ペンシルベニア州ピッツバーグ (1933-現在)
アクリシュア・スタジアム (2001-現在)スリー・リバース・スタジアム (1970-2000)ピット・スタジアム (1958-1969)フォーブス・フィールド (1933-1963)
ピッツバーグ・スティーラーズ(英語: Pittsburgh Steelers、略称: PIT)はNFLに加盟し、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグに本拠地をおくNFLチーム。AFC北地区に所属している。
1970年にNFLとAFLが統合した際AFCに組み入れられた旧NFLの3チーム(他の2チームはクリーブランド・ブラウンズ、ボルチモア・コルツ)のうちの1つである。愛称の由来はピッツバーグはかつて鉄鋼業が盛んだった事から“鉄の男達”から。スーパーボウル制覇6回は、全NFLチーム中最多(2018年シーズンにニューイングランド・ペイトリオッツが制覇し、最多記録に並んだ)であり、2度の連覇を達成した唯一のチームである。
QB テリー・ブラッドショー、RB フランコ・ハリス、WR リン・スワンの攻撃陣(1975年の公式戦では、ハリスとロッキー・ブライアーの2人が1000ヤード・ランを記録)に加え、DT ミーン・ジョー・グリーン、MLB ジャック・ランバート、OLB ジャック・ハム、DB メル・ブラント等による強力なディフェンス陣は「スティールカーテン」と呼ばれ相手チームに恐れられた[1]。
NFLに現存するチームでは7番目に古い歴史を持っている(アリゾナ・カージナルス、グリーンベイ・パッカーズ、シカゴ・ベアーズ、ニューヨーク・ジャイアンツ、デトロイト・ライオンズ、ワシントン・レッドスキンズ)。チームは1933年7月8日、フィラデルフィア・イーグルスと同時に、アート・ルーニーによって設立された。設立当初はMLBのピッツバーグ・パイレーツと同一名でNFLのイースタン・ディビジョンに所属した。1940年にチームはスティーラーズと改称した。1942年にチームは7勝4敗と初めて勝ち越し、ルーキーのビル・ダドリーはリーディングラッシャーとなった。翌1943年にダドリーや他の多くの選手が第二次世界大戦に従軍したため1943年にはフィラデルフィア・イーグルスと1944年にはシカゴ・カージナルスと共同チームを形成した。1946年にジャック・サザーランドがヘッドコーチとなり復帰したダドリーがラッシング、インターセプト、パントリターンでリーグトップの成績を残しMVPに選ばれる活躍を見せた。1947年には8勝4敗でディビジョンタイトルを獲得しプレーオフに初出場したがフィラデルフィア・イーグルスに0-21で敗れた[2]。
サザーランドの次にヘッドコーチとなったジョン・ミケロセンは1948年から1951年の4シーズンで20勝26敗2分の成績に終わり、1952年にはジョー・バック(1935年から1936年にもヘッドコーチ)がヘッドコーチに復帰した。1954年にバックが健康上の理由で辞任し後任にはアシスタントコーチのウォルト・キースリング(1939年から1944年にもヘッドコーチ)が就任した[2]。
1957年から1964年までの8シーズンはバディ・パーカーがヘッドコーチを務めた。この間の負け越しは3シーズンだけで1962年には9勝5敗でプレーオフに出場したがデトロイト・ライオンズに10-17で敗れた。
1969年1月27日にチャック・ノールが37歳でヘッドコーチに就任すると、ドラフトで後にプロフットボール殿堂入りする選手を多く獲得した。彼が1969年にドラフトで最初に指名したのはDTのミーン・ジョー・グリーンだった。1969年は1勝13敗に終わったがそれによって1970年のドラフト全体1位指名権を得たチームはテリー・ブラッドショーを指名した。その年の3巡ではCBのメル・ブラント、1971年にはジャック・ハム、1972年にはRBのフランコ・ハリスを獲得した[2]。
1970年にはチームにとって大きな出来事が2つあった。1つはAFLとの統合によって、AFC中地区に所属することになったこと、もう1つは本拠地をスリー・リバース・スタジアムに移転したことである。1972年には11勝3敗で地区優勝を果たし、地元で行われたオークランド・レイダースとのプレーオフでは、試合終了直前にハリスが行った「イマーキュレート・レセプション」と呼ばれる伝説的プレイ(詳細後述)により逆転勝利を収める(最終スコア13-7)。しかしAFC優勝戦ではパーフェクトシーズンを達成したマイアミ・ドルフィンズに17-21で敗れてスーパーボウル出場は果たせなかった[2]。
