諸葛 信澄(もろくず のぶずみ[1]、1849年10月21日(嘉永2年9月6日) - 1880年(明治13年)12月21日)は、明治時代の日本の教育者。通称・一郎、字は子常、号は秋芳[2]。
官立東京師範学校(筑波大学の前身の一つ)および官立大阪師範学校の校長を務めた。
来歴
嘉永2年9月6日(1849年10月21日)、長府藩に仕える絵師・諸葛力斎の子として長門国長府に生まれる[3]。同藩の福田扇馬が文久2年(1862年)に開いた私塾・桜柳亭で乃木無人(希典)、桂弥一らとともに学び、桜柳亭が母体となって元治元年(1864年)3月に藩学・集童場が設立されるとこれに転じた[4]。慶応元年(1865年)11月、同年2月に結成された長府藩報国隊の総督・泉十郎の処刑事件が起こり、報国隊幹部で集童場の指導者でもあった福原和勝、熊野直介が事件に抗して長州藩領厚狭郡吉田村の奇兵隊陣屋に脱走した際には、同じ集童場生の乃木、桂らとともに福原と熊野を追って脱走し、藩主の特使として派遣された乃木の父・十郎の説得により福原らとともに帰藩している[5]。慶応4年(1868年)4月、報国隊は北越戦争に出兵し、長岡城陥落後は会津戦争に参戦。会津城陥落後の11月、京都に凱旋したのち長府に戻った。諸葛は報国隊器械方として従軍し、論功行賞で金25両の25年分与を受けた[6][7]。
戦後は明治2年(1869年)に東京の開成学校(同年12月に大学南校と改称)に入って英書を学び、翌年11月頃には大学少舎長に就任。次いで中得業生を兼任し、明治4年(1871年)の文部省新設により文部少助教に更任されたのち文部省九等出仕となった。以後、翌年4月に文部省八等出仕、明治6年(1873年)11月に文部省七等出仕に進み、明治8年(1875年)10月に免出仕となるまで同省に在職[7][8]。この間、明治5年(1872年)に中小学掛となり、同年5月に官立師範学校(翌年8月に東京師範学校と改称)が新設されると8月に師範学校掛に異動。さらに翌年6月、学長(11月に校長と改称)に就任した[7][9]。同校では御雇教師マリオン・スコットの指導のもと米国式の一斉教授法を実施し、その内容をまとめた『小学教師必携』を刊行している[10]。また明治6年8月の官立大阪師範学校設立にあたり設立御用掛を命じられ、明治8年4月には同校の校長に転じた[11]。
退官後は西ヶ原に茶園を購入し移住[7]。明治9年(1876年)6月、学習院開校に先立ち華族会館より華族学校学監心得を命じられ、11月には学監に進んだが、開校前の翌年5月に解任となった[12]。その後、明治13年(1880年)9月に東京株式取引所肝煎に選出されるも[13]、病のため同年12月21日に死去した。享年32[7]。墓所は東京都文京区の大林寺にあり、境内には顕彰碑も建設されている[14]。
親族
著作
脚注
参考文献
関連文献
- 中村敬宇 「諸葛君碑」(『同人社文学雑誌』第89号、1883年2月)
筑波大学学長(東京師範学校学長・校長:1873年 - 1875年) (師範学校学長:1873年) |
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前身諸学校・大学長 |
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東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所主事 | |
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東京帝国大学農学部附属農業教員養成所主事 | |
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東京農業教育専門学校長 | |
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| 東京体育専門学校長 |
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体育研究所長 |
- 北豊吉 1924-1932
- 事務取扱 山川建 1932-1934
- 岩原拓 1934-1939
- 所長/事務取扱 小笠原道生 1939-1941/1941
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東京高等体育学校長 | |
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東京体育専門学校長 | |
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| 国立盲教育学校長 |
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- 事務取扱/校長 松野憲治 1949-1950/1950-1951
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| 国立ろう教育学校長 |
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- 事務取扱/校長 川本宇之介 1949-1950/1950-1951
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