薛 顕(せつ けん、? - 洪武20年8月16日(1387年9月28日))は、元末明初の軍人。徐州蕭県の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。
生涯
姓名
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薛顕
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時代
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元代 - 明代
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生没年
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生年不詳 - 洪武20年(1387年)
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字・別名
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-
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本貫・出身地
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徐州蕭県
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職官
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元帥(趙均用)→親軍指揮(明)
→江西行省参政→行省右丞
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爵位
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永城侯(明)→永国公
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諡号
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桓襄
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陣営・所属
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趙均用→朱元璋
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家族・一族
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兄弟 : 薛綱
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はじめは徐州の趙均用に仕え、元帥として泗州を守っていた。
至正19年(1359年)、趙均用死後、泗州を明け渡し、朱元璋に仕えることになった[1][2]。
至正22年(1362年)5月、大都督の朱文正に従い、南昌を守った。
至正23年(1363年)4月、陳友諒が大軍で南昌を攻めた。薛顕は章江門・新城門を守った。陳友諒軍は激しい攻撃を加え、薛顕は防戦に努めていた。5月、陳友諒軍は新城門を攻撃した。薛顕は新城門を開いて突入し、白兵戦を行った。平章の劉進昭を斬り、副将の枢趙祥を捕らえて、敵軍を退けた。この戦いで百戸の徐明が捕われ、刑死した[3]。約3カ月、南昌を守り抜き、陳友諒軍は囲みを解いた。
至正25年(1365年)1月、参政の何文輝と共に新淦を攻め、守将の鄧仲謙を斬った。周囲の郡県を降して、これらの功により、江西行省参政に抜擢された。10月、徐達に従い、淮東を攻略した。
至正26年(1366年)8月、常遇春と共に湖州を攻めた。9月、常遇春と分かれて廖永忠と共に徳清を攻略した。軍船40艘を獲り、院判の鍾正・晋徳成を捕らえた。10月、徐達・顧時と共に昇山の水寨を攻めた。張士誠は五太子を援軍として向かわせた。五太子と常遇春が戦い、薛顕は水軍を率いて奮戦し、敵軍の軍船を焼いた。敵軍は壊滅し、その後、五太子・朱暹・呂珍ら旧館を明け渡して降伏して捕虜6万を得た。常遇春は「今日の戦いは将軍の功である。私の力は将軍の力には及ばないだろう」と言った。五太子らが降ったことを聞き、人々は恐れ、湖州は攻略された。11月、平江を囲み、諸将と共に戦った。
