タラベラ・デ・ラ・レイナ(スペイン語: Talavera de la Reina)は、スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州トレド県のムニシピオ(基礎自治体)。「女王のタラベラ」を意味するこの地名は、カタルーニャ州にあるタラベラと区別するためである。単にタラベラとも呼ばれる。人口規模においてはカスティーリャ=ラ・マンチャ州第2の都市であり、トレド県内では最多の人口を持つ[1]。
フェリペ2世が城の壁を覆うタイルとしてタラベラ産のセラミックを用いたことから、タラベラ・デ・ラ・レイナはその名が国際的に知られるようになった。エル・エスコリアル修道院にもタラベラ産のセラミックが使用されている。タラベラ・デ・ラ・レイナの別名は、「陶器のまち」(La Ciudad de la Cerámica)である。
イスラム教徒がタラベラ・デ・ラ・レイナを征服したのは712年であった。彼らは新しい城壁と城を築いた。彼らは、噴水、水車を使う製粉場、アフリカやアジアからの新たな品物ももたらした。その肥えた土壌は品質の高い野菜、果物、そして家畜用の牧草を生み出した。タラベラ・デ・ラ・レイナの市場は新しく強力となり、そしてキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒が混在して数世紀に渡って共存した。メディナ・アル・タラバイラ(Medina Al Talavayra、タラベラのアラビア語名)は、イベリア半島内のタイファ諸国の異なる戦争に参加し、コルドバ太守国・バダホスと同盟していた。タラベラ・デ・ラ・レイナは太守国の首都であった。市が11世紀にカスティーリャ王アルフォンソ6世に再征服された後、中世スペインの重要な貿易中心地であった。
タラベラは20世紀初頭に都市の規模を拡大させた。鉄道が新たな投資機会をもたらした。1931年、スペインは共和制となった。タラベラはその名をタラベラ・デル・タホ(Talavera del Tajo)と改名した。1936年7月18日に保守右派が挙兵してスペイン内戦が勃発すると、左派はタラベラで恐怖政治を敷き市民を殺害した。9月3日に保守右派がタラベラを奪取すると、再度恐怖政治がなされ、この時は共産主義者と社会主義者が犠牲となった。内戦中には人民戦線側の爆撃によって町が破壊された。