大平 透(おおひら とおる、1929年〈昭和4年〉9月24日[1][8][9] - 2016年〈平成28年〉4月12日[10][8])は、日本の声優[11]、俳優[11]、アナウンサー。大平プロダクション代表[11]。日本俳優連合副理事長。最後は81プロデュースに所属していた[5]。クリスチャンで日本基督教団信徒[11]。
生涯
生い立ち
東京府荏原郡蒲田町(後の東京市蒲田区、現・東京都大田区)出身[2]。日本国有鉄道を務めていた父が、タイヤ修理工場、雑貨商を営むことなった関係から生後8か月でインドネシアに移住し、5歳まで姉と共にジャワ島のバンドンで過ごす[2][9][8]。帰国後は蒲田区で過ごしたが、住んでいた家屋が防火帯工事に伴う立ち退き対象にされたため、これを契機に疎開を兼ねて父親の故郷である観音寺市に移り住む[2]。
小学校卒業する頃は父のような技術者になりたいと考え、工業高校への進学を希望していたが、周囲の勧めもあり、東京府立第二十二中學校(後の東京都立城南高等学校[注釈 1]、現:東京都立六本木高等学校)に進学[8]。手先が器用で中学時代は美術は秀をもらい、終戦直後の中学4年生の時に東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)[8]洋画科を受験するも落ちた[2]。その事が「声優」へのプロセスとなっていたと振り返っている[2]。終戦後は東京に一家で戻り、同高校を経て、露天商、闇屋の手先のようなバイトをしながら、明治大学政治経済学部[9]に進学[2][8]。東京六大学の野球選手を夢見ていたこともあり[8]、明治大学硬式野球部で活躍するが、肺結核に罹患したため、3年間休学を余儀なくされる[13]。
キャリア
病も癒えて復学しようと考えていたところ、キリスト教の教会を八王子市のほうに建てて、牧師を自費で雇って教会を守ってきたというような熱心なクリスチャンであった父の勧めで受けたオーディションに合格したことで、1952年に「ルーテル・アワー(日本ルーテル・アワー)」専属アナウンサーでデビュー[4][13]。大学は夜学に転籍して、仕事と並行しながら1954年に卒業した[4][8]。その後、フリーアナウンサーを経て、ニッポン放送開局と同時にフリーのアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターとして、週2本のドキュメンタリーを制作していた[9]。
1955年、ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)開局と同時にTBS放送劇団へ入団し[9]、フライシャー・スタジオ制作短編アニメシリーズ『スーパーマン』を再編集した『まんが・スーパーマン』で日本のテレビ史上初の日本語吹き替えを行う[2][13]。
翌年には実写版テレビシリーズ『スーパーマン』で主演のジョージ・リーヴスの吹き替えを担当[2][13]。外国人が日本語を話すので当初こそ奇妙がられたが、好評を博して大平がタレントとして売り出す契機となった[14]。しかし、主役のリーヴスがスーパーマン以降のキャリアが伸び悩み自殺に至った事から、自身もスーパーマンでキャリアを終わらせたくないと考え、1960年に小林清志に引き継がせて降板する[2]。
1958年、TBS劇団解散に伴いフリーとなり[9][注釈 2]、1963年に大平プロダクションを設立[9]。1982年からは大平透声優ゼミナールを開校し[9]、後進の指導にあたっていた。この間には、『スーパーマン』等のシリアス路線から『恐妻天国』のフレッド・フリントストーン役や『ハクション大魔王』のハクション大魔王役などの主役に抜擢され、コメディ路線の新境地を開拓した[16]。
1989年には『笑ゥせぇるすまん』の主役・喪黒福造役やディズニーキャラクターのピート役に抜擢され演じており、最晩年に病気療養で降板するまで専属で担当し続けた。
2000年8月26日、妻と死別。2005年頃には体力の衰えを感じ引退を考えるも、仕事をしていたスタッフの後押しを受けて病気療養するまで現役で活動し続けた。
2007年3月3日、第1回声優アワード功労賞を受賞[17]。2013年には、第7回声優アワードで森功至、小原乃梨子、岡本茉利と共に「シナジー賞(タツノコプロ50周年)」を受賞した[18]。3月23日、24日に開催された「東京国際アニメフェア2013」では第9回功労賞を受賞[19]。
晩年・死去
2014年11月1日付けで81プロデュースに所属。2015年頃から体調を崩しがちになり、同年12月からは病院でリハビリに入ったため、持ち役には代役が立てられた[20]。同年12月14日、ディズニー主催の謝恩会に出席。これが公の前に現した最後の姿となった[21]。
2016年4月12日、肺炎で死去。86歳没[10]。6月20日に、パレスホテル東京で偲ぶ献花式が執り行われた[22]。
特色
声種は深みのある低音[7]。
知名度の高い作品で主役やレギュラーを務める事が多かったため、晩年のインタビューでは自身のキャリアについて「つくづく私はラッキーだなって思いますよ。来る仕事、来る仕事、みんな当たっちゃうんですよね(笑)」と自負していた[23]。
