権田 修一 (ごんだ しゅういち、1989年 3月3日 - )は、神奈川県 川崎市 生まれ[ 4] [ 5] 、東京都 世田谷区 出身[ 6] のプロサッカー選手 。Jリーグ ・清水エスパルス 所属。ポジションはゴールキーパー(GK) 。元日本代表 。
来歴
プロ入り前
バスケットボール 選手の両親を持つスポーツ一家で育つ[ 4] 。3、4歳のときに「サッカーをやらせると成長にいい」と聞いた母親に勧められたのがサッカーを始めたきっかけであった[ 7] 。小学校時は川崎市内のサッカークラブに所属していたため、GKとして川崎市選抜・神奈川県選抜に選ばれていた[ 4] 。当時のお気に入りはアメリカ代表 のトニー・メオラ [ 8] [ 9] 。ユースチーム加入時には、横浜F・マリノス と川崎フロンターレ のユースチームにも合格し、さらに神奈川県選抜時の監督から湘南ベルマーレ への勧誘を受けていたが[ 8] 、小学校時に近所のサッカースクールにFC東京がコーチングスタッフを派遣しており、権田が浅野寛文 GKコーチの指導に好印象を受けた事と[ 注 1] 、そのスクール生には観戦チケットがプレゼントされ、駒沢陸上競技場 にてJ2時代のFC東京の試合を生観戦したことなどが決め手となり[ 4] 、FC東京U-15 への入団を選択した。2003年のクラブユース選手権 で優勝し日本一を経験。
FC東京
2005年 10月から2種登録選手 としてトップチームの練習に帯同し始め[ 6] [ 10] [ 注 2] 、2007年 からは国士舘高校 に在学しながらFC東京 トップチームに正式に昇格となった[ 11] 。FC東京初の「平成 生まれの選手」でもある[ 12] 。同年シーズン終盤にはサブとして公式戦ベンチ入りも果たした。
ながらく塩田仁史 の控えとして過ごしていたが、2009年 1月下旬に塩田が虫垂炎 及び麻痺性腸閉塞 による長期離脱を強いられ、更に阿部伸行 もコンディション不良が目立ったことから、権田が開幕スタメンに抜擢され公式戦デビューすることとなった。その開幕戦ではアルビレックス新潟 に4失点、第2節も浦和レッドダイヤモンズ に3失点で開幕2連敗と苦いデビューとなったが、第3節でJ1初昇格のモンテディオ山形 に完封勝利し、第4節もジュビロ磐田 に連続完封勝利を飾ると、それ以降はシュートに対する鋭い反応でチームに貢献。出場時間が規定に達しプロA契約選手となった。実質のデビューシーズンであったが、7月には全4試合を完封するなど(3勝1分)年間15完封[ 13] というJ1リーグの個人記録(タイ記録・当時)[ 14] を達成し[ 注 3] 、チームの5位躍進に貢献。川崎フロンターレ とのナビスコカップ決勝 でもフル出場。チーム5年ぶりの優勝に貢献するとともにプロ初タイトルを獲得。無失点に抑え、当時の鬼武健二 チェアマンからはMVP級の活躍だったと評価された[ 16] 。
2010年 も開幕から引き続き正GKとし、3月はわずか1失点と好スタートを切ったが、4月以降は南アフリカワールドカップ による中断まで僅か1勝と低迷[ 17] 。中断明け後も10試合未勝利を記録するなど低空飛行を続け、自身も夏場は一時的に塩田にスタメンを譲ることもあった。ホームゲームでは僅か2勝(うち1つは国立霞ヶ丘競技場 での試合)に終わり、最終節では既に降格が決まっていた京都 に敗れJ2降格が決まった。
J2に降格して迎えた2011年 は若手の代表として[ 18] 副将を務めた[ 19] 。シーズン当初はレギュラーで出場していたが、ロンドンオリンピック予選 の招集を機に[ 20] 塩田にレギュラーを奪われ、A代表選手がクラブでは控えという状況にもなった[ 21] 。シーズン終盤に差し掛かり再び正GKの座を奪取。塩田とのポジション争いは1年を通して続いた[ 22] 。J2では力の差を見せつけ、2位に大差をつけて1年でJ1に復帰した。
J1に復帰した2012年 は、新たに就任したランコ・ポポヴィッチ 監督から「日本でNo.1のGK」と全幅の信頼を寄せられ[ 23] [ 24] 、レギュラーを確保。しかし、「塩田との間に差は無い」とも評され[ 25] 、2013年の天皇杯 では塩田の好守でチームがベスト4に進出する中、出場機会は無かった。また、2012年12月にドイツ ・シュトゥットガルト とイタリア ・エラス・ヴェローナ の練習に参加した[ 26] [ 27] 。
