李 至剛(り しごう、1358年 - 1427年)は、明代の官僚。名は銅[1]、字は至剛で、字をもって通称された。号は敬斎。本貫は松江府華亭県。
生涯
李塾と沈氏のあいだの子として生まれた。1388年(洪武21年)、明経に挙げられた。懿文太子朱標の近侍に選ばれ、礼部郎中に任じられた。罪に問われて一兵士として重ねて辺境に流された。ほどなく南京に召還され、工部郎中となり、河南右参議に転じた。開封府の堤防で黄河が決壊すると、至剛は王府に木材を借りて筏を作りこれを修築するよう提案した。建文年間、湖広左参議となったが、事件に連座して獄に繋がれた。
1402年(建文4年)、永楽帝が即位すると、帝の側近にその才能を称賛され、至剛は右通政となった。『太祖実録』の編纂に参加し、朝夕に帝の側近にあって、洪武年間の出来事を語り聞かせて、帝に信頼されるようになった。12月、礼部尚書に進んだ。1404年(永楽2年)、朱高熾が皇太子に立てられると、至剛は左春坊大学士を兼ね、東宮に宿直して解縉とともに経学を進講した。1405年(永楽3年)、再び事件に連座して獄に下された。1408年(永楽6年)に釈放されたが、礼部郎中に降格された。解縉を恨み、かれを中傷した。解縉は交趾に流された。1411年(永楽9年)、解縉が獄に下ると、至剛も連座してまた10年あまり獄に繋がれた。
1424年(永楽22年)、洪熙帝(朱高熾)が即位すると、至剛は釈放され、左通政として起用された。給事中の梁盛らに弾劾されたが、洪熙帝に先朝の旧功を酌量されて、興化府知府として出向した。1427年(宣徳2年)7月4日、在官のまま死去した。享年は70。
子女
- 李瀛
- 李源
- 李氏(盛衍にとついだ)
- 李氏(太常寺少卿鄭雍言にとついだ)
- 李氏(王瑄にとついだ)
- 李氏(考功主事宋琰にとついだ)
脚注
- ^ 『明史』李至剛伝は名を鋼とするが、墓表や王世貞『弇山堂別集』巻19や兪汝楫『礼部志稿』巻51は名を銅とする。本記事では後者を採用する。
参考文献
- 『明史』巻151 列伝第39
- 中順大夫興化府知府李公墓表(楊士奇『東里続集』巻33所収)