半島戦争 ナポレオン戦争 中 『1808年5月2日 マムルークの突撃 』 (フランシスコ・デ・ゴヤ 画、1814年)時 1808年5月2日 (1807年10月27日とする場合もある[ 注釈 1] ) – 1814年4月17日[ 注釈 2] (5年11ヶ月2週1日間) 場所 イベリア半島 、南フランス結果
連合軍 (スペイン、ポルトガル、イギリス) の勝利
パリ条約
衝突した勢力
フランス帝国
指揮官
戦力
1808年11月: 205,000名 31,000名1813年4月: 172,000名
1808年5月: 165,103名1808年11月: 244,125名1809年2月: 288,551名1810年1月: 324,996名1811年7月: 291,414名1812年6月: 230,000名1812年10月: 261,933名1813年4月: 200,000名 被害者数
戦死者:25,000名のゲリラ[ 5] 1810年12月 – 1814年5月: 戦死者:35,630名
戦傷者:32,429名
死者 180,000–240,000名[ 5]
戦傷者 237,000名[ 5]
軍人、民間人合わせて100万人以上が死亡した[ 5] 。
半島戦争 (はんとうせんそう、1808年 - 1814年 、英語 : Peninsular War 、ポルトガル語 : Guerra Peninsular )は、ナポレオン戦争 中にイベリア半島 でスペイン 軍、ポルトガル 軍、イギリス 軍の連合軍とフランス 軍との間に戦われた戦争である。日本 ではスペイン独立戦争 [ 7] (スペイン語 : Guerra de la Independencia Española )またはスペイン反乱[ 注釈 3] としても知られている。スペイン戦争 (フランス語 : Guerre d'Espagne )、フランス戦争 (カタルーニャ語 : Guerra del Francès )とも呼ばれる。
戦争はイベリア半島の性質に大きく左右された。土地が貧しいイベリア半島では大軍が侵攻しても侵攻先での兵糧が確保できないためその軍を養うのが難しく、フランス軍は最大時で30万を数えたものの、軍を集結させることができなかった。小部隊による幾つかの地域で限られた期間での戦闘を求められ、決定的な結果を出すのには困難を極めた。
この戦争はスペインとポルトガルの社会的、経済的構造を破壊し、1850年 まで続く大規模な内戦と半島戦争で訓練された将校に導かれた荒れ狂う解放の時代の先駆けになった。また、この戦争を契機として両国の植民地 だったラテンアメリカ に独立運動が起きた。
背景
『マドリード、1808年5月3日 (プリンシペ・ピオの丘での虐殺)』(ゴヤ 画) ゴヤはこの絵で、フランス軍による市民の虐殺を激しく非難した。
大陸封鎖令
1806年 にナポレオン1世 は、大陸諸国にイギリスとの通商を禁じる、大陸封鎖令 をベルリン で宣言した[ 8] 。しかし、中立 を維持する2つの国(スウェーデン とポルトガル )は、ナポレオン1世の通牒を拒否した為、ナポレオン1世は武力をもってこの両国に大陸封鎖令を強制しようと画策し始めた。1807年 のティルジット条約 の後、スウェーデンはロシア と戦うことになり 、ナポレオン1世は残るポルトガルの攻略を決定した[ 9] 。
1807年10月27日、スペイン首相のマヌエル・デ・ゴドイ とフランスは、フォンテーヌブロー条約 に調印し、ポルトガルは北ルシタニア王国、アルガルヴェ侯領(アレンテージョ地方 を含めて拡大した)、および残りのポルトガル王国の、3つの領域に分割されることとなった[ 10] 。
親仏感情
