マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ (フランス語 : Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine , 1755年 11月2日 - 1793年 10月16日 )またはマリー=アントワネット・ドートリッシュ (フランス語 : Marie-Antoinette d'Autriche [ 1] )は、フランス 国王ルイ16世 の王妃 (王后 ・王太后 )。オーストリア とフランス の政治的同盟のためルイ16世 へ嫁ぎ、フランス革命 で処刑された。
概要
フランツ1世 とマリア・テレジア の第15子(第11女)として1755年 11月2日 にウィーン で生まれた。フランス とオーストリア の同盟に伴う外交政策の一環により、当時フランス王太子だったルイ16世 と1770年 に結婚し、彼の即位に伴って1774年 にフランス王妃となった。オーストリアに対する同調姿勢や、ヴェルサイユ での宮廷生活について王太子妃時代から批判された[ 3] 。宮廷での束縛を嫌い、離宮のプチトリアノン で少数の貴族と過ごすことが多く[ 5] 、中でもハンス・アクセル・フォン・フェルセン との交流は知られている[ 6] 。しかし、王妃自らベルサイユの宮廷の模範とならなければいけない立場の中でそれを逸脱した行為や言動により、保守的な貴族を中心に大きな抵抗勢力が宮廷内に形成されることになった。
1789年 にフランス革命 が始まり、アントワネットを含めた国王一家はテュイルリー宮殿 に軟禁された。アントワネットは宮廷内で反革命勢力を形成し、君主制維持を目的として諸外国との交渉を行った[ 8] 。特にウィーン宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待したが、逃亡 に失敗する。1792年 にフランス革命戦争 が勃発したことにより、アントワネットのイメージはさらに悪化した。同年8月10日に王政が廃止され、国王一家はタンプル塔 に収監された。
その後、ルイ16世の裁判が国民公会で行われ、死刑判決を経て1793年 1月21日に処刑 (英語版 ) された。一方、アントワネットの裁判は革命裁判所で行われ、死刑判決を経て同年10月16日に処刑された。
生涯
幼少期・結婚まで
少女時代のアントーニア
1755年11月2日、神聖ローマ皇帝 フランツ1世 とオーストリア女大公 マリア・テレジア の十一女としてウィーン で誕生した。ドイツ語 名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン 。
代父母のポルトガル国王ジョゼ1世 とその王妃マリアナ・ビクトリア が名付け親となった。洗礼式はウィーン大司教が行い、兄のヨーゼフ大公 と姉のマリア・アンナ が代父母の代理を務めた。しかし前日にリスボン地震 が起こったことが伝わると、一部では生まれた女の子の不幸な未来を予告しているのではとささやき合った。[ 11]
アントーニアは幼少期にマリア・カロリーナ 、フェルディナント 、マクシミリアン といった年の近い兄弟と共に育てられた。イタリア語 やダンス、作曲家グルック のもとで身につけたハープ やクラヴサン などの演奏を得意とした。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。
当時のオーストリアは、プロイセン の脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命 )、その一環として母マリア・テレジア は、自分の娘とフランス国王ルイ15世 の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世 )との政略結婚を画策した。神聖ローマ皇帝フランツ1世の母方の祖父はオルレアン公フィリップ1世であり、ルイ15世の母方の祖母はオルレアン公フィリップ1世の娘であったので、ルイ15世とアントーニアたち姉妹は又従兄妹であった。当初はマリア・カロリーナ がその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファ が1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。
1763年 5月、結婚の使節としてメルシー伯爵 が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン 、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス (ポーランド 王アウグスト3世 兼ザクセン選帝侯 フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
1765年 にルイ・フェルディナンが死去した。1769年 6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語 が修得できていなかったため、オルレアン 司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年 4月19日 、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式はまずウィーンで代理人によって行われ、1770年 5月16日 、ヴェルサイユ宮殿 の王室礼拝堂にて挙行された[ 13] 。
アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネット と呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
ルイ15世は婚姻によってオーストリアとの同盟を維持しようと考えたが[ 14] 、七年戦争 においてオーストリア と同盟を結んだフランス はプロイセン に敗北していた。フランスの感情として反オーストリアの機運が高まり、アントワネットは反オーストリアによる偏見に常に悩まされることになる[ 15] 。
七年戦争の敗北や、フランスの同盟国であるポーランドが1772年にオーストリア、ロシア、プロイセンに分割 されたことなど、オーストリアとの同盟後に起こったこれらの事柄は、フランスがヨーロッパでの影響力を失ったとの見方が強くフランス国内に残り、フランス革命時は軍隊が国王を見限る事態に陥ることに繋がった[ 16] 。なお、マリア・テレジアはポーランド分割に反対の立場をとり、フランスがオーストリアに敵意を抱くことを恐れていた[ 17] 。
宮廷生活
デュ・バリー夫人との対立