至正27年(1367年)9月、張士誠を滅ぼした後、褒賞として綵幣・表裏6匹を賜り、行省右丞に進んだ。10月、徐達に従い、北伐に参加した。11月、沂州、12月に兗州を攻略した。
洪武元年(1368年)、青州・済州、2月に東昌・棣州・楽安を攻略した。4月、河南・関陝を奪還した。渡河して、衛輝・彰徳・広平・臨清を攻略した。7月、騎兵・歩兵・水軍を率いて徳州・長蘆を攻略した。元軍を河西務・通州で破った。8月、元の首都の大都を攻略した。傅友徳・曹良臣・顧時らと共に、北への要路を巡察した。大同を攻略し、喬右丞ら34人を捕らえた。山西を攻略した。9月、保定を攻略し、七垛寨を奪った。11月、石州で脱因帖木児を追撃して破った。傅友徳と共に鉄騎兵3千を率いて定西を攻略した。12月、太原を攻め、傅友徳と共に決死隊数十騎を率いて、ココ・テムル軍を敗走させ、豁鼻馬を降した。傅友徳と共に賀宗哲を石州で迎撃して破った。
洪武2年(1369年)2月、白崖寨・桃花寨を奪った。3月、徐達と平陽で合流し、関中に入った。4月、臨洮に至り、馬鞍山の西の寨を攻めた。多くの畜産を獲り、寧夏で元の豫王とココ・テムルを破った。5月、徐達と合流し、平涼を攻略した。慶陽の守将の張良臣が偽って降伏してきた。薛顕は5千騎を率いて慶陽の受け入れに向かった。出迎えた張良臣は道中にひれ伏して、へりくだったふりをして、帰順の意を示した。張良臣は夜に薛顕の陣営を襲った。指揮・張煥は捕らわれ、不意を衝かれた薛顕は手傷を負ったが、囲みを突破して難を逃れた。張良臣は城に篭り、徐達はこれを囲んだ。
7月、張良臣を助けるため、ココ・テムルは韓札児に原州を攻めさせた。薛顕は傅友徳と共に霊州に駐屯して、敵軍を抑えた。8月、張良臣は支援を断たれ、ついに敗れた。その後、顧時・傅友徳と共に賀宗哲を六盤山に追撃し、ココ・テムルを追い払って、陝西を平定した。
洪武3年(1370年)、薛顕は勝手に役人・獣医・騎兵・千戸の呉富を殺し、朱元璋はその罪を数え上げた。11月、永城侯に封ぜられたが、海南へ流された。薛顕の俸禄のうち、3分の1を呉富や騎兵らの血縁者に、3分の1をその母や妻に与えて、罪を相殺させた。海南に流されて1年が経ち、朱元璋はこれを思い出し、薛顕を召還した。世券、食禄1千5百石を賜った。
洪武4年(1371年)、徐達に従い、漠北遠征に向かった。河南の巡視を行い、7月、山西で練兵を行った。徐達に従い、北辺を巡った。
洪武13年(1380年)8月、曹震・楊璟と共に北平で屯田を行った[4]。
洪武15年(1382年)12月、山西方面の軍務を執り行った。
洪武20年(1387年)1月、征虜大将軍の馮勝に従い、ナガチュ討伐に参加し、金山に向かった。冬、応天府に召還されたが、山海衛で亡くなった。永国公を贈られ、桓襄と諡された。
洪武23年(1390年)、胡惟庸の獄に追座して、爵位を除かれた。
人物・逸話
- 北伐の際、朱元璋からの詔で『薛顕、傅友徳の勇略は軍中でも一番である』との言葉を賜った。
脚注
- ^ 『続資治通鑑』第215によれば、至正20年(1360年)1月、張士誠の武将の李済が泗州・徐州・邳州を破ったと記されている。朱元璋に仕える前に、張士誠に仕えていた可能性もある。
- ^ 『明史』第1 本紀第1 太祖1によれば、1361年3月、元の将の薛顕が泗州を明け渡し、降伏したとある。
- ^ 『続資治通鑑』第217によれば、徐明は陳友諒の陣営から脱し、良馬を奪って帰還しようとしたところ、敵兵に見つかり、殺されたとある。
- ^ 『明史』第2 本紀第2 太祖2によれば、永城侯薛顕と記されている。
参考文献
- 『明史』 巻1 本紀第1 太祖1
- 『明史』 巻2 本紀第2 太祖2
- 『明史』 巻3 本紀第3 太祖3
- 『明史』 巻129 列伝第17 傅友徳
- 『明史』 巻131 列伝第19 薛顕
- 『明史』 巻134 列伝第22 何文輝
- 『明史紀事本末』 巻2 平定東南
- 『明史紀事本末』 巻3 太祖平漢
- 『明史紀事本末』 巻4 太祖平呉
- 『明史紀事本末』 巻8 北伐中原
- 『明史紀事本末』 巻9 略定秦晋
- 『明史紀事本末』 巻13 胡藍之獄
- 『国初群雄事略』 巻8 張士誠
- 『国初群雄事略』 巻11 擴廓帖木児
- 『続資治通鑑』 巻第215
- 『続資治通鑑』 巻第216
- 『続資治通鑑』 巻第217
- 『続資治通鑑』 巻第218
- 『続資治通鑑』 巻第219