ルーカス・ポドルスキ (独 : Lukas Podolski [ 注 1] , 本名 : ルーカス・ヨーゼフ・ポドルスキ, 独 : Lukas Josef Podolski , 1985年 6月4日 - )は、ドイツ のサッカー選手 。ポーランド ・グリヴィツェ 出身のポーランド系ドイツ人 。元ドイツ代表 。ポジションは主にフォワード を務めるが、サイドハーフ やトップ下 としてもプレーする[ 1] [ 8] 。ポーランド語 の表記法ではウカシュ・ポドルスキ (Łukasz Podolski) 。愛称はポルディ[ 1] 。
生い立ち
ポーランド 南部のシロンスク県 グリヴィツェ でサッカー選手の父・ヴァルデマール・ポドルスキ (ドイツ語版 ) と、ハンドボール 選手の母・クリスティナ・ポドルスカ (ドイツ語版 ) との間に生まれた[ 9] [ 10] 。ヴァルデマールは1970年代 から1980年代 初頭にかけてグリヴィツェのクラブでプレーした経験があり、クリスティナはハンドボールポーランド女子代表 に選ばれた経験を持つ[ 9] 。出身地のシレジア 地方は1945年 までドイツの領土だったが(旧ドイツ東部領土 )、彼が2歳の時にポドルスキの一家が東方移民の末裔と認められて[ 11] 、両親とともに当時の西ドイツ に移住した[ 1] [ 11] [ 12] 。
一家はノルトライン=ヴェストファーレン州 ケルン 近郊のベルクハイム (ドイツ語版 ) という町に移り住んだが[ 10] 、ドイツ国籍を取得したもののポーランド人であることを誇りに思い、家族とはポーランド語 で会話したという[ 9] 。また、出身地のサッカークラブであるグールニク・ザブジェ のファンであり[ 12] 、食事や音楽といった文化もポーランドのものを愛好した[ 9] 。
クラブ経歴
ケルン
ケルン時代のポドルスキ(2006年)
ポドルスキは1991年 にユーゲント07ベルクハイム (ドイツ語版 ) に入団しサッカーを始めると[ 13] 、1995年 に1.FCケルン の下部組織に入団[ 14] 。2003年 にマルセル・コラー に抜擢されて[ 15] 、トップチームへの昇格を果たすと11月22日 に行われたブンデスリーガ第13節のハンブルガーSV 戦でデビュー[ 16] 。12月13日 に行われたブンデスリーガ第16節のハンザ・ロストック 戦で初得点を決めた[ 17] 。初年度はリーグ戦18試合に出場し8得点を記録したが、チームはシーズンを通じて成績が低迷し2部リーグ 降格という結果となった[ 18] 。その一方でメディアからは「プリンツ・ポルディ」「1.FCポドルスキ」と称されるなどの人気選手となった[ 3] 。2004-05シーズンに24得点をあげて得点王となり2部リーグ優勝と1部リーグ昇格へと導くと[ 19] 、2005-06シーズンにはリーグ戦32試合に出場し12得点と、3季連続で二桁得点をあげる活躍を見せたがチームは17位に沈みふたたび2部リーグへと降格した[ 20] 。
バイエルン·ミュンヘン
ケルンとの契約は2008年 まで残っていたが、ヴェルダー・ブレーメン やハンブルガーSVなどからオファーを受けると、最終的にU-21ドイツ代表時代のチームメイトであるバスティアン・シュヴァインシュタイガー の在籍するバイエルン・ミュンヘン への移籍を選択[ 21] 。2006 FIFAワールドカップ 開幕前の2006年 6月1日 、バイエルンへの移籍が発表された[ 22] 。契約期間は2010年 までの4年間で[ 21] 、移籍金は1000万ユーロ(約14億4000万円)と推定されている[ 22] [ 23] 。ケルンの会長を務めるヴォルフガング・オヴェラート は「我々は彼をもう1年間引き留めることができたが、問題は2部リーグという舞台が彼に相応しいのかということだ。バイエルンでチャンスを掴むことは容易ではないがルーカスは過去20年間においてドイツで最も偉大な才能を持つ選手であり、多くを学ぶ必要がある」と語った[ 23] 。
移籍初年度の2006-07シーズンはフェリックス・マガト 監督の下でシーズン前半は控えに回ることが多く[ 24] 、2006年10月には練習中にマルク・ファン・ボメル と接触した際に右足首を負傷し1か月欠場[ 25] 、シーズン後半は監督がオットマー・ヒッツフェルト に交代したものの、2007年4月25日 の練習中に左膝を痛め精密検査の結果、左ひざの軟骨を損傷していることが判明したため残りの試合を欠場することになった[ 26] [ 27] 。リーグ戦で22試合に出場し4得点に留まった[ 28] 。