スペインおよびポルトガルの人々のリベラル 派、共和 派、急進 派の間には、ナポレオン1世が1807年までにリベラルと共和制 の思想を著しく明確に放棄していたにもかかわらず、フランスの侵攻に対する潜在的な期待があった。侵攻以前でさえ、「フランスびいき」を意味する「アフランセサド(Afrancesado)」という用語が、啓蒙主義 的思想とフランス革命 を支援する者を指して使用されていた[ 11] 。ナポレオン1世にとっては、戦争と国の政権の指揮のために彼ら「アフランセサド」の支援は頼るべきものであった。しかしナポレオン1世が、スペイン王に据えた兄ホセ1世 を通して、封建的である聖職者 の権限を「一掃する」ことを有言実行した一方で、すぐにほとんどのスペインのリベラル派は、それがもたらした暴力と残虐行為のために占領に反対するようになった[ 12] 。
経緯
1807年 11月 、ポルトガル摂政 であったジョアン王子(後のジョアン6世 )が大陸同盟 への参加を最終的に拒絶したのを受けて、ナポレオン1世はジャン=アンドシュ・ジュノー 指揮する部隊にポルトガル攻略を命じ、スペインに送った。同時に、ゴドイ首相がナポレオン1世の委任を受けて、デュポン 将軍率いる部隊をカディス 方面に送り、スールト 将軍の部隊をコルナ 方面に送った。ポルトガル占領と艦隊奪取を目論んでいたのはゴドイも同じで、スペイン軍 2個師団 をフランス軍と合流させている。両軍の侵攻に対し、ポルトガルの首都 リスボン は、守備隊がイギリス軍の攻撃から港湾と海岸を護るのに配置されていたため、抵抗もないまま、12月1日 に攻略された。しかしすでに11月29日 にポルトガル女王マリア1世 と摂政ジョアン王子本人、そして6,000人もの人々(艦隊の9,000人の船員がそれに加わった)が艦船に乗って逃亡しており、ジョアン王子にブラジル (英語版 ) を含む海外の植民地の統治の継続を可能とした。それはナポレオン1世にとって大きな打撃となり、そのことはセント・ヘレナ島 の記念碑に「これが私を滅ぼした。(フランス語 : C'est ça qui m'a perdu. )」と記されている。
仏西両軍のポルトガル占領を補強する口実として、ナポレオン1世は、軍をスペインの要衝に派兵し始めた。結果パンプローナ とバルセロナ が1808年 2月に占領された。外国軍の進駐を受けたスペインでは貴族 たちによる政変が発生、カルロス4世 は退位し、彼が用いていたゴドイは失脚、代わってその長男がフェルナンド7世 として即位した。それを受けたナポレオン1世は、スペイン王家をバイヨンヌ に追放して、5月5日 に親子2人共に退位を強制し、スペイン王位を自らの兄ジョゼフ に与えたのである(ホセ1世)。傀儡となっていたスペイン議会はこの新王を承認した。ホセ1世が改革を断行するためにスペイン統治を強化しようとすると、フランス人 支配を嫌う人民の反乱を引き起こすことになった。5月2日、マドリード の市民は、フランスの占領に対して、暴動を起こした。マドリードの蜂起はミュラ によって粉砕されたが、この蜂起はスペイン全土に広がった[ 13] 。
それまでイギリスは海戦では輝かしい勝利を何度も収めたものの、大陸における陸戦で中途半端な“へま”と相次ぐ敗戦で(1809年 のワルヘレン 遠征を最後に)面目を失うというのが特徴だった。強力な同盟なしではイギリス陸軍 はフランスに対して勝利は望めず、イギリスはいまだヨーロッパ大陸に足がかりを築けないでいた。そういうわけで、ポルトガルはナポレオン1世との戦争でイギリスが支援するのを拒否したのである。
スペイン軍は、7月16日 から19日 にかけてのバイレンの戦い でピエール・デュポン 指揮するフランス軍に対し劇的な勝利をおさめ、15,000人以上の捕虜 を得た。この戦いでホセ1世はマドリード撤退を余儀なくされた[ 13] 。6月18日 にはポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルとスペインでの人民の反乱は、イギリスに介入の誘惑を掻き立て、「王侯貴族でなく人民が『大いなる侵略者』に反乱を起こした」というイギリスの宣伝通り、これまでのナポレオン戦争 ではなかった展開を見せることになる。
