村山内閣(むらやまないかく)は、村山富市が第81代内閣総理大臣に任命され、1994年(平成6年)6月30日から1995年(平成7年)8月8日まで続いた日本の内閣。
自社さ連立政権最初の内閣である。
内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣
1994年(平成6年)6月30日任命。
所属政党・出身
日本社会党 自由民主党 新党さきがけ 民間人
内閣官房副長官・内閣法制局長官
政務次官
1994年(平成6年)7月1日任命。
内閣の動き
1994年(平成6年)6月、羽田孜を首班とする羽田内閣が少数与党内閣となって総辞職した後、政権復帰を目指した自由民主党(総裁:河野洋平)は、日本社会党(委員長:村山富市)・新党さきがけ(代表:武村正義)と連立政権を組むことに合意した(自社さ連立政権)。そこで、社会党の村山を内閣総理大臣として成立したのが、村山内閣である。1947年(昭和22年)5月から1948年(昭和23年)3月まで続いた片山哲を首班とする片山内閣以来、46年ぶりの社会党委員長を首班とする内閣である。
この時の内閣総理大臣指名選挙では、自社さ連立政権樹立に反発した元首相の海部俊樹が離党する動きを見せ、同じく反自社さ連立派であった津島雄二の働きもあり、羽田の後継として新生党・公明党・民社党・日本新党など旧連立与党の首班候補として擁立される事となった。旧連立与党側は自民党内の保守派や社会党内の分断を図り、勝算を見出そうとしたが、自民党からは元首相の中曽根康弘・宇野宗佑や二階堂進・山中貞則・渡辺美智雄などのベテランを含めた保守派議員の造反(棄権も含む)が見られたものの、社会党内は有力な支持団体の自治労が村山首班擁立を支持したことなどもあり、旧連立与党側が期待した中道・右派グループの「デモクラッツ」などの造反の動きも見られず、多くが村山に投票した。最終的に衆議院では村山と海部の決選投票となったが、自由民主党・日本社会党・新党さきがけの大半の議員が村山に投票したことで、村山富市261票対海部俊樹214票で、村山が旧連立与党側が推した海部を破り、衆議院で内閣総理大臣に指名された。参議院でも造反者は出たものの、第1回の投票で決着し、村山が参議院でも内閣総理大臣に指名された。
- 内閣総理大臣指名選挙(衆議院)
出典:第129回 衆議院 本会議 第32号 平成6年6月29日 - 国会会議録検索システム
凡例:※は決選投票では村山富市に投票。▲は直後に自民党離党、会派「高志会」を結成。■は社会党除名。
参考:楢崎弥之助は社会党会派所属の無所属議員。
- 内閣総理大臣指名選挙(参議院)
出典:第129回 参議院 本会議 第26号 平成6年6月29日 - 国会会議録検索システム
閣僚人事では副総理兼外務大臣に河野、大蔵大臣に武村が就いたほか、村山を支える内閣官房長官には社会党から五十嵐広三が就任[1]。村山の側近だった社会党の野坂浩賢は建設大臣に起用された[1]。自民党からは橋本龍太郎が通商産業大臣に就いたほか、野中広務が自治大臣、亀井静香が運輸大臣に抜擢された[1]。
この「自社さ」の枠組は、第2次橋本改造内閣が終了する1998年(平成10年)半ばまで引き継がれる。
日本史に残る村山政権下で発生した事件や災害としては次の3つが挙げられる。
- 阪神・淡路大震災【兵庫県南部地震】の発生:1995年(平成7年)1月17日
- 1995年(平成7年)3月20日に発生した地下鉄サリン事件を始めとするオウム真理教による一連の事件発覚【詳細はオウム真理教事件を参照】
- 1995年(平成7年)6月21日、日本で初めて強行突入が実施された函館ハイジャック事件【詳細は全日空857便ハイジャック事件を参照】
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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羽田内閣 |
村山内閣 平成6年(1994年)6月30日 ‐ 平成7年(1995年)8月8日 |
村山改造内閣 |
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名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。 カテゴリ |