ダラス・カウボーイズ
ダラス・カウボーイズ(英語: Dallas Cowboys、略称: DAL)は、アメリカ合衆国テキサス州アーリントン(ダラス・フォートワース複合都市圏)に本拠地をおくNFLチーム。NFC東地区に所属している。ホームスタジアムはAT&Tスタジアム。本部と練習場は、同じテキサス州のフリスコにあるフォード・センター・アット・ザ・スター。 概要NFC東地区所属でNFL屈指の名門。創立間もないころ、その強さから圧倒的な人気を誇ったカウボーイズは、アメリカを象徴するチームとしてアメリカズチーム(America's Team)と称されるようになり、現在でもこの称号が用いられることがある。1960年代以降のNFLで最も成功したチームの1つとして数えられておりスーパーボウル優勝は3位タイの5回、NFC優勝8回を数える。またマンデーナイトフットボールでの勝利は最多の41回(これに次ぐのはマイアミ・ドルフィンズの39回、サンフランシスコ・フォーティナイナーズの38回)。1966年から1985年までの20シーズン連続勝ち越しのNFL記録を持っている。だが1995年以降は不振となり、NFCチャンピオンシップゲームに出場できていない。 経済誌のフォーブスは2022年9月、ダラス・カウボーイズの市場価値を80億ドルと算定しており、ニューヨーク・ヤンキースやレアル・マドリードなどを上回り、世界のスポーツチームで首位となり世界で最も価値あるスポーツチームとした[1]。また、大手世論調査会社ハリス・インタラクティブが2015年に公表した世論調査によると、NFLで最も人気の高いチームである[2]。 歴史チーム創設から1970年代まで1960年、AFL(アメリカン・フットボール・リーグ)のダラス・テキサンズ(カンザスシティ・チーフスの前身)に対抗する形でクリント・マーチンソン、ベドフォード・ウィンによって創立された。チーム名は当時、テキサス州で数千人が活躍していたカウボーイにちなんで付けられた。初代ゼネラルマネージャーにはテックス・シュラムが、初代ヘッドコーチにはトム・ランドリーが起用された。選手はエクスパンションドラフトで集められ本拠地はコットン・ボウルとなった。1960年シーズンは1分11敗と未勝利に終わり翌年のNFLドラフト1巡目全体13番目でDTのボブ・リリーを指名した。1960年にQBのドン・メレディス、1961年にRBのドン・パーキンス、LBのチャック・ハウリー、DTのボブ・リリー、1963年にLBのリー・ロイ・ジョーダン、1964年にCBのメル・レンフロ、1965年にWRのボブ・ヘイズが加入するなど徐々に戦力を整えていった。1966年に10勝3敗1分の成績で初のプレーオフ進出を果たしプロボウルに8人の選手を送り込んだ。1966年、1967年と2年連続でNFLチャンピオンシップでグリーンベイ・パッカーズと対戦したが劇的な決着で2年とも敗れた。アメリカのプロスポーツ史上最も気温の低い厳しい条件で行われた1967年NFLチャンピオンシップゲームはアイスボウルとも呼ばれている。1966年シーズンはその後8シーズン連続となるプレーオフ出場記録の始まりとなった(後に1975年から1983年まで9シーズン連続プレーオフ出場の記録を作った。)。 1968年シーズン終了と共にメレディス、パーキンスは引退したが1967年にOTのレイフィールド・ライト、1969年にQBのロジャー・ストーバック、TEのマイク・ディトカ、RBのカルビン・ヒル(グラント・ヒルの父親)、1970年にCBのハーブ・アダリー、Sのクリフ・ハリス、チャーリー・ウォータースが加入した。1970年シーズンにQBのクレイグ・モートンに率いられたチームは第5回スーパーボウルに出場したが終盤モートンにミスが続き、残り5秒でボルチモア・コルツのキッカー、ジム・オブライエンのフィールドゴールが決まり13-16で敗れた。この試合でチャック・ハウリーはスーパーボウル史上唯一敗戦チームからMVPに選ばれた選手となっている。 1971年の第6週から本拠地をテキサス・スタジアムに移した。チームは最後の7試合を連勝し第6回スーパーボウルでマイアミ・ドルフィンズを24-3で破りスーパーボウル初制覇を果たした。1970年代の活躍でカウボーイズの人気は地元ダラスだけでなくアメリカ中に広がっていった。