細川 ちか子(ほそかわ ちかこ、1905年12月31日 - 1976年3月20日)は、日本の女優である。本名横田 冬(よこた ふゆ)。
1905年12月31日、東京市麹町区内幸町1-5[1](現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホール、第一ホテルアネックスの辺り)に生まれる。
香蘭女学校を卒業し、1925年に小山内薫らの「築地小劇場」に入団、新劇の世界に入った[2]。『各人各説』で伏見直江らと初舞台を踏み、その美貌でスターとなった[2]。1929年、23歳のときに丸山定夫らとともに同劇団を脱退し、「新築地劇団」結成に参加する。1934年、小沢栄太郎や滝沢修などと共に「新協劇団」の結成に参加、『夜明け前』『アンナ・カレーニナ』の舞台で好評を得た。1940年の劇団の強制解散後は舞台から身を引いていた[2]。
新協劇団に所属している頃、丸山と共にP.C.L.映画製作所に入社しており、その専属女優としても活躍した。成瀬巳喜男監督の『妻よ薔薇のやうに』が代表作である。映画の出演作はすべてトーキーであった。
戦後は「劇団民藝」の座員となり、数多くの舞台で名演を見せて、同劇団の中心女優として活躍した[2]。また、映画にも出演した。民藝と提携契約していた日活の作品を中心としながら大映映画にも出演。山本富士子の母親を演じた『金色夜叉』や『晩菊』『白鷺』が有名である。
52歳の誕生日でもある1957年12月31日の『第8回NHK紅白歌合戦』では、当時の郵政大臣・田中角栄、当時の国鉄スワローズ投手・金田正一らとともに審査委員を務めた。
1967年、『こんちわァ社長さん 細川ちか子・財界50人対談』(評論新社)を上梓。
1975年、『セールスマンの死』のリンダ役で紀伊國屋演劇賞を受賞した。
1976年3月20日、閉塞性黄疸のため死去。70歳没。前年の暮れまで放送されていた大河ドラマ『元禄太平記』が遺作となった。
父は弁護士で、2歳年上の兄に映画監督の横田豊秋(のちの映画俳優の宇留木浩)がいる。横田とはP.C.L.の映画で木村荘十二監督の『三色旗ビルディング』(1935年)などで兄妹共演している。
新劇俳優になる前に結婚しており、一人の娘をもうけていたが、1926年の舞台『ホーゼ』で丸山定夫と共演したことがきっかけで、翌年夫と離婚し、丸山と恋愛関係にあった。1932年、細川は結核で倒れたため、丸山は結核の治療費の捻出のため福田良介の名前で榎本健一の一座に出演したという。しかし、二人はその後に別れている。
後に実業家藤山愛一郎(後に政治家)の第二夫人となるが、少しも恥じず、二人の子供を作った。