『明史』(みんし、拼音: Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から構成される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。
1645年(順治2年)5月、馮銓を総裁として明史を編纂するために明史館が設置された。馮銓らは史料収集に着手したが、天啓年間の実録の一部及び崇禎年間の実録が散逸していたため、1648年(順治5年)9月には各役所に対し同時代の檔案(公文書)を礼部に送るように命じた。それでも史料が不足していたため、1651年(順治8年)閏2月には民間の邸報(明代の官報のようなもの)の高価買取を行い、史料の補遺に努めた。実録は最終的に入手できなかったため、1655年(順治12年)2月には学問担当の役人に邸報や民間で記した歴史書を購入させ、その収集成績を勤務評価に反映させたが、各役所も史料収集に注力しておらず、編年体の草稿が完成したのみで明史編纂業務は中断された。その後、1665年(康熙4年)10月に明史館の業務が再開されたが、顕著な成果を見ることなく再度中断されている。
1679年(康熙18年)、本格的に明史編纂事業の再開が決定すると、紫禁城の東華門外に明史館を設置、監修に内閣大学士である徐元文、総裁に翰林院掌院学士葉方藹と右庶子張玉書が任じられ、編纂員には前年に実施された臨時の博学鴻詞の科(試験)合格者50人があてられた。編纂過程では康熙帝自らも草稿を閲覧後、正確公正な後世に伝えられる内容にすることを命じている。康熙帝は明史の完成を重視していたが、史料不足や内容の正確性も重視したため、編纂事業は遅々としたものであった。1717年(康熙56年)8月4日に「いまだに記されていないことが多い。公式の記録がないため誤りが非常に多い。そのため、大臣は編纂を急がせようとしているがそれは無理である。急いで編纂する必要はない」、64歳となり自身の存命中の明史完成が困難なことを悟っている康熙帝は、正確性の重視を再度命じている。康熙帝の崩御はその5年後、明史全巻が完成したのは1735年(雍正13年)12月、全巻が印刷されたのは1739年(乾隆4年)7月であった。明史館が初めて置かれてから90年以上、康熙帝の先の発言からも20年以上の月日が経っていた。
明史の資料的価値は康熙帝が望んだとおり現在でも高い評価を得ている。清代には趙翼が「遼史は簡略であり、宋史は雑で量が多い、元史はぞんざいであり、金史のみ優雅さや簡潔さがありやや見るべきところがあるが、明史には及ばない」と述べている。また、趙翼の友人であった銭大昕も「公平であり、よく考えられ大事な点は詳細に述べてあり、いまだこれほどの正史はない」と評価している。