チームにはDEハーベイ・マーティン、エド・トゥートール・ジョーンズ、WRのドリュー・ピアソン、DTのランディ・ホワイト、RBのトニー・ドーセットらが加わった。第10回スーパーボウル、第13回スーパーボウルではピッツバーグ・スティーラーズに敗れたが第12回スーパーボウルでデンバー・ブロンコスを破り優勝、1970年代のNFLで最多勝をあげたチームであった。 1980年代1980年に引退したストーバックに代わってダニー・ホワイトが先発QBとなった。1980年から1982年には3年連続NFCチャンピオンシップゲームに進出を果たしたがスーパーボウル出場はならなかった。 1983年1月3日のミネソタ・バイキングスとのマンデーナイトフットボールで、トニー・ドーセットが自陣1ヤード地点から99ヤードのTDランをあげた[3][4]。 1984年にバム・ブライトがマーチソンからチームを購入した頃から成績が低迷し、1985年の10勝6敗から1986年は7勝9敗、1987年は7勝8敗、1988年は3勝13敗に終わった。1989年2月25日にチームはジェリー・ジョーンズに売却された。新オーナーのジョーンズはゼネラルマネージャーのテックス・シュラムとヘッドコーチのトム・ランドリーを解任、大学時代のフットボールチームメートでもあったマイアミ大学ヘッドコーチだったジミー・ジョンソンを後任のヘッドコーチとした。ドラフト1巡目でUCLAのQB、トロイ・エイクマンを獲得、シーズン中にはスターRBのハーシェル・ウォーカーをミネソタ・バイキングスと5人のベテラン選手と8つの将来のドラフト上位指名権などと引き換えにトレードを行った。チームは1勝15敗と創設以来最悪の成績に終わったがトレードによって得たドラフト指名権がチームの再建に重要な役割を果たすことになる。 1990年代ジョンソンヘッドコーチは1989年のドラフトでエイクマンの他にFBのダリル・ジョンストン、Cのマーク・ステプノスキーを獲得、1990年にRBのエミット・スミス、1991年にDTのラッセル・メリーランド、OTのエリック・ウィリアムス、1992年にSのダレン・ウッドソンを獲得した。他にランドリー時代からいる若い選手、WRのマイケル・アービン、Gのネイト・ニュートン、LBのケン・ノートン・ジュニア、OTのマーク・トゥイネイやベテランのTE、ジェイ・ノバチェク、DEのチャールズ・ヘイリーの活躍で、1989年には1勝15敗に終わったチームが、3年後の1992年には13勝3敗の成績をあげ、14シーズンぶりとなるスーパーボウル出場を果たした。第27回スーパーボウルではスーパーボウル記録となる9つのターンオーバーを奪いバッファロー・ビルズに52-17で勝利しジミー・ジョンソンはカレッジフットボールとNFLの双方で頂点を極めた最初のヘッドコーチとなった。翌年の第28回スーパーボウルでも30-13で再びビルズを降しプロボウルにも11人の選手を送り込んだ。契約交渉が長引き、エミット・スミスがシーズン開幕から2試合欠場したこと、1993年からNFLに導入されたフリーエージェント制度に続き、1994年シーズンからサラリーキャップが導入されるため、ジミー・ジョンソンはオーナーのジェリー・ジョーンズに人事権の委譲を求めたが、ジョーンズオーナーはこれを拒絶し[5]、第28回スーパーボウルの1週間後にジョンソンヘッドコーチは辞任し[6]、オクラホマ大学の元ヘッドコーチ、バリー・スウィッツァーが後任となった。1994年シーズンに12勝4敗の成績をあげたがNFCチャンピオンシップゲームでサンフランシスコ・フォーティナイナーズに28-38で敗れた。1995年にはフリーエージェントになっていたオールプロCBのディオン・サンダースが加入、12勝4敗でシーズンを終えたチームは第30回スーパーボウルでピッツバーグ・スティーラーズを27-17で破り5度目のスーパーボウル制覇を遂げた。MVPには2回のインターセプトでいずれもタッチダウンをあげたラリー・ブラウンが選ばれた。バリー・スウィッツァーもカレッジフットボール、NFLを制したヘッドコーチになった。その後カウボーイズの栄光をささえた選手たちのフリーエージェントによる流出、高齢化、怪我などで1997年には6勝10敗で終わった。1998年1月スウィッツァーヘッドコーチは辞任しスティーラーズの元オフェンスコーディネーターであるチャン・ゲイリーが後任となった。1998年に10勝6敗でNFC東地区優勝を果たしたが1999年には8勝8敗に終わった。