花山院 通雅(かさんのいん みちまさ、旧字体:花󠄁山院 通󠄁雅󠄂)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。右大臣・花山院定雅の長男。官位は従一位・太政大臣。後花山院太政大臣と号す。花山院家7代当主。
経歴
貞永2年(1233年)従五位下に叙爵。文暦2年12月(1236年1月)に従五位上・侍従に叙任され、嘉禎3年(1237年)には従四位下、次いで従四位上に叙せられた。
延応2年12月(1241年1月)正四位下に昇叙。仁治4年(1243年)12歳にして元服し、左近衛権中将に任ぜられる。寛元5年(1247年)に従三位に叙せられて公卿に列し、宝治2年(1248年)越前権守を兼ねた。建長2年(1250年)正三位・参議に叙任。建長3年(1251年)権中納言に任ぜられ、帯剣を聴された。康元2年(1257年)には正二位・権大納言に昇進する。
弘長2年(1262年)に右近衛大将・右馬寮御監を兼帯する。文永5年12月(1269年1月)に内大臣に任ぜられ、文永6年(1269年)にはさらに右大臣を拝命する。文永8年(1271年)に上表して右大臣を辞任するが、建治元年(1275年)に従一位・太政大臣に叙任されて還任した。翌建治2年(1276年)3月に病のため太政大臣を辞退。同年4月に出家(法名空理)し、5月4日に45歳で薨御。
宝治2年(1248年)に後嵯峨天皇の宇治御幸の顚末を記した『宇治御幸記』を著している。
官歴
※以下、『諸家傳』の記載に従う。
- 貞永2年(1233年)正月5日:従五位下に叙す。
- 文暦2年12月21日(1236年1月30日):従五位上に叙し、侍従に任ず。
- 嘉禎3年(1237年)2月11日:従四位下に叙す。12月-日:従四位上に叙す。
- 延応2年12月2日(1241年1月15日):正四位下に叙す。
- 仁治4年(1243年)
- 4月3日:元服し、禁色を聴す。
- 12月5日(1244年1月16日):左近衛権中将に任ず。
- 寛元5年(1247年)正月5日:従三位に叙す。中將如元。
- 宝治2年(1248年)正月23日:越前権守を兼ぬ。
- 建長2年(1250年)
- 5月17日:参議に任ず。
- 5月20日:正三位に叙し、左近衛権中将に任ず。
- 12月24日(1251年1月17日):右近衛権中将に転ず。
- 建長3年(1251年)正月22日:権中納言に任ず。2月13日:帯剣を聴す。
- -年-月-日:従二位に叙す。
- 康元2年(1257年)
- 正月-日:正二位に叙す。
- 11月26日(1258年1月2日):権大納言に任ず。
- 弘長2年(1262年)7月16日:右近衛大将を兼ぬ。7月28日:右馬寮御監とす。
- 文永元年12月29日(1265年1月17日):服解(母)。
- 文永2年(1265年)3月9日:復任。
- 文永5年(1268年)
- 11月9日:内大臣兼宣旨を蒙る。
- 12月2日(1269年1月6日):内大臣に任ず。大將如元。
- 文永6年(1269年)正月19日:右近衛大将を辞す。4月23日:右大臣に任ず。
- 文永8年(1271年)3月10日:上表。右大臣を辞す。
- 建治元年(1275年)8月27日:従一位に叙し、太政大臣に任ず。
- 建治2年(1276年)3月29日:所労により辞任す。4月30日:出家。5月4日:薨御。享年45。
系譜
参考文献
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皇親太政大臣 |
白鳳時代 | |
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奈良時代 |
- 舎人親王(知太政官事)720-735
- 鈴鹿王(知太政官事)737-745
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人臣太政大臣 |
奈良時代 | |
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平安時代 | |
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鎌倉時代 | |
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南北朝時代 |
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室町時代 | |
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戦国時代 | |
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安土桃山時代 | |
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江戸時代 | |
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明治時代 | |
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