王 瑜(おう ゆ、洪武15年(1382年)- 正統4年8月17日(1439年9月24日))は、明代の官僚・軍人。字は廷器。本貫は淮安州山陽県。
生涯
王銘の三男として生まれた[1]。総旗として趙王府に属した。永楽21年(1423年)、常山護衛指揮の孟賢らと宦官の黄儼が結んで、永楽帝を殺害し、皇太子朱高熾を廃位して趙王朱高燧を立てようと計画した。その仲間の高正[2]は王瑜の舅であり、計画をひそかに王瑜に告げた。王瑜は驚いて、一族を滅ぼす計画に加担してはいけないと、涙を流して諫めたが、高正は聞き入れなかった。高正が計画の漏れるのを恐れて、王瑜を殺そうとしたので、王瑜は宮殿に駆け込んで廃立の計画を告発した。調査審問により証拠が集まり、孟賢らは全員処刑され、王瑜は遼海衛千戸の位を受けた。永楽22年(1424年)、洪熙帝が即位すると、王瑜は錦衣衛指揮同知に抜擢された。
宣徳8年(1433年)3月、王瑜は左軍都督僉事指揮同知となった。11月、都指揮僉事となり、副総兵とされた[3]。陳瑄に代わって淮安に駐屯し、運河の水運を監督した。正統2年(1437年)10月[4]、左副総兵となり、左軍都督僉事に累進した。
正統4年8月17日(1439年9月24日)、通州の駅館で死去した。享年は58。
脚注
- ^ 贈驃騎将軍左軍都督府都督僉事王公神道碑銘(楊士奇『東里続集』巻24所収)
- ^ 『明史』王瑜伝による。同書の趙簡王高燧伝は「高以正」とする。
- ^ 談遷『国榷』巻22
- ^ 『国榷』巻23
参考文献
- 『明史』巻153 列伝第41
- 故驃騎将軍左軍都督府都督僉事王公神道碑銘(楊士奇『東里文集』巻13所収)