源 雅実(みなもと の まさざね)は、平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源顕房の長男。官位は従一位・太政大臣。堀河天皇の外叔父。久我家の祖。
源氏初の太政大臣まで昇進したほか、舞楽や文学に長じた文化人としても名を残す。
経歴
治暦2年(1066年)に童殿上[1]を許され、翌治暦3年(1067年)10月に後冷泉天皇の御前で『胡飲酒』を舞い、御衣を賜ったことは後年長く語り伝えられた。
治暦4年(1068年)従五位下に叙爵し、治暦5年(1069年)侍従に任官する。延久4年(1072年)右近衛少将に任ぜられると、延久5年(1073年)従五位上次いで正五位下に叙せられる。延久6年(1074年)には実姉で白河天皇の中宮となった藤原賢子の中宮権亮を兼ねる一方で、三度の昇叙により正四位下になるとともに右近衛中将に昇任されるなど急速に昇進する。承保2年(1075年)蔵人頭兼左近衛中将を経て、承暦元年(1077年)従三位・参議に叙任されるなど、弱冠19歳と父顕房より速い昇進スピードで公卿に列した。
議政官として引き続き近衛中将を兼ねる一方で、承暦3年(1079年)正三位次いで従二位と昇叙され、永保2年(1083年)権中納言に昇任し、侍従を兼ねる。応徳2年(1085年)正二位を経て、応徳3年(1086年)外甥の善仁親王の即位(堀河天皇)に前後して、上﨟の中納言5名(藤原祐家・藤原基長・藤原宗俊・藤原伊房・源俊明)を超えて権大納言に任ぜられる。権大納言を務める傍らで、堀河天皇の准母である中宮・媞子内親王の中宮大夫を務めたほか、寛治7年(1093年)には父の顕房から譲られた右近衛大将も兼ねるが、親子で近衛大将を引き継いだことについては、藤原師通[2]や中御門宗忠[3]らから批判を受けている。
康和2年(1100年)上﨟の大納言2名(源師忠・源俊明)を超えて内大臣に任ぜられ、祖父の源師房以来三代続けて大臣に就任する。永久3年(1115年)右大臣を経て、保安3年(1122年)太政大臣に昇った。これは源氏の太政大臣補任の初例である。
天治元年(1124年)7月7日病気のため出家して法名を蓮覚とした。大治2年(1127年)2月15日薨御。享年69。同年2月17日に遺体は久我(山城国乙訓郡)の山荘に移され、2月23日に久我の西辺に葬られた。
人物
学才はあまりなかったが、白河天皇が寵愛した中宮・藤原賢子の同母弟、堀河天皇の外叔父として朝廷で重きをなし、当時治天の君として朝廷の権力を掌握していた白河院や、関白・藤原忠実にも憚ることがなかった。父の顕房がわがままな性格で道に外れたことした際でも、雅実が参上すると、これをやめたという(『今鏡』)[4]。雅実が薨去した際、同時代の人は「現世の昇進すでに万人を超え、入滅の時釈尊と同日なり、誠に是れ現当二世相叶ふ人か」(『中右記』)[5]などと評していることからも、当時の雅実の名声の高さが窺える。
舞楽に優れ、秘曲『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が変死したとき、堀河天皇が『胡飲酒』を伝受していた雅実に命じて、資忠の子の忠方に伝えさせた逸話は各種の説話集[6]や楽書[7]に記されている。日記に『久我相国記』がある。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
系譜
脚注
- ^ 貴族の子弟が殿上で見習いの奉仕をすること。
- ^ 『後二条師通記』寛治7年11月12日条
- ^ 『中右記』寛治7年11月20日条
- ^ 『今鏡』村上の源氏 第七 紫のゆかり
- ^ 『中右記』大治2年2月15日条
- ^ 『古事談』『続古事談』『古今著聞集』
- ^ 『教訓抄』『体源抄』『雑秘別録』
- ^ 『近衛府補任』
- ^ 『殿暦』(永久5年(1117年)12月20日条)による。
- ^ 『源礼記』による。
参考文献
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皇親太政大臣 |
白鳳時代 | |
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奈良時代 |
- 舎人親王(知太政官事)720-735
- 鈴鹿王(知太政官事)737-745
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人臣太政大臣 |
奈良時代 | |
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