結婚すると間もなくルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人 と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライード が率いるヴィクトワール 、ソフィー らに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[ 18] [ 19] 。
ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けた。2人の対決は1772年 1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりにアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。
結婚生活
王と王妃の結婚を祝うメダル
しかし、結婚当初二人ともまだ幼かったせいか、アントワネットとルイ16世との間にはなかなか子供が生まれなかった。これはアントワネットの地位を危うくするものだった。当時フランスの王位継承を規定していたサリカ法 は男子の王位継承しか認めず、アントワネットには男子を産むことが要求されていたからである。オーストリアにいるアントワネットの母、マリア・テレジアはオーストリアとフランスの同盟関係の維持に不安を抱き、性生活を疑った。1777年4月、アントワネットの長兄ヨーゼフ2世 がお忍びでラ・ミュエット宮殿 (フランス語版 ) (現在のパリ16区 ラ・ミュエット地区 (フランス語版 ) )でも生活をともにしていた夫妻のもとを訪問し、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロット が生まれた[ 22] 。
アントワネットとルイ16世との夫婦仲はあまり良くなかったと語られることが多いが、アントワネットはルイ16世のことを慕っており、ルイ16世もマリーアントワネットに対して好意はあったとされている。互いの気持ちが上手く疎通できていなかったことにより、フランス革命間際までは距離をとりがちであった。またアントワネットとルイ16世の部屋を繋ぐ隠し通路があったものの、使われることはほとんどなかった。
母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座 で仮面舞踏会 に遊び、また賭博 にも狂的に熱中したと言われるが、賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。
アントワネットは自身の手で子供たちを養育することを望み、熱心に教育した。また、子供たちのそばにいるために、ヴェルサイユ宮殿内のアパルトマンの整備を行った。プチ・トリアノン宮殿 を与えられてからは、王妃の村里 と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
フランス王妃として
王妃となったアントワネット (1775年)
1774年 、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。
こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン の貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵 との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。
彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリ ではアントワネットへの中傷が酷かったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
1785年 にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件 が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。
フランス革命
「首飾り事件 」の元となったダイヤの首飾り。金500kg相当の価値があった
1789年 7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命 が勃発した。ポリニャック公爵夫人 (伯爵夫人から昇格)ら、それまでアントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女自身の手助けによって国外に亡命 を果たしたが、王妹エリザベート とランバル公妃 はそれに従わずアントワネットら国王一家とともにフランスに残る選択をしている。国王一家はヴェルサイユ宮殿 からパリのテュイルリー宮殿 に身柄を移されたが、アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世 に助けを求めようと計画する。
1791年 6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件 により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。
1792年 、フランス革命戦争 が勃発すると、アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ 、ルイ・シャルル 、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔 に幽閉される(8月10日事件 )。
タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団欒の時間があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。
革命裁判
マリー・アントワネットの裁判の様子
1793年 1月19日、国民公会 はルイ16世に死刑判決を下した。国王一家は翌日になってから死刑判決を知らされ、最後の面会を行った[ 24] 。1793年1月21日午前10時にルイ16世の死刑が執行されるとアントワネットはルイ・シャルル の前にひざまずき「国王崩御、国王万歳! 」と言い、新王として接したという。ルイ16世の死後に王后 アントワネットは王太后 カペー未亡人と呼ばれるようになり、喪服を着て過ごすようになった。王党派によりアントワネットの脱出計画が立てられたが、実行に移されることは無かった。1793年7月3日、ルイ17世 はアントワネットと引き離され、ジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモン の手にゆだねられた。
