1989年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1989 )は、57回目のル・マン24時間レースであり、1989年6月10日[1]から6月11日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。
概要
主催者のフランス西部自動車クラブとレースの国際組織である国際自動車連盟とのテレビ放映権を巡る対立が表面化し、スポーツカーのシリーズから外された単独の国際格式レースとして行なわれた[1]。この年は伝統のユーノディエールにシケインが入らない状態で行なわれた最後の年となった。
予選初日にジャン=マリー・バレストルは秘密会議を招集[2]し、経費を削減するためとして1990年からフォーミュラ1と同じ3.5リットルのノンターボエンジンとすることを提案した[2]が、日産自動車の町田にターボ車の方が経費がかからない旨反論を受け[2]、日産以外のメーカーもこれに同調したためレギュレーション変更は時期尚早であることを認めざるを得なくなった[2]。
グループC1
前年タイヤバーストで参加していないハンディはあるものの、熟成の進んでいなかった前年ですら高い戦闘力を見せたことから優勝候補として挙げられていたのはメルセデス・ベンツのザウバー・C9である。BMWで数々の実績を挙げていたヨッヘン・ニーアパッシュを監督に起用[1]し、一歩進めた強力な体制での参戦となった。車両はスポンサーカラーでなくナショナルカラーである銀色で、フランス人やイギリス人の中にはアドルフ・ヒトラーがメルセデス・ベンツやアウトウニオンを支援して銀色のマシンでサーキットを荒らし回った時代を想起した人もいた[1]。ただドライバーはフランス人、イギリス人、イタリア人などドイツ人に限られない国際色豊かな顔ぶれであった[1]。エンジンはDOHCのM119型となった。去年のタイヤバーストの原因はダウンフォースが大きくタイヤが耐えられなかったことによることが分かったので、ダウンフォースを小さくし空気抵抗が減少したボディーとなり、この副産物として最高速が伸びた[1]。ただあまり操縦安定性は良くなくドライバーの負担は大きかったという。
念願の優勝を前年果たしたジャガーはトム・ウォーキンショーが直接管理[1]する4両[1]のXJR-9[3]を持ち込み、連覇を狙っていた[1]。ただ新しく切り替える方向であったV型6気筒ターボエンジンはル・マンに持ち込めるだけの信頼性がなく、引き続き大きく重い7リットルエンジンで戦うこととなった[1]。スポーツカーレースシリーズではハンドリングに悩まされていたがル・マンに来るまでに解決した。
ポルシェはワークス参戦を取りやめ[1]、ヨースト・レーシング等有力プライベーターを支援するに留まった[1]が、台数としては依然最大勢力であった。
前年にル・マン最高速記録を樹立したWMセカテバは、資金難のためこの年の参戦予定はなかったが、ル・マンがスポーツカーのシリーズから外されたことを受けて参戦を決定した。次なる目標を24時間の完走に定め、P87とP88を改装したP489を計2台投入した。
ニッサンはシャシをアルミニウム[4]ハニカムモノコック[4]だったマーチ製[1][4]から軽量で剛性のある[4]炭素繊維[4]コンポジットのローラ製[1][4]に切り替えて大幅な戦力アップ[4]を果たし有力チームに仲間入り[4]、ポテンシャルでトヨタやマツダをしのぎ、日本車によるル・マン総合優勝に関してニッサンが最有力候補となったように思われた[4]。しかしシャシ/エンジンを新しくしたため充分な熟成ができずにル・マンを迎えることになった[4]。出場は日本のニスモから1台、ヨーロッパのNME(ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ)から1台、アメリカのエレクトラモーティブから1台の計3台である[4]。VRH35エンジン開発に関してエンジン設計責任者だった林義正は当初内径φ85mm×行程77mmの3,495ccを主張したが上司の同意が得られず、後に人事異動で認められたもののすでにル・マンへの投入には時間切れで、実際には内径φ85mm×行程75mmの3,405ccだったという[2]。
