アンドレイ・ヴォロニン (アンドリー・ヴォローニン、ウクライナ語 : Андрій Воронін , 1979年 7月21日 - )は、ウクライナ 出身の元サッカー選手 。ポジションはFW , またはMF 。
ウクライナ代表ではアンドレイ・シェフチェンコ の良き相方として活躍していた。長めのポニーテール がトレードマーク。姓は「烏 」を意味する「ヴォローナ」から生まれた名前であるが、このことから逆にヴォロニンは「ヴォローナ」の愛称で呼ばれる。
経歴
選手時代
選手時代(リヴァプールFC、2009年)
FCチョルノモレツ・オデッサ のユースに所属していたヴォロニンは、1995年にブンデスリーガ 、ボルシア・メンヒェングラートバッハ へと移籍し、1997年のバイエルン・ミュンヘン 戦でデビューを果たす。しかし、そこでも出場のほとんどがユースチームであり、トップチームでの出場は5年間で一桁しかなく、1得点のみしか奪えなかった。その後、当時ドイツ2部リーグに所属していた1.FSVマインツ05 へと活躍の場を移す。そこでストライカーとしての才能を発揮し、3年目で20ゴールを挙げ得点王に輝く。また、2002年1月にはウクライナ代表 にも呼ばれ、3月のルーマニア代表 との親善試合で代表デビューも果たした。VfBシュトゥットガルト やボローニャFC などのクラブがヴォロニンの代理人に接触し、マインツも契約延長の交渉をした。しかし、マインツは同年ドイツ1部に昇格することができず、結局ヴォロニンは1.FCケルン へと移籍する。そこで1年間プレーした後、バイエル・レヴァークーゼン へと移った。
レヴァークーゼンは、ケルン時代からヴォロニンに興味を示しており、ケルンと対戦し、1ゴール1アシストをしたヴォロニンに「ケルンで本当に素晴らしい唯一の選手」(the only true good footballer at Köln ) と評した。また、『ビルト 』紙に「ケルンの唯一のストライカーは、レバークーゼンの全てのスターよりも危険だ」と書かれた(この試合結果は2-2でドロー)。また、ワールドカップ ドイツ大会 では初のベスト8進出を果たす。2006-07シーズンの終わりにレバークーゼンから契約延長のオファーを断ったヴォロニンには、フランス 、スペイン 、イタリア 、スコットランド からオファーが届いた。
2007年2月26日、リヴァプールFC はフリーでヴォロニンを4年契約で獲得し、夏にチームに加わることを発表した。8月11日のアストン・ヴィラFC 戦で78分から出場し、リヴァプールデビューした。そして、15日のUEFAチャンピオンズリーグ トゥールーズFC 戦でリヴァプール初ゴールを挙げる。そして、25日に行われたサンダーランドAFC 戦でプレミア 初ゴールを決めた。しかし、2008年1月25日にトレーニング中に足首を怪我してしまう。そして、レンタル でヘルタ・ベルリン へと1年間の移籍に合意した。ベルリンではまずまずの成績を残し、2009-10シーズンにリヴァプールに復帰、しかしながら出場機会は少なく、2010年1月にFCディナモ・モスクワ への移籍が合意に至っていることが発表された。
2015年2月、怪我のため現役引退を表明した[ 1] 。
指導者時代
引退後は指導者に転身。2020年からは、現役時代の最後にプレーしたFCディナモ・モスクワ でアシスタントコーチを務めていたが、祖国が2022年ロシアのウクライナ侵攻 を受けた事情で退団した[ 2] 。
脚注
^ 元ウクライナ代表の名手、ヴォロニンが現役引退 Goal 2015年2月11日
^ “「故郷を爆撃する国でこれ以上は…」元ウクライナ代表ヴォロニン氏、コーチ務めるディナモ・モスクワと契約解消 ”. goal.com (2022年3月2日). 2022年3月5日 閲覧。