イギリス軍上陸
1808年 8月にイギリス軍は少将 サー・アーサー・ウェルズリー 指揮のもと、ポルトガルに上陸した。ポルトガルのベルナルディン・フレイレ・デ・アンドラーデ (英語版 ) 将軍率いる前衛部隊がルイ=アンリ・ロワソン (英語版 ) 将軍率いるフランス軍の一隊を阻止している間に、8月17日 にウェルズリーの本隊はドラボルドゥ 将軍指揮下のフランス軍をロリーサの戦い で破った。8月21日 に英葡 両軍はジュノー 将軍指揮のフランス軍と激戦を交えた 。ウェルズリーの注意深い管理、強い指導力そして妥当な戦略により、英葡軍は、戦線を維持するフランス軍とその同盟軍をはねのけた。しかし、その勝利にもかかわらず、ウェルズリーの若さは、ポルトガルに新たに補強された遠征隊を指揮するには適格でないとみなされ、その地位はハリー・バラード が取って代わった。バラードの死後はヒュー・ダルリンプル が任命された。一連の勝利で、物議を醸したシントラ協定 に基づき、1808年8月、ポルトガルからフランス軍が撤退することになった。イギリス軍の司令官は、3万の精鋭を率いるサー・ジョン・ムーア を残して、協定調査のために本国への帰還を命じられた。
英葡軍とスペイン軍が勝利したことで、ナポレオン1世自身がイベリア半島に20万の兵を率いて行くことになった。イギリス軍はブルゴス市近郊で迎撃した(ブルゴスの戦い (英語版 ) )が、まもなく長い退却を強いられ、さらにサアグンの戦い 、ベナペンテの戦い 、カカベロスの戦い を挟みながら、フランス軍の追撃を受け、1809年 1月 にア・コルーニャ から撤兵(コルーニャの戦い (英語版 ) )して終わった。ムーアはア・コルーニャ市街防衛の指揮中に戦死した。こうしてスペインの大半がフランス占領下に置かれることになった[ 13] 。ナポレオン1世は2ヶ月余りスペインに滞在し、元帥 に指揮権を戻して自身はフランスに帰国した。
3月にスールト元帥は北の回廊地帯 を通って2度目のポルトガル侵攻に取り掛かった。始めはミーニョ川 でポルトガルの民兵に撃退されたが、シャヴェス 、ブラガ を攻略し、さらに1809年3月29日 にポルト を攻略した。しかし、アマランテ などの都市におけるフランシスコ・ダ・シルヴェイラ (英語版 ) らの抵抗は、スールトの軍をオポルト にて孤立させ、スールトは北ポルトガルの王になるか、退却するかの賭けに打って出た。
その間、ナポレオン1世の勝利でスペイン軍を壊滅させたが、スペイン人をしてスペインにおけるフランスの敗北に大いに貢献することになるゲリラ 戦法を開始させることとなった。ポルトガルでは「戦争大臣」ミゲル・ペレイラ・フォルハス がイギリスから送られた資金と兵力で国軍の再建を行っており、1806年 から示してきた軍制改革が実行された。最初は2万人の常備軍と3万の民兵が召集されたが、後にこの数は常備軍5万、民兵5万に膨れ上がり、「オルデンナンサス」と義勇軍が加わった。
1809年4月にウェルズリーは英葡軍を指揮すべく、ポルトガルに戻った。そして、フォルハスと各地域の知事によって組織され、ベレスフォード将軍によりイギリス流の戦闘に合わせて改編されたポルトガルの連隊によって、イギリス軍を補強した。これらの新軍は5月10日 から11日 のグリホの戦い と5月12日 のオポルトの戦い でスールトの軍を破った。北部の全都市がシルヴェイラによって攻略された。
ウェルズリーは、新占領地が気になるポルトガル軍から離れて、グレゴリオ・デ・ラ・クエスタ 軍に合流すべく、スペインに進軍した。連合軍は7月27日から翌28日のタラベラ・デ・ラ・レイナの戦い でホセ1世率いるスペイン軍を撃破した。そこは、連合軍が、不安定さを露呈し、すぐさま西方へと撤退することとなった、高い代償を払って勝利を収めた場所であった。タラベラの戦いの勝利により、ウェルズリーはウェリントン子爵に叙された。この年、後にスペイン軍はオカナの戦い とアルバ・デ・トルメスの戦い で、惨敗を喫した。