トヨタはニッサンがレース専用のV型8気筒エンジンを開発したことに触発され[4]、ようやく開発したV型8気筒[4]ツインターボ[4]、エンジンを開発、参加するだけだった状態からの脱皮を図りつつあった。エンジンは内径φ82mm×行程75mmで3,169cc[4]、圧縮比8.0で800PS/8,000rpm[4]と発表された。エンジンを積むシャシも開発が必要になったが、それまでにトムスで蓄積された技術は生かされず、TRDで設計されることになった[4]。新型のトヨタ・89C-Vを2台[4]の他、大事を取って旧型のトヨタ・88Cも1台[4]出走させた。新型車両はエンジンがピーキーで、操縦性も旧型車両と違っていた[4]。トヨタ・88Cは製作したトムスが主導してセッティングを進めた[4]。トヨタ、TRD、トムスと船頭が多くレースの方向性を巡りエネルギーを集中する面ではあまり効率が良くない体制であった[4]。
アストンマーティンはリアウィングの下にラジエーターを設置する奇妙な車両を持ち込んでいた[2]。
ランチアは4年落ちの中古車で、予選通過さえ危うかった[2]。
IMSA GTP
前年のル・マンの後、マツダとマツダスピードは予選で10秒以上のタイムアップを図る[4]こと、7位以内の入賞[4]と具体的な目標を掲げ、ジャガーと同ペースで走るためエンジンとシャシの性能をそれぞれ15%向上させることで一致していた。エンジン担当の栗尾憲之はエアファンネルをエンジン回転による伸縮式[4]としトルクピークを2箇所とすることに成功した。また鋼鉄製だったアペックスシールをセラミック製に置換、補機類を大幅に軽量化した。これらの改良により、改良前に550PSだったエンジンは燃費を向上させながら630PS[4]となった。トラブル対策、車体軽量化、空力性能の追求も行なわれた[4]。前年モデルの改良型であるマツダ・767Bが3台出場した。
予選
初日は晴れた[2]。
メルセデス・ベンツは速く、3分15秒04で1位[1]。2位も獲得し最前列を占めた[1]。
ノンターボにも関わらずジャガーが3位と4位[1]につけ、去年よりも確実に速くなっていることを伺わせた。
5位はヨーストポルシェ[1]。
ニッサンは初歩的なトラブルでタイムは上がらなかった[4]が、NMEの24号車が3分24秒09、12位で日本車最高位となった[4][1]。
トヨタは調子が悪く[2]、決勝までにまともな車に仕上がるかどうかという瀬戸際に立たされていた[2]。宣伝部からエンジニアに速さをアピールするよう要請があり[2]、予選用にブースト圧を上げたタイムアタック用エンジンを積んだTカーを持ち込み、直線だけぶっ飛ばしてタイムを出す手法でタイムを出すこととし、初日に走行が開始されて1時間40分[1]でジェフ・リース[1][4]がそれまでのトヨタの記録より10秒以上速い[4]3分15秒51[1][4]を記録、その段階で1位[4]であった。この記録は認められず[4][注釈 1][注釈 2]。記録としては37号車が3分25秒60で17位[4]、36号車が3分28秒32で24位[4]、38号車が3分28秒64で25位[4]となり、国産勢では最下位となった[2]。
マツダは従野孝司が完全に修復された202号車で3分25秒45を記録し16位[4]。
決勝
レースは大荒れの展開になった[2]。
ニッサンはNMEの24号車がスタート直後に5位に浮上[4]し23号車も一時3位を走行[4]するなど健闘したが、3台ともエンジントラブルでリタイヤ[4]となった。しかし組み付けミスによるオーバーヒート[4]、夜間のオーバークールによるオイル希釈でメタルが焼き付く[4]等対策可能なトラブルであることがはっきりしており、今後に期待を持たれた。