1973年には10勝4敗でワイルドカードでプレーオフ出場を果たしたがオークランド・レイダースに14-33で敗れた。
1974年から1979年までチームは6年連続地区優勝を果たした。1974年のプレーオフではバッファロー・ビルズを32-14、オークランド・レイダースを24-13で破り第9回スーパーボウルに出場した。スティールカーテンと呼ばれたディフェンスがミネソタ・バイキングスの攻撃を完全に封じ16-6でスーパーボウル初制覇を果たした。1975年には11連勝を含み12勝2敗でシーズンを終え、プレーオフではボルチモア・コルツを28-10、オークランド・レイダースを16-10で破り第10回スーパーボウルでダラス・カウボーイズを21-17で破りスーパーボウル史上、グリーンベイ・パッカーズ、マイアミ・ドルフィンズに次いで連覇を達成した3チーム目となった。
1976年は開幕から1勝4敗と苦しんだがその後9連勝して10勝4敗でシーズンを終えた。ボルチモア・コルツを40-14で破ったがフランコ・ハリス、ロッキー・ブライアーが負傷欠場したオークランド・レイダース戦を7-24で落とした。この年のレギュラーシーズン、リン・スワンが脳震盪を起こしたプレーについてレイダースのジョージ・アトキンソンを訴えた[3][4]。1977年は9勝5敗で終えプレーオフ1回戦でデンバー・ブロンコスに21-34で敗れた。
1978年にはNFLトップの14勝2敗でシーズンを終え、デンバー・ブロンコスを33-10、ヒューストン・オイラーズ戦では9回のターンオーバーを奪い34-5で勝利[5]、第13回スーパーボウルでダラス・カウボーイズを35-31で破りスーパーボウルを3回優勝した最初のチームとなった。1979年には12勝4敗でシーズンを終え、プレーオフではマイアミ・ドルフィンズに34-14、ヒューストン・オイラーズを27-13で、ロサンゼルス・ラムズとの第14回スーパーボウルでは試合終盤まで相手QBヴィンス・フェラガモの活躍でリードを許したがジョン・ストールワースへの2本のTDパスで逆転31-19で勝利、4回目のスーパーボウルを制した。現在のところ、スーパーボウル連覇を2度達成した唯一のチームとなっている[2]。
1980年は9勝7敗、1981年は8勝8敗でプレーオフ出場を逃した。ストライキでシーズンが短縮された1982年は6勝3敗でプレーオフに出場したがサンディエゴ・チャージャーズに28-31で敗れた。この試合の後、スリー・リバース・スタジアムでは10シーズンの間、プレーオフから遠ざかることとなった。1983年は10勝6敗で地区優勝を果たしたがプレーオフではロサンゼルス・レイダースに10-38で敗れた。1984年も2年連続地区優勝を果たしデンバー・ブロンコスを24-17で破りAFCチャンピオンシップゲームに進出したがこの年シーズンタッチダウンパス記録を更新したダン・マリーノのマイアミ・ドルフィンズに28-45で敗れた[2]。
1985年には7勝9敗と14年ぶりに負け越し、1986年には6勝10敗に終わった。ストライキで短縮された1987年は最後の2試合を落とし8勝7敗でプレーオフを逃した。1988年にはここ19シーズンで最悪の5勝11敗に終わり、1989年は開幕2試合を0-51、10-41と大差で敗れたが若いチームはここから持ち直し9勝7敗でシーズンを終え、ワイルドカードプレーオフで26-23とヒューストン・オイラーズを破り、デンバー・ブロンコスとのディビジョナル・プレーオフは23-24とわずか1点差の好ゲームを演じた。1990年には9勝7敗でAFC中地区3チームが並んだが地区内成績が2勝4敗だったチームはプレーオフ出場を逃した。1991年を7勝9敗で終えた後、23シーズンに渡ってヘッドコーチを務めたチャック・ノールが辞任を発表し後任にはビル・カウアーが就任することとなった。
熱血漢のビル・カウアーの下でチームは彼が就任してから6年連続でプレーオフに進出した。この記録は過去にはポール・ブラウンがクリーブランド・ブラウンズ時代に達成しただけであった。カウアーがヘッドコーチを務めた15年間でチームは10回プレーオフに進出、Blitzburghと呼ばれたブリッツを多用した守備を武器に第30回スーパーボウルに出場したがダラス・カウボーイズに敗れた。