スペイン軍との共闘がうまくいかなかったことと新しいフランス軍を怖れるようになり、ウェルズリーはポルトガル防衛を強化する決断を下した。リスボンを防衛するために、彼はネベス・コスタ 少佐の計画を採用し、主要道と塹壕 と土塁 に沿って強力な堡塁線(162)を構築し、トレス・ベドラス線 を形成した。
1811年 7月 にフランス軍はアンドレ・マセナ 元帥率いる60,000の軍を以って再侵攻した。戦端はコアの戦い で開かれた。その後マセナは「ポルトガルで最悪の道」を辿った。9月27日 のブサコの戦い で、有利な位置にいながら不注意な戦術で敗北を喫したが、英葡軍をトレス・ベドラス線まで撤退させた。10月14日のソブラル の攻撃の後で戦況が膠着状態に陥るほどに城塞は印象的なものだった。チャールズ・オマーン の記述によれば「10月14日濃霧の朝、ソブラルで『ナポレオンの潮』が最高潮に達し、そして引き潮が始まった」。ポルトガル人は前線で焦土作戦 の対象となった。フランス軍は補給線の欠如と疾病のためについに撤退を余儀なくされた。
1811年初頭、同盟軍は新たなイギリス軍の到着で再度増強され、攻勢に転じた。フランス軍はカディス の包囲を解いた失策が一因となって3月5日 のバロッサの戦い で敗北を喫し、マセナは5月3日から同月5日までのフェンテ・デ・オノーロの戦い が膠着状態に陥ると、ポルトガルから撤退した。マセナは25,000の兵員をポルトガルとの戦闘で失い、オーギュスト・マルモン と交代することになった。スールトはバダホス を威嚇するために南部から移動したが、ウィリアム・ベレスフォード 率いる英葡軍とスペイン軍により5月16日アルブエラの戦い で追い返された。この血みどろの戦闘のあと、フランスは退却を余儀なくされた。
戦争は一時休戦し、数では優勢でもフランス軍は優位に立つことはできず、スペインのゲリラ活動による圧力が増していた。フランス軍は350,000を超す兵力がスペイン軍(L'Armée de l'Espagne )にいたが、その大半の20万を超す兵力が、実戦部隊よりもフランス軍の補給路防衛に当たって失われた。スペインでは戦時中に各地域に作られたフンタ で構成される最高中央評議会 (Junta Suprema Central)が、1810年からカディスにコルテスを召集し、自由主義的な「1812年のカディス憲法 」の草案作りに取り掛かった[ 13] 。
1812年 の新年早々にウェルズリーはスペインへの同盟軍の再編を行い、1月19日にシウダー・ロドリーゴ の城塞化された町を包囲、攻略し、バダホスを4月6日に高い代償を払った襲撃のあと同様に攻略した。両方の町は軍の略奪を受けた。7月17日、同盟軍はマルモンが進軍してきたのでサラマンカ に進駐した。両軍はついに7月22日に遭遇した。サラマンカの戦い ではフランスは壊滅的な敗北を喫した。ベレスフォード元帥は重傷を負った。フランス軍が再集結したため、英葡軍は8月6日マドリードに入城し、ポルトガルに撤退する前にブルゴス に進軍した。
フランスの起死回生の望みは、1812年 の悲惨なロシア遠征 失敗によって潰えた。対スペイン軍から3万の精鋭をロシア遠征に連れて行ったが増援と交代が尽き、同盟軍が1813年に攻勢に転じたため、フランス軍の優位は次第に維持し難くなった。
戦術的な動きとして、ウェルズリーは補給基地をリスボンからサンタンデル に移した。
