李 瑾(り きん、生年不詳 - 弘治2年3月5日[1](1489年4月5日))は、明代の軍人。本貫は和州。
生涯
李隆の子として生まれた。正統14年(1449年)に兄の李珍が土木の変で死去すると、景泰元年(1450年)6月に後を嗣いで襄城伯に封じられた[2]。成化3年(1467年)、四川の都掌の少数民族が反乱を起こすと、李瑾は征夷将軍の号を受け、総兵官としてその鎮圧にあたった。軍が永寧に到着すると、李瑾は軍を六路に分けて進めた。李瑾は程信とともに各部隊を統制し、反乱側の寨を全て撃破した。前後して4500人あまりを斬首し、多数の武器や家畜を鹵獲した。都掌の地を分割して、官治を建設して支配した。
成化4年(1468年)、凱旋すると、侯位に進んだ。成化22年(1486年)10月、太保の位を加えられた[2]。
弘治2年3月癸亥(1489年4月5日)、死去した。芮国公に追封された。諡は壮武といった。
李瑾は兄の李璉の子の李鄌を養子としていた。李瑾が死去すると、実子の李黼が襄城伯を嗣いだが、李黼が弘治11年(1498年)に死去すると、李鄌が後を嗣いだ。
脚注
- ^ 『明孝宗実録』巻24 弘治二年三月癸亥条による。
- ^ a b 『明史』功臣世表二
参考文献