この項目では、日本 の内閣 制度について説明しています。
歴代の日本の内閣の一覧については「日本国歴代内閣 」をご覧ください。
現在(令和6年10月1日 - )の日本の内閣については「石破内閣 」をご覧ください。
内閣 (ないかく、英語 : Cabinet [ 1] )は、日本 の行政府 の最高機関。首長 たる内閣総理大臣 及びその他の国務大臣 で組織される合議制 の機関である(日本国憲法第66条 第1項)。
内政では法律 を執行して国務を総理し、公務員 事務を掌握し、予算 案を国会 に提出し、政令 の制定や恩赦 の決定等を行う。外交では外交権 を行使し、条約 を締結する(憲法第73条 )。
地位
内閣の位置付けについては、日本国憲法第5章 が規定している。
大日本帝国憲法 は、天皇 を国家元首 としていたが、現行の日本国憲法には元首に関する規定はなく、内閣(または首相 )を元首とする説など諸説がある[ 2] 。
学説 の大多数は、条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣、もしくは行政権の首長 として内閣を代表する内閣総理大臣 を元首としている[ 3] 。
構成
総理の演台などにとりつけられる「内閣総理大臣紋章」のプレート。
内閣は、内閣総理大臣 及びその他の国務大臣 から組織される(日本国憲法第66条 1項、内閣法 2条1項)。
内閣総理大臣
内閣総理大臣は、国会議員 の中から国会 の議決を経て指名 され、天皇 が任命する(日本国憲法第67条 、日本国憲法第6条 1項)。
国務大臣
国務大臣は、内閣総理大臣が任命して、天皇が認証する(日本国憲法第68条 1項、日本国憲法第7条 5号)。国務大臣として任命された者は、内閣総理大臣から具体的な担当事務について補職辞令がなされる(例:外務大臣 を命ずる)。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選任しなければならない(日本国憲法第68条 1項)。
また、内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる(日本国憲法第68条 2項)。国務大臣の数は、14人以内 とされている(内閣法2条2項)。ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、17人以内とすることができる(同条項ただし書き)。
なお、内閣法附則2項の規定により、国際博覧会 推進本部が置かれている間は内閣法2条2項の「14人」は「15人」、「17人」は「18人」となり、同3項の規定により東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部 が置かれている間は2項の規定に関わらず内閣法2条2項の「14人」は「16人」、「17人」は「19人」となり、同4項により復興庁 が廃止されるまでの間は2項・3項の規定に関わらず内閣法2条2項の「14人」は「17人」、「17人」は「20人」となるため、期間によって国務大臣の数が増員されることがある。
国務大臣をもってあてられる職は、内閣法 、国家行政組織法 、その他個別の法律 によるため、中央省庁 の長であるからといって国務大臣であるとは限らない(例:金融庁長官 、宮内庁長官 、公正取引委員会委員長 などは国務大臣ではない)。逆に、内閣府特命担当大臣 ・担当大臣 のようなスタッフ的な閣僚も存在し、無任所大臣 を設置することも認められている。
組閣の手続
内閣総理大臣官邸
内閣を組織する(組閣 )には以下の手順が踏まれる。
国会 (下院:衆議院 、上院:参議院 )が、日本の国会議員 (衆議院議員及び参議院議員)の中から新たな内閣総理大臣 を指名する(内閣総理大臣指名選挙 。首班指名とも呼ばれる)。
天皇 が内閣総理大臣を任命する(親任式 )。明治憲法・内閣官制下では大命降下 があったが、現憲法下では国会の指名に基づく国事行為 である。
内閣総理大臣が国務大臣を任命する。
天皇が国務大臣の任命を認証する(認証官任命式 )。これにより内閣が完成する。
内閣総理大臣が国務大臣 の職を指定する(補職辞令。例:法務大臣 を命ずる)。
一般には組閣本部における人事選考は内閣総理大臣の任命前に行われる。つまり次期首相となる者は国会の指名を受けた者という資格において組閣の準備に取りかかることが一般的となっている[ 4] 。
内閣総理大臣の任命によって従前の内閣はその地位を完全に失うことになるが(日本国憲法第71条 )[ 5] 、内閣は合議体であることを本質とすることから内閣総理大臣が一人で内閣を構成している状態 は望ましくはなく、内閣総理大臣の任命の時期から他の国務大臣の任命・内閣の成立までは極めて短い期間であることが憲法上期待されていると解されるためである[ 4] [ 5] 。