1793年8月2日午前1時頃、アントワネットはコンシェルジュリー へ移送された。フェルセンの提案により、身代金を支払う事でアントワネットの解放を模索する動きもあったが、実現されることは無かった[ 28] 。しかし王党派が立てた計画のうち、元士官のルージュヴィルが立てた脱出計画は、1793年8月28日に実行されるも失敗。ルージュヴィルはオーストリアへ逃亡し、警察管理官であったミショニが逮捕されるという「カーネーション事件」が起きた。事件以後、アントワネットの独房には検査が入るようになり、窓の下には歩哨が立つようになるなど、監視が強化された。アントワネットは1793年10月12日に裁判の事前尋問を受け、10月14日午前8時から午後11時、16日午前8時から午前4時の2日半間に渡り革命裁判所 で裁判が行われた(裁判官 は合議審 で何人も交代し泣いたと伝う。また、マクシミリアン・ロベスピエール とジャコバン派 の推薦した証人 は数十人以上にもなったと云う)。アントワネットは内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画に対しての罪に問われ、重罪 により死刑 が求刑 された。アントワネットは罪状の全てについて否定し、聡明で教養 がありノブレス・オブリージュ であるアントワネットは自らを弁論 し、裁判官の読み上げる罪状の一言一句の全てにディベート (古フランス語 ・中世フランス語 -debatre- ドゥバトル「戦う」こと)し、彼女らしい芸術 的ユーモア のあるフランス語の授業 を展開した。彼女を弁論するもの彼女の弁論やディベートに異議 を唱えるものはおらず彼女は無実 -無罪 だという印象を与えた。ヴァレンヌ逃亡については、夫であるルイ16世に従ったためと答えた。ジャック・ルネ・エベール はルイ17世による申し立てとして、母親との近親相姦 があったと報告したが[ 32] 、このような荒唐無稽な証言は傍聴人からの反感を買うことになり、マクシミリアン・ロベスピエール を激怒させる結果となった[ 33] 。
処刑前の王妃の様子のスケッチ
しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、1793年10月16日午前4時頃にアントワネットは死刑判決を受けた。処刑の直前にアントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書 を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった[ 35] 。 この遺書は牢獄の管理人であったボーに渡され、検察官のタンヴィルから数人の手に渡ったのち、王政復古の時代にルイ18世 にゆだねられた。そのため、革命下を唯一生き延びたマリー・テレーズ がこの文章を読むのは1816年 まで待たなければならなかった。
ギロチン処刑
遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。すべて終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。革命広場 に向かうため、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、死刑執行人 シャルル=アンリ・サンソン の足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès.) [ 37] 」だとされている。
10月16日の12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた[ 38] 。
死後
遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[ 注 1] に葬られた。のちに王政復古 が到来すると、新しく国王となったルイ18世 は私有地となっていた旧墓地[ 注 2] を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたアントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年 1月21日 、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂 に夫のルイ16世とともに改葬された。
サン=ドニ大聖堂の慰霊碑
「パンがなければ…」の発言
アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パン がなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女 の発言とされることもある)。原文は、仏 : “Qu'ils mangent de la brioche” 、直訳すると「彼らはブリオッシュ を食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン(フランスパン )でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。お菓子ではなくケーキ またはクロワッサン と言ったという変形もある。なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだときにフランスに伝えられたと言われている。
しかし、これはアントワネット自身の言葉ではない ことが判明している[ 39] 。ルソー の『告白 [ 40] 』(1766年 ごろ執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えたことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年 ごろ)のことという。
アルフォンス・カー (フランス語版 ) は、1843年 に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言はすでにアントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国 の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。実際はこれは彼女を妬んだほかの貴族たちの作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、ほかの貴族達から寄付金を集めたりするなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。トスカーナは1760年当時、アントワネットの父である神聖ローマ皇帝 フランツ1世 が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になったともされる。
現代のフランスにおいて、この発言は今なおアントワネットを象徴するものだと信じられている。2016年、保守派議員のジャンフランソワ・コペが「パン・オ・ショコラ」の価格について言い間違えたのを、現代のアントワネットのようだと報じられた[ 41] 。
人物・言行
宮廷生活とプチ・トリアノン宮
