穂積親王(ほづみしんのう)は、天武天皇の第五皇子[1]。文武天皇末から元明天皇朝を通じての知太政官事。
経歴
前半生は不明な点が多い。持統朝までは持統天皇5年(691年)に封500戸を与えられた(このときの冠位は浄広弐)こと以外、詳細な事跡は不明である。また『万葉集』に基づき、藤原氏の血を引く但馬皇女(藤原不比等の姪。一説では高市皇子妃)との密通が露顕し、一時左遷されていたとの推測もある。
文武朝に入り、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて三品となる。大宝2年(702年)12月の持統上皇の死去に際して作殯宮司を、翌大宝3年(703年)10月の葬儀では御装長官を務めている。
慶雲2年(705年)5月に異母兄・忍壁親王が死去すると[2]、同年9月にその後任として知太政官事に任ぜられる。文武朝末から元明朝を通じて太政官の統括者となり、左大臣・石上麻呂、右大臣・藤原不比等とともに政権を支えた。和銅8年(715年)正月に一品に叙せられるが、母の大蕤娘に先立って同年7月27日に死去。享年は40代前半と推定される。最終官位は知太政官事一品。
群馬県にある多胡碑には、和銅4年(711年)3月9日の日付とともに「太政官二品穂積親王」と名前が刻まれている。また、穂積親王を高松塚古墳の被葬者とする説もある。
和歌
『万葉集』に4首の歌が残っている。以下に挙げる、そのうちの1首は和銅元年(708年)の但馬皇女薨去を悼んで読んだ歌。
- 降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに
次の1首は後年になって酒宴の席で過去の出来事を思い出して詠んだ歌。
- 家にありし櫃に鑠さし蔵めてし 恋の奴のつかみかかりて
官歴
『六国史』による。
系譜
脚注
- ^ 『続日本紀』霊亀元年7月27日条
- ^ 『続日本紀』慶雲2年5月7日条
- ^ 『万葉集』巻16-3833
- ^ 『万葉集』巻4-694
参考文献
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皇親太政大臣 |
白鳳時代 | |
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奈良時代 |
- 舎人親王(知太政官事)720-735
- 鈴鹿王(知太政官事)737-745
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人臣太政大臣 |
奈良時代 | |
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