1971年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第23回大会である。5月にオーストリアのザルツブルクリンクで開幕し、ハラマ・サーキットで開催された最終戦スペインGPまで、全12戦で争われた。
フランスGPとユーゴスラビアGPがカレンダーから外れ、代わりにオーストリアGPが新たに加わりスウェーデンGPが10年ぶりに復帰して、この年も前年と同じく全12戦となった。
相変わらずMVアグスタとジャコモ・アゴスチーニによる大排気量クラスの支配は続いていたが、日本メーカーの2ストローク市販マシンの台頭はMVアグスタにとって無視できないものになりつつあった。レース活動の原動力だったアグスタ伯爵をこの年の2月に亡くしたMVアグスタだがグランプリ活動の継続を決定し、3気筒マシンを更にパワーアップさせる一方でシーズン終盤の地元イタリアGPでは次期主力となる新たな4気筒マシンをデビューさせている[1]。しかし、350ccクラスではアゴスチーニに続くランキング上位のほとんどをヤマハのマシンに乗るライダーが占め、MVアグスタが出場しなかったレースという条件付きながら2ストロークのマシンが500ccクラスでの初勝利を記録するなど、2ストロークの波が確実に大排気量クラスにも迫っていることを感じさせるシーズンとなった[2]。
日本製の2ストローク市販マシンが力を付けてきたとはいえ、この時点ではまだまだMVアグスタの4ストローク3気筒の強さは圧倒的で、ジャコモ・アゴスチーニは開幕から8連勝して難なく500ccクラス6連覇を達成した[3]。早々にタイトルを決めたアゴスチーニは残る3戦のうち2戦を欠場し、地元である第10戦イタリアGPには出場したもののマシントラブルによりリタイヤした。イタリアで勝ったのは、イタリアの国内レースでのアクシデントで死亡したアンジェロ・ベルガモンティに代わってアゴスチーニのチームメイトになったアルベルト・パガーニだった。アルベルトは125ccクラス初代チャンピオンのネッロ・パガーニの息子である[1]。
前年活躍したカワサキの3気筒H1Rに加え、この年はH1Rと同様にロードモデルをベースにしたスズキの2気筒市販マシンTR500が速さを見せた。MVアグスタが出場しなかった第9戦アルスターGPではTR500を駆るジャック・フィンドレイが2ストロークエンジンの500cc初勝利となる優勝を飾り、同じくMVアグスタが欠場した最終戦スペインGPではH1Rのデイブ・シモンズが勝利している[1]。
MVアグスタとジャコモ・アゴスチーニに対する2ストロークマシンのプレッシャーは350ccクラスではより顕著で、アゴスチーニ以外の上位入賞の大半を占めたのはヤマハの市販マシンに乗るライダーたちだった。その中でもヤマハのサポートを受けてセミ・ワークスとも言える体制のヤーノ・サーリネンはアゴスチーニがメカニカルトラブルでポイントを獲得できなかったチェコスロバキアとイタリアで勝利を挙げ、グランプリデビュー2年目ながらランキング2位となる活躍を見せた[1]。とは言うものの、ハイパワーな改良型エンジンを投入したMVアグスタ3気筒との差はこの時点ではまだ歴然としており、アゴスチーニはフィンランドGPまでの8戦のうち、トラブルに泣かされた2戦を除く6勝を挙げてこのクラスでは4年連続となるタイトルを獲得した[2][4]。
アゴスチーニが欠場したアルスターGPではMZに乗るペーター・ウィリアムスがグランプリ初優勝を飾ったが、グランプリに2ストロークエンジンという革新を持ち込んだMZにとってはこれが最後のグランプリ勝利となった[5]。
前年と同様にヤマハの市販マシンTD2が250ccクラスを席巻したが、シーズンをリードしたのはヤマハのサポートを受けたロドニー・ゴウルドやヤーノ・サーリネンではなく、プライベーターとして参戦していたフィル・リードだった。1968年にヤマハのファクトリーライダーとしてこのクラスのチャンピオンとなったリードだが、その時にビル・アイビーにタイトルを獲らせようとするヤマハのチームオーダーを無視してタイトルを獲ったという経緯もあって、ヤマハ・ワークスのグランプリ撤退後はヤマハからのサポートを受けられずにいた[6]。しかしTD2に独自のチューンを施したリードはシーズン序盤に3勝してタイトル争いを一歩リードし、チェコスロバキアGP予選のクラッシュによる怪我のために2戦を欠場するというアクシデントがあったものの、最終戦で2位となってゴウルドを5ポイント差で振り切って250ccクラスでは4度目となるタイトルを獲得した[1][7]。
この年の第6戦東ドイツGP250ccクラスでは西ドイツのライダーであるディーター・ブラウンが優勝したが、表彰台で西ドイツの国歌である『Deutschlandlied』が演奏されると20万人以上の観客が興奮してパニックとなり、警官隊が観客席にマシンガンを向けて威嚇するという騒動に発展した。結局この出来事がきっかけとなり、東ドイツGPはこの2年後に世界選手権のカレンダーから外れることになった[5]。
前年ランキング2位のアンヘル・ニエトが緒戦に優勝して選手権をリードしたが、シーズンを通して観客の注目を集めたのは前年に印象的なグランプリデビューを果たし、この年から本格的な参戦を開始した20歳のバリー・シーンだった。旧いスズキのマシンに乗るシーンだったが、第5戦ベルギーで初優勝を飾ってグランプリ優勝の最年少記録を更新すると、その後も2勝を含む全戦表彰台という速さを見せてニエトを凌ぐ109ポイントを獲得した[1]。しかし、「成績の良かった6戦のポイントを有効とする」という有効ポイント制のためにタイトルは5勝を挙げたニエトのものとなり、3勝のシーンはランキング2位でシーズンを終えた[8]。
50ccクラスでは、2年連続チャンピオンであるデルビのアンヘル・ニエトと、クライドラーに乗るヤン・デ・フリースによるタイトル争いがシーズンの最後まで繰り広げられた。第8戦のイタリアGPを終えた時点で4勝のフリースに対してニエトは3勝とほぼ互角で最終戦スペインGPを迎えたが、スペインの1周目にニエトがクラッシュでレースを終える一方でフリースは5勝目を挙げ、初タイトルを獲得した[9]。これはオランダ人としても、またクライドラーにとっても初めてのワールドタイトルだった[1]。