2年目の2007-08シーズン、バイエルンはイタリア代表 のルカ・トーニ とフランス代表 のフランク・リベリー [ 29] 、ドイツ代表のミロスラフ・クローゼ を補強するなど大幅補強を実施[ 30] 。ヒッツフェルト監督の下でブンデスリーガとDFBポカール の二冠を達成し自身として初のメジャータイトルを獲得したが、シーズンを通じてはトーニ、リベリー、クローゼの加入により出場機会が減少[ 31] 。これに不満を持ったポドルスキは移籍を希望し、イングランドのマンチェスター・シティFC やトッテナム・ホットスパーFC 、イタリアのユヴェントスFC 、ドイツのヴェルダー・ブレーメンやVfBシュトゥットガルト 、さらに翌シーズンからの1部復帰が決定した古巣のケルンなどが関心を示した[ 32] 。
3年目の2008-09シーズンは元ドイツ代表監督のユルゲン・クリンスマン が監督に就任したがクリンスマンの下でもトーニとクローゼに次ぐ3番手の扱いを受けており、2008年11月には2008-09シーズン冬季の移籍市場の解禁と共にバイエルンを退団するとの意向を示すと[ 33] 、2009年 1月19日 に翌シーズンからのケルンへの移籍が決まった[ 34] 。
ケルンへの復帰
ケルンがポドルスキの獲得のために支払った移籍金は1000万ユーロ(約11億8400万円)と推定され[ 34] 、サッカーファンとしても知られるF1 ドライバーのミハエル・シューマッハ はケルンの公式ホームページ上の広告スペース(875ユーロ、約10万8000円)分を購入する形で資金援助を行ったという[ 35] 。契約期間は2013年 までの4年間となっているが、契約内容には「ケルンがブンデスリーガ2部へ降格しない」との条件が含まれている[ 34] 。
2009年6月25日に入団会見を行い3シーズンぶりに復帰し[ 36] 、2009-10シーズンは27試合で2得点。元西ドイツ代表選手で指導者のウリ・シュタイン は「ポドルスキを指導した全ての指導者に尋ねたところ、彼らがこれまでに関わった中で最も怠惰な選手だということが確認できた。彼は何もしていない」として批判をした[ 37] 。
2010-11シーズンはケルンの下部組織を指導していたフランク・シェーファー (ドイツ語版 ) が監督に就任[ 38] 。ポドルスキはシェーファーからウインターブレイク中にキャプテンに任命されたことや[ 39] 、シーズン途中からトップ下のポジションに固定され守備の負担を軽減されたこともあって復調を果たし[ 38] 、リーグ戦後半だけで16試合で9得点をあげる活躍を見せ[ 39] 、シーズン通算では32試合に出場し13得点を記録した。
2011-12シーズンはノルウェー のストーレ・ソルバッケン が監督に就任。ソルバッケンの下ではキャプテンの任を外されたが[ 40] 、リーグ戦29試合に出場し18得点を記録した。その一方でチームはシーズンを通じて下位に低迷し17位という成績で2部リーグに降格した[ 41] 。
アーセナル
アーセナル時代のポドルスキ(2012年)
2012年 4月30日 、イングランド・プレミアリーグ のアーセナルFC への移籍が発表された[ 42] [ 43] 。移籍金は約1300万ユーロ(約13億7500万円)と推定されている[ 42] 。
同年8月18日 に行われたサンダーランドAFC 戦でリーグ戦デビューを果たし[ 44] 、9月2日 に行われたリヴァプールFC 戦で初得点を決めた[ 45] [ 46] 。初年度の2012-13シーズンはリーグ戦では33試合に出場し11得点、UEFAチャンピオンズリーグ 2012-13 では6試合に出場し4得点を記録するなど公式戦通算では42試合に出場し16得点を記録した[ 47] 。
2年目の2013-14シーズンは2013年 8月27日 に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2013-14 プレーオフのフェネルバフチェSK 戦でハムストリング を負傷し長期間の離脱を余儀なくされたが[ 48] 、同年12月26日 に行われたウェストハム・ユナイテッドFC 戦で復帰するとオリヴィエ・ジルー のアシストから得点を決めて勝利に貢献[ 49] 。このシーズンは怪我による離脱もありリーグ戦では20試合に出場し8得点、シーズン通算でも27試合に出場し12得点という結果となったが[ 47] 、リーグタイトルは逃したもののFAカップ 決勝のハル・シティAFC 戦では61分まで出場し、アーセナルでの初タイトルを獲得した[ 47] 。
2014-15シーズンは2014年 10月22日 に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2014-15 グループリーグ のRSCアンデルレヒト 戦で1得点[ 50] 、12月9日 に行われたガラタサライSK 戦で2得点をあげる活躍を見せた[ 51] 。一方、プレミアリーグでは12月末の時点で先発出場は1試合もなく7試合に交代出場したのみに終わったことから[ 52] 、出場機会の減少を理由として移籍の可能性を模索するようになった[ 52] [ 53] 。これに対してイタリアのSSCナポリ [ 54] やインテル・ミラノ [ 55] 、スペインのアトレティコ・マドリード [ 56] 、ロシアのディナモ・モスクワ などが関心を示したが[ 57] 、監督のアーセン・ベンゲル はポドルスキの移籍を否定した[ 52] [ 54] [ 58] 。