チームは1990年代を通じてNFL最多勝したチームであった。 2000年代チャン・ゲイリーの次にヘッドコーチになったのはディフェンスコーディネーターのデイブ・カンポだったが2000年から2002年まで3シーズン連続で5勝11敗に終わった。ジョーンズオーナーがゼネラルマネージャーを置かずヘッドコーチにも十分な権限を与えていないことがチームが低迷する原因だとマスコミから非難されるようになった。2001年、シーズン開幕前にタンパベイ・バッカニアーズから放出されたQBライアン・リーフと契約した。2003年、ビル・パーセルズがヘッドコーチに就任、NFLトップの守備成績を残し10勝6敗でプレーオフ進出を果たしたが、続く2シーズンはプレーオフ出場を果たせなかった。 2004年、チームはビニー・テスタバーディ、ドリュー・ヘンソンを獲得、チャド・ハッチンソンを解雇した。シーズン途中、控えQBのクインシー・カーターを薬物濫用により解雇、トニー・ロモが第3QBとしてロースターに加わった。 2005年、前年までバッファロー・ビルズでプレーし、ニューイングランド・ペイトリオッツ時代にはスーパーボウル出場も果たしているQBドリュー・ブレッドソーを獲得した[7]。 2006年、シーズン開幕前、フィラデルフィア・イーグルスに所属していたテレル・オーウェンスを獲得した。シーズン途中からブレッドソーに代わって、ロモが先発QBに昇格した[8]。9勝7敗でプレーオフに進出した。シアトル・シーホークスとのワイルドカードプレーオフでは勝ち越しFGを狙ったプレーでロモがスナップをファンブルし敗れた。その後パーセルズは辞任し、後任にはウェイド・フィリップスが就任した。 2007年チームはNFCベストの13勝3敗の成績を残したが、プレーオフでニューヨーク・ジャイアンツに破れシーズンを終えた[9]。ジャイアンツは第42回スーパーボウルで優勝を果たした。 2008年チームは4勝1敗と好スタートを切ったがエースQBのトニー・ロモ負傷の影響もあり足踏み8勝4敗で12月を迎えたが最後の4試合中1勝しかできずに9勝7敗でプレーオフを逃した[9]。オフシーズンにチームは、テレル・オーウェンスを放出した。この年LBデマーカス・ウェアが20サックをあげた[10]。 2009年チームはカウボーイズ・スタジアムに本拠地を移した。この年3月、実績は十分なもののトラブルメーカーのテレル・オーウェンスを解雇した[9]。最終週に同地区のライバル、フィラデルフィア・イーグルスを破り地区優勝、プレーオフ初戦でもイーグルスを破ったがディビジョナルプレーオフでミネソタ・バイキングスに敗れてシーズンを終えた。この年シーズン途中から先発WRとなったマイルズ・オースティンが活躍、第6週にはこれまでボブ・ヘイズが持っていた球団記録を更新する250ヤードを獲得、プロボウルにも選ばれた[11]。 2010年代2010年、本拠地カウボーイズ・スタジアムが翌年の第45回スーパーボウル開催地であり、スーパーボウル出場の期待が高まったが反則やターンオーバーなどにより敗戦が続き、エースQBのロモも戦線を離脱した。1勝7敗となったところでウェイド・フィリップスヘッドコーチは解任され[12]、ジェイソン・ギャレットオフェンスコーディネーターが暫定ヘッドコーチに就任することとなった。マイルズ・オースティンが故障したデショーン・ジャクソンの代わりとして、2年連続プロボウルに選ばれた[13]。デマーカス・ウェアが15.5サックをあげている[14]。ギャレットは正式にヘッドコーチとなった。 2011年、チームは最終週、勝ったチームが地区優勝となるニューヨーク・ジャイアンツとの直接対決で敗れるなど最後の5試合中4試合で敗れて8勝8敗、プレーオフを逃した[15]。 2012年、最後の2試合に連敗し、8勝8敗でプレーオフを逃した[16]。 2013年8月、本拠地カウボーイズ・スタジアムは、命名権契約をAT&Tと12億ドルで結び、AT&Tスタジアムと名称変更した[17]。シーズンは3年連続で8勝8敗に終わり、プレーオフを逃した。 2014年、前クリーブランド・ブラウンズのQBブランドン・ウィーデンと契約した。この年は地区優勝を果たしたが、プレーオフ2試合目でグリーンベイ・パッカーズに敗れた。 2015年は、シーズン途中でロモが鎖骨を骨折し、チームは地区最下位に沈んだ。 