「小トリアノン宮殿 」も参照。
ルイ14世 がフランス絶対王政の栄耀栄華と宮廷内の秩序を示すために定めたヴェルサイユ の宮廷儀礼は非常に厳格であり、またふるさとであったウィーン の雰囲気とも異なったため、アントワネットはそれに適応するのに苦労した。王太子妃時代は母親のマリア・テレジアへヴェルサイユの宮廷儀礼の厳格さを嘆いており、第一子のマリー・テレーズを出産した際は出産の苦痛と見物人のせいで疲労が極限まで達し、それを見たルイ16世自身が第二子以降の出産の際、見物人の人数の制限を行ったほどだった。
ルイ16世は1774-1775年頃、アントワネットにもともとルイ15世の所有だった「プチ・トリアノン 」を贈る。それ以後、彼女はプチ・トリアノンの改造工事を始め、「ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ 」(王妃の村里)という場所を作り、自由な姿で活動した。プチ・トリアノンにおいて、ポリニャック伯爵夫人、ランバル公妃、アルトワ伯、フェルセン伯など、お気に入りの人々と交流するようになる。また、プチ・トリアノンはヨーゼフ2世 、グスタフ3世 、後のパーヴェル1世 などの賓客を迎える場となった。
アントワネットにとって「王妃の村里」はプチ・トリアノンの自由さに加えて自然の空間を味わう場所でもあった。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた。アントワネット自身、麦わら帽子をかぶり、モスリンのドレスを着て礼儀作法に縛られない田舎風暮らしを好んだ。この田園生活への憧れは、アントワネット固有のものではなく、当時の王侯貴族に共通するものだったという説もある。
しかし、この閉鎖的に受け取れる姿勢はヴェルサイユのしきたりを無視するものとして受け取られ、「小ウィーン」と呼ばれて、他の貴族たちから反感を抱かれた。アントワネットに近侍していた身分が低い女性たちと身分高い貴婦人たちの間で対立が激しくなり、アントワネットの醜聞を記した怪文書が出回った。
これらに振り回されたアントワネットは次第に王妃としての権威を喪失していくことになる。
王妃の村里 での農婦姿のアントワネット。(1791年[ 注 3] )
音楽
ハープを奏でる王妃(1777年)
上記の通り、ウィーン時代にグルック らから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年 9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿 でのマリア・テレジア を前にした御前演奏に招かれたモーツァルト (当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。また、彼女が1774年1月30日にオペラ座でフェルセンと出会った時に二人は音楽について話し、グルックが好きという点で一致したというエピソードが残っている[ 56] 。
後年、ルイ16世のもとに嫁いでからもハープ を愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。
なおアントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命 時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館 に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami ”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。
2005年 には漫画『ベルサイユのばら 』の作者でソプラノ歌手の池田理代子 が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をアントワネットの誕生日である11月2日 に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇 『ベルサイユのばら 』で使用された。
このアントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜[ 57] も出版された。
入浴・香水
アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴 の習慣があった。母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がないフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。
入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水 に大きな影響をもたらした。アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスク や動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、現代の香水に近いバラ やスミレ の花やハーブ などの植物系香料から作られる軽やかな香りの物を愛用し、これがやがて貴族たちの間でも流行するようになった。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。
家具
家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。マホガニー 、黒檀 、紫檀 、ブラジル産ローズウッド などを使い家具を作らせた。珊瑚 や銀 も家具の装飾用として使われた。ドイツ人家具職人を多く抱え、ルイ16世様式(新古典主義 )の家具を多く貴族に広めている。また日本製や中国製の家具や蒔絵 の小箱に代表される漆工芸品 をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。母子二代に渡る蒔絵のコレクションは現在もルーヴル美術館 やヴェルサイユ宮殿美術館 、ギメ東洋美術館 に展示されている。
ファッション・リーダー
麦藁帽子にモスリンのシュミーズドレス姿の王妃(1783年)
当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた[ 58] 。アントワネットも王妃になってまもなく、ローズ・ベルタン という新進ファッション・デザイナーを重用する。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。
何より女性たちの視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた「庭ヘアー」や船の模型を載せた「船盛りヘアー」など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。
