盛 以弘(せい いこう、生年不詳 - 1629年)は、明代の官僚。字は子寛。本貫は潼関衛。
生涯
盛訥の子として生まれた。1598年(万暦26年)、進士に及第し、翰林院庶吉士となった。1600年(万暦28年)、翰林院検討に進んだ[1]。1611年(万暦39年)6月、左春坊左賛善となった[2]。1613年(万暦41年)11月、左庶子・兼翰林院侍読に転じた。1616年(万暦44年)8月、国子祭酒に任じられた[3]。1618年(万暦46年)5月、少詹事となった。6月、『玉牒』の編纂にあたった[4]。1621年(天啓元年)、吏部左侍郎に転じた。1623年(天啓3年)2月、礼部尚書に任じられた。5月[5]、病のため致仕し、帰郷した。魏忠賢のためにその職を剥奪された。1628年(崇禎元年)8月、協理詹事府として起用された。1629年(崇禎2年)に在官のまま死去した。1630年(崇禎3年)6月、太子太保の位を追贈された[6]。著書に『紫気亭集』12巻・『鳳毛館帖』4巻があった[7]。
脚注
- ^ 談遷『国榷』巻78
- ^ 『輯校万暦起居注』
- ^ 『国榷』巻82
- ^ 『国榷』巻83
- ^ 『明史』七卿年表二
- ^ 『国榷』巻91
- ^ 『陝西通志』巻75
参考文献