5月末に英葡軍は北へと転じて、ブルゴスを奪取し、その際、英葡軍はフランス陸軍を側面から包囲し、ホセ1世をサドラ川 の谷へと追いやった。6月21日のビトリアの戦い でホセ1世の65,000の軍は、53,000のイギリス軍、27,000のポルトガル軍、19,000のスペイン軍により退路が狭められた。ウェルズリーはフランス軍をサン・セバスティアン から追撃し追い払った。サン・セバスティアンの町は打ち捨てられ、火を放たれた。
同盟軍は退却するフランス軍を追撃し、ピレネー山脈 に7月初めに到達した。スールトはフランス軍に命令を与え、反撃を始め、同盟軍の2人の将軍を翻弄しマヤの戦い とロンセスバリェスの戦い で快勝を収めた。だが、英葡軍に厳しく撃退され、勢いを失い、ついに7月28日から30日にかけてのソラウレンの戦い の同盟軍の勝利の後、敵の軍門に下った。
ピレネーの戦い と呼ばれるその週の戦いは、もしかしたらウェルズリーにとって最良のものであったのかもしれない。敵との数が拮抗し、ウェルズリーは補給路から極めて遠いところで戦っていたし、フランス軍はその領域を防御していたが、それでも戦争では稀な機動作戦、衝撃、砲火の組み合わせで勝利した。それは戦争の山場であり、このときウェルズリーはポルトガル陸軍を「同盟軍の闘鶏」と評した。
10月7日、ウェルズリーはドイツでの戦闘再開 の報を受け取り、同盟軍は、ビダソア川 を渡り、フランスの国境を越えた。
半島戦争はベラ 峠、ニーヴルの戦い 、バイヨンヌ 近くのニーブの戦い (1813年 12月10日 - 14日 )、オルセの戦い (1814年 2月27日 )、トゥールーズの戦い (4月10日 )で同盟軍の勝利で行われた。最後の戦いは、ナポレオン1世流刑後のものである。
ゲリラ戦
この戦争中イギリスはポルトガル民兵とスペイン民兵を支援してフランスの大軍を釘付けにした。フランス軍との戦闘でイギリスの正規軍が用いる装備より安上がりだったことでイギリスはこれらに対し支援を行った。これは歴史上最も成功した非正規兵戦闘の一つであった。スペイン語でこの戦法をゲリーリャ(guerrilla:小さな戦争)と呼び、これがゲリラ の語源になっている。この史上初の「ゲリラ」は、エスポス・イ・ミーナ、エル・エンペシナード 、メリーノ司祭、エローレス男爵らが率いて、スペイン全土で対フランス軍活動を活発に行なった[ 13] 。
ポルトガルでの影響
半島戦争は同時代におけるポルトガルの衝撃的な幕開けを表していた。リオデジャネイロ への宮廷の移転は、その後独立することになるブラジル の国家建設の始まりであった。宮廷、政府、陸軍からなる15,000人以上の人々がポルトガル艦船に乗り亡命できたことは、ブラジルにとってはおまけであり、ポルトガルにとっては見せかけの恩恵であった。なぜならば、それは独立へのエネルギーを解放したからである。不在間の王に指名されたポルトガルの知事には、フランスの侵略とイギリスの占領が続くために、僅かに影響していた。戦争大臣のミゲル・ペレイラ・フォルハス の役割は独特なものであった。ウェルズリーはペレイラを「イベリア半島でただ一人のまともな政治家」と見ていた。ポルトガル軍の参謀と55,000人の常備軍、50,000人以上の国民防衛隊「ミリシアス」と様々な数の郷土防衛隊「オルデナンサス」の(全体で10万を越えると目される兵力)創設を指揮した。1812年にロシアの宮廷大臣であるシュタイン男爵 に送った手紙で、フォルハスは「焦土作戦 」の採用が、ナポレオン1世の侵略を打破し領土を守る唯一の方法として薦めた。ロシアのインペラートル アレクサンドル1世 は、ウェルズリーのポルトガル軍戦略を模倣しナポレオン1世の大陸軍を飢えさせるために戦闘を避けるよう命令した。