実際には内閣総理大臣や内閣総理大臣周辺 などから入閣予定者に対して、組閣当日は待機するように事前連絡があり、首班指名の後、内閣総理大臣官邸 に組閣本部が設置されると、順次官邸に来るよう呼び出しの電話があることが多い。その後、与党 による閣僚名簿の了承や、親任式・認証官任命式が併せて行われる。
権限
日本国憲法第73条
内閣制度創始100周年記念500円白銅貨幣(記念貨幣 ) 表 (左) は旧総理大臣官邸、裏は内閣公印の意匠
法律の執行、国務の総理(憲法第73条1号)
外交 関係の処理(憲法第73条2号)
条約 の締結(憲法第73条3号)
条約の締結は内閣の職務であるが、その成立、発効には国会の承認が必要とされる。承認は事前が原則であるが、事後であってもよい。
官吏(公務員 )に関する事務の掌理(憲法第73条4号)
予算 の作成と国会への提出(憲法第73条5号)
政令 の制定(憲法第73条6号)
大赦 、特赦 、減刑 、刑の執行免除、復権 の決定(憲法第73条7号)
他の一般行政事務(憲法第73条 柱書)
憲法第73条以外
閣議
ウィキソースに
閣議決定 に関するカテゴリがあります。
内閣がその職権を行使するのは、閣議 によるものとされている(内閣法 4条1項)。閣議は、内閣総理大臣が主宰し(同条2項)、内閣総理大臣はこの場において、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することもできる(同条)。また、各国務大臣は、案件の如何を問わず、内閣総理大臣に提出して、閣議を求めることができる(同条3項)。
内閣制度発足以来、閣議の議事録は作成されてこなかったが、2014年4月1日から議事録が作成され一部を除き公開されることとなった[ 6] 。
内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する(内閣法6条)。主任の大臣の間における権限についての疑義は、内閣総理大臣が、閣議にかけて裁定する(同法7条)。
法案の提出
国会で成立する法案の大半は閣法(内閣提出法律案、政府提出法案)であり、関係省庁がいわゆる「タコ部屋」と呼ばれる準備室を設置し、法案を作成する。
日本国憲法には内閣による法律の発案権について大日本帝国憲法第38条 相当の規定がないため、学説上の対立が生じた[ 7] 。政府は日本国憲法第72条「内閣総理大臣の議案提出権」を根拠として法律発案権を認め、内閣法第5条を規定した[ 7] 。この解釈は通説 の支持を得ているが、有力な異論も存在する[ 7] 。
歴代内閣の呼称
内閣制度発足時から内閣は内閣総理大臣の氏名をもとに◯◯内閣 と称されている(例:福田康夫内閣 、麻生内閣 )。前職(あるいは元職)の内閣総理大臣が改めて内閣総理大臣に就任して組閣した場合には就任回数を追って第◯次◯◯内閣 と称する(例:第2次安倍内閣 )。
また、一般に内閣総理大臣はそのままに内閣改造が行われた場合には改造内閣 と称して区別される(例:三木改造内閣 )。2回以上内閣改造が行われた場合には第◯次改造内閣という(例:第2次池田第2次改造内閣 )。
内閣に置かれる機関
狭義の内閣の概念は「大臣の合議体」であるが、内閣には、内閣の事務を補助するために、いわゆる内閣補助部局が設置されている[ 8] 。
内閣法 に基づき内閣官房 が設置されているほか、法律に基づき必要な機関を設置できることとなっている。内閣府 、デジタル庁 、内閣法制局 、国家安全保障会議 が各設置法に基づき内閣に設置されているほか、いくつかの本部や会議が法律に基づき内閣に設置されている。
復興庁 についても、東日本大震災 からの復興を目的として、復興庁設置法 に基づき時限的に内閣に設置されている。これらの機関は、国家行政組織法 における国の行政機関ではないものの、行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律 などで行政機関 と定義されている。
このほか、人事院 は、国家公務員法 に基づき「内閣の所轄の下」に置かれている。なお、各省は、国家行政組織法に基づき内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関として設置されるものであり、前述の内閣に設置される機関とは位置付けが異なる[ 8] 。
一覧
2024年6月1日現在、法律に基づき内閣に設置されている機関は、下記のとおりである。
廃止された機関
日本国憲法 および内閣法施行前は、企画院 、興亜院 、情報局 といった、いわゆる内閣直属の機関がいくつか設置されていた。