1970年から2001年まで毎日放送 - NET系(1975年4月からはTBS系)で土曜日の朝に放送されたワイドショー『八木治郎ショー』⇒『八木治郎ショー・いい朝8時』⇒『すてきな出逢い いい朝8時』では、1994年まで番組筆頭スポンサーだった田辺製薬(現:田辺三菱製薬)の生コマーシャルを担当した。
人物
趣味はゴルフ、釣り、麻雀、日曜大工、絵画[24]。
大橋巨泉とは50年来の大の親友であった。大平の死去からちょうど3か月後に巨泉も死去している。弟子に安富史郎、浜田健作らがいる。義母は東京都議会議員[25][26]。東京西洋家具同業組合の組合長であった藤田平三郎は大舅[26]。
身長は180cmあり、アテレコ黎明期には狭いスタジオの中、一つのマイクを複数人で使用し収録するという環境において、大平がいると「邪魔っけでしょうがなかった」と比較的小柄な納谷悟朗は冗談混じりにインタビューで語ったことがある。なお、大平自身は多くの声優にそう思われていた当時を振り返り、「でも私が主役だったからねえ」とこれまた冗談混じりに語っている。
同年代の大塚周夫はインタビューを受けた2009年当時、現役でアテレコをやっている80代で芝居を真剣に勉強してきた役者の一人に大平の名前を挙げていた[27]。
仕事に対する姿勢
ラジオ出身ということもあり、「声優」という呼称は抵抗なく用いた。反面、声優業自体には強いプライドを持ち、声優業が専業ではない芸能人が声優業をすることには批判的であった。
「自分が関わった仕事はヒットしてほしい」との思いから、嫌われることを覚悟の上で自分の意見や考えを主張し実践することが多かった。『笑ゥせぇるすまん』の収録現場では、リハーサル後にスタッフへ内容の面白さをはっきり伝え、台本が気に入らない場合は総監督を呼びつけ大平が自ら台詞を修正、変更していたという。当時演出だった大地丙太郎は後に、スタッフ間での大平は怖くうるさい存在だと言われていたものの「大平さんの言ってる事は正しいと思ってた」といい、台詞の変更も「確かに元の台詞より、大平さんの作った台詞の方がいい」と語っている。また、この姿勢について「作品を一所懸命やってるんだなと思ったんだ。何でもかんでも『面白くない』じゃなく、『面白い』と思ったら『面白いじゃねえか!』っていう。声優でそんな事を言う人はいないし、制作現場でも『これがいいんだ!』とガツンという人はいない」と評している[28]。
デビュー時に監督やプロデューサーとしても活動していた経験から、共演する後輩声優にはアドバイスや指導をすることが多かった[16]。「若手はヘタクソでも一生懸命やるけど、中堅になって慣れてくると手を抜くヤツがいるんですよ」と、演技力不足でも一生懸命な若手の演技に関しては寛容であったが、手を抜いた演技をした共演者(主に仕事に慣れて手を抜くことを覚えた中堅)がいた際は叱りつけていた[23]。ランチタイムの時にビールを飲んでいた者に対しては本人に直接怒らず、プロデューサーに「午後に仕事を控えて酒を飲むヤツとは一緒に仕事したくないから、そいつを下ろすか、俺を下ろすか決めてくれ」と伝えたという[23]。本人いわく「意地悪じゃなくてね、そういう“適当にやっている姿勢”が嫌なんです。私の弟子には、絶対そういう中堅にならないように指導していますけどね」とのこと[23]。
スーパーマン役で有名になった影響で仕事に制限がかかってしまった過去があることから、オーディションには参加せず、デモ用テープは一切作らなかった[30]。
自分がCMに出た企業は、その企業の製品しか使わないことをモットーにしていた[16]。
持ち役には拘りが強かった。『ハクション大魔王』の続編『よばれてとびでて!アクビちゃん』では低予算のため、大平の演じた大魔王役にギャラが安い別の声優をキャスティングしようとしたところ、それを聞いた大平は新人ランクのギャラで出演を引き受けたという[31]。
ファンを大切にしており、2008年の「第1回シンプソンズファン感謝祭」には無償で参加。また、この時に行われたサイン会は抽選にする予定でスタッフは大平にそれを勧めたが、「ある人は貰って、ある人は貰えないんじゃ、とってもかわいそうです」と大平の強い意向で来場者500人全員へのサインが実現した[16]。
エピソード
声優デビューにより、日本ルーテル・アワーの専属アナウンサーではなくなった後も『ルーテル・アワー』や『この人を見よ』などに引き続き出演したほか、ラジオのキリスト教伝道番組『心の友』[32]や太平洋放送協会製作のテレビ伝道番組『特別番組・メリークリスマス』にも出演している。
1970年代、下積み時代のビートたけしがバイトしていた通産省前のガソリンスタンドで大平の車を給油したという話があり、タケちゃんマンロボのナレーション収録で楽屋に居た大平をたけしが訪れ、このエピソードを披露したという[16]。
出演作に関して