2004年シーズン守備でNFL1位。攻撃はラン中心で組み立てられ、新人QBのベン・ロスリスバーガーは数々の新人記録を打ち立てたがスーパーボウル出場を逃した。RBジェローム・ベティスはこの年で引退を決意していたがロスリスバーガーは自分がスーパーボウルに連れて行くのでもう1年プレーしてほしいとベティスに頼んだ。
2005年シーズンでは、チームはAFC第6シードながらプレーオフに出場、インディアナポリス・コルツ戦ではシーズン中ほとんどファンブルしたことのないベティスが試合終盤にファンブルし、相手に攻撃権が渡り大ピンチとなったがコルツのミスに助けられるなど勝ち上がり、第6シードのチームとしては初めてスーパーボウルに出場を果たした。第40回スーパーボウルではシアトル・シーホークスを破り26年ぶりに5度目となるスーパーボウル優勝を果たした。ベティスは故郷デトロイトで行われたこの試合で現役を引退した。
カウアーは2006年シーズン終了後、翌2007年1月7日に家族との時間を大切にしたいと辞任した。
後任のヘッドコーチはアート・ルーニー2世、ダン・ルーニー、GMのトニー・トルバートの3人の話し合いで数人の候補に絞られた[6]。オフェンスコーディネーターのケン・ウィゼンハント[注 2]、オフェンスラインコーチのラス・グリム、元オフェンスコーディネーターのチャン・ゲイリー、ミネソタ・バイキングスのディフェンスコーディネーターのマイク・トムリン、シカゴ・ベアーズのディフェンスコーディネーターのロン・リベラである。1月22日にマイク・トムリンが新ヘッドコーチに選ばれたことがチームから発表された。彼はスティーラーズの歴史上初のアフリカ系アメリカ人ヘッドコーチであった。
2008年度の第43回スーパーボウルでは残り35秒からサントニオ・ホームズへの逆転タッチダウンでアリゾナ・カージナルスを27-23で破り史上最多6度目の優勝を飾った。
スーパーボウル連覇を狙った2009年はトロイ・ポラマルの負傷などでチームはプレーオフ出場を逃した。この年ロスリスバーガーが脳震盪を起こした次の試合で欠場したがその際ハインズ・ウォードは不満をもらした。
2010年、エースQBのロスリスバーガーがNFLの行動規範に反する行いをしたとして、開幕から6試合[7](その後ロジャー・グッデルコミッショナーにより4試合に減らされた。)出場停止になることが決定された。そのため、チームはかつて控えQBを務めたバイロン・レフトウィッチと契約したが、故障のために欠場することになり、QBはデニス・ディクソン、チャーリー・バッチの2人でロスリスバーガーが復帰するまで開幕から3連勝し[8]、3勝1敗で乗り切った。チームは12勝4敗でAFC第2シードでシーズンを終えた。ディビジョナルプレーオフでは31-24でボルチモア・レイブンズに勝利。AFCチャンピオンシップゲームでは、AFC第6シードながら第1シードのニューイングランド・ペイトリオッツを破ったニューヨーク・ジェッツと対戦して24-19で勝利し、第45回スーパーボウル出場を果たしたがグリーンベイ・パッカーズに25-31で敗れた[9]。
2011年、ボルチモア・レイブンズと同じ12勝4敗をあげたが、直接対決で2敗したためワイルドカードでのプレーオフ出場となった[10]。最終週に負傷したRBメンデンホールが欠場[11]、この年チーム最多タックルをあげたライアン・クラークも鎌状赤血球形質の症状がかつて高地であるデンバーで悪化したことがあるため欠場した[12]デンバー・ブロンコスとのワイルドカードプレーオフで、オーバータイムの末、23-29で敗れた[13]。シーズン終了後、オフェンスコーディネーターのブルース・エリアンスが引退を表明した[14]。
2013年11月28日のボルチモア・レイブンズ戦でジャコビー・ジョーンズのキックオフリターン中にマイク・トムリンヘッドコーチがフィールド上に侵入し、ジョーンズの進路妨害をした疑いにより、10万ドルの罰金処分を受けた[15]。
2014年から三年連続してプレーオフ出場を果たし、うち2014年と2016年は地区優勝を果たしたが、いずれもスーパーボウル出場はならなかった。2017年もまた地区優勝を果たしたが、プレーオフ初戦でジャクソンビル・ジャガーズに敗れた。
2018年は最初の10試合を7勝2敗1分と好調に消化したものの、続く6試合で2勝4敗に終わりプレーオフ出場を逃した。2019年9月、第2週の試合でロスリスバーガーは右肘を痛め、手術の結果シーズン絶望となった。2年連続してプレーオフを逃した。