また、ポドルスキの古巣のケルンは500万ユーロと推定される移籍金を支払うことは不可能であるとして獲得の可能性を否定した[ 59] 2015年 1月5日 、イタリア・セリエA のインテル・ミラノに期限付き移籍することが発表された[ 60] [ 61] 。契約期間は2015年6月までとなっている[ 60] 。同年1月6日 に行われたユヴェントス 戦でデビューを飾り[ 62] 、4月28日 に行われたウディネーゼ 戦で初得点を決めたが[ 63] 、同時期にバイエルン・ミュンヘン からレンタル移籍をしたジェルダン・シャチリ と比べて結果を残せず[ 64] 、契約期間満了後に『ビルト 』紙の取材に対して「インテルへの移籍は失敗だった」と語り[ 65] 、後年2020年に受けた取材でも「今だったらインテルへのローン移籍には同意しないだろう」と述べている[ 66] 。
ガラタサライ
2015年7月4日 、トルコ・スュペル・リグ のガラタサライSKに完全移籍することが発表された[ 67] [ 68] 。移籍金は250万ユーロ(約3億4000万円)[ 68] 。契約期間は3年で、1年の契約延長オプションが付いている[ 68] 。2015-16シーズンのガラタサライは2016年 5月19日 に行われたカイセリスポル 戦の結果、リーグ戦6位となったが自身は通算13得点を記録し[ 69] [ 70] 、同年5月26日 に行われたテュルキエ・クパス 決勝のフェネルバフチェSK 戦では決勝点を決めタイトル獲得に貢献した[ 71] 。
2016-17シーズンは膝や太腿の怪我により出遅れ、リーグ戦では2017年3月の時点で15試合4得点に留まった[ 72] 。一方、カップ戦では好調なプレーを維持し、2016年10月25日に行われたデルシムスポル (トルコ語版 ) 戦でハットトリック[ 73] 、2017年1月17日に行われたエラズースポル 戦では2得点[ 74] 、同年1月24日に行われたエルズィンジャンスポル (トルコ語版 ) 戦では5得点をあげる活躍を見せた[ 75] [ 76] 。
2017年6月3日に行われたコンヤスポル 戦が最後の試合出場となった[ 77] 。試合は2-1のスコアでガラタサライが勝利し、リーグ4位という成績でシーズンを終えた[ 77] 。ガラタサライでの主な成績はスュペル・リグ56試合出場20得点、テュルキエ・クパス9試合出場12得点、テュルキエ・スペル・クパス (トルコ語版 ) 2試合出場となっている[ 78] 。
ヴィッセル神戸
2016年12月頃よりポドルスキの移籍報道が飛び交うようになり、来期の移籍先としてヴィッセル神戸 や北京中赫国安足球倶楽部 の名前が挙がった[ 79] 。 一時は北京国安への移籍が秒読み段階にまで入っていたが[ 80] 、「ポドルスキはPM2.5 による有害スモッグを理由に北京移籍を躊躇っている」と言われ、中国メディア『捜狐体育 』は移籍先が広州足球倶楽部 になると報じた[ 81] 。
2017年 1月16日 、複数のドイツメディアがポドルスキの神戸移籍を報じた[ 82] 。当初はトルコでのシーズン終了後に3年総額18億円での移籍と報じられていた[ 83] が、ガラタサライが2月27日 に行われたベシクタシュJK とのダービーに敗れた翌2月28日 にトルコ地元紙『フォトマチ (トルコ語版 ) 』がポドルスキがガラタサライを退団し神戸に移籍すると報じた。神戸は2月25日 のJ1リーグ開幕戦にてFWレアンドロ が全治半年の怪我を負い、前年の得点王を欠いての戦いを強いられることになっていた[ 84] 。同『アクシャム (トルコ語版 ) 』も「ポドルスキは今日チームメートに別れを告げ、日本でキャリアを続ける」と報じた[ 85] 。
3月2日、神戸が公式に移籍を発表した[ 86] 。移籍金は260万ユーロ(約3億1千万円)で[ 87] 、移籍時期については当初報じられた通りトルコでのシーズン終了後になった[ 88] 。『ケルナー・シュタット=アンツァイガー (ドイツ語版 ) 』によれば契約期間は2年半で神戸からポドルスキに支払わられる給与総額は手取りで1900万ユーロ(約23億円)、年俸に換算すると760万ユーロ(約9億6千万円)と推定される[ 87] 。
7月6日 、新加入会見を行い[ 89] 、チームに合流すると、7月22日 に行われたプレシーズンマッチのベガルタ仙台 戦で日本デビューを飾った[ 90] 。7月30日に行われたJ1第19節・大宮アルディージャ 戦でJ1デビューを果たし、2得点を挙げてチームの勝利に貢献した[ 91] 。加入1年目となった2017年シーズンは半年で15試合5得点と満足のいく結果は出せず、本人も「僕ももっとゴールを決められたはず」と語った[ 92] 。