『まんが・スーパーマン』では、当初は録音をせずに生放送の生吹き替えで、1人5役(スーパーマンの恋人ロイス・レーンを含む)を演じ分けていた。これが大ヒットし、翌年1956年には実写版テレビシリーズ『スーパーマン』で主演のジョージ・リーヴスの吹替えを務めた(最高視聴率74.2%)。放送当時の人気は非常に高く、大平の名を一躍全国区に高めた。また番組宣伝ではリーヴス並みの大柄な体躯を買われ、自らスーパーマンの衣装を身につけて貢献している[33]。また、1978年の映画版『スーパーマン』のテレビ朝日版にも大平は出演し、スーパーマンの父親ジョー・エル(マーロン・ブランド)の吹き替えを担当した。機内上映版ではクラーク・ケント(クリストファー・リーヴ)を担当しており、大平はジョージ・リーヴス版とクリストファー・リーヴ版の両方でスーパーマン役の日本語吹替を担当した唯一の声優である。このことから、日本では大平=スーパーマンのイメージが強い。地方でもスーパーマンだと指さされることが多く、リーヴスが死去した際にはファンから大平のもとに弔電が送られてきたこともあったという。『スーパーマン』の再放送時に再アフレコを依頼された際には、「スーパーマンで一生を終えたくない」としてこれを断ったが、小林清志が演じた再放送や広川太一郎が演じた『スーパーマンの新冒険』も大平が演じていたと誤解されることもあった。
デビューからしばらくは低音で演じる役柄が多かったが、ハンナ・バーベラ・プロダクション制作の『恐妻天国』(1961年、フジテレビ)で主人公・フレッドの「情けない感じ」を出すために高い声色を使って演じたところ、たまたまそれを観ていた広告代理店・読売広告社の当時の常務が『おらぁグズラだど』(1967年)の製作にあたり「絶対にグズラは大平透だ」と推薦し[23]、グズラ役に抜擢される。以来、『ハクション大魔王』(1969年)ほか読売広告社 / タツノコプロ制作のアニメ作品に数多く出演するきっかけとなった[34]。特に『ハクション大魔王』からは、フジテレビ系列日曜夕方6時台枠のアニメに放映された全てのタツノコアニメにレギュラー出演。『未来警察ウラシマン』(1983年)途中での放送枠変更を挟んで、『よろしくメカドック』(1984年)まで連続して出演している[注釈 3]。また『カバトット』(1971年)、『かいけつタマゴン』(1972年)では「台詞なしで声の表情だけで演じるギャグアニメ」という制約の中、主役を演じ切っている。現場での信頼も厚く、タツノコ作品の収録では「座長」と呼ばれ、共演者のまとめ役的役割を果たした[34]。『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)では、番組後半にささきいさお演じるコンドルのジョーを中心とするストーリー展開となったために、主演である大鷲の健を演じる森功至が憤慨し降板を申し出て現場を騒然とさせたため、「自分の都合で番組をやっているのではない」と森を説得し、現場の混乱を収めたこともある[35]。
タツノコプロとは仕事以外でも親交があり、自身が支援していた北海道の障害者団体の児童のために、タツノコプロ創設者である吉田竜夫の妻を介して、タツノコ作品の上映会を開催している[36]。また、上記のような経緯から読売広告社との関係も親密で「読広の社外取締役」とも言われた[37]。
『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造役について、当初は熊倉一雄が99%内定していたものの[16][38]、総監督の意向でオファーを受け喪黒の声を披露したところ、原作者の藤子不二雄Aも大絶賛し満場一致で大平に決まったという[23][注釈 4]。
特撮ヒーロー番組ではピー・プロダクション制作の作品に関わりが深い。『マグマ大使』(1966年)では、当初は宇宙の帝王ゴアの声だけを担当する予定だったが、「表情の動かないぬいぐるみの動きと吹き替えのタイミングが合わせづらい」と、自ら申し出てゴアの着ぐるみを着け、これを演じている[注釈 5]。着ぐるみでの演技は大量の汗をかくため、自宅の家政婦を連れて来て冷却や汗ふきを行っていた。『俺は透明人間!』(1970年)では俳優として第1話にギャング団のボス役でゲスト出演、『スペクトルマン』(1971年)では主人公が所属する組織「公害Gメン⇒怪獣Gメン」のリーダー・倉田室長役でレギュラー出演している。『スペクトルマン』では、自身の行きつけのブティックとタイアップして他のレギュラー出演者のスーツを用意していた。
東映作品には、『スパイキャッチャーJ3』(1965年)から出演[12]。「スーパー戦隊シリーズ」では『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年)の第15話より参加。以後、『科学戦隊ダイナマン』(1983年)までの7作品、および『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992年)のナレーターを担当した。『ダイナマン』では、編成上の都合から第10話より放送時間が短縮され、番組予告もそのあおりを受けたがアドリブを随所に入れ、時間的な制約をカバーした。ナレーションの際には、台本を読んで作品の状況を把握してから、監督と相談して作品の情景にあわせてナレーションするように心掛けていたという[12]。ナレーター以外では『超力戦隊オーレンジャー』(1995年)で敵組織の首領・皇帝バッカスフンドの声を担当している。また、『メタルヒーローシリーズ』では『宇宙刑事シャイダー』(1984年)から参加、『超人機メタルダー』(1987年)[注釈 6]以外の、『機動刑事ジバン』(1989年)までの5作品のナレーターを担当した。『宇宙刑事シャイダー』で主演を務めた円谷浩は、後年『THEウルトラ伝説』という円谷プロの集大成・再編集ビデオで初めてナレーターを担当した際、『シャイダー』のナレーターだった大平の語りが強く印象に残っているといい、「あれは凄いよね」と敬意を払っていた[40]。