2014年 は高いセーブ率で[ 15] [ 28] 失点の大幅減に成功[ 29] 。2015年より塩田の退団に伴い背番号を「1」へ変更。1stステージ では全試合フル出場を続けたが、同年7月にオーバートレーニング症候群を発症し 、離脱。3ヶ月ほどで復調の兆しを見せたが[ 30] 、戦列には復帰できなかった。
SVホルン
復活を期すクラブの了承の下[ 31] 、本田圭佑 の熱望を受けて[ 32] 2016年 1月にオーストリア ・SVホルン へ期限付き移籍 [ 33] [ 34] 。初先発となった3月4日、第17節SKラピード・ウィーンⅡ 戦で完封勝利したが、続く同月11日第18節SVオーバーヴァルト 戦で右脛骨 を骨折[ 35] 。2015-16シーズン中の回復は間に合わず、同シーズンの出場はこの2試合に留まったが、権田はホルンの日本人新監督濱吉正則 の指導に戸惑うオーストリア選手との橋渡し役[ 注 4] を務め[ 37] 信頼を集めた[ 36] 。
2016-17シーズン第6節ウィーナー・ノイシュタット 戦で5ヶ月ぶりに復帰した[ 38] 。リーグ中断期間にあたる2016年12月でSVホルンとのレンタル契約が終了したためFC東京にレンタルバックした[ 39] [ 40] 。
FC東京とは2017年末までの契約を残していたが[ 41] 、2017年1月、ヨーロッパでのプレーを希望して契約解除を申し出た[ 42] 。クラブは権田の意向を尊重する方針だったため[ 41] 合意解除となった[ 43] 。
サガン鳥栖
ヨーロッパでの移籍先が見つからず[ 44] 、2017年2月に帰国[ 45] 。夏の移籍期間[ 注 5] まで無所属となることを覚悟していたが[ 42] 、サガン鳥栖 から熱意あるオファーが届き[ 45] 、同クラブへ移籍加入[ 47] 。古巣との初対戦となったJ1第5節のFC東京戦では、古巣サポーターへ不義理な移籍を謝罪し[ 48] 、感謝を述べた[ 49] 。
2018年、チームは残留争いに巻き込まれるもののリーグ戦34試合にフル出場。最後まで懸命にゴールマウスを守りチームのJ1残留に貢献した。シーズン終了後に行われたチームメイトによる投票により、2018年のチームMVPに選出された[ 50] 。
ポルティモネンセSC
2019年 1月29日 、ポルトガル1部 のポルティモネンセSC へ移籍する事を発表した[ 51] 。5月17日、最終節のSCブラガ 戦で移籍後初出場を果たした[ 52] 。
2019-2020シーズンは、中盤からレギュラーに定着し15試合に出場した。
しかし翌シーズンは主に若手のサムエル・ポルトガル にレギュラーの座を譲った。
清水エスパルス
2020年 12月25日 、清水エスパルス に期限付き移籍 [ 53] 。背番号は37に決まった。加入後からレギュラーを争奪し、リーグ開幕戦鹿島アントラーズ 戦では先発に抜擢。鳥栖時代の2018年のJリーグ最終節以来、約2年ぶりのJリーグ出場を果たすと、鹿島の猛攻をビッグセーブで防ぎチーム6年ぶりの開幕戦勝利ならびに9年ぶりのカシマスタジアム での勝利に貢献した。
2021年 12月23日 、清水エスパルスへの完全移籍が発表され、背番号も21に変更することが発表された[ 54] 。
2022年5月7日の川崎フロンターレ 戦でJ1通算300試合出場を達成した[ 55] 。
2023年シーズンから自身の息子の誕生日5月7日にちなんだ背番号57に変更することを発表した[ 56] 。
2024年11月8日、同シーズン限りで退団することが発表された[ 57] [ 58] 。
日本代表
ユースではU-17日本代表 に選ばれAFC U-17選手権2004 で日本のゴールマウスを守った。
2007 FIFA U-20ワールドカップ には香川真司 と共に飛び級で選出されたが[ 59] 、メンバー発表後に後十字靭帯を損傷し[ 2] 、出場を辞退[ 60] [ 注 6] 。
2008年 、U-19日本代表 の主将として[ 62] 2009 FIFA U-20ワールドカップ アジア地区予選を兼ねたAFC U-19選手権 (サウジアラビア )に臨んだ。準々決勝の韓国 戦では好セーブを連発したものの[ 63] 0-3と完敗。結果として日本が7大会連続で出場し続けていたU-20ワールドカップへの出場権を取り逃すという苦い経験をした。試合後には悔し涙を流しながらもTVインタビューに対応し、主将として責任感の強い部分を見せた。この年FC東京は権田との契約を複数年延長し[ 64] 、将来のチームの大黒柱候補としての期待の大きさを伺わせた。