即位後最初の数年間を過ぎてからは、ドレスもヘアスタイルも簡素なデザインのものを好むようになった[ 59] 。
このころベルタンは、アントワネットのために肌着として着用されていたモスリン生地や綿生地のシュミーズ をパニエ を着用しない気軽な普段着にアレンジしたシュミーズドレスをデザインしている。また、アントワネットはパステル調の色彩を好み、特に青を好んだといい[ 60] 青いドレスをまとった肖像画が多数残されている。
容姿
身長は154cm[ 61] 。
裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった[ 62] 。一方で、30歳のときにはかなり豊満な体型だったようで、その豊満さを覆い隠すようなギリシャ風の装いを考案している[ 63] 。エロフ婦人が計ったところ、コルセットで58cm(23インチ)までウェストは締め付けるものの、バストは112cm(44インチ)を超えていたという。
顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、「下顎前突症 」と言われる特徴があった。しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。
教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。これほど美しい腕や手は、その後二度と見たことがない」、王妃の御用画家であったルブラン夫人 は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている[ 64] 。
身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている[ 65] 。
子女
4人の子供のうち3人は夭逝。長女マリー・テレーズは1799年 結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。マリー・テレーズは結婚15年目の1813年 1月 に懐妊したが、流産。その後は妊娠することがなく子どもを残していないため、子孫はいない。
女官・侍女
ギャラリー
婚姻の儀式
1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
スピネットを弾く1769年頃の肖像画(フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン画)
乗馬服姿の1771年の肖像画(ヨセフ・クランツィンガー画)
1785年頃の肖像画(アドルフ・ウルリッヒ・ベルトミュラー画)
1788年の肖像画(ヴィジェ・ルブラン画)
1791年の肖像画(アレクサンドル・クシャルスキー画))
アレクサンドル・クシャルスキーによる未完成の肖像画
アレクサンドル・クシャルスキーによる幽閉中のアントワネット(1793年頃)
ギロチン台に引き立てられるアントワネット(ウィリアム・ハミルトン画)
処刑の様子
参照文献
ノンフィクション・評伝
カストロ, アンドレ 『マリ=アントワネット』 1巻、村上光彦 訳、みすず書房 、1972年4月。ISBN 978-4-622-00507-0 。
カストロ, アンドレ『マリ=アントワネット』 2巻、村上光彦訳、みすず書房、1972年6月。ISBN 978-4-622-00508-7 。
Carolly Erickson (1991-03). To the Scaffold: The Life of Marie Antoinette . William Morrow & Co . ISBN 978-0688073015
フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ, 河野健二, 阪上孝, 富永茂樹 編『フランス革命事典2 人物Ⅰ』みすず書房〈全2巻〉、1998年12月10日。 NCID BN12826171 。 , 1巻 , ISBN 4622034980 , 2巻 , ISBN 9784622050339
佐伯真魚 『マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌』中央アート出版社、2010年6月。ISBN 978-4-8136-0586-7 。
安達正勝『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃』中央公論新社、2014年9月25日。ISBN 9784121022868 。
阿河雄二郎, 嶋中博章『フランス王妃列伝 : アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで= Vies des reines de France 』昭和堂、2017年。ISBN 9784812216323 。全国書誌番号 :22930747 。https://id.ndl.go.jp/bib/028320223 。
エマニュエル・ド・ヴァリクール 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリーアントワネットと5人の男 宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち(上)』原書房、2020年10月25日。ISBN 9784562057962 。
書簡集
エヴリン・ファー 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットの暗号 解読されたフェルセン伯爵との往復書簡』河出書房新社、2018年8月30日。ISBN 9784309227351 。
一次資料
Sir Archibald Alison (1855). Histoire de l'Europe depuis le commencement de la Révolution française en 1789 jusqu'à nos jours, V . F. Parent
フィクション・文学
関連書籍
シュテファン・ツヴァイク による評伝
以下の伝記・評伝も日本語書籍のみを記載。
・「コミック版世界の伝記28 マリー・アントワネット」(ポプラ社、漫画:山田せいこ 監修:石井美樹子)
マリー・アントワネットを扱った作品
小説
映画
舞台作品
ラジオドラマ
『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。(声:ReeSya)、脚本・杉崎智介
漫画
アニメーション
『ラ・セーヌの星 』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。
『ベルサイユのばら 』 - 同名漫画のアニメ化作品。
ゲーム
『ワールドチェイン』- レブナントとして登場。
