クマール・ラム・ナレイン・カーティケヤン (英 : Kumar Ram Narain Karthikeyan , タミル語 : நாராயண் கார்த்திகேயன் , テルグ語 : కాకర్ల నారాయణ కార్తికేయన్ , 1977年 1月14日 - )は、インド 人のレーシングドライバー。
日本で現在多く使用される「ナレイン・カーティケヤン」という表記は英語表記に基づいており、現地のタミル語 とテルグ語 の発音は「ナラヤン・カーティケヤン」に近い。
経歴
ナレイン・カーティケヤン
初期の経歴
南インドのタミル・ナードゥ州 出身、「インドのモータースポーツの中心地」と言われる高原の街コーヤンブットゥール で生まれ育つ。15歳でフランスに渡りレース競技に身を投じる。フォーミュラ・アジア等を経て、1998年からイギリスF3 に参戦。1998年はカーリンモータースポーツから10ラウンドのみ参戦し2回の3位表彰台を獲得しシリーズ12位。1999年は優勝2回、ポール2回、FL3回の活躍でシリーズ6位。この年のマカオGPでは予選6位、決勝6位となる。2000年も引き続き参戦し佐藤琢磨 に次ぐシリーズ4位の成績を残した。またマカオGPではポールポジションとFLを獲得、インターナショナルF3のスパとKorea Super Prixでは優勝するなど結果を残した。
2001年にはチーム・インパル からフォーミュラ・ニッポン 参戦。本山哲 とはチームメイトであった。しかし、この年のフォーミュラ・ニッポン王者となった本山とは対照的に、カーティケヤンはわずか入賞2回に終わった。翌2002年にはチームルマン に移籍が決まっていたが、開幕直前になって急病を理由に参戦を取りやめた。
2002年からの3年間はワールドシリーズ・バイ・ニッサン に参戦。2004年は2勝を挙げ、シリーズ5位だった。
F1
2005年アメリカグランプリ にて。
2005年
2005年2月1日にジョーダン・グランプリ への加入が発表され、インド人初のF1 レギュラードライバーとなった。ミシュラン 製のタイヤを使用するチームが、タイヤの安全性の問題から大量にレースを棄権した第9戦アメリカGP では、そのお陰もあり4位を獲得した。
2006年には、ウィリアムズチーム の第2テストドライバーを務めることとなった。2007年もチームにとどまってテストドライバーを務めた。しかし、チームは同じテストドライバーである中嶋一貴 をGP2 シリーズとバッティングしないレースでサードドライバーとしてフリー走行に出走させるなど重用したため、年間を通じてほとんどテスト走行の機会は与えられなかった。ウィリアムズで走行機会が与えられないことから、他チームからのスポット参戦を目論見てスパイカー などと交渉。クリスチャン・アルバース のシーズン中の解雇もあり、チーム加入目前の報道もあったが、山本左近 にそのシートを奪われた。
2008年冬、財政難に陥り冬期合同テストに欠席が続いていたスーパーアグリ へ、支援が噂されていたインド企業であるスパイス・グループが、カーティケヤンのドライバー就任を要求したと報道された。しかし、チーム設立・存続の大前提である佐藤琢磨 はもちろん、セカンドドライバーのアンソニー・デビッドソン についても、同チームが供給・支援を受けるホンダF1 のニック・フライCEO、及びホンダ本社 の意向により交代は不可とされ、スパイス・グループによる支援も流れ、カーティケヤンの加入は実現しなかった。
2011年
2011年マレーシアグランプリ にて。
2011年 1月7日、チーム側の公式アナウンスを前に、ヒスパニア・レーシング と契約した事を独自に発表。後にチーム側からも正式なリリースがなされた[ 1] 。この年のヒスパニアのマシンは、運動エネルギー回収システム を搭載していないなど競争力に乏しいため、バックマーカーとなることも多いが、しばしば最後まで走りぬく堅実な走りを見せている。完走した2011年ヨーロッパグランプリ では、リタイヤした車両が出なかったため24位というF1史上最低順位を記録している[ 2] 。
ヨーロッパGPの後はダニエル・リカルド に交替させられ出場機会を失ったが、念願の母国開催となった第1回インドグランプリ ではヴィタントニオ・リウッツィ がシートを譲る形で出場を果たし、HRTとしてはまずまずの順位である17位で完走した。
2012年
2月2日、HRTはカーティケヤンとレギュラードライバーとして契約した事を発表した[ 3] 。ちなみに、前年と同じチームからの参戦となるが、チームの経営陣が代わったために「残留」ではなく「契約」と言う言葉を使用している。
その他のレーシングカテゴリー
2008-2009年のA1グランプリ に参戦するカーティケヤン
A1グランプリ
2006-2007年のA1グランプリ において成績が低迷していたA1グランプリ インドチームのドライバーとしてシーズン途中のニュージーランド戦から参戦、最終戦ブランズ・ハッチ で行われたイギリス戦では表彰台を逃したが4位入賞を果たし、チームへ貢献した。
2007年 9月 開幕した2007-2008年のA1グランプリ ではインドチーム代表として全戦に参戦し第4戦の殊海(Zhuhai)で行われた中国戦ではインドチーム初の表彰台と同時に初勝利を獲得した。また、最終戦ブランズ・ハッチで行われたイギリス戦のフィーチャーレースではインドチーム初となるポールポジションを獲得し優勝している。
2008-2009年のA1グランプリ にインドチームから初戦のオランダ戦を除き全戦に参戦し、最終戦ブランズ・ハッチでシーズン最高位となる2位を獲得し12位だった。
ル・マン24時間
2009年のル・マン24時間レース にコリン・コレス のチームであるチーム・コレスからアウディ・R10 TDI でインド人初となるル・マン24時間に参戦した。
スーパーリーグ・フォーミュラ
2010年はオランダのPSVアイントホーフェン からスーパーリーグ・フォーミュラ に参戦している。
AUTO GP
2013年、スーパーノヴァ・レーシング からAUTO GP に参戦。シリーズ4位を記録。
スーパーフォーミュラ
2014年のスーパーフォーミュラ に参戦するカーティケヤン
2014年に古巣チーム・インパルからスーパーフォーミュラ へ参戦。2001年以来13年ぶりの日本復帰となる。その後はダンディライアン、チームルマン、ナカジマレーシングと毎年所属チームを変え、一年ごとにトヨタ・ホンダ両陣営を行き来した。2018年はナカジマレーシング で、初めて同一チームで2年目を迎えることになる。
SUPER GT
2019年のSUPER GT に参戦するカーティケヤン
2019年は前年まで2年間スーパーフォーミュラに参戦していたナカジマレーシングからSUPER GT に参戦。チームメイトは牧野任祐 [ 4] 。シーズン後に行われたスーパーGT×DTM特別交流戦のレース2にて日本のレースにおいて初優勝を果たす。
今シーズンをもってSUPER GTからの離脱を発表。今後はレーシングドライバーとしての活動のほか、自動車関連のベンチャービジネスに注力する。
レース戦績
フォーミュラ
イギリス・フォーミュラ3選手権
フォーミュラ・ニッポン/スーパーフォーミュラ
ワールドシリーズ・バイ・ニッサン
フォーミュラ1
(key )
ル・マン24時間レース
SUPER GT
関連項目
脚注
外部リンク