洋画作品では、テリー・サバラスの吹き替えを多く演じている。サバラス主演のテレビシリーズ『刑事コジャック』(1975年 - 1979年、TBS系)は当初、大平が吹替える予定だったが、当時の演出担当ディレクターが「吹き替えのためには、声優もオリジナル俳優と同じ格好で生活してリアリティを出すべきだ」と主張し、大平に対して丸坊主になるよう要求したが、当時田辺製薬の生CMに出演していた都合から不可能だったため大平は降板[16]。森山周一郎が吹替えることになった[注釈 7]。海外テレビシリーズでは『スパイ大作戦』(1967年 - 1973年、フジテレビ系)の番組プロローグに登場する「指令の声(演:ボブ・ジョンソン)」の吹き替えでも知られる。
『ザ・シンプソンズ』のホーマー・シンプソンの吹替声優に抜擢される。他の声優陣がオーディションで選ばれた中、大平のみ制作側の指名であった。『ザ・シンプソンズ MOVIE』では話題性重視のため一度声優が変更されたものの、ファンの抗議や活動によりDVD発売時にオリジナル声優による吹替が制作されホーマー役に復帰。2008年5月4日にはこのことに感謝して「シンプソンズファン感謝祭」を主催。これをきっかけに『ザ・シンプソンズ』のDVDが発売されるとファンと声優でシンプソンズファン感謝祭を開催するようになり、2013年までに5回開催されていた。なお、大平は原語版のホーマー役であるダン・カステラネタや原作者のマット・グレーニングと対面しており本人公認となっている[16]。
『スター・ウォーズ・シリーズ』では旧三部作でダース・ベイダーの声を担当、新三部作エピソード3『シスの復讐』(2005年)でも引き続き声を担当した。これは監督であるジョージ・ルーカスが、日本語吹替え版の大平の声を気に入り直々に指名したものだという[23]。シリーズを通して、オフィシャルな吹き替えで旧シリーズと新シリーズの両方で同一キャラクターを担当したのは大平のみである[注釈 8]。また、大平没後、実写映画版などでは楠大典がキャスティングされるがレゴスターウォーズのアニメシリーズの後任は土師孝也、ゲームなどの各作品などは中村浩太郎がキャスティングされている。
出演
太字はメインキャラクター。
テレビアニメ
- 1963年
-
- 1965年
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- 1967年
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- 1968年
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- 1969年
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- 1970年
-
- 1971年
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- 1972年
-
- 1974年
-
- 1976年
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- 1977年
-
- 1978年
-
- 1979年
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- 1980年
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- 1981年
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- 1983年
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- 1984年
-
- 1985年
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- 1988年
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- 1989年
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- 1991年
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- 1992年
-
- 1999年
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- 2000年
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- 2001年
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- 2004年
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- 2005年
-
- 2006年
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- 2008年
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- 2009年
-
劇場アニメ