内閣法の下、法律に基づき内閣に設置された機関のうち、廃止された機関は下記のとおりである[ 注釈 1] 。
一覧
組織図
2024年6月1日現在の日本の行政機関の組織図である。
内閣制度の変遷
太政官制から内閣制へ
明治維新 後、古代の律令制 を参考にして新たに設置された太政官 を国政の最高機関とした太政官制 がとられた。この期間の政府組織は、幾度も大きな改正が行われ、制度の模索が続いた。1873年(明治6年)の官制改革では、太政官 正院 に置かれた太政大臣 と参議 から構成される合議体である「内閣」が国政全般にわたる意思決定機関とされた(太政官内閣制)。また、参議と各省大臣にあたる省卿が分離しているという問題に対しては、明治六年政変 後に参議省卿兼任制を採用することで解決を図った。これらの改革は天皇に対する輔弼と執行の一体化を指向するもので、後の内閣制度につながるものであった。
1881年 (明治 14年)10月12日 、明治天皇 が出した「国会開設の詔 」の中で、1890年 (明治23年)を期して「國會」(議会 )の開設を目指すと表明した。政府の中心で立憲主義 体制の整備を図っていた伊藤博文 らは、太政官制に替わる新たな政府機構の策定に取り組んだ。しかし、伊藤が構想した省卿からなる内閣を組織することは実現せず、参事院 が置かれた[ 9] 。
太政官達第69号と内閣職権
日本の内閣の印
1885年 (明治18年)12月22日 に、「太政官達 第69号」が発せられ、太政官制 を廃止して内閣総理大臣 と各省大臣 による内閣制が定められ、ここに内閣制度が始まった。内閣書記官長 (現在の内閣官房長官 )は、太政官内閣制の時期に非常設の官職として設置され、内閣制発足後も引き続き置かれた。
同日「内閣職権 」が制定され、内閣 の組織に宮内大臣 は含まれなかった。この結果「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」との区別が明確にされた。
初代の内閣総理大臣 には、長州藩 出身で参議 であった伊藤博文 が就任し、初代内閣である第1次伊藤内閣 が成立した。内閣総理大臣は、1871年 (明治4年)以来三条実美 が務めてきた太政大臣 とは異なり、公卿 が就任するという慣例も適用されず、いかなる身分の出自の者であっても国政のトップを務めることが可能な点で、明治維新 における一つの成果の完成をあらわしていた[ 10] 。内閣制度はまた、各省大臣の権限を強大にし、諸省に割拠して力をつけつつあった専門的な官僚 をコントロールできる、大臣レベルの指導者層の主導権を確立する上で大きな役割を担った[ 10] 。
内閣官制
1889年 (明治22年)2月11日に大日本帝国憲法 (明治憲法)が発布され、同年12月24日には、「内閣職権 」を改定する形で「内閣官制 」が制定された。
明治憲法には内閣総理大臣 や内閣に関する記述はなく、国務大臣 について規定されているのみ だった。同憲法第4章第55条には「国務各大臣ハ天皇 ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」、同条第2項には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」と記述されていた。同憲法下での内閣総理大臣や内閣は「内閣官制」を法的根拠として存在した。また明治憲法第4章第56条には「樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス」と天皇が国務(国政)を枢密院 へ諮問することが記述されていたため、国政の意思決定機関は「枢密院 」であり、内閣はその認可をもって国政を遂行する機関として位置付けられていた。ただ、内閣を構成する各国務大臣は枢密院の顧問官の議席を有し表決に参加することが出来たため、全く別々の意思決定組織という形でもなかった。
法律上は、内閣総理大臣や国務大臣は帝国議会 (下院:衆議院 、上院:貴族院 )に対して直接責任を負うことはなかった 。また、内閣官制下の内閣の権限は内閣職権下の内閣よりも弱小化されており 、内閣総理大臣は 「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(第2条)とのみ定められ、具体的な権限などは定められなかった 。そのため、内閣総理大臣は、 内閣の中で「同輩中の首席(Primus inter pares) (英語版 ) 」としての地位を占めるに過ぎず、他の国務大臣罷免の権限がないため 、いわゆる「閣内不統一」は直ちに内閣総辞職 に結びついた 。憲法上は各国務大臣はそれぞれ自身の任務について天皇に助言を行い、天皇が最終的に行政権を行うという建前であった[ 12] 。