2018年シーズンよりキャプテンに就任。神戸の外国人主将は、鄭又榮 が2015年に務めた以来2人目となる[ 93] 。6月28日、合宿中に左足内側楔状骨を剥離骨折し離脱[ 94] 。8月に復帰後は、同月11日に行われたジュビロ磐田 戦でシーズン途中に加入した元スペイン代表のアンドレス・イニエスタ のJリーグ初ゴールをアシストし[ 95] 、11月3日の名古屋グランパスエイト 戦では、イニエスタのパスから得点を挙げた。この磐田戦と名古屋戦の得点はJ1リーグの年間最優秀ゴール賞にノミネートされた[ 96] 。
2019年もキャプテンとしてプレー[ 97] 。3月17日に行われた第3節の清水エスパルス 戦でシーズン初ゴールを決めた。試合の4日前に春場所 を観戦した事もあり、ゴール後に四股を踏む相撲パフォーマンスを披露した[ 98] 。4月17日に監督のフアン・マヌエル・リージョ の契約解除を受けて、神戸のキャプテンを降りる事を自身のツイッターで報告した[ 99] 。6月に入ると原因不明の体調不良により試合を欠場し、検査でドイツに一時帰国[ 100] 。真珠腫性中耳炎という診断を受け、ドイツ時間の6月12日に手術を行った。手術は成功し[ 101] 、8月にチームに合流した。8月18日に行われた天皇杯・第4回戦の川崎フロンターレ戦にて実戦復帰を果たした。しかし、復帰後は、イニエスタ、ビジャ、ダンクレー、サンペールに加え、夏に加入したDFトーマス・フェルマーレン がレギュラーに定着したことにより、外国籍選手出場枠の影響でメンバー外となる試合も多くなり、シーズン後の退団の可能性について言及することもあった[ 102] 。第34節磐田戦で来日初のハットトリックを達成した[ 103] 。
2020年1月1日に行われた天皇杯決勝・鹿島アントラーズ 戦では先発出場し、神戸の1点目(鹿島のオウンゴールを誘発)につながるクロスを送るなど、神戸の初タイトル獲得に貢献した[ 104] 。その後、同月18日に契約満了に伴い退団が発表された[ 105] 。神戸での通算成績は60試合17ゴール12アシスト[ 106] 。
1月21日、1.FCケルン の関係者と面談し、将来的にケルンのチームフロントなどの役職に加わることなどで合意したと報じられた[ 107] 。
アンタルヤスポル
2020年1月23日、スュペル・リグ のアンタルヤスポル への入団が発表された[ 108] 。約2年半振りのトルコ復帰となった。背番号は「11」。移籍3試合目の2月23日マラティヤスポル戦で87分から途中出場、2分後に移籍後初ゴールとなる決勝ゴールを決めた。
グールニク・ザブジェ
2021年7月5日、グールニク・ザブジェ と契約した[ 109] 。2022年クラブとの契約を1シーズン延長した[ 106] 。
2024年10月11日、2025年まで契約を残し現役を続けるが、ケルンで事実上の引退試合を開催。マヌエル・ノイアー やローマン・ヴァイデンフェラー などが参加し、ケルン時代にチームメイトだった槙野智章 やグールニク・ザブジェに所属する古川陽介 も試合に出場した[ 110]
[ 111] 。試合後に神戸時代にチームメイトだったアンドレス・イニエスタからビデオメッセージが送られた。
代表経歴
ポドルスキは2001年 にU-17ドイツ代表に選出されたことを皮切りに各年代の代表に招集され、2004年 にはバスティアン・シュヴァインシュタイガー らと共にU-21ドイツ代表としてUEFA U-21欧州選手権2004 に出場したがグループリーグで敗退した[ 112] 。ポドルスキはポーランド国籍も有しているためポーランド代表 としてプレーすることも可能だったが、ポーランドサッカー協会 は国外に在住するポーランド国籍の選手の招集について関心を示すことはなかった[ 113] 。
2004年 6月、ルディ・フェラー が監督を務めるドイツ代表 にパウル・フライアー の代役として初招集されると[ 114] 、6月6日 に行われたハンガリー代表 との国際親善試合において74分にフレディ・ボビッチ との交代で出場し代表デビューをした[ 115] 。さらにポルトガル で開催されたUEFA EURO 2004 の最終代表メンバーに選出され[ 1] 、6月23日 に行われたグループリーグ最終戦のチェコ代表 戦に出場した[ 116] 。
フェラーの後任として監督に就任したユルゲン・クリンスマン の下でも引き続き代表メンバーに招集され、同年12月21日 に行われたタイ代表 戦で初得点を記録。2005年 6月に行われたFIFAコンフェデレーションズカップ2005 の代表メンバーに選出されると、4試合に出場し3得点をあげる活躍を見せ同国の3位入賞に貢献した。
2006 FIFAワールドカップ
2006年のポドルスキ