トヨタは予選用の1基を除いて全く出力が上がらず、また足回りの改善も進まず、開始前から勝負を放棄せざるを得なかった[2]。38号車が1時間[2]でスピンしてサスペンションにダメージを受け[4][2]、36号車が3時間で[2]エンジントラブル[4][2]、37号車が3時間40分[2]でドライブシャフト折損[4][2]によりクラッシュ[2]し、結局全車リタイヤ[4]であった。しかもトヨタはプレスリリースに状況を書く際に技術陣がドライブシャフトが折れて事故になったことを認めようとせず、さらに評判を落とした[2]。
アストンマーティンは19号車がスタート直後から電気系統のトラブルに見舞われ、2時間35分でリタイヤするまで治らなかった[3]。18号車がブライアン・レッドマン運転時にユーノディエール辺りで左後サスペンション不調でスローダウンししばらくピットインを強いられたが、24時間で4,601.990kmを平均速度191.635km/hで走り、11位に入った[3]。
マツダは前年のマシンの熟成により安定した戦いぶりで、3台ともがサスペンショントラブルを起こしたものの軽症で大きく順位を落とすことはなかった[4]。
ジャガーは全車両が深刻なタイヤトラブルに悩まされた[2]。1号車は6時15分に排気系とトランスミッションにトラブルがあり、9時30分にパトリック・タンベイがテルトルルージュでスピンしたものの、153週目から5時間ほどトップを確保[3]するなどよく走った[3]。り、2号車[注釈 3]はユーノディエールで最高速度389km/hを記録[3]したが、18時50分でショックアブソーバー不調[3]、21時4分フロントボンネット交換[3]、22時55分プライス・コブがテルトルルージュでコースアウト[3]、5時18分アルナージュで発煙しヘッドガスケット破損によりリタイヤとなった[3]。3号車は18時58分ユーノディエールでバルブ破損[3]、公式には22時23分にリタイヤ[3]となった。4号車はスタート後わずか8分で車輪交換[3]、20時11分排気管部品交換[3]、5時52分フォードシケインでミシェルがスピン[3]、6時44分またしても排気管不調[3]、8時に再びスピン[3]とトラブルが続き、15位まで後退[3]したが、その後ペースを上げ、最高速386km/hを記録[3]するなど追い上げた[3]。
結果
16時間目にヨッヘン・マス/マニュエル・ロイター/スタンレー・ディケンズ組[3]のザウバー・C9の63号車がトップに立ち、24時間で5,265.115km[3]を平均速度219.90km/h[3]で走り、61号車を伴って1-2フィニッシュ[3]、メルセデス・ベンツが勝利したのは1952年のル・マン24時間レース以来37年ぶりであった[3][2]。ザウバー・C9の61号車はレース中に400km/hを記録した。
3位はヨースト・レーシング9号車のポルシェ・962であり、レース中も一時はトップを走ったことでその戦闘力がまだまだ高いことを示した。
ジャガー陣営では1号車が24時間で5,143.300km[3]を平均速度214.589km/h[3]で走り4位[3]、これがジャガー陣営最高位となった[3]。4号車が24時間で4,980.80km[3]を平均速度207.716km/h[3]で走り8位[3]。
マツダはトヨタやニッサンが全車リタイヤした中で完走[4]、7、9、12位に入った[4]。7位の201号車は368周走行しているからかなり大きな成果であった[4]が、商品本部長であった達富康夫は優勝争いに絡まず完走ペースで走っているのを物足りなく感じ[4]、1990年のル・マン24時間レースに向け大幅な性能向上を図ることにした[4]。
注釈
- ^ 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』p.180は「たとえタイムが認められないTカーを用いても、トヨタの存在をアピールしたかった」としている。
- ^ 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.212は「トムス側は車検をパスしたTカーのタイムが認められることをオフィシャルに口頭で確認したというが、結果としてこのスーパーラップは認められず」とする。
- ^ 『ル・マンの英国車』p.140は20号車とするが隣の写真でゼッケン2の現車を確認できるなど明らかな誤植。
出典
参考文献