『グリムノーツ 』- 英雄として登場。
『IdentityV 』- 血の女王として登場。
『SOUL REVERSE ZERO』ー 英霊として登場。
『モンスターストライク 』 - モンスターとして登場。
『消滅都市 』 - タマシイとして登場。
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト −Re LIVE− 』 - 花柳香子の衣装として登場。
『薔薇に隠されしヴェリテ 』
『Oblivious』 - 2019年12月26日にサービス終了。
『マグナとふしぎの少女』 - レジェンズとして登場。
『ちょいと召喚!モンスターバスケット』 - モンスターとして登場。
『My Crypto Heroes 』 - ヒーローとして登場。
『Fate/GrandOrder』-サーヴァントとして登場。
『私立ベルばら学園〜ベルサイユのばらRe imagination〜』-有栖川マリ(イメージキャラクター:マリー・アントワネット )
楽曲
『marie 』- Aimer の楽曲。2019年に開催された「日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルク 展 600年にわたる帝国コレクションの歴史」イメージソング。マリー・アントワネットを題材として書き下ろされた。[ 84] 。
関連項目
脚注
注釈
^ 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のマドレーヌ寺院 とはかなり離れている。贖罪礼拝堂 はその旧敷地の一部に、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである。
^ 1794年 3月25日 に墓地は閉鎖されていた。
^ セザリーヌ・フランク画を基にした、ルイ=シャルル・ルオット作のエングレービング 版画
出典
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^ エマニュエル・ド・ヴァリクール 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリーアントワネットと5人の男 宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち(上)』原書房、2020年10月25日、88-90頁。ISBN 9784562057962 。
^ エヴリン・ファー 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットの暗号 解読されたフェルセン伯爵との往復書簡』河出書房新社、2018年8月30日。ISBN 9784309227351 。
^ エマニュエル・ド・ヴァリクール 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットと5人の男』原書房、2020年10月25日、123-125頁。ISBN 9784562057979 。
^ ゲオルグ・シュライバー 編『偉大な妻のかたわらで フランツ1世シュテファン伝(下)』谷沢書房、2003年5月15日、163頁。ISBN 4924347450 。
^ 「le mariage du dauphin louis et de marie-antoinette 」Chateau Versailles
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^ 『フランス革命史〈文庫クセジュ〉』白水社、1992年、8頁。
^ T・C・W・ブランニング 著、天野知恵子 訳『フランス革命』岩波書店、2005年8月26日、68-70,115頁。ISBN 4000270982 。
^ パウル・クリストフ 編、藤川芳朗 訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア秘密の往復書簡』岩波書店、2002年9月26日、83-85頁。ISBN 4000248014 。
^ 藤本 2006 , p. 126「はみ出し者」- p. 159「元旦のできこと」
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^ エヴリン・ファー 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットの暗号 解読されたフェルセン伯爵の往復書簡』河出書房新社、2018年8月20日、412頁。ISBN 9784309227351 。
^ リン・ハント 著、西川長夫・平野千果子・天野知恵子 訳『フランス革命と家族ロマンス』平凡社、1999年6月20日、184-186頁。ISBN 4582744249 。
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^ マリー・アントワネット 154cm? 山梨の歴史研究家 肖像画から身長解析『読売新聞 』2010年8月18日29面
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^ シナリオ, 石井/美樹子 監修,市川/能里 まんが,黒沢/哲哉 (2005). マリー・アントワネット : 革命の犠牲となったフランス最後の王妃 . 東京: 小学館. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000128-I000131672-00
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フランス王太子との歴史的婚姻を控えた皇女、マリー・アントワネットの顔の傷を消すように命じられた琉花は科学に長けた第二皇女、マリア・アンナの助けを得るうちに深い友情を築く。”
^ スカーレッドG; いの (2022). ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい . 東京: 一二三書房. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I031948229-00
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^ “時代を超えたビスケット「マリー」 ”. 森永ビスケット . 森永製菓株式会社. 2024年7月3日 閲覧。
^ 知る・楽しむ [野菜クイズ / サラダカフェ Salad Cafe]
外部リンク
主要事件
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軍事指揮官
フランス陸軍 フランス海軍対仏大同盟軍
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