1907年 (明治40年)には内閣官制が一部改正され、内閣総理大臣が閣令 を制定する権限を定め 、従来の国務大臣の単独副署 を無くし、全ての勅令 に内閣総理大臣との連署 を定めるなど、行政府の長たる内閣総理大臣の権限強化が図られた 。
内閣総理大臣は、天皇が任命したが(大命降下 )、具体的な人選は天皇の諮問を受ける元老 や重臣会議 など憲法外の機関・人物の合議による場合が多かった。大正時代 から昭和時代 初期(いわゆる「大正デモクラシー 」期)には、帝国議会 下院の衆議院 で最多議席を占める第一党の政党党首が内閣総理大臣に就任する「憲政の常道 」と呼ばれる慣例が確立し、政党内閣 時代とも呼ばれるが、元老が衆議院議員総選挙 の結果を参照した結果、第一党党首を推挙したという形式は守られた 。
また、組閣は、内閣総理大臣が国務大臣の候補を自由に人選し、天皇が任命することとなっていたが、明治の一時期と昭和初期から第二次世界大戦終戦 までの間、軍部大臣(陸軍大臣 及び海軍大臣 )については現役の大将・中将をもって充てるという「軍部大臣現役武官制 」が採用されていた。武官の階級や現役・退役・予備役 の別は、軍部が独自に決めることとなっていたため、結局、軍部が推薦する人物を軍部大臣に充てるほかなく、内閣総理大臣の人選の範囲は限定されることになった。さらに、内閣が軍部の意に沿わない決定などを行った場合には、軍部大臣を退却させて代替の人物を送らず、ひいては内閣総辞職に至らせることも出来るため、軍部の意向が政権に与える影響は大きかった。
この他にも、大日本帝国陸軍 ・大日本帝国海軍 は、軍政の面では国務大臣の下にあったものの、軍令の面では大元帥でもある天皇に専属する「統帥権 」(明治憲法第11条)を直接補佐することとされ、軍部大臣や参謀総長 (陸軍:参謀本部 )・軍令部総長 (海軍:軍令部 )などには帷幄上奏 の権限も与えられたため、陸軍省 および海軍省 を有する内閣は事実上、軍事に関する政策に関わることは難しかった。
なお、日本国憲法下の現在の防衛大臣 (旧:防衛庁長官)については、自衛隊 (陸上 ・海上 ・航空 )の服務経験者(他国における退役軍人 )は可能ではあっても、幹部クラス含む現役の自衛官 ないし自衛隊員 が就任することはなく、他の大臣と同様、日本国憲法第66条 の規定により、文民統制 (シビリアンコントロール)の観点から文民 が任命されている。
日本国憲法と内閣法
1947年 (昭和22年)に日本国憲法 が施行され、第5章 に「内閣」の規定を置き、「行政権は、内閣に属する。 」(65条 )と定めた。
内閣は、内閣総理大臣及びその他の国務大臣から組織 され(66条1項 )、行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う とされるなど(同条3項 )、名実共に国の行政の中心的機関に位置づけられた 。
また、内閣総理大臣 (首相)は、国会議員 (衆議院議員及び参議院議員)の中から国会 (下院の衆議院 及び上院の参議院 、旧:貴族院 )の議決で指名し、天皇 が任命すると定め(67条 、6条1項 )、議院内閣制 を採ることが明確にされた。
国務大臣は内閣総理大臣が任免して天皇が認証すると定め(68条 、7条5号 )、内閣総理大臣の行政各部に対する指揮監督権を定めるなど(72条 )、内閣官制を廃止して新たに制定された内閣法 とともに、内閣総理大臣を内閣の「首長」として (66条1項 )、内閣と内閣総理大臣の権限強化 が図られ、内閣総理大臣に強い権限 が与えられた。
脚注
注釈
^ なお、人事院の前身の臨時人事委員会は、「内閣の所轄の下」ではなく「内閣総理大臣の所轄の下」に置かれていた。また、内閣府の前身の総理府 は、内閣府と異なり、各省と同様に国家行政組織法に基づき設置されていた。
^ 陸上幕僚監部 、陸上自衛隊の部隊及び機関
^ 海上幕僚監部 、海上自衛隊の部隊及び機関
^ 航空幕僚監部 、航空自衛隊の部隊及び機関
^ ただし、宮内大臣は内閣の組織に含まれない 。
出典
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
内閣 (日本) に関連するカテゴリがあります。
発足・組織・形態
運営・法律
歴史
その他
外部リンク
名前は内閣総理大臣 、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣 、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。 カテゴリ