として娘の安が青い目の子であったためとする説があったが、作家の森本貞子は、常の実家の養嫡子となった広瀬重雄が森の恩人である伊藤博文 の暗殺を企てた静岡事件 の首謀者であったためという説をとっている[ 19] 。常の妹・福子は明治屋 創業者・磯野計 の妻。
後妻・岩倉寛子 (岩倉具視 の娘)。有馬頼萬 との間で離婚歴有り[ 20] 。森の死亡により結婚生活は約1年半。
中渋谷教会 の牧師・森明 は寛子との息子である。その娘・関屋綾子 は一家について『一本の樫の木 淀橋の家の人々』(1981年)を刊行。
仏文学者 ・哲学者 の森有正 は有礼の孫(明の子)にあたる。
墓所・霊廟・銅像
若き薩摩の群像
墓所は青山霊園 (1イ1-12)
昭和 57年(1982年 )、鹿児島中央駅 前東口広場に彫刻家の中村晋也 が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像 [ 21] 』の一人として銅像が建てられている。
年譜
弘化 4年(1847年) - 誕生。
安政 5年(1858年) - 藩校「造士館」入学。
元治 元年(1864年) - 藩洋学校「開成所」入学。
慶応 元年(1865年) - 薩摩藩英国留学生 として英国渡航。ロシア旅行。
慶応3年(1867年) - 米国渡航、新興宗教トマス・レイク・ハリス 教団に所属。
明治 元年(1868年) - 帰国後、徴士外国官権判事、学校取調兼勤。
明治2年(1869年) - 廃刀案を否決され辞表提出、佐賀の兄・横山安武 を訪問。
明治3年(1870年) - 興国寺跡で英学塾を開く。横山安武自刃。12月に外山正一 ら5名を伴い少弁務使として米国渡航(1871年1月)。任務は米国との外交事務と留学生の管轄[ 22] 。
明治5年(1872年) - 米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任。
明治6年(1873年) - 帰国後「明六社 」結成,外務大丞に昇任。
明治8年(1875年) - 広瀬常と結婚。このとき日本で初めての婚姻届 が出される。長男・森清誕生。特命全公使として清国渡航。
明治10年(1877年) - 帰国後、外務卿代理に昇任。
明治11年(1878年) - 外務大輔に昇任。
明治12年(1879年) - 駐英公使として英国渡航。
明治17年(1884年) - 帰国後、参事院 議官、文部省御用掛兼勤。
明治18年(1885年) - 第一次伊藤内閣初代文部大臣就任。「学政要領」立案。
明治19年(1886年) - 学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布。妻の常と離婚。このとき日本で初めての離婚届 が出される。
明治20年(1887年) - 岩倉寛子と再婚。子爵 となる。各地で学事巡視。伊勢神宮不敬事件起こり、森が疑われる。
明治21年(1888年) - 三男・森明 誕生。
明治22年(1889年) - 刺殺され、43歳(数え年)で没。
[ 23]
栄典
位階
勲章等
著作
著書
Religious Freedom in Japan : a memorial and draft of charter . 1872.
「英文日本宗教自由論」(吉野作造 編輯代表 『明治文化全集 第11巻 宗教篇』 日本評論社 、1928年9月 / 明治文化研究会 編 『明治文化全集 第19巻 宗教篇』 日本評論社、1967年8月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第12巻 宗教篇』 日本評論社、1992年10月、ISBN 4535042527 )
「日本に於ける宗教の自由」(三枝博音 、清水幾太郎 編 『日本哲学思想全書 第8巻 宗教 宗教論一般篇』 平凡社 、1955年12月)
On a representative system of government for Japan .
The proposed national assembly in Japan . Gibson Bros., printers, 1883.
編書
脚注
参考文献
関連文献
関連作品
小説
テレビドラマ
関連項目
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外部リンク
文部大臣 (初代:1885年 - 1889年)
再編前
再編後
省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。
前身諸学校・大学長
東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所主事 東京帝国大学農学部附属農業教員養成所主事 東京農業教育専門学校 長
東京体育専門学校長
体育研究所長
北豊吉 1924-1932
事務取扱 山川建 1932-1934
岩原拓 1934-1939
所長/事務取扱 小笠原道生 1939-1941/1941
東京高等体育学校長 東京体育専門学校長
国立盲教育学校長
事務取扱/校長 松野憲治 1949-1950/1950-1951
国立ろう教育学校長
事務取扱/校長 川本宇之介 1949-1950/1950-1951
全権公使 全権大使 在外事務所長 全権大使
カテゴリ
代理公使・弁理公使
森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使)
上野景範 1872(弁理公使 a )
特命全権公使 特命全権大使 在外事務所長 特命全権大使
a 外務少輔・外務卿代理を一時期兼ねる b 再任 c 遣アメリカ合衆国特命全権大使(在アメリカ合衆国特命全権大使の野村に加えての大使) d 1941年12月の日米開戦後に大使館が閉鎖されたため実質的に失職、両名は翌年8月の抑留者交換船で帰朝
学校令 :1886年(明治19年)〜1947年(昭和22年)
前史
学制 :1872年(明治5年)〜1879年(明治12年)⇒第一次教育令 :1879年(明治12年)〜1880年(明治13年)⇒第二次教育令:1880年(明治13年)〜1885年(明治18年) ⇒第三次教育令:1885年(明治18年)〜1886年(明治19年)
初等教育
中等教育
(尋常)中学校
第一次中学校令 :1886年(明治19年)〜1890年(明治23年)⇒第二次中学校令:1899年(明治32年)〜1943年(昭和18年) ⇒中等学校令 :1943年(昭和18年)〜1947年(昭和22年)
高等女学校
高等女学校令 :1899年(明治32年)〜1943年(昭和18年)⇒中等学校令:1943年(昭和18年)〜1947年(昭和22年)
実業学校
実業学校令 :1899年(明治32年)〜1943年(昭和18年)⇒中等学校令:1943年(昭和18年)〜1947年(昭和22年)
高等教育
教員養成
(尋常)師範学校 高等師範学校 女子高等師範学校
師範学校令 :1886年(明治19年)〜1897年(明治30年) ⇒第一次師範教育令:1897年(明治30年)〜1943年(昭和18年) / 女高師はこれ以降の規定 ⇒第二次師範教育令:1943年(昭和18年)〜1947年(昭和22年)
青年師範学校
青年学校教員養成所令 :1935年(昭和10年)〜1944年(昭和19年)⇒第二次師範教育令:1944年(昭和19年)改正〜1947年(昭和22年)
その他の学校
その他通則
諸学校通則 :1886年(明治19年)〜1900年(明治33年)
関連法令
帝国大学官制 :1893年(明治26年)〜1897年(明治30年) / 1946年(昭和21年)〜1947年(昭和22年) / 国立総合大学官制:1947年(昭和22年)〜1949年(昭和24年)学習院学制 :1884年(明治17年)〜1947年(昭和22年)朝鮮教育令 :第一次 - 1911年(明治44年)〜1922年(大正11年) / 第二次 - 1922年(大正11年)〜1938年(昭和13年) / 第三次 - 1938年(昭和13年)〜1952年(昭和27年)失効台湾教育令 :第一次 - 1919年(大正8年)〜1922年(大正11年) / 第二次 - 1922年(大正11年)〜1952年(昭和27年)失効戦時教育令 :1945年(昭和20年) - 学校教育法 :1947年(昭和22年)〜 - 国立学校設置法 :1949年(昭和24年)〜2004年(平成16年)
関連項目