イザボー・ド・バヴィエール(フランス語: Isabeau de Bavière, 1370年頃 - 1435年9月24日)は、フランス王シャルル6世の妃。シャルル7世の母。ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公(バイエルン=インゴルシュタット公)シュテファン3世の長女。曽祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世。
結婚前はドイツ名でエリーザベト・フォン・バイエルン(Elisabeth von Bayern)と呼ばれていた。フランス語形はエリザベート・ド・バヴィエール(Elisabeth de Bavière)。
生涯
1385年7月17日、14歳のときに、アミアンでシャルル6世(当時16歳)と結婚。翌1386年から1407年までに12人の子供をもうけた。
1392年9月、夫シャルル6世が、精神疾患を発症し、1400年頃までに統治が不可能な状態となった。イザボーは王弟オルレアン公ルイと関係を持ったとされ、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立の一因となった。
1407年にルイが暗殺された(オルレアン公ルイ1世の暗殺(英語版))後、両派の勢力争いの中で王家の権威の維持に努めた。暗殺事件によりブルゴーニュ派が勢力を拡大したのは、イザボーがブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)を新たな愛人にしたからだとも言われた。
1415年10月のアジャンクールの戦いでの戦死者のみならず、翌年にかけアルマニャック派の要人が相次いで死去して、同派は弱体化する。そこでアルマニャック派が擁立したのが、王太子シャルル(後のシャルル7世)だった。アルマニャック派はイザボーを追放すると、彼女は公然とジャン無怖公と結んだ。ブルゴーニュ派と王妃は翌1418年7月にパリに入城し、政権を握るが、イングランド軍の侵攻に為すすべがなかった。ブルゴーニュ公はイングランド寄りの姿勢だったが、1419年に、ジャン無怖公の所領であるポントワーズが襲撃されるに至り、アルマニャック派と王太子との和解を画策する必要性を認識した。同年9月にモントロー(フランス語版)での会談の折、王太子の側近がジャン無怖公を暗殺した(ブルゴーニュ公ジャン1世の暗殺(英語版))。
両派の対立は決定的となり、新たなブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は、同年末に「アングロ・ブルギニョン同盟」を成立させた。同盟の結実である1420年のトロワ条約ではイングランド王ヘンリー5世の王位継承を認め、またシャルル6世と王妃イザボーによって実子のはずのシャルル王太子は「王太子ヴィエノワを称する者」とされた上、さらにジャン無怖公暗殺の責任を負わされるに至った。条約締結に際し、イザボーは王太子シャルルがシャルル6世の子ではないことを示唆したといわれる[11]。フィリップ善良公はヘンリー5世に与し、同年12月には共にパリ入城を果たす等、以後も長期にわたりイングランド側に与した。
英仏百年戦争の終盤期にあって、アルマニャック派に擁立されたシャルル王太子は、自らの出自に自信が持てず、積極的な攻勢に移ることができないでいた。その後、ジャンヌ・ダルクの出現により、シャルルが1429年夏にランスでフランス国王としての戴冠を果たす。一方、1431年12月に行われたヘンリー6世のフランス王戴冠式にブルゴーニュ公フィリップ善良公は欠席し、フィリップ善良公はイングランド側と疎遠になっていった。そして1435年9月21日、アラスの和約でシャルル7世とブルゴーニュ派は和解した。
その数日後、イザボーはパリで亡くなった。
子女
- シャルル(1386年) - ドーファンとなるも夭折。
- ジャンヌ(1388年 - 1390年)
- イザベル(1389年 - 1409年) - イングランド王リチャード2世妃。
- ジャンヌ(1391年 - 1433年) - ブルターニュ公ジャン5世と結婚。
- シャルル(1392年 - 1398年) - 2人目のドーファンとなるも夭折。
- マリー(1393年 - 1438年) - ポワシーの修道院に入る。
- ミシェル(1393年 - 1422年) - ブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ善良公)と結婚。
- ルイ(1397年 - 1415年) - ギュイエンヌ公。3人目のドーファンとなるが早世。
- ジャン(1398年 - 1417年) - トゥーレーヌ公。4人目のドーファンとなるが早世。
- カトリーヌ(1401年 - 1437年) - イングランド王ヘンリー5世妃。ヘンリー6世の母。
- シャルル(1403年 - 1461年) - 5人目のドーファン、フランス王シャルル7世。
- フィリップ(1407年) - ジャンヌ・ダルク私生児説の基になった。
脚注
注釈
出典
参考文献