2009年 12月21日 にはアジアカップ最終予選 ・イエメン代表 戦に向けたA代表に初招集され、2010年 1月6日 の試合では先発出場を果たし国際Aマッチ デビューを飾った[ 65] 。
2010年 9月30日 には、アルベルト・ザッケローニ 新監督の日本代表にも選出された[ 66] [ 注 7] 。ここでの出場機会は得られなかったが、その後、ザッケローニはインタビューにおいて「たとえば権田。FC東京でプレーする1990年生まれのGKで[ 注 8] 、日本代表では第3GKだが、素晴らしい将来性がある。」と、大きな期待を示し[ 68] [ 69] 、翌年開催のAFCアジアカップ にも第3GKとして招集された。
アジアカップ以後は世代別代表を優先し[ 注 9] 、副将として[ 71] チームのまとめ役を担った[ 5] 。2012年 7月2日 、ロンドンオリンピック に臨むU-23日本代表 に選出された[ 72] 。本大会ではグループリーグでのベストGKとの声が挙がる活躍で[ 73] 、4試合連続無失点を記録し[ 74] ベスト4入りに貢献。しかし、準決勝と3位決定戦では自身の判断ミスも重なって[ 75] 連敗し44年ぶりのメダル獲得を逃した。
2014年に開催されたブラジルワールドカップ にも第3GKとして招集されたが、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。
2015年3月27日、Jリーグでの出色の出来を認められ[ 76] ヴァイッド・ハリルホジッチ 新体制においてA代表復帰。同月の親善試合チュニジア代表 戦で完封勝利を飾った[ 77] 。7月30日には東アジアカップ2015 の代表メンバーに選出されたが、コンディション不良(後述 )により辞退[ 78] 。
2018年、森保一 新体制の初陣であるキリンチャレンジ杯において、3年ぶりに招集された。10月12日に行われたパナマ 戦に出場し、無失点に抑えた。
2019年、AFCアジアカップ2019 では、ターンオーバーで挑んだグループリーグ1試合を除く6試合にレギュラーとして出場。大会当初は鳥栖所属でレギュラー唯一のJリーガーだったが、決勝戦の前にポルトガルのポルティモネンセへの移籍を発表し、これにより決勝戦のカタール 戦では、日本代表史上初のスタメン全員海外組 となった[ 79] 。
2021年3月25日の韓国代表 戦にスタメン出場し、3-0で勝利。これにより国際Aマッチ出場8試合連続無失点となり、楢﨑正剛 が持っていた日本記録を更新した[ 80] 。
2022年11月1日、2022カタールW杯 に臨む日本代表 に選出された[ 81] 。初戦のドイツ戦でスタメン出場を果たし、川口能活 、楢崎正剛 、川島永嗣 に次いでゴールキーパーとしてワールドカップに出場した史上4人目の日本人となった。試合では前後半通じて26本のシュートを浴びながら、日本のゴールを死守し逆転勝利に貢献してMVPに選ばれた[ 82] 。チームは決勝トーナメント1回戦で敗れたが、ベスト16進出に貢献した。
第二次森保ジャパンとなった2023年、契約更新した自身所属の清水がJ2降格を喫したことが影響し、森保監督は「日本の最高峰はJ1。優先順位をつけなければ」と話し、より高いレベルで戦っていくことを見据え、日程面なども考慮した上で招集を見送る方針を示唆。2022カタールW杯以降、代表招集は見送られることとなった[ 83] 。
家族
エピソード
所属クラブ
個人成績
国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ
リーグ戦
リーグ杯 オープン杯
期間通算
出場 得点
出場 得点 出場 得点
出場 得点
日本
リーグ戦
リーグ杯 天皇杯
期間通算
2007
FC東京
34
J1
0
0
0
0
0
0
0
0
2008
19
0
0
0
0
0
0
0
0
2009
20
34
0
10
0
1
0
45
0
2010
30
0
7
0
2
0
39
0
2011
J2
20
0
-
5
0
25
0
2012
J1
31
0
0
0
0
0
31
0
2013
33
0
2
0
0
0
35
0
2014
33
0
0
0
3
0
36
0
2015
1
22
0
5
0
0
0
27
0
オーストリア
リーグ戦
リーグ杯 オーストリア杯
期間通算
2015-16
ホルン
33
レギオナル
2
0
-
-
2
0
2016-17
エアステ
15
0
-
1