フランスとの戦争で試練に晒され、訓練され、実戦経験したポルトガル本土残留の新しい階級層は、新生ポルトガルの独立を主張する点で、本戦争における旧来の指導者層に多大な影響を与え、フランス革命に並ぶものでもあった。ベレスフォード元帥は1814年以後もポルトガル陸軍(隷下に160人ほどのイギリス軍将校が中核となる)の司令官(国王がまだブラジルにいるので一種の植民地総督)として残留した。ベレスフォードの元で、ポルトガルの新政策が策定された。これはルソ-ブラジル連合王国のあり方、アフリカの植民地における奴隷供給問題、ブラジルの産業、ポルトガルとの交易など今後の国家計画が定まった。しかし、1820年までにこれら全てが破綻した。ポルトガルの半島戦争に参加した将校はイギリス軍人を追放し、8月24日にオポルトで自由主義革命を開始した。ポルトガルにおける自由主義体制の樹立は1832年から34年の内戦終結後に結実されることとなる。
スペインでの影響
ホセ1世は当初、フランスとの協力関係で近代化と解放が得られると信じていた「アフランセサドス」(親仏派)のスペイン人に歓迎された。一つの例が異端審問 の廃止であった。しかし、聖職者と愛国者は人民を煽動し、実際にフランス軍が抑圧する事件(1808年マドリード)がおきると、侵略者に対して人民を団結させ勇気付けるまでに拡大することになった。スペインに残っていた者は、フランス軍に従ってフランスに脱出した。画家のフランシスコ・デ・ゴヤ はこれらアフランセサドスの一人であり、戦争後に、告発されたりリンチ を受けないようにフランスに亡命 しなければならなかった。
独立支持派は伝統派と自由派 双方にいた。戦争後、国王フェルナンド7世 (待望の人(後に「彷徨える国王」))が、各地の連合を纏め上げフランスに抵抗すべくカディス で召集した独立議会が行った社会的前進を無効とした。自由主義議会は1812年3月19日制定の憲法 を可決したが、後にフェルナンド7世によって破棄された。フェルナンド7世は絶対君主制 を復活させ、自由主義を標榜する者を全員起訴して処刑し、愛娘イサベル のために王位継承法(従来のスペインは男子にしか王位継承権は与えられなかった)を変えた。これを契機として、旧法での王位継承者である王弟ドン・カルロスの支持者との内戦(カルリスタ戦争 )の世紀が始まった。半島戦争により他国の抑圧的支配から逃れたはずのスペインは、それ以上の混乱、荒廃を内戦によって引き起こし、百年も後退してしまう。しかしスペイン人の近代化に対する渇望は、やがてリエゴ革命 等によって現実化されて行くのである。
一方、植民地だったスペイン領アメリカ では、クリオーリョ が各地の市参事会 にてフェルナンド7世に対して忠誠を誓う連合組織を結成した。この自治の経験と、フランシスコ・デ・ミランダ らによる独立への動きが元になって後に、自由主義 者(リベラトルス)にスペイン領アメリカ植民地の独立を促すことになった。シモン・ボリーバル もその一人である。
また、この戦争中フランス軍はカトリック教会 の大量の財産を多く略奪した。美術品はフランスに送られ、教会と修道院の建物は、馬小屋や兵営に使用され、スペインの文化遺産が深刻な打撃を受けることとなった。加えて英葡軍がスペインの都市と農村を略奪した。戦争の影響は、スペインの経済を著しく低下させ、19世紀の停滞をもたらすことになる。
諜報活動
諜報活動は1810年 を過ぎるとイギリス軍の戦争遂行に大きな役割を果たした。スペインとポルトガルのゲリラは、フランス軍の密使から通信文を奪取するよう依頼された。1811年 からこうした文書類は一部または全文が暗号化されていることがよくあった。ウェルズリーの参謀であったジョージ・スカヴェル は解読の任務を与えられた。初め使用する暗号はかなり単純で他の参謀の助けをもらった。だが、1812年 の始めには、更に難しい暗号が、独創的に外交文書用に改訂され使われるようになると、スカヴェルは解読を進めていくことに夢中になった。解読作業は、フランス軍の動きと配置に関する知識が、上記の交戦で大きな成果を収める結果と共に徐々に進んでいった。フランス軍は暗号が解読されているとは知らず、ビトリアの戦いでその暗号表が奪われるまで使い続けた。