地元ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップ では、同じポーランド系のミロスラフ・クローゼ と2トップを組み攻撃陣を牽引[ 1] [ 117] 。2006年6月20日 に行われたグループリーグ最終戦のエクアドル代表 戦では57分に右サイドを突破したベルント・シュナイダー のクロスを受けて3点目のゴールを決め[ 118] 、決勝トーナメント1回戦のスウェーデン代表 戦では4分に相手キーパーのアンドレーアス・イサクソン が弾いたボールをゴールに流し込み先制すると、12分にはクローゼとのパス交換からゴール前に飛び出し2点目のゴールを決め2-0の勝利に貢献[ 119] 。ポドルスキはこの大会で全7試合に出場し3得点をあげると、ポルトガルのクリスティアーノ・ロナウド やアルゼンチンのリオネル・メッシ やスペインのセスク・ファブレガス らを抑えて国際サッカー連盟 (FIFA) が選ぶ最優秀若手選手賞を受賞した[ 117] 。選考理由についてFIFA技術委員会委員長のホルガー・オジェック は「ポドルスキは3得点だけでなく、ドイツ攻撃陣の重要な役割を担った。彼はクローゼとの相互理解を示し、両者は非常に効果的なコンビネーションを形成した」と語った[ 117] 。
UEFA EURO 2008
クリンスマンの後任として監督に就任したヨアヒム・レーヴ の下でも引き続き代表メンバーに招集され、2006年9月26日 に行われたUEFA EURO 2008予選 のサンマリノ代表 戦では自身としては1試合最多となる4得点をあげる活躍を見せたが[ 120] 、所属クラブのバイエルン・ミュンヘン での低調なパフォーマンスや[ 121] 、同じポジションを務めるマリオ・ゴメス の台頭もあり[ 122] 、2008年 6月にオーストリア とスイス で共同開催されるUEFA EURO 2008 の大会直前にはレギュラーの座は確かなものではなかった[ 123] 。
グループリーグでは4-4-2フォーメーションの2トップの一角をゴメスに譲り左サイドハーフとして先発し、初戦のポーランド代表 戦では、20分にゴメスからのパスに反応したクローゼがゴール前へ折り返したボールを冷静に流し込み先制すると、72分にはクローゼのキックミスしたボールに反応して強烈なボレーシュートを決め2-0の勝利に貢献した[ 124] 。ドイツ代表は欧州選手権では1996年 の優勝以来不振が続いていたが、ポーランド戦の勝利は1996年大会決勝のチェコ代表 戦以来のことで、1試合2得点も同決勝でのオリバー・ビアホフ 以来のこととなった[ 124] 。第2戦のクロアチア代表 戦は1-2と敗れたものの、79分に相手DFがクリアしたボールを第1戦と同様にボレーシュートで決めた[ 125] 。決勝トーナメントでは4-2-3-1フォーメーションに変更されたがポドルスキはグループリーグと同様に左サイドハーフを担当。準々決勝のポルトガル代表 戦では22分にミヒャエル・バラック のスルーパスに抜け出し左サイドを突破すると、ゴール前に高速クロスを供給しシュヴァインシュタイガーの先制点をアシスト[ 126] 。準決勝のトルコ代表 戦では26分に左サイドの突破からシュヴァインシュタイガーの同点ゴールをアシストした[ 127] 。決勝ではスペイン代表 に敗れ優勝を逃したものの、得点ランキングではロシアのロマン・パヴリュチェンコ と並んで2位となり大会終了後にはシルバーシューを受賞[ 128] 、欧州サッカー連盟 (UEFA) 技術委員による大会優秀選手に選ばれた[ 128] [ 129] 。
2010 FIFAワールドカップ
2010 FIFAワールドカップ準々決勝・アルゼンチン戦でのポドルスキ。左隣はメスト・エジル
2008年9月より始まった2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 においても主力を担い9月6日 に行われたリヒテンシュタイン代表 戦では通算30得点目を記録[ 128] 。23歳3ヶ月と2日での記録達成はドイツ代表として史上最年少記録であり、ブラジルのペレ やロナウド 、スウェーデンのスヴェン・リデル (英語版 ) 、ハンガリーのフェレンツ・プスカシュ やシャーンドル・コチシュ 、トリニダード・トバゴのスターン・ジョン の記録に続いた[ 128] 。クローゼの7得点に次ぐ6得点をあげて予選突破に貢献したが、一方で2009年 4月1日 に行われた同予選のウェールズ代表 戦においてミヒャエル・バラック から戦術的な注意を受けたことに対して立腹し、平手打ちをする騒動を起こした[ 130] 。バラックは試合後に「私はキャプテンとして戦術面の問題のことで注意をした。彼はまだ若く学習しなければならないことは多い。彼はこのことを受け入れなければならない」と語り[ 130] 、ポドルスキは過剰な反応だったとして謝罪した[ 131] 。ドイツサッカー連盟 (DFB) は処罰を見送る方針だったが国内メディアの批判を受けて5000ユーロの罰金を科した[ 131] 。
