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この項目では、湖北省の現行の地級市について説明しています。1979年から1994年にかけて存在した県級市については「曽都区」をご覧ください。 |
随州市(ずいしゅう-し)は、中華人民共和国湖北省に位置する地級市。炎帝神農の生誕地とされ、また隋朝を開いた楊堅がかつて刺史に任じられたことで、隋朝の名称の由来となった地でもある。なお王朝名は之繞を不祥としたために「随」を「隋」に改められている。
地理
湖北省の北部、長江と淮河の項交流地帯に位置し、孝感市、荊門市、襄陽市、河南省と接する。東西約130キロメートル、南北約105キロメートル、山地、丘陵地が大部分を占める地勢である。
歴史
夏殷代は厲国(頼とも)が、周代には厲、随(曽とも)、唐の3国が位置していた。前569年、楚により厲が、前505年には唐、戦国末には随が滅亡し、随県が設置された。
前221年、秦朝による中国統一事業が達成されると、中央集権体制の下、郡県制が施行され、現在の随州地区は南陽郡随県が設置され、南北朝時代まで随県の名称が使用された。
535年(大統元年)、西魏により随県は随州と改称、この名称は清末まで使用されることとなる。
1912年(民国元年)、中華民国が建国されると州制廃止に伴い随州は随県と改称、州署は県知事公署と改編され湖北省の管轄とされた。1914年(民国3年)、北京政府による道制施行に伴い江漢道の管轄とされ、県議会や参事会による地方自治制度の整備が進められた。1927年、南京国民政府により県知事公署も県政府と、県知事は県長とそれぞれ改称された。1931年(民国20年)、督察区制度の施行に伴い、湖北省第五行政督察区(1936年に第3区に変更)の所管とされ、専員公署の商材地とされた。
また1927年から1929年にかけて中国共産党はこの地で武装蜂起、祝林、青苔、呉山3区の革命委員会を設置、1931年4月から1932年6月にかけては桐柏山、大洪山地区に5つのソビエト政府を樹立、また日中戦争中の1940年6月から1944年9月にかけては洪山県、随南県、信随県、随北県、応随県、随中県、随陽県、随棗県の各愛国民主政府を樹立している。
国共内戦末期の1949年5月、随北、随南両県は随県と合併、随棗県、応随県の旧随県管轄地域も随県に編入され孝感行政区の、洪山県は襄陽行政区の管轄とされ、中華人民共和国建国初期に沿襲された。1952年、随県は襄陽行地区に移管、洪山県は廃止となりその管轄区域の大部分は随県に編入された。
1979年11月26日、国務院は県級市の随州市の設置を決定、翌年7月1日に成立している。1983年8月19日、随県の随州市編入が実行され随州市は省轄県級市に、更に1994年11月6日に省直轄市に改編され現在に至る。
行政区画
1市轄区・1県級市・1県を管轄下に置く。
年表
この節の出典[1][2]
- 2000年6月25日 - 湖北省随州市が地級市の随州市に昇格。曽都区が成立。(1区1市)
- 2009年3月23日 - 曽都区が分割され、曽都区・随県が発足。(1区1市1県)
交通
鉄道
道路
脚注
外部リンク
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第1回指定 (1982年) | |
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第2回指定 (1986年) | |
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第3回指定 (1994年) | |
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増補 | |
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指定時の地名のため、現在の行政区画の変更により一部に変化がある: 江陵→荊州区、襄樊→襄陽市、商丘(県)→睢陽区、日喀則→桑珠孜区、海康→雷州市、吐魯番市→高昌区、蓬萊市→蓬萊区、会理県→会理市、庫車県→庫車市 |