藤原 兼雅(ふじわら の かねまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。花山院太政大臣・藤原忠雅の長男。官位は従一位・左大臣。後花山院左大臣と号す。花山院家4代。
経歴
人物
父・忠雅の後を継ぎ中央官界に進出、平清盛の娘を室として、平氏政権下において順調に昇進を重ねる。このため寿永2年(1183年)には源義仲によって一旦官職を追われるが、後白河法皇の信任を背景に文治3年(1187年)に元の地位である大納言に復帰、以後正治2年(1200年)に左大臣に至るまで昇進を重ねた。
激動期の宮廷にあって最終的に地位を全うしたことで、後世における花山院家の発展の基礎を築いた。和歌、今様に通じた才人でもあった。
系譜
脚注
- ^ 待賢門院璋子の御給による。
- ^ この時、上臈の頭中将藤原家通を超越して叙せられた。
- ^ 前年に春宮大夫を止められた時に恐懼に処せられていたことによる。
- ^ 子・家経を参議に申任するためという。
- ^ 『系図纂要』
参考文献