- 1961年
-
- 1978年
-
- 1980年
-
- 1989年
-
- 2001年
-
- 2004年
-
OVA
- 1990年
-
- 1992年
-
- 2007年
-
- 2010年
-
- 2012年
-
吹き替え
担当俳優
- ジェームズ・アール・ジョーンズ
-
- ジャック・クラグマン
-
- ジョージ・C・スコット
-
- チャールズ・ダーニング
-
- テリー・サバラス
-
- フェルナンド・レイ
-
- ブライアン・キース
-
- ブライアン・ブレスド
-
- ボブ・ジョンソン
-
映画
- 1958年
-
- 1961年
-
- 1967年
-
- 1970年
-
- 1973年
-
- 1974年
-
- 1975年
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- 1976年
-
- 1977年
-
- 1978年
-
- 1979年
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- 1980年
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- 1982年
-
- 1983年
-
- 1984年
-
- 1985年
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- 1986年
-
- 1987年
-
- 1990年
-
- 1992年
-
- 1994年
-
- 1996年
-
- 1999年
-
- 2000年
-
- 2001年
-
- 2002年
-
- 2003年
-
ドラマ
- 時期不明
-
- 1956年
-
- 1963年
-
- 1969年
-
- 1976年
-
- 1977年
-
- 1988年
-
- 1989年
-
- 1996年
-
アニメ
- 1956年
-
- 1960年
-
- 1961年
-
- 恐妻天国(フレッド・フリントストーン)※フジテレビ版
- 1963年
-
- 1964年
-
- 1966年
-
- 1992年
-
- 1994年
-
- 1996年
-
- 1998年
-
- 2000年
-
- 2002年
-
- 2004年
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- 2006年
-
- 2008年
-
- 2011年
-
- 2012年
-
- 2013年
-
人形劇
- 1965年
-
ゲーム
- 1993年
-
- 2001年
-
- 2002年
-
- 2005年
-
- 2008年
-
- 2009年
-
- 2010年
-
- 2012年
-
- 2013年
-
- 2014年
-
特撮
- 1964年
-
- 1965年
-
- 1966年
-
- 1967年
-
- 1968年
-
- 1971年
-
- 1973年
-
- 1975年
-
- 1976年
-
- 1977年
-
- 1978年
-
- 1979年
-
- 1980年
-
- 1981年
-
- 1982年
-
- 1983年
-
- 1984年
-
- 1985年
-
- 1986年
-
- 1988年
-
- 1989年
-
- 1992年
-
- 1995年
-
- 1996年
-
テレビドラマ
映画
ラジオ
レコード
CD
バラエティ
CM
その他コンテンツ
代役・後任
大平の入院に伴う代役、または死後に持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。ただし、声優陣が一新された作品は除外する。
脚注
シリーズ一覧
- ^ 『モノクロ版』(1967年 - 1968年)、『リメイク版』(1987年 - 1988年)
注釈
- ^ バレーボール全日本元監督の松平康隆と同窓[12]。
- ^ TBS劇団が実際に解散したのは1969年[15]。
- ^ 他には『おそ松くん』(1988年)と『おれは直角』(1990年)の読売広告社とぴえろの共同制作のアニメにも出演していた。
- ^ 大平によると、録音制作会社からオーディションテープの提供を求められたものの、大平の「デモテープは作らない」というポリシーから断り、スケジュールの空いた時間に自ら出向いて喪黒の声を録音したという(中公文庫5巻所載のMOGRO CLUBより)。
- ^ このページの最下部に大平がゴアの扮装でマスクを外して手にしている画像が掲載されている[39]。
- ^ ナレーションは政宗一成が担当。
- ^ 森山が一時丸坊主にしていたのは、これが理由である。
- ^ 旧三部作のテレビ放映や劇場公開など独自の日本語吹替版を含めると、ヨーダ役の永井一郎(『帝国の逆襲』劇場公開版で担当)とC-3PO役の岩崎ひろし(『新たなる希望』日本テレビ2002年版)も挙げられるため3人目となる。
- ^ リメイク版は旧版の声をそのまま使用。
- ^ 全40話のオムニバスドラマ。出演者は毎回変わる。
- ^ 当初吹き替え声優として発表されていたが変更になった。森山は大平と同じくカザン隊長を演じるテリー・サバラスを長年持ち役としている。
- ^ 大平の存命中にも『ヤマトよ永遠に』のスカルダート役をゲーム版で引き継いでいる。
出典
参考文献
外部リンク