2010年 に南アフリカ共和国 で行われる本大会 の代表メンバーに選出。グループリーグ初戦のオーストラリア代表 戦では8分に、右サイドからペナルティエリア内に侵入したトーマス・ミュラー の折り返しをクローゼがスルーしたボールを左足で決め先制点を挙げると、68分にはシュヴァインシュタイガーとのパス交換から中央を突破しミュラーの得点をアシストし4-0と勝利した[ 132] 。グループリーグ第2戦のセルビア代表 戦では後半にメスト・エジル のアシストからの2度の決定機を外し、60分にはネマニャ・ヴィディッチ がペナルティエリア内でハンドの反則を犯したことにより獲得したPKをヴラディミル・ストイコヴィッチ に阻まれ0-1と敗れたが[ 133] 、決勝トーナメント1回戦のイングランド代表 戦では32分に右サイドでのパス交換から抜け出したミュラーからの折り返しを、左サイドに開いた位置からエリア内へ走り込んだポドルスキが決め2点目の得点を挙げるなど4-1と勝利[ 134] 。準々決勝のアルゼンチン代表 戦では68分にミュラーのポストプレーから左サイドのペナルティエリア内に侵入、中央に位置するクローゼの得点をアシストするなど4-0と勝利[ 135] 。準決勝のスペイン戦にも出場したが0-1と敗れ、3位決定戦のウルグアイ代表 戦は風邪 の影響もあり出場機会はなかった[ 136] 。
UEFA EURO 2012
UEFA EURO 2012 でのポドルスキ
2012年 5月、ポーランド とウクライナ で共同開催されるUEFA EURO 2012 の代表メンバーに選出されると[ 137] 、グループリーグ3試合に先発出場し最終戦のデンマーク代表 戦では国際Aマッチ100試合出場を達成[ 138] [ 139] 。デンマーク戦では19分にミュラーからゴメスへとつないだボールに素早く反応し先制点を挙げる活躍を見せた[ 138] 。一方で準々決勝のギリシャ代表 戦では若手選手のアンドレ・シュールレ が左サイドのポジションで起用されたため出場機会はなく[ 140] 、準決勝のイタリア代表 戦では先発メンバーに復帰したものの45分間の出場のみでマルコ・ロイス と交代、試合も1-2で敗れた[ 141] 。優勝候補と目されながら準決勝敗退という結果に終わり[ 142] 、ポドルスキ自身も周囲の期待に反するパフォーマンスに終わったことから、代表OBのトーマス・ドル は「準決勝の舞台では最良の人選を行わなければならない。イタリア戦では勝者のメンタリティを欠いていた」とレーヴの起用法を批判し、同じく代表OBのトーマス・ヘルマー は「ポドルスキは準々決勝のギリシャ戦を欠場したにもかかわらず、イタリア戦では変化がなかった。全く理解ができない」と批判した[ 143] [ 144] 。
2014 FIFAワールドカップ
2013年 にアメリカ合衆国 のマイアミ で行われたエクアドル代表との親善試合ではキックオフ直後のボールにチェイシングを掛け、開始9秒という代表最速記録で先制するなど2得点をあげて勝利に貢献した[ 145] 。その一方でEURO 2012以来、同じポジションを務めることができるシュールレやロイスらの台頭もありドイツ代表での不要論も沸き起こったが[ 145] [ 146] 、レーヴ監督は「彼はこれまで何度も重要な仕事をしてきた。チーム内に競争はあるが、今も彼は必要不可欠な選手だ」として擁護した[ 146] 。
優勝トロフィーを掲げるポドルスキ(前列右から2人目)。自身は怪我の影響もあり2試合の出場に止まった。
2014年 6月2日 、ブラジル で行われる2014 FIFAワールドカップ の代表メンバーに選出され[ 147] 、6月6日 に行われたアルメニア代表 との国際親善試合では左足首を負傷したロイスに代わって交代出場すると1得点3アシストの活躍を見せ6-1と勝利した[ 148] [ 149] 。グループリーグ初戦のポルトガル代表戦では途中交代で出場し、最終戦のアメリカ代表 戦では先発出場をしたが太腿の筋肉を痛めたこともあり[ 150] [ 151] 、その後は欠場した。この大会でドイツは24年ぶり4回目の優勝を成し遂げたが、ポドルスキは2試合で53分間の出場という結果となった[ 152] 。
大会後、フィリップ・ラーム やペア・メルテザッカー や長年に渡ってコンビを組んだクローゼが代表からの引退を表明したが、ポドルスキは「まだハングリーだ。ワールドカップのタイトルという望みを超えるものは存在しないが、今でも私はドイツ代表の試合に大きな喜びを感じている。ブラジルで出場機会がなく代表に留まることが不可能と感じていたら引退を検討するべきだったが、そうは感じていない」として代表を続ける意向を示したが[ 153] 、2015年 には『ビルト 』紙の取材に対して「欧州選手権 が最後の主要な大会になる」との意向を示した[ 154] 。
UEFA EURO 2016と代表引退
2016年 5月31日 、フランス で開催されるUEFA EURO 2016 の代表メンバーに選出された[ 155] 。同年6月26日 に行われた決勝トーナメント1回戦のスロバキア代表 戦に出場し[ 156] 、試合は3-0でドイツが勝利したがこれが最後の国際大会出場となった[ 157] 。