2020年は開幕から11連勝を果たし、最後の5試合は1勝4敗と失速したものの3年ぶりの地区優勝となった。プレーオフでは初戦でクリーブランド・ブラウンズに敗れた。
2021年1月21日、前ワシントン・フットボールチームのQBドウェイン・ハスキンズと契約した。ロスリスバーガーがシーズン後の引退を示唆する中、チームは地区二位でシーズンを終え、プレーオフに進出するも初戦でカンザスシティ・チーフスに敗れた。シーズン終了後、ロスリスバーガーが引退を発表した。さらにGMのケビン・コルバートが2022年のNFLドラフト後に退任することが発表された。後任にはコルバートの部下であったオマール・カーンが就任した。
2022年4月9日、QBのドウェイン・ハスキンズが交通事故で死亡した[16]。この年のドラフト1巡目でQBケニー・ピケットを指名した。シーズン序盤はミッチェル・トゥルビスキーを先発QBとするも、5戦目以降はピケットを先発とした。最終戦までプレーオフの望みを残したが、地区3位でシーズンを終えプレーオフ進出はならなかった。
2023年、20シーズン連続で勝率を5割以上とした。最終週にワイルドカードでのプレーオフ進出を決めた。プレーオフ初戦でバッファロー・ビルズに敗れた。
2024年、ラッセル・ウィルソンと1年契約を結び、ピケットをフィラデルフィア・イーグルズにトレードした[17][18]。
1972年12月23日のAFCプレーオフ、対レイダース戦。スティーラーズは残り22秒時点で6対7でリードを許している状況。自陣40ヤードからの攻撃、残り10ヤード、既に4thダウンという瀬戸際に追い込まれていた。
ボールを受けたQBのテリー・ブラッドショーは、自陣29ヤード地点から、敵陣35ヤード地点にいたHBのジョン・フッカにパス。しかしフッカはレイダースのセーフティであるジャック・テイタムと接触してパスを取りそこね、ボールはテイタムの体に触れてスティーラーズ陣側に跳ね返った。そのボールを、フランコ・ハリスが地面まであとわずかの地点でキャッチ、相手陣に向けて疾走する。パス不成功が成立したと思って一瞬動きを止めていたレイダース選手は追いつくことができず、ハリスはそのままタッチダウンを奪った。
試合はその後、スティーラーズがTFPも決め終了。13対7により、スティーラーズがAFC優勝戦へ駒を進めた。
このプレイはのちに、無原罪の御宿り(Immaculate Conception=清浄なる受胎)に引っ掛け、「イマーキュレート・レセプション」(Immaculate Reception=清浄なるパスキャッチ)と呼ばれるようになった。絶体絶命の場面からの大逆転を実現したこのプレイは、チーム史上のみならず、NFLの歴史においても屈指の奇跡的プレイとして現在でも語り継がれている。
1970年代のスティーラーズの強力なディフェンス陣はスティールカーテン(Steel Curtain)と呼ばれている。スティーラーズは1970年代に第9回(1974)、第10回(1975)、第13回(1978)、第14回(1979)と4回ものスーパーボウル制覇を経験し、特に強力なディフェンスで敵を圧倒していたことから名付けられた。メンバーはドワイト・ホワイト、アーニー・ホームズ、ミーン・ジョー・グリーン、L・C・グリーンウッドの4人を指す場合が多い。
スティーラーズのファンは、スティーラー・ネーション(Steeler Nation)と呼ばれ、ピッツバーグのみならず全米中に居住していると言われている。また、ピッツバーグやその他の地域のスティーラーズファンが集まる地域は、たびたびスティール・カウントリー(Steel Country)と呼ばれている。
スティーラーズが人気になった理由として、工業都市ピッツバーグの特異性が挙げられる。1970年代に4度のスーパーボウル制覇を経験し、市民は大いに盛り上がったものの、この頃からピッツバーグの鉄鋼業はすでに下火となっていた。そのため、市民にとって唯一の希望の存在がスティーラーズであった。また、1980年代のいくつかの製鉄所の閉鎖で、ピッツバーグから転居する住民は相次いだ。しかし、ピッツバーグを離れた市民であったが、転居先でも引き続き故郷へのアイデンティティを強く持っており、それが今日までスティーラーズファンが全米中に所在している状況になっている。
近年では、スティーラーズのファンがアウェイのスタジアムにも多く押しかけることから、チームによってはスティーラーズファンに対して、入場制限を掛けている場合もある[19]。