2016年は開幕からロモが負傷離脱し、ルーキーQBダック・プレスコットを起用して地区優勝を果たしカンファレンス内で最高の成績を上げたが、プレーオフ1試合目でグリーンベイ・パッカーズに敗れた。 2017年は地区2位に終わり、プレーオフも逃した。 2018年は地区優勝を遂げたが、ディビジョナルプレーオフでロサンゼルス・ラムズに敗れた。 2019年はプレーオフを逃した。2020年1月5日、HCのギャレットは解雇された。翌日、元グリーンベイ・パッカーズHCのマイク・マッカーシーがHCに就任した。 2020年代2020年、前シンシナティ・ベンガルズのQBアンディ・ダルトンと契約した。プレスコットが負傷欠場し、地区全チームが勝率5割を割る中、最終戦で敗れ三位となってプレーオフを逃した。 2021年、ダルトンはシカゴ・ベアーズに移籍した。プレスコットとNFL史上最高額となる4年1億6000万ドルの契約を結び、2018年シーズン以来のプレーオフ進出を地区優勝で果たしたが初戦でサンフランシスコ・フォーティーナイナーズに敗れた。 2022年は第15週にプレーオフ出場を決めた。最終戦まで地区優勝の可能性を残すも果たせず、第5シードのワイルドカードでプレーオフに進んだ。初戦では南地区優勝のバッカニアーズを破り、プレーオフの勝利は2018年シーズン以来、ロードでのプレーオフの勝利は1992年シーズン以来となった。だがディビジョナルラウンドではフォーティーナイナーズに敗れた。これでカンファレンスチャンピオンシップゲーム不出場は1996年以来27シーズン連続となり、ディビジョナルラウンドは7戦連続で敗退している。 2023年も第15週にプレーオフ出場を決めた。最終週までフィラデルフィア・イーグルスと競ったのちに地区優勝を決め、シード順2位となった。プレーオフ初戦でグレーンベイ・パッカーズに敗れた。 2024年は第9週にプレスコットが負傷して残りシーズンを欠場となるなどし、プレーオフを逃した。シーズン後、HCマッカーシーとチームは新契約で折り合わずに辞任した[18]。後任はOCのブライアン・ショッテンハイマーとなった。 感謝祭ゲームNFLにおけるカウボーイズの特徴のひとつに感謝祭当日に行われる試合がある。感謝祭ゲーム(Thanksgiving Day games)と呼ばれるこの試合は、1966年以降、毎年感謝祭当日にカウボーイズの試合が組まれる、というものである(1975年と1977年など例外もある)。デトロイト・ライオンズはカウボーイズより早い1934年以来、感謝祭ゲームを行っている。なお、両チームによる対戦は、感謝祭ゲームでは行われず、また2006年以降感謝祭当日は、ライオンズ戦、カウボーイズ戦以外のもう1試合の3試合が組まれている。 ロゴおよびユニフォームロゴチームロゴの青い星は「ローンスター・ステート」としてのテキサス州を表しており、プロスポーツのチームロゴで最も知られたものの1つである。当初は枠なしだったが、1964年に白と青の枠が追加され、以降そのままである。チームのイメージング施設や倉庫など他の施設でもこのロゴが使用されている。 オーナーのジェリー・ジョーンズ所有のアリーナフットボールリーグチームのダラス・デスペラーズもこれを基に類似した青い星をロゴにしている。 ユニフォームカウボーイズのヘルメットには銀地にテキサス州の象徴である「ローン・スター」(一つ星)が紺色で描かれている。ユニフォームは基本的に白ジャージを着用するが、これは本来ホームゲームで着用するカラージャージ(カウボーイズの場合は紺)よりも勝率がよいというジンクスからホームゲームでも白を着るようになったことによるもの(NFLではホームチームにユニフォームの色の選択権がある)。これを逆手に取り、対戦相手のチームがカウボーイズをホームに迎える際に自分たちが白ジャージを選び、カウボーイズに紺のカラージャージを着用させるケースが見られる。 文化アメリカズチームカウボーイズは、1970年代に圧倒的な強さを誇ったチームとして、アメリカズチーム(America's Team)というニックネームを持つ。由来は、1978年に公開されたカウボーイズのハイライト映画で、ナレーターによる「彼らはテレビに頻繁に出演するので、彼らの顔は大統領や映画スターと同じくらい一般の人々に親しまれています。 彼らはダラス・カウボーイズ、『アメリカのチーム』です。」