同年8月15日 、ドイツ代表からの引退を発表した[ 158] [ 159] 。友人のシュヴァインシュタイガーとともに8月31日 に行われる国際親善試合のフィンランド代表 戦において引退試合が行われることになったが、怪我のため出場を取りやめ、後日改めて引退試合が行われることになった[ 160] 。
2017年 3月17日 、国際親善試合のイングランド代表戦(同22日)と2018 FIFAワールドカップ・予選 のアゼルバイジャン代表 戦(同26日)に臨む代表に選出された[ 161] 。すでに代表からの引退を表明しているポドルスキにとっては、イングランド戦が代表引退試合となった[ 161] 。試合は69分にポドルスキがミドルシュートを決め1-0のスコアでイングランドに勝利、通算記録を130試合出場49得点として13年間の代表でのキャリアを終えた[ 162] [ 163] [ 164] 。
人物
プレースタイル
UEFA EURO 2012 でポルトガル代表のMFナニ とマッチアップするポドルスキ
左足から放たれる強力なシュートが持ち味であり、スピードを生かした縦への突破からゴール前の味方選手に対してライナー性の高速クロスを供給するなどチャンスメイク能力も高い[ 165] 。ポジションはセンターフォワード、トップ下、左右のサイドハーフを務めることが可能で[ 8] [ 166] 、サイドで起用された際には「囮のフォワード」としての役割を担うが[ 8] 、本人は中央でのプレーが最適と考えている[ 167] 。その反面、「サイドでは常に上下動を繰り返さなければならず、守備面の約束事が増える」と語るように[ 167] 守備意識が低くディフェンスを疎かにする傾向がある[ 8] [ 168] 。
人となり
日常生活では人をからかうことを好み、真面目なのか不真面目なのかよくわからないタイプだという[ 9] 。ドイツのタブロイド紙『ビルト 』が2006年 にドイツ代表を特集した際には「いつも冗談を言っている人」と紹介している[ 9] 。ムードメーカーや[ 153] 、サービス精神が旺盛な人物とも評されるが[ 9] 、生意気な性格と見做されることもある[ 9] 。その一方で「私の身体の中に二つの心臓が鳴り響いている」と語るなど[ 12] ドイツとポーランドのどちらの立場に立つのかを明確にアピールすることはない[ 11] 。2008年 に行われたUEFA EURO 2008 ではグループリーグでポーランド代表 と対戦し、ポドルスキの2得点でドイツが勝利したが得点後のゴールパフォーマンス は自粛している[ 12] 。
試合では気性の荒さを見せることがあり、審判の死角をついて相手選手を故意に挑発し苛立たせることが度々ある[ 9] 。2006年にスウェーデン代表 と親善試合を行った際、試合後にスウェーデンのアンデシュ・スヴェンソン はポドルスキの姿勢を批判した[ 9] 。また、2009年 4月1日 に行われた2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 のウェールズ代表 戦ではミヒャエル・バラック から試合中に叱責を受けたことに対して、暴言を吐き平手打ちをする騒動を起こしたが後に謝罪した[ 169] 。
私生活では一般女性と2004年 より交際を始め2008年 4月に一児をもうけた[ 170] 。2011年 4月に入籍し[ 171] 、同年6月にポーランドのカミオンナという村の教会で結婚式を行った[ 172] 。
その他
歌手のユルゲン・ミルスキ (ドイツ語版 ) は2005年 にポドルスキを歌った「Lu-Lu-Lu-kasSong」という楽曲を発表した[ 173] 。ロックバンドのブリングス (ドイツ語版 ) は2012年 に「Halleluja」という楽曲のリミックス版を発表したが、レコーディングにはポドルスキもゲスト参加した[ 174] 。
2006年 、西部ドイツ放送協会 (WDR)傘下の若者向けラジオ放送局「アインス・ライフ (ドイツ語版 ) 」は『ルーカス日記』(ドイツ語 : Lukas' Tagebuch )と題した架空のコメディ を発表した[ 175] 。ポドルスキは番組の内容が名誉棄損にあたると主張し弁護士を通じて番組の差し止めを申請したが、WDRは番組の継続を発表[ 176] 。これに対してドイツサッカー連盟 (DFB) も全面的な支援を約束し[ 176] 、WDRに対して訴訟を起こしたが1年後の2007年 に訴えを取り下げた[ 177] 。
F1 ドライバーのミハエル・シューマッハ とは親交があり、彼が2013年 12月のスキー 中の事故により昏睡状態となるとソーシャルメディア を通じて励ましのメッセージを頻繁に送り、2014年 5月に行われたFAカップ 決勝のハル・シティAFC 戦では「Keep Fighting Michael」と書かれた特製シューズを履いて試合に出場した[ 178] 。また、同年6月に行われた2014 FIFAワールドカップ の開幕前には「ドイツ代表の選手全員がミハエルの回復を願っている。もしワールドカップで優勝できたら、彼にとって多くの喜びとなるだろう」と意気込みを語った[ 179] 。