スティーラーズファンによる応援はNFLでもとりわけ熱狂的であり、特にテリブルタオル(Terrible Towel)というゴールドのタオルを振り回すことで知られている[20]。このテリブルタオルは、地元ラジオ局「WTAE」のスティーラーズ専門アナウンサー、マイロン・コープ(Myron Cope、2005年に引退)の発案で広まった。1975年プレーオフのボルティモア・コルツ(現インディアナポリス・コルツ)戦で初めて行われ、以降スティーラーズの象徴的な応援となっている。また、応援グッズに留まらず、ファンの日常生活でも用いられており、今日ではピッツバーグ市民の日用品として定着している。
テリブルタオルの販売による収入は、発達障害と身体障害を持つ人々をケアするアレゲニー・バレー・スクールへ寄付され、2007年時点で600万ドル以上を集めている。近年、さまざまなスポーツの応援でたびたび用いられているタオル回しは、このスティーラーズのテリブルタオルが元祖であると言われている。
2007年シーズン前、チームは公式マスコットとしてスティーリー・マクビーム(Steely McBeam)を発表した。チームの75周年記念として発表されたスティーリーは、ファンからの7万を超える応募から命名された。
同地区のライバル、クリーブランド・ブラウンズ、ボルチモア・レイブンズ、シンシナティ・ベンガルズに加えてこれまでポストシーズンの対戦を繰り返しているニューイングランド・ペイトリオッツ、オークランド・レイダース、テネシー・タイタンズ、ダラス・カウボーイズなどが挙げられる。また現在のスケジュールでは4シーズンに1回しか対戦しないがフィラデルフィア・イーグルスとはプレシーズンゲームで毎年のように対戦している。
1950年からの対戦成績は最初の40試合の勝敗では9勝31敗であったが2008年終了時点での対戦成績は57勝55敗とスティーラーズがリードしている。1999年にブラウンズが再結成された後の対戦成績では17勝3敗と圧倒しており現在10連勝中である。また1970年から1985年までの16年間はスティーラーズの全勝でスリー・リバース・スタジアムでの対戦はスティーラーズの24勝5敗となっている。ビル・カウアーはスティーラーズのヘッドコーチに就任する前、ブラウンズでスペシャルチームコーチ、ディフェンスバックコーチを務めている。
1996年からの対戦成績は16勝10敗でスティーラーズがリードしている。両チームとも強力なディフェンスで知られている。2001年、アクリシュア・スタジアムを本拠地にしてから初のホームでの敗戦がレイブンズ相手の試合であった。このシーズンプレーオフで対戦し、前年のスーパーボウルチャンピオンのレイブンズを27-10で破った。2008年のAFCチャンピオンシップゲームでも対戦しスティーラーズが勝利している。
NFLとAFLが統合された1970年からの対戦成績は47勝30敗でスティーラーズがリードしている。2005年のワイルドカードプレーオフではAFC第6シードのスティーラーズが31-17でベンガルズを破り、ベンガルズQBのカーソン・パーマーはKimo von Oelhoffenのヒットを受けて膝を負傷し退場した。ベンガルズの選手たちは汚いプレーだと非難したがNFLのルールでは正当なルールであり事故と判断されている。2005年、2006年はお互い11勝5敗、8勝8敗で終わり対戦成績も1勝1敗であったがディビジョン内の対戦成績でベンガルズが上位となった。
1996年、1997年のプレーオフで両者は対戦している。ペイトリオッツにはタイ・ロー、カーティス・マーティンとピッツバーグ近郊出身の2人の選手が在籍していた。2001年の当時のハインツ・フィールドで行われたAFCチャンピオンシップゲームで番狂わせで敗れた。2004年の第6週で対戦しペイトリオッツの連勝を21で止めたがAFCチャンピオンシップゲームでチームは敗れた。1998年から2007年までの10年間で7回対戦したがその内6回チームは敗れた。2008年フォックスボロ・スタジアムで行われた試合で相手QBのマット・キャセルから5回のターンオーバーを奪って33-10で勝った。通算成績はスティーラーズが14勝10敗とリードしている。