という台詞である[19]。この用語は一般のファンのみならず、大手のメディアでも度々使用される。 チアリーダーチーム公式チアリーダーとして、ダラス・カウボーイズ・チアリーダーズ(Dallas Cowboys Cheerleaders、略称:DCC)が活動している。 元々、カウボーイズでは、声援を送る高校生に観客の応援をリードさせていた。1965年まで高校生たちを率いていたディー・ブロックは、地元の高校生のドリルチームでディレクターを務めるフランシス・ロバーソンに会った際、高校生たちにダンスを指導してほしいと依頼した。1971年のテキサス・スタジアムの開場もあり、カウボーイズの社長テックス・シュラムはより洗練されたエンターテイメントチームの創設をブロックに求めた。そして、新たに振付師のテクシー・ウォーターマンを採用し、スタイルと影響力、そして派手な星条旗の衣装をまとい、デビューを果たした。このDCCの誕生が、後にスポーツ界全体のエンターテイメントを変えることになる。チアリーダー結成後、カウボーイズの強さも相まって、DCCの知名度も上昇していく。1975年シーズンの第10回スーパーボウルでは中継を通して7500万人の前でパフォーマンスを行った。のちに、カウボーイズが「アメリカズチーム」と呼ばれたように、その美しさ、スタイル、運動能力、人気から、DCCも「アメリカズ・スウィートハーツ」(America's Sweethearts)と呼ばれるようになる。故にカウボーイズのチアリーダーは本場でも人気が高く毎年世界各国から800人以上がオーディションを受け、倍率は20倍以上になる[20]。 現在では、NFLの行われる秋から冬に留まらず、一年中活動を行っている。日本を含む海外公演も行っており、これまで42か国に跨がる83のUSOツアーを実施している。2018年には、青と白のDCCのユニフォームが、ポップカルチャーの永久的なシンボルとしてスミソニアン博物館の国立アメリカ歴史博物館に展示されることになるなど、NFLのチアリーダーという枠組みを超え、ポップカルチャーとして地位を確立している。試合や公演以外にも、テレビや映画、雑誌など活動範囲は幅広く、バービーとのコラボレーションも行っている。また、社会奉仕活動を第一に掲げていることから、学校、病院、老人ホームの訪問や、青少年ダンスやチアーキャンプの開催も行ってきた。そのほか、救世軍、アメリカがん協会、メイク・ア・ウィッシュ財団、スーザン・G・コーメンなどの非営利団体も支援してきた[21]。 女優のサラ・シャヒが1999年から2000年まで在籍していたほか、日本人では三田智子が1998年と2000年[22]、檀上欣子が2016年、河田侑子が2016年から2019年まで在籍していた。 2025年シーズン
:1度対戦 :2度対戦
2024年シーズン成績
成績NFC東地区(4地区制)
NFC東地区(3地区制)
NFL東カンファレンス・キャピトル地区(1967年-1969年)
NFL東カンファレンス(1961年-1966年)
NFL西カンファレンス(1960年)
主な選手現役選手
永久欠番
プロフットボール殿堂入り
Ring of Honor→詳細は「ダラス・カウボーイズ・リング・オブ・オナー(英語版)」を参照
その他の有名選手
歴代ヘッドコーチ
応援歌1961年から1990年半ば頃まで、ダラス・カウボーイズの公式応援歌はトム・メリマン・ビッグバンドの楽曲「"Cowboys Stampede March"」であり、テキサス・スタジアムで流されていた[23]。 DJのジョージ・ギマークによると、チームのゼネラルマネージャーであったテックス・シュラムの私物のレコードにあったもので、チーム創立直後からチームに合う曲を探していた。最終的に1960年代からこの曲が流されるようになった[24]。 近年ではウィズ・カリファの楽曲「"We Dem Boyz"」に「"How Bout Dem Cowboys"(カウボーイズはどうだ)」という文言が含まれることから守備冒頭に流されている。ホームゲームでチームがタッチダウンを決めるごとに汽笛の後にバーニング・オブ・ローマの楽曲「"Cowboys and Cut Cigars"」が流される[25][26]。 脚注
関連項目
外部リンク
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