日本の漫画『キャプテン翼 』のファンであり、試合で常用しているシンガードには登場人物である日向小次郎 のイラストが入っている[ 180] [ 181] 。日向のイラストを入れている理由については「自分と似ている選手。利き足が違うだけで、すごく似ていると思う」と語っている[ 181] 。また、右足に大空翼 、利き足の左足に日向のイラストの入ったサッカーシューズも所有しており、ヴィッセル神戸 での公式デビュー戦となった大宮アルディージャ 戦で着用している[ 182] 。
幼少期を過ごしたベルクハイムに自身の名を冠したルーカス・ポドルスキ・シュポルトパルクというスタジアムを建設。地元のヒラル・ベルクハイム (ドイツ語版 ) がホームスタジアムとして使用している[ 183] 。
ヴィッセル神戸 に在籍中の2017年7月21日にKoboパーク宮城 で開催された日本プロ野球 の東北楽天ゴールデンイーグルス の試合前の始球式 を務め、ストライクゾーン に近いところへ投球した[ 184] 。
大相撲 力士の豊ノ島 と親交がある。2018年9月には、豊ノ島の応援に9月場所 を観戦した。その際に美容外科医 ・タレント で好角家 である高須克弥 と遭遇したことがニュースになった[ 185] 。
ビジネス展開にも意欲的で、アパレルブランド「STRASSENKICKER(シュトラーセンキッカー、ストリートキッカー)」[ 186] をはじめ、地元ケルンではケバブ店「Mangal Döner」[ 187] やアイスクリーム店「Ice Cream United」[ 188] の経営にも関わっている。
アパレルブランド「STRASSENKICKER」は、神戸在籍時には神戸のホームゲームや日本向けのネット通販で日本でも購入可能であった。また、2019年には『キャプテン翼』とコラボし、ポドルスキと日向小次郎が描かれたアイテムなどが販売された[ 189] 。
アイスクリーム店「Ice Cream United」は、2022年4月に神戸のumie MOSAIC 内にオープン。アイスクリーム店は日本が初海外出店である[ 190] 。オープンしたのが、神戸を退団した後であるが、定期的にヴィッセル神戸の選手達が一日店長になるイベントなどが行われている。
愛車だったメルセデス・ベンツ・SLKクラス はメルセデス・ベンツ博物館に展示されている。
Jリーグについては、2018年の時点で「(リーグのレベルは)ヨーロッパの選手やチームと比べることは難しいが、昨年は浦和がアジア王者に輝いたように、アジアの中ではナンバーワンだと思う」「ポテンシャルはある。ただし、その力は十分に生かし切れていない。Jリーグが前に進むために、必要なことはまだまだあると思う」と述べ、物足りない点については「ヨーロッパから多くを学ぶべきだ。そのうえでオリジナリティを出していってほしい。個人的には、日本ではいろんな部分でスピードが遅い。なかなか外のやり方を受け入れなかったり、話し合うだけでなかなか物事が進まなかったり……。もっと積極的に受け入れて、いろんなことにチャレンジすればいい。まずは行動に移し、良い部分を取り入れて、合わなければ捨てればいい。発展の余地は大きく残されているのだから、まずはいろんなことを試してみることが大事だと思うね」と述べている[ 191] 。
個人成績
クラブでの成績
出典[ 78] [ 192] [ 193]
代表での成績
出典[ 192]
ドイツ代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
2004
8
2
2005
12
8
2006
17
12
2007
7
2
2008
16
7
2009
9
6
2010
14
5
2011
12
1
2012
11
1
2013
5
2
2014
10
1
2015
5
1
2016
3
0
2017
1
1
合計
130
49
代表での得点
出典
獲得タイトル
クラブ
1.FCケルン
バイエルン・ミュンヘン
アーセナルFC
ガラタサライ
ヴィッセル神戸
代表
ドイツ代表
個人
脚注
注釈
^ ドイツ語発音: [ˈluːkas poˈdɔlskiː] 。ポーランド語 表記はウカシュ・ポドルスキ [ 5] またはウーカシュ・ポドルスキ [ 6] (Łukasz Józef Podolski [ 5] [ 7] [ˈwukaʂ ˈjuzɛf pɔˈdɔlskʲi] )。
^ FAカップ 、DFBポカール 、コッパ・イタリア 、テュルキエ・クパス 、天皇杯全日本サッカー選手権大会 を含む。
^ フットボールリーグカップ 、DFLリーガポカール 、JリーグYBCルヴァンカップ を含む。
^ UEFAチャンピオンズリーグ 、UEFAヨーロッパリーグ (UEFAカップ)、AFCチャンピオンズリーグ を含む。
出典
外部リンク