1970年代からのライバル関係にある。プレーオフでの初対戦となった1972年12月23日の試合ではフランコ・ハリスのイマーキュレート・レセプションで13-7と勝利した。翌1973年のプレーオフでは敗れたが1974年、1975年のAFCチャンピオンシップゲームではいずれもレイダースを降した。1976年のチャンピオンシップゲームでも両者は対戦したがこの試合でリン・スワンがジョージ・アトキンソンの激しい当たりで負傷退場し試合はレイダースの勝利に終わった。チャック・ノールヘッドコーチがこれを厳しく批判したことに対してレイダースとアトキンソンはノールに対して名誉毀損で訴訟を行ったが敗れている。近年はレイダースが低迷しているためプレーオフでの対戦はない。通算成績は11勝12敗でレイダースにリードされている。
1960年にカウボーイズが創設された際、コットン・ボウルで最初に対戦したのがスティーラーズであった。この試合は35-28でスティーラーズが勝利した。両チームはスーパーボウルで3回対戦しており、最初の2回の対戦(第10回スーパーボウル、第13回スーパーボウル)ではスティーラーズが勝利した。第13回スーパーボウルに出場した選手、コーチの合計20人がプロフットボール殿堂入りを果たしておりこれはこれまでのスーパーボウル最多の人数となっている。1977年にカウボーイズは第12回スーパーボウルを制覇したが11月にスリー・リバース・スタジアムでの対戦ではスティーラーズが28-13で勝利した。ロジャー・ストーバック現役最後のシーズンとなった1979年にも両チームはスリー・リバース・スタジアムで対戦し14-3でスティーラーズが勝利した。1970年代、1980年代合計8回の対戦中6回はスティーラーズが勝利したが1990年代には第30回スーパーボウル[注 3]での27-17の勝利を含めて4試合ともカウボーイズが勝利した。通算成績は15勝15敗のタイ。
:1度対戦 :2度対戦
()内はシード順
ランニングバック
ワイドレシーバー
タイトエンド
ディフェンシブライン
ディフェンスバック
スペシャルチーム
練習生
アクティブ 53名 インアクティブ 8名練習生 14名
2007年にファン投票で75周年を記念したオールタイムチームが決められた[21]。
オフェンス QB - †テリー・ブラッドショー (1970–1983) RB - †ジェローム・ベティス (1996–2005) RB - ロッキー・ブライアー (1968, 1970–1980) RB - †フランコ・ハリス (1972–1983) TE - ベニー・カニンガム (1976–1985) TE - エルビー・ニッケル (1947–1957) WR - †ジョン・ストールワース (1974–1987) WR - †リン・スワン (1974–1982) WR - ハインズ・ウォード (1998–2011) OT - ラリー・ブラウン (1971–1984) OC - †ダーモンティ・ドーソン (1988–2000) OG - †アラン・ファニカ (1998–2007) OT - トーンチ・イルキン (1980–1992) OT - ジョン・コルブ (1969–1981) OC - †マイク・ウェブスター (1974–1988)
ディフェンス DT - †ミーン・ジョー・グリーン (1969–1981) DE - L・C・グリーンウッド (1969–1981) DT - ケイシー・ハンプトン (2001–2012) DT - †アーニー・スタウトナー (1950–1963) DE - ドワイト・ホワイト (1971–1980) LB - †ジャック・ハム (1971–1982) LB - †ジャック・ランバート (1974–1984) LB - グレッグ・ロイド (1988–1997) LB - ジョーイ・ポーター (1999–2006) LB - アンディ・ラッセル (1963, 1966–1976) DB - †メル・ブラント (1970–1983) DB - †ジャック・バトラー (1951–1959) DB - カーネル・レイク (1989–1998) DB - †トロイ・ポラマル (2003–2015) DB - †ドニー・シェル (1974–1987) DB - †ロッド・ウッドソン (1987–1996) スペシャリスト K - ゲイリー・アンダーソン (1982-1994) P - ボビー・ワルデン (1968-1977)
†プロフットボール殿堂入り選手
イタリック - キャリアをスティーラーズのみで終えた選手
AFL合併前
AFL合併後
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