0
16
0
日本
リーグ戦
リーグ杯 天皇杯
期間通算
2017
鳥栖
33
J1
33
0
4
0
2
0
39
0
2018
20
34
0
3
0
4
0
41
0
ポルトガル
リーグ戦
リーグ杯 ポルトガル杯
期間通算
2018-19
ポルティモネンセ
16
プリメイラ
1
0
-
-
1
0
2019-20
14
0
1
0
3
0
18
0
2020-21
57
0
0
0
0
0
0
0
0
日本
リーグ戦
リーグ杯 天皇杯
期間通算
2021
清水
37
J1
38
0
0
0
0
0
38
0
2022
21
33
0
1
0
1
0
35
0
2023
57
J2
42
0
0
0
0
0
42
0
2024
通算
日本
J1
321
0
32
0
13
0
366
0
日本
J2
62
0
0
0
5
0
67
0
オーストリア
エアステ
15
0
-
1
0
16
0
オーストリア
レギオナル
2
0
-
0
0
2
0
ポルトガル
プリメイラ
15
0
1
0
3
0
19
0
総通算
415
0
33
0
22
0
470
0
その他の国際公式戦
タイトル
クラブ
FC東京U-15
FC東京
SVホルン
清水エスパルス
日本代表
個人
選抜・代表歴
出場大会
試合数
国際Aマッチ 38試合 0得点(2010年 - 2022年)[ 65]
出場
関連情報
書籍
出演
テレビ・ラジオ番組
脚注
注釈
^ 基礎を重視した練習で、他クラブでは高評価を受けていた権田が、FC東京の練習会では唯一「褒められなかった」という[ 8] 。
^ a b 2004年も2種登録されている(ただし背番号は無し[ 109] )
^ 1993年 にV川崎 ・菊池新吉 が樹立した記録に16年ぶりに並んだが、新潟との最終戦(新潟スタジアム )で失点し新記録は叶わず。なお、2008年に大分 が17試合無失点を記録しているが、その内訳は西川周作 が11試合先発、下川誠吾 が6試合先発。後に西川が浦和 で16試合完封を達成[ 15] 。その後、2020年 に名古屋 のミッチェル・ランゲラック が17試合完封の新記録を達成している。
^ 当時ホルンには、権田、ハーフナー・ニッキ 、榊翔太 、新井瑞希 、川中健太 、矢島倫太郎 の6人の日本人選手がいたが、権田とハーフナーはドイツ語(オーストリアの公用語)を話せた[ 36] 。
^ ヨーロッパ主要リーグは1月の1ヶ月間と6月から8月までの3ヶ月前後を移籍可能な期間として制限している[ 46] 。
^ a b 桐畑和繁 が代替招集された[ 61] 。
^ 権田によると、マウリツィオ・グイード GKコーチは「シュートを止めるまでの過程のポジショニングに可能性があるから(権田を選出した)」と述べている。権田自身も、ボール保持者と対峙する場面では、「相手がミスするように自分からポジションを詰めていく」と果敢に前へ出ることを身上としている[ 67] 。
^ 原文はportiere classe 1990 。権田は1989年生まれなのでこれは誤り。
^ 原博実 技術委員長はこの方針について「権田はA代表、U-22代表のいずれかには招集される存在。A代表で試合に出られないのなら五輪代表を優先に考えたい」とコメントしている[ 70] 。
^ 公式戦が行われない合宿時や、公式戦から遠ざかっていた川島永嗣 のコンディションを確認するために代表復帰させた時[ 107] には計4名を招集している。
^ 他のクラブではフィールドプレーヤーがテクニックを見せていたが、GKで参加したのは権田だけだった。
出典
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
権田修一 に関連するカテゴリがあります。
受賞
J1
1990年代 2000年代 2010年代
10: 槙野智章
11: 梁勇基 , 太田宏介
12: 佐藤寿人
13: 柿谷曜一朗 , 佐藤寿人
14: 西川周作 , 工藤壮人 , 平岡康裕 , 森岡亮太 , 水本裕貴 , 豊田陽平
15: 谷口彰悟 , 中澤佑二
16: 秋元陽太 , 田中佑昌
17: 中澤佑二 , 柿谷曜一朗 , 水本裕貴
18: 西川周作 , 秋元陽太 , 澤田崇
19: 受賞者なし
2020年代
J2
J3
Jリーグアウォーズ (最優秀選手賞 - JB11 - 得点王 - JBYP賞 - JFP個人賞 - J2MEP - 功労選手賞 - 最優秀監督賞 - 最優秀主審賞 - 最優秀副審賞 - JBP賞 )