文学などへの影響
プロスペル・メリメ の小説「カルメン 」 - これを基にした ビゼー のオペラ「カルメン 」はこの戦争中の設定である。
主な戦闘と包囲戦
メディーナ・デル・リオセコの戦い (1808年 7月14日 ) フランス軍がスペインで初めて大勝利を収めた。イベリア半島に保安隊を創設した。
バイレンの戦い (1808年7月19日 ) デュポン将軍が総指揮を取るフランス軍23,000名が、ハエン地方(アンダルシア)のバイレンでフランシスコ・ハビエル・カスターニョス (英語版 ) が指揮する3万のスペイン兵に包囲された。5回出撃を試みて、フランス軍は降伏した。
ロリサの戦い (1808年8月17日 ) ウェルズリーが15000のイギリス軍とモンデゴ湾に上陸し、リスボンに向けて南進した。アンリ・デラボルド指揮のフランス軍は、補給を待ってウェルズリーの進軍を遅らそうとした。第29歩兵連隊による早まった攻撃は、成功しフランス軍撤退の原因になる総攻撃の命令をウェルズリーが下さざるを得なくなる。小競り合いだったが、イギリス軍の半島戦争での最初の戦闘であり、ヘンリー・シュラプネル大佐の球形の弾丸が初めて使われた。
ビメイロの戦い (1808年8月21日 ) ロリサの戦いの4日後、今度は17,000の英葡連合軍を構成するウェルズリーの軍は、ジュノー率いる部隊に攻撃された。この攻撃はフランス軍が2,000名の死傷者を出して撃退され、ジュノーはトレスベドラス近郊に撤退した。
ソモシエラの戦い (1808年11月30日 ) ナポレオン1世のマドリードに向けた戦闘で、ヤン・コジエトゥルスキ指揮のポーランド警備隊の勇敢な突撃で有名。
メデジンの戦い (1809年 3月28日 ) 17,500名のフランス軍が、グレゴリオ・デ・ラ・クエスタ 将軍指揮のスペインの大軍を敗走させた(千人につき1万人の死傷者)。
タラベーラ・デ・ラ・レイナの戦い (1809年7月27日 -28日 55,000のウェルズリー英西軍が、マドリードの南西110km(70マイル)の町タラベラ・デ・ラ・レイナ でホセ1世代、ジュルダン元帥、ヴィクトル元帥のフランス軍46,000名と対峙した。実際はウェルズリー軍がクエスタ将軍の寄せ集めのスペイン兵が3,500名いるという不利な状況にもかかわらず、ウェルズリーは勝利を収めた。死傷者はイギリス軍が5,500名、スペイン兵が1,000名、フランス軍が7,200名であった。
オカーニャの戦い (1809年11月19日 ) スールト将軍指揮の約29,000名のフランス軍が5万のスペイン正規軍を撃破した。壊滅的な損害を被り、スペイン南部の多くが陥落した。
ブサコの戦い (1810年 9月27日 26,000名のポルトガル軍と4,5000名のイギリス軍の連合軍は45,000名のマッセナ軍を破った。死傷者はポルトガルが626名、イギリスが626名(「素晴らしい一致」)、フランスが約4,500名であった。
トレス・ベドラス線 防衛(1810年冬–1811年 ) 「ナポレオン衰退期」の1810年10月14日 のソブラルの小競り合い以外はクローズウィッツの勝利はなかった。
フエンテス・デ・オノロの戦い 1811年5月3日 – 5日
アルブエラの戦い (1811年5月16日 ) ウィリアム・ベレスフォード卿 指揮の連合軍35000名は、スールト元帥がフランス軍24,000名と包囲を解こうとするのを妨害するためにバダホス から南に移動した。フランスの攻撃は、結局失敗した。全軍が勇敢に戦い、ジョアシム・ブレーク将軍の師団はフランス軍を撃退し、イギリスの狙撃旅団は「頑強な抵抗者」のように栄光に輝いている。ポルトガルの第11師団第23旅団は、フランス軍との「戦闘の局面を変える」歩兵攻撃を導いた。
バダホスの戦い (1812年 4月6日 ) フィリポン将軍指揮のフランス軍5,000名とのバダホスの頑丈に強化された要塞は、3月16日 から3万のウェルズリー率いる英葡軍に包囲されていた。4月6日夜、強襲を繰り返して、防衛線突破に成功し、フランス軍は降伏した。フランスが1500名、英葡連合軍が5,000名を失った。
サラマンカの戦い (アラピレスとも)(1812年7月22日 ) ポルトガルへの撤退中、ウェルズリー率いる英葡軍48,000名は、オーギュスト・マルモン 元帥指揮の5万のフランス軍にサラマンカ近郊で攻撃を受けた。イギリス軍はベルトラン・クローゼル将軍がフランスが有利な状況を保ったまま攻撃に踏み切って1時間未満でほぼ勝利を収めた。ウェルズリーとベレスフォードは、ポルトガルの第3師団第15旅団とフランス軍の進路に向かって反撃を指揮した。スペイン軍が退路を断つのに失敗し、フランス全軍を捕らえることはできなかった。それでもフランス軍の損害は死傷者7,000名、捕虜となった者7000名以上であった。
ビトリアの戦い 1813年 6月21日
人物
スペイン人
政治家
将兵
ゲリラの指導者と革命家
その他
フランス人
ホセ1世 (1768年 - 1844年) スペイン国王 。ナポレオン1世の兄。当初ナポリ王 (1806年 - 1808年)で、ボルボン朝の意向によりスペイン国王になった(1808年 - 1813年)。スペインの旧体制改革と近代化を目指すも、独立戦争の現実の前に挫折した。
ジャン=バティスト・ジュールダン (1762年 - 1833年) フランス元帥
ジャン=アンドシュ・ジュノー (1771年 - 1813年) フランスの将軍で外交官
オーギュスト・マルモン (1774年 - 1852年) フランス元帥
アンドレ・マッセナ (1758年 - 1817年) フランス元帥
ジョアシャン・ミュラ (1767年 - 1815年) ナポリ王。フランス元帥。ナポレオン1世の義理の兄弟でベルク大公 (1806年 - 1808年)に叙された。フランスのスペイン侵略の端緒を導いた。そして、ナポレオン1世の兄ジョゼフがスペイン国王になるまでは、その地位を希望した。ジョゼフがナポリ王からスペイン王に転出すると、ナポリ王国を慰労の褒章として与えられた。
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト (1769年 - 1851年) フランスの元帥。スペインでの半島戦争で指揮権を保持した。ポルトガルに1809年に侵略し、ポルトガル王への野心を募らせたが、ウェルズリーとシルヴェイラの連合軍によって退けられた。ワーテルローの戦い の参謀長であった。戦争大臣(1830年 - 40年)。
イギリス人
ポルトガル人
脚注
注釈
^ Some accounts mark the Franco-Spanish invasion of Portugal as the beginning of the war (Glover 2001 , p. 45).
^ Denotes the date of the general armistice between France and the Sixth Coalition (Glover 2001 , p. 335).
^ 「スペイン反乱」は日本の高校世界史の教科書を中心に12社。最近は母国語での呼称に従うというルールから「スペイン独立戦争」の方が多いようである。本記事の名称である「半島戦争」は英語名由来。
出典
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関連作品
ゲーム
La guerre d'Espagne 1808 (History&Colectors - Vae Victis#83,2008,クロノノーツ ゲーム)
関連項目
外部リンク
戦役
関連戦争 外交 関係諸国
フランス側同盟国 時期により変化した国 対仏大同盟諸国